よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

房総半島山間部のもみじ

2010年11月30日 | 自転車/アウトドア


房総半島の山間は紅葉はこのところたけなわ。

信州や甲州などの標高1500メートル地帯とは異なり、常緑樹が多く、紅葉の紅葉だけではなく緑もそこかしこに交じる。



粟栗の滝をさらに南下して会所を左に曲がり、つづら折れの細い山道を登ってゆく。

右に曲がると妙法生寺にぶつかるT字路を左に曲がり、高度を下げてゆくと内浦県民の森のほうへと小径は連なる。

そのあたりに、房総の紅葉の穴場がある。



この色彩の乱舞の中に身を置く楽しさが日本の秋にはある。

いっせいに色づく紅葉はミラクル。


サービス・イノベーションの経営学・12 最終回

2010年11月29日 | 日本教・スピリチュアリティ


看護管理 2010年12月号 (通常号) ( Vol.20 No.13) p1186-1191

連載12ヶ月目は最終回です。テーマは「死と向き合うサービス」です。このテーマにまつわる出来事(母の臨死体験)が身近で起きて、「縁起でもない!」といったんは書くのをやめました。しかし、その後、再考し、スピリチュアルケアの前提になるような事柄を中心に書きました。

招待総説の一年間連載は、健康・医療サービス・イノベーションについて幾多の現場、研究会を回りながら、また主催もし、事例を収集し、いろいろな方々と意見を交わし、文献を渉猟しながら書き連ねるという本当にチャレンジングなものでした。この連載のカウンターパートである医学書院の小齋愛さんには本当にお世話になりました。

ご愛読ありがとうございました。

もともとシンクロニシティに敏感というか、身のまわりで起きやすい体質なのですが、この1~2ヶ月くらいは立て続けでした。

なんなんですかね?!

北海道の自転車ツーリングと札幌市立大学看護学部の集中講義から帰ってきて、拙著「創造するリーダーシップとチーム医療」の最終〆切に追われ、脱稿してからこの一ヶ月は、倉敷中央病院日本看護技術学会、東邦看護専門学校、「生きる意味」寺子屋セミナー「安藤誠~釧路湿原のネイチャー起業家~自然の美、そして生き方」寺子屋セミナー、愛媛大学医学部附属病院での講演、(副院長・看護部長の田渕典子さんといのちや「引き寄せ」について語りありました)そして、先週末は日本医科大学での講演(奇しくも母親がお世話になった病院で実に不思議なご縁です。そこで母のいのちの恩人片岡ひろみさんにまたお逢いしました。講演にお呼びいただいた三上ちづ子さんも相変わらずお元気で雑談、楽しかったです。)などで飛び回っていました。

その合間をぬって、DVDの撮影一本@日本医療企画と、「日本的自殺」に関する濃厚なインタビューをRene Duignanさんから受けました。今週は、日本助産師会@大阪で講演、来月は、東京工業大学で「生命の科学と社会」(上田紀行先生、大谷光真門主との対談『今、ここに生きる仏教』を最近出版されました。)の講座で、「生老病死の苦とヘルスケア」と「ケアリングのイノベーション」について講義(非常勤で)します。

いずれにも共通するテーマは「いのち」です。いのちの連鎖です。まるでだれかから、「オマエ、もっといのちに向きあえっ!!」とでも言われているような感じです。


母の臨死体験

2010年11月23日 | 日本教・スピリチュアリティ

「看護管理」(医学書院)の12月号の連載テーマに「死と向きあうサービス」を取り上げて書き始めていた矢先の10月の始めごろ、母が死に直面した。

まさに縁起でもない!である。こんなシンクロニシティもあるのだ。


<我孫子市内の病院の医師から発行された病状及び治療方針についての説明書>

地元の病院に入院していた母が大腸炎から敗血症ショックに陥ったのだ。母は78歳(既往症として心筋拘束、現在は、糖尿病も罹患)なので敗血症ショックを起こすと、だいたい60-70パーセントの確率でシュテルベン(死)を迎える。

6年前に、母は重度の心筋梗塞を発症し、救急車で市民病院へ、そしてその後ヘリコプターで伊豆長岡順天堂病院に入院して心臓バイパス術を受けて一命を取り留めている。そんな顛末のすえ、幸いにも命拾いしてからは、「今度重い病気になったら延命はしないでね」というのが口癖だった。

地元の病院は15:1の看護体制で、ICUもない病院。これでは、まずい。まだかすかに意識があったので、「もうちょい生きるためにがんばって欲しいんだが、どう?」と訊くと力なく「ふんふん」と言う。

