よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

産学官連携に王道なし

2005年12月22日 | ニューパラダイム人間学
とある集まりで早稲田大学ビジネススクールの松田修一教授とツーショット。大先輩にあたる松田先生には大変お世話になっている。

今ケアブレインズでは
eMBA、eMOTなどのeラーニング教材の監修・提携開発
オープンソース・コミュニティによるSugarCRMの日本語化プロジェクトを早稲田大学ビジネススクールとの産学連携によって進めている。

SugarCRMの日本語化プロジェクトに関しては、早稲田大学ビジネススクールとのアライアンスに加え、千葉県商工労働部や千葉市産業振興センターの資金的ご協力を得ているので、名実ともに産学官連携プロジェクトとなっている。

このように産官学を繋ぐような動き方をしていると、そのやり方を教えてくれというような経営者やコンサルタントが出てくる。

残念ながら、人様にお教えできるようなノウハウはさほどはない。あえて言えば、少ない人数のベンチャー企業は投入できるリソースにも限りがあるが、大学や公共団体にないリソースやソリューションに特化することで相互補完の余地は大いに発生する。その相互補完のノリシロを大きくすることが大事だと思う。

そして、産学官連携といっても、結局は人と人との繋がりありが基本じゃないのか。「人」の字のようにお互いが支えあうことが大事じゃないか。地道に愚直に、連携する先様のナマの声を真摯に受け止め、全力でニーズを満たすよう頑張る。コツコツと信頼関係を創り、やがて信用に結びつく。信用を創出することができれば、さらに機会が拡大する。これにつきるのではないか。



オープンソースコミュニティとIT企業社会

2005年12月14日 | オープンソース物語
このところ、大手企業の方々とオープンソース業務アプリケーションがらみのアライアンス関連の商談が続いている。そのなかで、日本の大手IT企業の方々にとって、なかなかその本質を理解できない、理解しづらい部分があることにことさら気がついた。それは、オープンソース・コミュニティの組織としての行動様式、立ちふるまいに関することだ。既存のソフトウェアメーカからすれば、内部コストでソフトウェアを開発するより、コミュニティで開発をやってもらたほうがコストが浮く。だから、これからは雇用で囲い込んだ社員ではなくコミュニティを持ちたい、というような切実なニーズはよくわかるのだが。

またソフトウェアハウスやSIerでの開発方式は、ウオーターフォールやスパイラル方式が主流で、オープンソース・コミュニティでは同時並行的なバザール方式が主流だ。たしかに開発手法の違いもあるが、それは表層的なものだ。もっと根の深い部分に注目しなければならない。その深い部分とは、行動様式でありカルチャーに繋がる領域だ。

以前もここで書いたことだが
、そもそも報酬には外発的報酬と内発的報酬がある。外発的報酬とは、文字どおり、外から与える報酬だ。卑近なところでは賃金や賞与があてはまる。内発的報酬とは意識の内面に生ずる主観的な報酬で、やりがい、充実感、達成感、そして自分の成果が他者から認知されることなどがあてはまる。

オープンソース・コミュニティに参加する個人は、明らかに外発的報酬よりも内発的報酬によって参加行動を起こす傾向がある。ハッカーは内発的報酬がなければ、コミュニティには参加しない。真摯な質問に対して、見ず知らずの個人から、ひざをたたくような回答がくることもあるし、自分がコミュニティに投げ入れるソースコードが素晴しければ、海を越えて、地球の裏側からも賞賛の声がとどく。そんなことをして、お金が手にはいるわけでもない。ただ、オモシロイから、ワクワクするから。ひとりではできない、おおきなコトをみんなでやればうまく成し遂げることが出来るから。だから、優良なオープンソース・コミュニティには自由闊達、自律的な優秀な個人が世界中から集うのである。人種、国籍、属している会社、性別、学歴、、、。そんなものは、オープンソース・コミュニティではクソの役にも立たない。

オープンソース・コミュニティは、金銭など外発的動機ではなく、内発的動機が支える成果主義の場なのである。

なぜ日本の大手IT企業の方々には、オープンソース・コミュニティの行動様式の本質がわからないのだろうか?その理由はいくつかの要素が複合していて、構造的だ。

(1)外発的動機中心の成果主義の弊害
大手IT企業では、過去、職務上の成果が賃金、給与に連動する成果主義賃金が導入されてきた。多くの場合、目標管理制度が賃金制度と人事評価制度の間に介在して、部門業績や個人目標の達成度合いに従って賃金が決定される。その結果、賃金アップに結びつく行動は積極的にとるが、個人の賃金やボーナスの上昇に直接結びつかない行動はとったら損だ、というメンタリティが浸透してきている。もちろん、SEやプログラマにも成果主義賃金は適用されている。上司に評価されないことはやらない、トクにならないことはやったら損、お金に結びつかないことはやったら損という気風、風土のなかでは、オープンソース・コミュニティの原理は疎外され、理解はされない。偏狭な成果主義(正確に言えば、プロセスを欠落させた結果主義)が横行する内向きの閉じたコミュニティ=会社コミュニティの住人は、内発的動機が主役を演じるオープンソース・コミュニティに根の深い違和感を覚えてしまうのだ。

