よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

ハイパーグラフィア・・・

2015年02月24日 | No Book, No Life

 

この本の著者、Alice Weaver Flaherty によるとハイパーグラフィア(うまい下手を問わずものを書く衝動に抗しきれず、逆に歓びと自己実現を見出さざるを得ない性向)と呼ばれる人たちは以下のような特徴を備えているそうだ。(p41)

1.同時代の人に比べて、大量の文章を書く

→あてはまる。著作、論文・記事執筆など文字や活字を書くことが好きなほうだ。

2.外部の影響ではなく、内的衝動(特に喜び)に促されて書く。つまり報酬が生じなくても楽しいから、あるいは書きたいから、書かなくてはやっていられないから書く

→あてはまるが、やや事情を複雑にするのは、職業としてのモノ書きは、外的報酬によってさらに動機が正当化される必要があるということ。たんなるブログでは満たされないのだ。

3.書かれたものが当人にとって、非常に高い哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている。つまり意味のない支離滅裂な文章や無味乾燥なニュースではなく、深い意味があると考えていることについて書く

→たぶんあてはまるが、非常に高い哲学的、宗教的、自伝的意味とは言えそうもないが。

4.少なくとも当人にとって意味があるのであって、文章が優れている必要はない。つまり感傷的な日記をかきまくる人であってもいい。文章が下手でもいい

→長年大量に書いていれば、文章・ライティングスキルは向上し、クリエイティブ・ライティングへと進化していくのだろう、などという勝手な意味づけがぜひとも必要なのだ。ハイパーグラフィアに社会性、創造性という名前、あるいは「自分には読者がいるのだ」という思い込みの皮膜を上塗りしてゆくことによって、この病(?)・衝動(?)を正当化してゆくのである。

ここ数年では最もハイペースで書いていたのが2011年だ。この年は、年間「毎月の月刊誌連載、96,000文字。日経ITPro(ウェブ媒体)24,000文字、単行本1冊で88,000文字。これらの合計で一年間で算出した文字数は208,000文字。12で割って月当たりにならしてみると、平均17,333文字。さらに、月当たり原稿用紙に換算して43枚。学術論文を除いて一日当たり400字ヅメ原稿用紙1.4枚を書いていたことになる。立派なハイパーグラフィアかも(汗)

その後、2012、2013、2014年は商業出版からは距離を置いて、アカデミックな論文執筆に注力してきた。これらはPh.D.論文に集約してゆくこととなった。とは言いながらも、日経BizGateというサイトで「ケアシフト!:シルバーイノベーション最前線」というコラムを相変わらず書いているのだが。

この性向を持つ人間は、ようは文字を吐き出す対象は、連絡ノート、雑文、記事、ブログ、書物、論文、博士論文・・・なんでもよいのだ。軽度・中度のハイパーグラフィアであるという自己認識を持てば、妙に納得か(笑)。 


仏教看護入門

2012年06月20日 | No Book, No Life

著者の藤腹明子女史から数か月前に新著を贈呈いただきました。女史とは、近著の「仏教看護の実際」の書評を、このブログと医学書院の看護管理という雑誌でしたのが御縁で、こうしてまた意味ある書物を頂けるのは実に有り難いことです。

医療は、もちろんサービスなんですが、「健康保健医療サービス」は実に裾野が広い大きな世界を形作っている。モノの方向では、医薬品、医療機器、生物由来製品といったartifact系のイノベーションもさかんだが、モノと対置されるspiritualな方向でも、いろいろなイノベーションが創発しているのですね。

たとえばスピリチュアル・ケア・サービス(spritual care service)では末期がんなどの緩和ケアサービスが日進月歩の変化を遂げつつあります。この領域で、非常に興味深いのでは、こと精神、意識を相手にするサービスは、ひとつの方向性として文化・文明圏に埋め込まれた体系・技法・教えに回帰するということです。

いま一つの方向性は、スピリチュアリティがグローバル性を帯び、ユダヤ教、キリスト教、回教といった一神教(monotheism)と、多神教(polytheism)が収斂してゆくという楽観的?シナリオです。

「人は死んだらどうなる?」という問いは伝統的なサイエンスでは不問にふされます。でも、緩和ケアの現場では、死ぬ意味、そして生きる意味の紡ぎだしを、ケアを与える側も、受ける側も逃げられません。