「ふんふん」は同意である。しめた!患者=母の同意さえあれば、あとはガンガン動くのみだ。

実はこのとき、これ以上のキュアとケアを母に拒否されても、僕は無常にも、その母の意思(近年では自己決定権といって重要な権利として認識されている)をカラッと無視して大学病院のICUに搬送することを決意していたのだ。

            ***

母は浜松の大空襲の中、米軍の戦略空爆機ボーイングB29から投下された無数の焼夷弾によって丸焼けにされた灼熱地獄を生き延びながらも、かわいがっていた弟は米軍によって殺された。その時、顔に火傷を負っている。その後、いろいろあって父と出会い、結婚し男児二人をさずかった。その大きいほうが僕だ。

母には、僕の息子たちに言って聞かせて欲しい物語りが山ほどにもある。できればそれらを記録に残したいのだ。

患者の自己決定権は尊重されるべきだ、一般論では。しかし、個別の特殊な母と子という文脈のなかでは、まだ可能性があるのならば、あらゆる手を講じても生きて欲しかったのだ、息子の勝手な思いを遂げるために。

            ***

それやこれやで、本医科大学千葉北総病院の片岡ひろみ副院長・看護部長に無理なお願いをして同病院のICUに救急車で緊急入院させてもらったのだ。

片岡ひろみさんとは、僕の講演を何回か聞いて下さったことがご縁。片岡さんには休日にもかかわらず出勤、ご対応いただき、さらには、片岡さんが直接救命救急センター長を説得いただき、なんとか千葉北総日本日本医科大学付属病院のICU入ることができたのだ。感謝の言葉もない。

救急車で日医大に搬送されたときは、血圧が50位まで下がり、危篤状態。腎機能も90%が消失し、人工透析を受ける。多臓器不全から心停止へ至ることを想定。そもそも敗血症ショックは症候群なので、決定的な治療方法は確立されていないし、確定的なクリティカルパスも存在しない。

医療チームを率いるK医師からインフォームド・コンセントを受けるが、僕の場合は患者である母の親族代表として「合意」のみするのではなく、いろいろと医師に「説明」もする。双方向のインフォームド・コンセントだ。たぶんうるさい家族だと思われたことだろう。

K医師は腕利きの臨床医だ。結局のところ、治療法が確立していない症候群のクリティカルな状況では、医師の経験的な判断、腕っ節、勝負勘、丹力といったものがモノを言うのである。

            ***

ICU看護師、医師の懸命なチーム医療のおかげで、なんとか一命をとりとめ、回復し、一般病棟へと移ることができた。「あの状態からこんなに回復するとは普通はありえない」がK医師の言である。

実母の死に際で「死」を書くことは「縁起でもない」し、入院のバタバタ騒動で今月号の原稿が間にあわないかもしれない・・・。

母は数年前に心筋梗塞でバイパス術の後、臨死体験を語っている。

「紫色の光の中に包まれた。

三途の川のほとりで棺桶の中に入っている自分の姿を夢に見た。

その棺桶には南無妙法蓮華経と書いてあった」

などと話している。



そしてまた、今回意識が戻ったときに、「なにか見た?」と訊いてみた。

するとなんと、二度目の臨死体験をICUのベッドの上で語り始めたのだ。

「灰色の川のほとりに立っていた。

上流から腐った鮭がたくさん流れてきて気持ち悪かったに。

そうね、その川の幅は100メートルか200メートルはあったわね。

前回のような紫色の光をまた見たので、死にそうだなとわかったのね。

でもみんなの声が後ろのほうからしたので戻ることにしたに」

と。

              ***

いわゆる臨死体験については、大きく分けて二つの解釈ができる。

(1)死後の世界は実在する(本質主義)
諸宗教が想定するように死後の世界はまごうかたなく存在し、患者(母)はそれを垣間見た。

(2)患者の意識内での仮想(構成主義)
患者(母)の意識が人生の中で文化、伝統、風習などを通じて死後の世界のことを学習し、それが表出されて、仮想(幻覚、幻聴、幻視、妄想など)として意識される。死に至るプロセスで脳機能の変化によって変性意識状態(Altered state of consciousness)がもたらされ、臨死体験が「構成」された。