(2)コミュニティのうわずみ、成果だけを持ち逃げするタダ乗り志向
オープンソース・コミュニティの成果物であるソースコードを得るだけで、貢献しようとしない人も多い。そういう人たちの行動は、ひたすらtakeするだけだ。もちろん、そのような行動とて、GPL(General Public License)で配布、配布の自由がオープンソースないしはフリーソフトに保障されている以上、合法的な行為ではある。しかし、健全なオープンソース・コミュニティの維持、成長のためには"take & take"ではなく、"give & take"の精神が必要だ。貢献することをネグレクトして、利用できるモノは利用してしまえという態度だけでは、成果だけを持ち逃げするタダ乗りであり、健全なコミュニティ活動は枯渇してしまうだろう。

(3)相手の属性が不明だと不安を感じる
どうやら日本人、とくに大企業の会社人間ほど、相手の属性が分かっていないとコミュニケーションをとれない人が多い。相手の出身大学やおよその年齢などが分かっていないとなんとなく不安を感じるというタイプが多いのだ。このような人々は、個人の属性が表にはでてこないオープンソース・コミュニティでコミュニケーションはストレスに満ちたものとなる。だから、オープンソース・コミュニティへ入ってゆくことができない。

(4)オープンにコミュニティに貢献するマインド不足
そもそも会社人間ほど、地域活動などのコミュニティ活動への参加率はきわめて低い。近所の街角の清掃、草むしり、ボランティア活動と無縁のビジネスマンがいきなり、ネットの世界のコミュニティ活動、ボランティア活動であるオープンソース・コミュニティを取りまとめたいとおもったところで、そもそも、オープンにコミュニティに貢献する意識がなければ、うまく行くはずがないのだ。

(5)英語で自己表現することにしり込みする
インターネットのオープンソース・コミュニティの標準自然言語は圧倒的に英語だ。中学、高校、大学と10年間も英語を勉強しても、英語で自己表現できる人は少数派という不思議の国が日本だ。オープンソース・コミュニティはwritten Englishが中心なので、アクセント、発音などは関係ない。なので、大学を出た人ならば、なんとかなりそうなものだが、そうはいかない。英語で自分の考えを書いて伝える、相手の言い分を受け止めるということができないのだ。日本人SEやプログラマには、この傾向が顕著と感じるのは僕だけでないはずだ。

ソフトウェア開発におけるオープンソース・コミュニティの重要度は増すばかりだ。プロパライエトリなソフトウェアにおいて遅れをとった日本が、またオープンソース・コミュニティによるソフトウェア開発にも遅れをとろうとしている。ゆゆしき事態だ。

旧態依然の病院の人事制度はこう変われ!

2005年12月08日 | 健康医療サービスイノベーション
企業社会ではあまり語られないが、病院を中心とした医療界では年功を前提とした人事制度の見直しの動きが増えてきている。1990年代から今日に至るまで、多くの日本企業はいわゆる成果主義人事制度なるものを導入してきた。

企業変革において顕著な成果を成果主義で実現した企業もあれば、成果主義が頓挫した事例もある。成果や能力をいかに評価したらよいのか、決まりきった完全解は存在せず、また万人が納得できる評価基準なるものも存在はしないという状況のなかで、企業社会は、年功から能力へ、そして成果へと人事制度変革のなかの基本テーマを追ってきたわけだ。

いずれにせよ、このような人事制度変革は一般企業にとどまらず医療機関にも影響を与える動きとなっている。公正かつ活力ある組織づくりに寄与する人事管理制度は何か、なかでも最大の専門職集団である看護部の人事制度をどう見直すべきかは大きな課題でもある。

つづきはこちら

なにものにも代えがたいもの

2005年12月02日 | 日本教・スピリチュアリティ
ひさしぶりに仲間と集まって、わいわい、がやがや、飲めや、歌えのひと時に没入した。特殊な方向性を共有する特殊な男たちの特殊な集まりだ

現代社会では、帰属する共同体、帰巣すべき仲間集団が、希釈化、形骸化しつつあるという。たしかにそうかもしれない。

そんなのっぺりとして、うすらさびしい、絆を体感できない時代の冷たさを背中にヒヤリと感じるがゆえに、帰属する共同体、帰巣すべき濃厚な意味空間の存在は稀有なものだと思う。この仲間は、10年、20年、30年と時間がたつにつれてなにか凝集性が増しているようだ。

サイトをまとめてくれた松村くん、どうもありがとう。