こないだ、ある大学病院のプロジェクトで緩和ケアの専門看護師の方とじっくり語り合う機会をいただいて、「死生の意味の紡ぎだし」を現場で患者さん、家族を含めてといっしょにやっているサービスを深くお聞きしました。この意味の紡ぎだしをキチンとやってきた患者さんは、静かで落ち着いた臨終を迎えることが多いとのことでした。

そこに、いかに医療チームが介入し、意味の紡ぎだしの「場」を患者、家族と共創してゆくのかというテーマは、value co-creation of palliative/spiritual care でしょうね。こう、英語で書いてしまうと、なにか、冷たく感じなくもないですが。

ケアリングというのはサイエンスであると同時に、もしかしたら、それ以上に、人間を全体論的に捉える(その一部として人の価値システムの根っ子のことろにある宗教的な)構えが前面に出てこざるをえない構造が、特に、緩和ケアや終末期医療サービスにはあります。大量死の時代を迎え、この種の要請は益々増してくることでしょう。

このところを、value co-creation of palliative/spiritual care という切り口で分け入ってみると、いろいろな発見や意義ある提言ができそうです。

その意味で、「仏教看護」には大注目しています。科学志向が金科玉条のように言われる看護ですが、仏教看護は、看護におけるリベラルアーツのようなものだと思います。ぜひ多くの看護師、そして看護師のみならず、医師など医療チームのメンバーの方々にも読んでいただきたいと思います。

 


Amazonの著者サポート

2012年06月15日 | No Book, No Life

Amazon.co.jp の 松下 博宣 著者ページでは、松下 博宣の本をご購入いただけます。松下 博宣の作品一覧、著者略歴や口コミをご覧ください。

最近、新著を出版したfriendさんが登録したというので、マネして『Amazonの著者セントラル』に登録してみました。

アマゾンにはこのような著者向けサービスもあったのですね。facebook経由でひとつ勉強になりました♪

ああ、もっと本書かにゃならんわ。。

 

 


一日断食

2012年01月20日 | No Book, No Life

30年以上も風邪で熱を出したことのない頑健無比な男がいる。昔も頑健、今も頑健。すごい。なかなかこういう御仁はいるものではない。彼は、「知的アスリート」を自称しているだけのことあって、目標を定めて断食を日常生活に取り入れている。彼のブログの一節、これがまたいい。

昨年会った時に、「奇跡が起こる半日断食」という本を紹介してもらった。おお、目からウロコ。それで昨年の2月1日に思い立って「半日断食」を習慣化してみた。なるほど、2か月くらいで体重がスーっと減る。

しかし、昨年の夏は、やれアメリカだ、トルコだ、スリランカだというように、仕事にかこつけて放浪し、ついでに現地の料理を食べ過ぎた。これがまずかった。3キロリバウンド。血圧が高くなった。

それで秋口から「半日断食」を再開。なんとか1年後の2月1日まで1年間で10kg減量にメドがついた。

そして、初めてまるまる「一日断食」をやってみた。最後の夕食を食べ、翌日、水分以外なにも摂らず、普段どおりの仕事をこなして、夜寝て、翌々日起きて、お粥など少量の食事をいただくというものだ。合計30時間以上なにも食べない。

半日断食で鍛えていたせいか、さほどひもじさや焦燥感もなく過ごすことができた。むしろ、普段は消化器官に回っている血液が、脳に回るようになったせいなのか分からないが、いい着想を得ることができて、原稿などはサクサク進み、読書のスピードもアップした。神経系が敏感になった感じだ。

普段は、過剰な摂食のために、ボーッとしていたということか。たぶん、そういうことなのだろう。

今回いい感触を得たので、仕事の合間を突いてタイミングをあわせ、成田山新勝寺の断食参篭(さんろう)に籠ってやろうと思っている。断食なので、当然飯はでない。だから、宿泊料金、もとい「修行」に必要な費用は2泊3日でたったの5000円。

往復の道を、自転車で走れば、さらに交通費は浮いてダイエット効果もあるだろう。復路で、どのくらい効果を体感することになるのか。このあたり興味津津だ。

さて成田山には充実した仏教図書館、仏教研究所がある。かねてから調べものをしたかったので、ここで断食や瞑想をしながら、どうせ時間はたっぷりあるので、いろいろその道の専門書を丹念に読みこんでノートを作ってみたいものだ。


「生きる覚悟」

2011年12月24日 | No Book, No Life

年内最後の授業は、東工大の「生命の科学と社会」という授業の2コマほど。この授業を受け持っているのが御縁で、その講座の責任者、上田紀行先生から近著を贈呈頂きました。