どちから一方が◯で、どちから一方が×じゃないと思う。客観的な事象として臨死体験をとらえようとするから、このような二項対立的な置き方になるのだ。

ケアする側、ケアされる側、ケアを共創する両者にとって大事なことは、対立する二項のどちらかを選ぶことではない。事象の意味こそが大切なのだ。

意味のない現象はない。構成主義をとろうとも、本質主義をとろうとも、その現象の意味、物語りこそが、現象と向き合う当事者やそのまわりの人々にとって重要なのだ。

『死の概念は、喪失でも悲嘆でもなく、また完全な終局を意味するものですらなく、死に至る過程は新たなる世界への旅立ちの準備を整える過程であり、この世界に意味のない現象はない』と エリザベス・キューブラー・ロスも書いている。

「前回のような紫色の光をまた見たので、死にそうだなとわかったのね」と母は語った。一回目の臨死体験から彼女は学習しているのである。一回目の臨死体験の意味は、二回目の臨死体験に繋がっていたわけだ。あちら側のちょっと手前から戻ってきたがゆえに、今回、このようなことが明らかになったのだ。

基督教、仏教、回教などでは死後の世界や死後のいのちを歴然たる実在として規定する。スピリチュアルケアには宗教と切り離せない部分がある。しかし、一見、宗教規範が薄弱化しつつある日本においては、さらには日本教(社会科学としての日本教)とでも言うべき精神風土では、案外、既存の宗教観の枠にとらわれない構成主義的なスピリチュアルケアが待たれているのかもしれない。

あるいは、和風スピリチュアルケアを構成するに足る、新しい宗教の構成、そしてそれらとの関わり合いが求められている。そしてそこにどのようなやり方で健康・医療・保健・福祉・看護・介護サービスなどが介入してゆくべきなのか。

多くの健康・医療サービスのイノベーションは患者と医療組織、様々な医療、看護、介護に関わる人との間のインタラクション層で創発する。それがヒューマン・サービスのイノベーションである。そしてヒューマン・サービスの奥深い位相には、スピリチュアル・ケアがある。

だとしたら、イノベーションが真に求められているのは、スピリチュアル・ケアの領域だ。

誰もが死に、死に際してはケアを必要とするのだから。否、生まれた時からすでに死は始まっている。だとしたら、死に目になって死の準備をするのではなく、生老病のあらゆる段階で、死とはなんなんなのか?という自問自答が必要だ。(でも日本の教育システムでは死を隠蔽しているので、大方は死の準備ができていないように思う)

母の死に際で「死」を書くことは「縁起でもない」と思った。

しかし、これも縁起か。やはり書かねばなるまい。因果なものである。


「生きる意味」と「患者の生き方」

2010年11月11日 | No Book, No Life
このところ、いのへるがらみでいろいろな御縁を頂いて、すばらしい何冊かの本を献本いただいています。原稿の草稿づくりも兼ねてメモしておかねば!

***

医療サービスのイノベーションは薬品、医療機器、人工多能性幹細胞、移植臓器を含む人間・生物由来製品などのモノ(物質圏)によって<も>創発します。とくに、モノのイノベーションを重視する製造業、エンジニアリング、MOT(技術経営)などの視点にとってイノベーション・パイプラインやオープン・イノベーションは今や中心的な課題となっています。

このような文脈ではビック・サイエンスと医工連携などのエンジニアリングによるビック・チケットが俄然注目されます。


<田中彰吾、意味のある偶然の一致の現象学、p138を改変)

ところが、医療サービスには患者の心身に対して提供され、患者とともに共創される、という性格があります。心身の「心」は精神圏であり、心身の「身」は身体です。生命圏は、身体を中心にして物質圏、精神圏にまでまたがっています。絵にするとたぶん上のようになります。

でも、物質圏を相手にしてきた近代の自然科学、そして正統的な西洋医学では、原因と結果という因果律を重視し、データの蓄積と分析から一般性のある理論を導くという普遍志向があります。特に1980年代にサケット博士らによる根拠のある医療(EBM: Evidence Based Medicine)の台頭以降、この傾向が強まっているようです。

この傾向を定着させたのが近代科学を牽引してきた物理学であると見立てる向きからは、「物理学帝国主義」(村上陽一郎)という揶揄さえもたびたび投げかけられていますが、ちょっとこの言い方は品がないですね。


それに対して、精神圏では、個別・特殊性が重視され、意味、物語、情念、情緒といった側面が全面に出てきます。たとえば患者の苦しみ、やるせなさ、しんどさ、絶望、希望、生きがいといった心象や意味は、(狭義の)近代科学の手法のみではなかなか捉えることができません。先端的といわれる認知心理学や脳科学でさえも、やっと意味、物語、情念、情緒の定量的把握の鳥羽口についたばかりです。