著者の方からサインつきで本を頂くとは実に幸運なことです。授業のあと、100周年記念なんとかというビルのレストランで、鮭フライのランチを食べながら、わいわい雑談で盛り上がりました。

せっかくなので、一読後の雑感まとめ。

        ***

パワーに満ちた本です。

「人間は幸せになるために生きている。では、あたなにとって幸せとはなにか」(p34)

おっと。こう問いかけられて、読者として考えながらページを繰ってゆきました。

大きな問いを投げかけて、読者を巻き込み、当事者として自分が経験した物語を織り交ぜて議論を展開するという、いつもの言説の構えはさすがですね。この本を読み進めてみると、傍観者ではなく当事者としての読者になるように柔らかく、でもしっかりと迫られるような感覚にひたされます。妙な表現ですが。。

さて、処世術にばかり走る人は「得」のみを求め、「徳」から遠ざかってしまいます。市場、つまり「得」の世界では人はお金とモノを交換して効率、成果としてそれらを自明的に説明する数値がはばを効かせています。

処世術とは、いいかえれば世を処してシノいでゆくためのビジネススキル。いや~、起業家としてビジネススキルを研鑽、実践して、技術経営やビジネススキルアップ教をば、大学院などで教えている自分としては痛いところです。

このあたり、痛いほどに感じているので、東工大の「生命の科学と社会」では、ビジネススキルとはまったく関係のない、視えない世界=死後の世界の認識と医療サービスとの接面に絞っているのですが。。

筆者は処世術よりも「処生術」のほうが大事だといいます。「処生術」とは、生まれ、老い、病を得て、やがて死んでゆく人生の旅人としての生老病死苦に寄り添う当事者としての構えです。

市場経済のなかでは、「得」が絆を作りますが、市場原理から離れたところでは「徳」が絆を作ることになります。(p82~第3章、「得」の絆から「徳」の絆へ、あたり)

本書でもダライ・ラーマとの対談が回想されていますが、「愛と思いやり」が母親と子どもという人間関係=絆の根っ子の根っ子にある、という指摘にはハッとさせされます。

そして「徳」を引き寄せるためには、神仏、死後の世界など(たぶん超越意識も含ませていいでしょうね)、あちら側の世界、つまり「見えない世界」との対話の構えが重要なのである、と説くあたりとても共感。ついでに言えば、「向こう側の見えない世界」との対話コードが凝縮されたものが霊性に関わる文化だという主張は「スリランカの悪魔払い」以降、一貫してますね。

でも、その対話・交流コードがだんだんと弱まっているのが日本の問題の、大きなひとつじゃないのかな、というのが2人の共有された認識ですね。(たぶん)

死後の世界には2つあるのだろう。ひとつめは、いわゆる自分が死んでから遭遇するかもしれない死んでからの「世界」。ふたつめは、自分、あるいは自分の集合である現世代が次の、そして次の次の・・・世代へ残す「世界」です。

まあ、ひとつめの世界は、無難に不可知論(agnosticism)の立場をとっておけば、目をそらすことができます。でも、ふたつめの世界から逃げるためには不可知論はとりずらいですね。

いずれにせよ、どちらの世界も「自分」には見えません。見えないから実在しないと切り捨てることは容易でしょう。ここで、筆者は福島第一原発を議論の俎上に乗せています。

見えないものを見る力が想像力です。瑞々しい感受性をはたらかせて「向こう側からの呼びかけ」を受信して「狭い世界の中の合理性に従って自明な行動を繰返すのではなく、その閉じた世界からではなく、より広い世界から投げかけられてくるメッセージを聞き取る」(p165)ことが、実に、実に大事なんだろう。

これが、「生きる覚悟」ということなんでしょう。

        ***

サインしてもらった裏表紙には、「覚悟を生きる」とあった。

「生きる覚悟」⇔「覚悟を生きる」

はてな?

生きる覚悟とは、ふたつの向こう側の世界と自分を自覚的に、かつ勇気をもって接続すること。そして、覚悟を生きるとは、そのような世界(観)のなかで当事者として、まわりのいろいろな出来事や人々と絆を分かち合って寄り添うことなのだろう。

この構えこそが、現代日本という狭隘な閉鎖系で受ける同調圧力を陶げることになるのだろう。

今度会った時にでも本人に聞いてみたい。


あなたがメディア!ソーシャル新時代の情報術

2011年10月07日 | No Book, No Life

上の表紙でキレイに装飾されている"Mediactive"という造語が面白いです。ネット上で湧き上がっている地球規模の創発的な会話にいかに参加してゆくのか?そのためのノウハウ、注意点、警鐘、提言などがよくまとめられています。

Mediactiveが英文原著の題名ですが、そこは発想豊かでメディア起業家のギルモア氏、kindle版とともに、本と同じタイトルのmediactive.comといサイトを立ち上げて、紙媒体、電子媒体、ネットが連携して読者を巻き込むようなアイディア共有、共創の「場」を作っています。とても参考になりますね。

あまりノウハウ本は読まないのですが、この本を例外的に面白いなと感じたのは、ノウハウにとどまらず、①時代状況分析にまで大きく立ち入っている、そして、②メディアとの接し方、使い方を「現代のリベラル・アーツ」としてとらえている着眼点が斬新だからです。

この本の妙味は、著者の体験(成功もあれば失敗も)、主張、観察が混然一体となりながらも、メディアを巡るジャーナリズム論、起業戦略、政策分析、イノベーション論が要所にちりばめられているという点です。

なるほど、ネット評論、ジャーナリズム評論、新技術紹介の本はあまたありますが、この本の著者ダン・ギルモア氏の切り口は、類書にはないユニークなものです。つまり、イノベーションと起業という2つの軸を基本に据えて、自身の参与的経験(これがまた特異なもの)と観察(ジャーナリズムをアリゾナ州立大学で教えているだけに鋭い)を議論を展開している点が類書と大きく異なる点です。

ところで、私は専門家のはしくれとして、今まで専門書などを13冊ほど書いてきています。なので、出版社が主催する(ミカジメる)紙メディアとしての「本」書き、「本」づくりの生態系に長いこと棲息してきました。

さて、この本を読んでいる最中に、ある私の本の読者から、ブログ経由でびっくりするような連絡が入りました。なんと、絶版になっている私の本(定価3200円)がアマゾンで1万円もの値段がついていて、それを買い求めたとおっしゃるのです。

そこで、Mediactiveという文脈でこの一件を考えざるを得なくなりました。

1万円もの大金を負担して私の本を入手していただいたのはありがたいお話ですが、その読者の方が高いコストを払ったことに一抹の罪悪感を感じました。

よくよく考えてみると、①絶版本なので私には印税は入ってきません。その読者の方は、②新刊書市場でエクスクルードされた古本が集積するアマゾンの古本市場で、③余計なトランザクション・コストを負担して、④古くなった紙に張り付いた私の知的財産=テキストにアクセスしなければならなかったのです。

上記①、②、③、④のバリューチェンには問題ありありですね。専門書の著者として、いっちょMediactiveになってあげようじゃないか!結論として以下のアクションに結びつけることにしました。

アクション1: 読者に負担をかけるのはいけない。絶版になった本のテキストを電子書籍化して格安でダウンロードして読者、著者ともにメリットが生じる仕組みを創ろう。その一部を社会的な活動をしているNPOに寄付すればソーシャル・エコ・システムにもなる。出版契約書を精読してみると、このアイディアに抵触する条項は、ない。

アクション2: このブログ、ホームページ、facebook、Twitter、それと日経BPでやっている連載など、もうちょい綺麗につないで「ソーシャル」にしていこう。リアル系の授業、講演、コンサルティングなど「ソーシャル」なアクティビティとの連携の高密度化。

アクション3: 次に出す新刊本は、本というよりソーシャルな「場」としてデザインしてpublishする。

というわけで、この本が触媒になってMediactiveアクション(?)が生まれてきそうです。自分のアクションに繋がったという点で、期待以上にこの本では良い読書ができたと思います。

この手の本の読み方は、いかに個別の文脈の短期的なアクションに吸い上げるのか、だと思います。


怒りを忘れた人のために、上田紀行著「慈悲の怒り」

2011年07月19日 | No Book, No Life


「慈悲の怒り~震災後を生きる心のマネジメント~」を著書の上田紀行先生@東工大から贈呈いただきました。

サインまでしていただき、ありがたいものです。我ながらミーハーですね。

感想などちょっとまとめてみます。

◇    ◇    ◇

慈悲と怒りとは無縁な心象であると、多くの人々は薄々ながら前提を置いているのではなかろうか。ところが、本書の題名に端的に顕れているように、これらは決して対立する心象ではなく、怒りとは慈悲のひとつの表明形態なのである。