ちなみに、物質圏の因果律に対して、ユングは、物質圏、精神圏を通底する意味のある偶然の一致=共時性(シンクロニシティー)を対置させていますが、遠隔癒し(distant healing)、治療的接触(therapeutic touch)などの医療サービスの領域からユングのシンクロニシティーは復活してくるでしょう。



こんなことを考えるために東工大の上田紀行先生に頼んで寺子屋セミナーでお話をお願いした折、「スリランカの悪魔祓い」、「宗教クライシス」、「生きる意味」、「肩の荷を降ろして生きる」(まだまだ他にもあります)の一連の著作の論点と主張を、人生経路の披瀝を含めながらのお話を伺いました。



上田先生の巧みな話法とリスナーを巻き込む臨場感溢れる解説は、凡夫が語れば露悪的な身の上話(?)でさえも、ペーソスに満ちながらも不思議と明るく意味深い挿話に昇華させます。

さて、前述した個別性、特殊性について、上田先生は、もっとわかりやすく「かえがえのさな」とスパッと表現します。生きる意味が涵養され、発揚される人間の「かえがえのなさ」は、競争的市場のなかでは、交換可能なモノになってしまい、市場原理によって効果、効率が強く求められる結果として、「意味」が疎外されてゆくと論じます。

「スリランカの悪魔祓い」は決して荒唐無稽で面妖な呪術ではなく、共同体を維持させる伝承文化であり、絶対主義に立とうとも、構成主義に立とうとも、十全な精神界ひいては社会システムを保持するはたらきがあるわけです。

この文脈において、日本の「悪魔祓い」はどこに行ってしまったのか?という問いは重いものです。「悪魔」が市場の陰に隠蔽され、市場そのものが、癒しと絶縁された呪いの悪魔になっているのかもしれません。

物質界は自然科学(サイエインス)、精神界は人文(ヒューマニティ)などという都合のよい二項対立的な区分け、あるいは棲み分けは、本来の医療サービスにはできません。本来の医療サービスは二項対立ではなく、止揚を志向するものだからです。



寺子屋セミナーで、知己を得た慶応義塾大学教授(医療看護学部・医学部)の加藤眞三先生(患者のための医療情報リテラシーというサイトを運営されています)から「患者の生き方」と「患者と作る医学の教科書」を贈呈いただだきました。

ラッキーというか実に不思議な邂逅です。ちなみに加藤先生は上田先生による著作物の熱心な読者でもあります。

「患者の生き方」に通底する姿勢は、患者の生命圏全体をホーりスティックにケアしてゆこうというものだと感じました。もっとも主体は「患者」にあるので、ケアする⇔ケアされるというのは、対等な、あるいは互恵的な関係から出発すべきもとと捉えます。患者と医師あるいは医療チームの関係を、筆者はこのようなタームは使わないまでも、まさに、共創性、共時性、共進性、共振性の様相と捉えている点に共感しました。



上に記した物質圏のビックサイエンスによるビックチケットと対置して言えば、「患者の生き方」で提唱されている「行(生)き方」とは、生命圏に力点を置いて、身近な医療資源を引き寄せてじょうずに使いこなし、患者と医療チームとが、よりよい医療サービスをいっしょに考え、実践してゆこうという、草の根医療サービス・イノベーションと言ってよいでしょう。すばらしいです。

イノベーション研究では、ビックサイエンスの知を、産官学プラス金融とが連動し、知財に転換して応用し、ビックチケット、ビッグイノベーションを創発させるという流れに注目が集まりがちです。しかし、長大かつ高額なイノベーション・パイプラインを経ることなく、公共圏で特段の占有的権利を主張することもなく、静かに悩める人々の間に普及・伝搬してゆく草の根医療サービス・イノベーションの効果にも注目したいものです。

第10章は「病における癒しと祈り」。でました!祈りの癒し効果は実はハーバード大学などの研究者が、無作為化臨床試験(RCT)を行い、統計的に有意な効果を認めています。

この章は、祈り(隠された力)というヒューマン・サービスをどうとらえるのか?についての奥深い示唆に富んでいます。生老病死の苦に対していったいどのような医療サービスが求められるのか、について極めて深い洞察が綴られています。

「今までの人生に対する空虚感、生きがいの喪失、死にゆくことへの不安感、死後の世界はどうなるのかなどの悩みが、スピリチュアル・ペインであり、その痛みに配慮し対処しようとするのがスピリチュアル・ケアです」(患者の生き方p122)