この本の題名を目にして、まず思い出したのが奈良は東大寺戒壇院の広目天像だ。それは瑞々しい慈悲の奥底に沸々と湧き上がる犀利にして、峻厳な怒りの情念の美術的な表象である。

怒ることを忘れてはいないか。日本は「怒り」を仏教哲学・美術にて昇華している稀有な国。欧米社会では、聖人、聖者で怒っているケースはまずない。

さて、特段、広目天像については言及はないのだが、しかるべき対象(おおむね人ではなく社会システム)に対しては決然と怒りの念をもって対処しよう、というのが本書における筆者の主張のひとつだろう。 

ところが、多くの日本人にとって、コトはそうそう簡単ではない。3.11以来、我々の心は、慈悲と怒りにも増して、悲しみ、嘆き、痛み、無力感、絶望、猜疑などの幾重にも折り重なった感情の絡み合いに脚をとわれているのではないか。

そんな問題意識のもと、本書の入り口では3.11以降の状況がわかりやすく整理されてゆく。すなわち、このような複雑、輻輳した状況だからこそ、「心のマネジメント」の大切さを訴えるのだ。 

心のマネジメントの第一歩は「モヤモヤ感」の切り分けだという。そして、しかるべき対象には決然と冷静に怒りの気持ちを臆することなく抱いて行動してゆくことが求められる。

行動する文化人類学者として著者は、ダライラマをはじめとする幾多の宗教的指導者との対話を通して、この然るべき「怒りの念」をナイーブに排除しないことを提言している。 

著者は、独自の「心のマネジメント」論を展開する上で、日本人の行動様式を規定する「空気」の存在を議論の俎上に乗せる。「社会の中に、その空気というものがまずあって、状況が最初に決められていると、我々はその状況や空気に寄り添うようなことしか言わず、状況そのものを変えるような発言や行動をしません」(p65)という。 

空気に拘束・呪縛され続けてきた日本人の姿が大東亜戦争の歴史などを簡潔にまとめられている部分は、なるほど納得である。 納得、というのは単なる迎合ではない。以前、空気と大東亜戦争について書いたことがあるからだ。(経営に活かすインテリジェンス~第2講:プロフェッショナルがインテリジェンスを学ぶ理由

そのうえで、著者は「『寄らば大樹の陰』、『長いものに巻かれろ』、なのだと、日本社会は『空気』の支配から逃れるどころか、その支配システムを強化することになります。それだけは絶対に避けなければなりません」(p144)と警鐘を発している。正鵠を得た意見だ。 

本書は、読者の自覚を試す貴重な一冊である。すなわち、各自読者が、なにを「空気」として感じ、どのような「空気」を吸っているのかという自覚の程度によって読後感は変わってくるだろう。 

一読者として勝手ながら、次のように読んだ。 

3.11災厄以降、ますます、この国の「空気」を操作・支配してきたもののひとつとして、原発のまわりの構成されてきた、政治、産業、官僚、大学、報道の利権複合体制の存在が白日のもと明らかになった。

安直な原発推進or反対の素朴な二項対置の議論に飛びつきまえに、この政・産・官・学・報の利権複合体という日本の中枢に巣食ってきた魑魅魍魎を合理的思考をもってして分析することも「慈悲の怒り」の所作の第一歩なのではないか、と。 

この本をいただく前の5月に、「原発過酷事故、その『失敗の本質』を問う」 を書いた。「慈悲の怒り」とはほど遠いものだが、自分なりのモヤモヤ感を払拭しつつ、やり場のない怒りを冷静なふりをして書きなぐったものだ。この本を読んでから、前記の文章を書いたら、もっと格調高いものになったのかもしれないが・・・。

「癒し」、「生きる意味」、「肩の荷」と続いてきた筆者の思索に今回、「慈悲の怒り」が加わった。理不尽な制度、社会システムにこそ、「慈悲の怒り」を抱き、果断に変革を迫ってゆかねばならないだろう。

怒りを忘れた人間は、唄を忘れたカナリアも同然だ。

モヤモヤ感がある人、最近、怒ってない人にとって、おススメの一冊だ。


本多静六『私の財産告白』

2011年04月18日 | No Book, No Life

とにかく書くので忙しい。といってもこのブログのことではない。自分もモノを書いて出版社やメディアからお金をいただく身なのでプロの文筆業者のはしくれである。

で、どのくらい書いているのだろうか。

ざっと一年で計算してみると、昨年は毎月の月刊誌連載、96,000文字。日経ITPro(ウェブ媒体)24,000文字、単行本1冊で88,000文字。これらの合計で一年間で算出した文字数は208,000文字。12で割って月当たりにならしてみると、平均17,333文字。さらに、月当たり原稿用紙に換算して43枚。一日当たり400字ヅメ原稿用紙1.4枚。

そうか、原稿用紙を一日一枚以上書いているのか!

これら以外にもタダやマイナスのモノカキの仕事もある。そういう意味では学術論文は最悪の仕事だ。なにせ、原稿料はなし、費用のみかかる。でも書くプロセスで強烈にモノを調べ理論化してゆくのでけたたましく面白いのだが。

だからブログってなんなのだろう?と思う。書いてなにもならないし、どうってことない。だからと言って、ブログをおろそかにすべし、というものでもない。

ブログに走り書いた雑文がきっかけとなり、どこいらの編集の目にとまったりして、取材を受けたり、原稿に繋がったりすることもままある。そうした金銭に繋がる現実的な効用よりも、ブログは、モノカキとして、少ない燃費で絶えず「書きモード」をオンにしてエンジンを回しておくアイディア、発想の「仕込み場」としての効用が大きいように思える。(日常のよしなごとをダラダラ書くというもの楽しいかもしれないが、それだとあまり仕込みにはならない・・・)

          ◇    ◇    ◇

前置きが長くなったが、研究者、貯蓄家、投資家、篤志家として本多静六はあまりに巨大だ。彼の書いた「私の財産告白」がとほうもなく味わい深い。財産形成のヒントや洞察を得るためにこの本は読み継がれている。

たしかに、つぎのような教えは値千金だろう。「収入の1/4を貯蓄せよ」、 「財産を作ることの根幹は、やはり勤倹貯蓄だ。」、 「大切な雪だるまの芯を作る。玉の芯ができると後は面白いように大きくなる。」、 「好景気時には勤倹貯蓄をし、不況時には、投資せよ。 時機を逸せず巧みに繰り返す」 

また、唸るような教えも多い。

「一生涯絶えざる、精神向上の気迫、努力奮闘の精神であって、 これをその生活習慣の中に十分染み込ませることである」(P.61)、「人生における七転び八起きも、 つまりは天の与えてくれた一種の気分転換の機会である。 これを素直に、上手に受け入れるか入れないかで、成功不成功の分かれ目となってくる」(P.110) 、「人生の最大幸福は職業の道楽化にある。 …すべての人が、おのおのの職業、その仕事に、全身全力を打ち込んでかかわり、 日々のつとめが面白くてたまらぬというところまでくれば、 それが立派な職業の道楽化である」(P.186) などなど。

ところどころ、出てくるピース・オブ・センテンスにも「おっ」と思わせる。

・人生一度通る貧乏ならできるだけはやく切り抜けた方がよい 
・ケチと気前のよさが与える後の印象 
・気の毒は先にやる 
・金儲けは理屈ではなく実際である、計画ではなく努力である、予算ではなく結果である。 
・好景気には勤倹貯蓄、不景気には思い切った投資 
・よけいな謙遜はしない 
・人の名前を正しく覚える 
・仕事に追われないで、追う 
・平凡人は本業まず第一たるべし 

          ◇    ◇    ◇

以上の驚愕すべき貯蓄、投資の大実績に加え、本多静六は、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した大文筆家でもある。370冊!!一日原稿用紙1枚を長期に渡って自らに課したという。

一冊の文字数を少なめに見つもって60,000文字として370冊だから静六は、生涯で22,200,000文字書き連ねたこととなる。かりに、私の昨年の年間産出文字数208,000文字で割ってみると、107年となる。私のペースで書いて、107年かかるということだ!

いやはや、本多静六の書を眼の前にして、謙虚にもっと書かねばなるまいと悟った次第。


ケースで学ぶ実戦起業塾

2011年04月13日 | No Book, No Life

以前、「ケースで学ぶ実戦起業塾」という本について雑文を書きましたが、日本ベンチャー学会から依頼があり、正式な書評を学会誌向けに書きました。

ブログに走り書きしたものが、学会誌に飛び火するとはなんとも面白い現象です。このところ、ブログがモトになって書評になることが続いています。

この学会誌も早いところ、webに移行してほしいものです。欧米の一流学会では、論文提出、審査、掲載、会議開催まですべてオンラインが主流です。「ベンチャー学会」とうたっている以上、もっとスピード感を高めて、顧客=会員満足度を高めてほしいものです。

 とまれ、記念に貼っておきます。

<以下貼り付け>

日本ベンチャー学会誌:Venture Review No. 17. pp75-77.March 2011.