祈り(隠された力)とは、共創性、共時性、共進性、共振性の様相を取り込んだ生命圏のヒューマン・サービスなのでしょう。しかしながら、

「YES + 隠された力 = 癒し
NO + 隠された力 = 呪い 」(スリランカの悪魔祓い p279)

ともみたてられるので、要注意です汗)

もちろん、このような発想は、伝統的近代科学に凝り固まった人からみれば、「なんじゃ、それ!?ただの異端、妄説!逝ってよし!」ということでしょう。しかし、そこは、古人の言を借りて反論とするのが賢明でしょう。

「試に見よ,古来文明の進歩,その初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし」(福沢諭吉)

Nature talk=「いのち」の共鳴、共進、共時、共創

2010年11月09日 | 自転車/アウトドア
安藤誠さんを呼んで寺子屋セミナーを開きました。「安藤誠~釧路湿原のネイチャー起業家~自然の美、そして生き方」です。このコトのはじまりは今年の夏に自転車で北海道を走ったときに訪れた釧路湿原鶴居での邂逅です。

その折にマコトさんの鶴居のヒッコリーウィンドで講演をして、今度はその逆バージョンです。少人数でとても濃度の濃い時間と意味を共有することができたと思います。


<Master and Tree: 写真の写真>

なにか書こうと思っていたら、すでに参加された方が面白い記事をアップしていました。ありがたいことです。

写真に対してふだんは「瑞々しい」、「清冽な」、「ハートフルな」という形容詞は使いません。しかし、安藤さんのフォトにはこれらの形容詞がなぜかよく似合います。

これらのフォトに埋め込まれている霊妙な物語を、安藤さんは言葉で紡ぎ出して聞かせてくれます。このような所作をInterpretationといい、この専門的なサービスを提供することによって請求書を発行できる人をprofessional nature guideといいます。そして、プロガイドが織り成す言説をNature Talkといいます。

さて、このネーチャー・トークの構造は:

「自然のいのち」⇔「自然の風景」⇔「マコトさん」⇔「フォト」⇔「聴衆のいのち」

となり、イメージを媒介とするコミュニケーションが折り重なっています。両端に「いのち」が置かれていますが、本当はこれらふたつの「いのち」は繋がっているんですね。

だからフォトに接するとジンワリ奥深い感動(というかawareness:「気づき」の気)が心の底からふつふつと湧き上がってくのでしょう。


<ヒッコリーウィンドのブログより転載>

ようは、これらの構図を顕現させるパワーも持ったマコトさんに来ていただき、いっしょに分かち合おうというインスピレーションからこの企画が持ち上がったわけですが。


<ヒッコリーウィンドのブログより転載>

大事なポイントは、イメージ中心のコミュニケーションは、分析的ではなく綜合的、説得的ではなく共感的、批判的ではなく受容的、デジタルではなくアナログ、一方通行ではなく双方向的、因果関係ではなく共時関係ということでしょうか。はしょって言えば、左脳よりは右脳、表面意識よりは深層意識が刺激されることとなります。

上の構図の左側の「自然のいのち」と右側の「聴衆のいのち」が「自然の風景」⇔「マコトさん」⇔「フォト」を媒介にして、共鳴、共進、共時、共創します。ここにサービスや、ケアを分かち合うことの、ひとつの本質があります。

そして、そこでは「意味」が問われます。この経路での「意味」の問いかけこそが現代社会のひとつ課題だと思われます。

ちなみに、不登校の子供たちや心身に問題を抱えている人が、釧路市湿原やその近隣の山、湖沼などに立ち入って時間を過ごすと見違えるほど元気になるそうです。たしかにあのあたりの特殊な原野に立ち入ると、際立った気が充満していて、静かにハイになり、生命力の横溢を自覚できるほどです。

少し前に、上田紀行先生に寺子屋セミナーで「生きる意味」と「肩の荷をおろして生きる」についてお話いただきましたが、そこでは「癒し」がひとつのテーマでした。ビジュアル・イメージを駆使したトークは、イメージによる「癒し」の体験かもしれません。



クマに似ているともっぱらの評判のマコトさんです。

クマと話をしたこと、フクロウと話をしたこと、平原の木立が発する気の話など、次々ととても美しい写真とともに物語が展開されてゆきます。

美しい風景、イメージを、そのまままるごと意識の深い階梯にためておくと(薫習しておくと)、その奥深い階梯から、いろいろなモノゴトが創発してきます。

その奥深い階梯とは、ゲシュタルト、種字、深層意識、シンクロニシティ創発場など、立場によっていろいろな呼び方があります。ようは、いのちの場です。



懇親会も盛り上がりました。

Ordinary miracle.