『ケースで学ぶ実戦起業塾』 

Case Studies: Starting and Running Your Own Venture

木谷哲夫編著 日本経済新聞出版社 2010年 

1本書の特徴 

本書の執筆陣は、京都大学産官学連携本部寄附研究部門 のイノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門 に所属して起業、ベンチャー支援に実務経験を有する研究者達である。専門家向けというよりはむしろ、起業に関心のある学生、起業家予備軍のために書かれた一冊だ。書名に「塾」とあるように、本書が展開するステップに沿って、考えながら読める構成となっている。

経営現象を専門的に記述するときのスタンスは大きく二つに別れる。ひとつめは純粋な観察者の視点に立って、客観的に、あるいは論理実証的に記述する行き方だ。ふたつめは、経営に深く関与した経験がある者が、自らの経験を基にして、そこから抽出される事例、パターン、モデルなど記述する行き方である。前者の記述スタイルの典型は経営学者のそれだろう。経営学者にとって、実務としての経営にタッチすることは積極的には求められない。ゆえに、請求書を発行したことのない人、経営計画書を書いたことのない人、人を採用し首にしたことのない人、イノベーションについて当事者として取り組んだことがない人でも、大学院を出て経営に関する論文などを書けば経営学者の一端には入れる。後者の記述スタイルの典型は、経営に積極的に関わり、携わってきた実務家ないしはプロフェッショナルのそれだ。この本は、後者に属する執筆者によって書かれたものである。

さて、ここで注意しなければならないことは、起業経営(Entrepreneurial management)におけるプロフェッショナルな経験というのは、凡百な企業の研究開発担当者、管理職、事業部門長、新規事業創出担当者、ベンチャー投資担当者、会計士、税理士、起業評論家、ベンチャー評論家などのレベルではないということだ。起業経営におけるプロフェッショナルな経験とは、そうそう間口が広いわけではなく、以下のように限定される。

(1)ハンズオン投資を行いイグジットまで持っていった経験。(投資経験)

(2)自らリスクを取って起業し、かつイグジットさせた経験。(起業経験+イノベーション経験)

(3)グローバルレベルでのイクスパティーズが蓄積されたコンサルティング・ファームでのコンサルティング経験。(コンサルティング経験)

 

この本の著者チーム、つまり木谷哲夫、瀧本哲史、麻生川静男、須賀等は、上記の稀有な起業経営プロフェッショナルの条件を満たしている。本書の第1の特徴は、そのような経験を具備する執筆者によって書かれている、そのこと自体である。

第2の特徴は、本書のタイトルが「実践」ではなく「実戦」とされているところに顕れているように、起業という戦場で活用できるプラクティカルな内容に重点を置いている点である。海外発のケースの羅列では、環境、制度など与件が異なりすぎるので日本国内で起業する向きにとっては有効な知見を得にくい。この点、本書のケース群は異なる。著者4人が濃厚に関与した日本国内の起業事例を中心にして丹念に絞り込まれた記述は有用な洞察の宝庫である。

第3の特徴は「事業の作り方」を解説している点だ。本書は、ビジネスモデル作りに重点を置き、ヴィークルとしての各種法人の作り方は二の次としている。このスタンスは全章を通して一貫しており、25事例の紹介と相まって、事業やビジネスモデル作りの勘所が読者にビビッドに伝わるような編集となっている。

2本書の構成

この本の構成を概観する。まず第1章「勝てる土俵で戦う~ビジネスアイディアと起業マーケティング」(瀧本哲史執筆)は、いわゆる起業家発想法の本質が分かりやすく述べられている。私見によれば、起業マネジメントにおいては、成功要因より失敗要因の方が圧倒的に多く、その意味で失敗パターンに気づくことが起業家のリスクマネジメント上、より重要である。その意味で、失敗する起業家はどこでつまずくのか(019ページ)は示唆に富む。

第2章「他力を活用する~チームビルディング~」(木谷哲夫執筆)は、スタートアップスのいわゆる人的資源論だ。まさに「はじめの10人がベンチャーの成否を分ける」、「はじめの10人が会社の性格を決定づける」、「大学は人材獲得源として活用すべし」などというような着眼点が光っている。

第3章「合理的なリスクを取れるまで計画する~ビジネスプラン~」(木谷哲夫執筆)は、単調になりがちな事業計画づくりのフローを、「合理的なリスク」を取るという視点で論述する。成功の確率をいかに上げてゆくのか、というテーマはリスクマネジメントなのである。

続く第4章「市場の目で技術を見る~知財と技術マネジメント~」(麻生川静男執筆)では、技術経営(MOT)の視点で主として知財と技術マネジメントが論じられる。技術経営領域で頻繁に用いられる概念が初学者にもわかりやすいように平易に解説されている。

以上の議論を受けて、第5章「会社の成長に合わせて進化する~成長の管理~」(須賀等執筆)はスタートアップス経営の本質である成長のマネジメントについて深堀りする。筆者自身がハンズオン・キャピタリストとして深く関与したタリーズコーヒージャパンのケースが味わい深い。「どうだ、俺と組まないか?」「はい、よろしくお願いします」という会話から急展開されるリアルな事例に思わず読者は引き込まれるであろう。

終章となる第6章「出口戦略を常に意識する」(瀧本哲史執筆)は、イグジットに焦点をあてて議論を加えている。日本人一般に欠けているもののひとつは、入り口で出口を構想するシナリオプランニング能力である。瀧本は、おそらくはこのような認識に立って、すべての段階においてイグジットを積極的に意識せよ、との具体論を展開する。本書の構成上、この章は終章ではあるが、実質的には序章でもある。終章(イグジット)を吟味して序章(エントランス)に取り掛かれ、というメッセージが込められていると理解したい。そのエスプリを味わうためには、終章を読んでから全部の章を改めて読んでみるのもよいだろう。

さらに、全編を通して25事例もの日本国内の生きたケースが掲載されていて、これらの事例がバランスよく各章の議論に埋め込まれている。ケースというと、ケースを記述する際の構造に神経質になる向きもあろうが、本書のケースは厳格なフレームによって構造化するものではなく、各筆者の個性が多様に反映されている。このようなケースの記述があってもよいと思う。

具体的には、第1章に2事例、第2章に4事例、第3章に5事例、第4章に12事例、第5章に1事例、第6章に2事例が掲載されている。このように章立ての文脈に沿って、日本国内の起業事例が紹介されているので、各章のポイントが腑に落ちる構成となっている。「そういえばこういう事例があったな」と想い出し、個別の文脈で起業家や起業家の卵たちが、判断する際に、大いに参考になるはずだ。 

3 内容の吟味と検討

 「はじめに」でも論じられているように、先進各国におけるマイクロカンパニーないしは「自分経営」の動向は意味深長である。そして、米国や欧州では大会社を辞めて個人ベースで生きる人の割合が増加しており、組織から個人への「民族大移動」が起きているという。これらの動きを受けて、執筆者代表の木谷は、「日本でも、その動きが周回遅れで起こっている。この『中抜き』の時代に大事なのは、『会社経営』ならぬ『自分経営』の視点である」と述べ、「起業という選択肢は、他の人と共同し、大きな事業機会にチャレンジできる魅力的なものだ」と論ずる。

 この部分について付言する。2010年12月の時点で有効求人倍率は、従業員5000人以上の大企業では0.47倍(リクルート調べ)だが、300人以下の中小企業では4.41倍(アイタンクジャパン調べ)である。このデータからも読み取れるように、大企業への就職は厳しい状況だが、ベンチャーを含む中小企業では1人の求職者に対して4社以上が求人を出している「売り手市場」なのである。しかし、中小企業への就職希望者は低迷し、狭き門の大企業のみに就職希望者が殺到し、内定が出ないと学生は苦悩の声を上げ、その情景をマスコミは盛んに「就職氷河期」であると喧伝している。就職先としての中小企業、ベンチャー企業志向が低迷していることと、起業率の低迷は無関係ではあるまい。いったいこの情景に「自分経営」はあるのだろうか、という疑問を呈するとき、「周回遅れ」の「周」とはたぶん1周ではないように思われる。日本民族の「民族大移動」は大企業志向にとらわれ、目詰まり現象を起こしてはいまいか。

 さて、前述したとおり、本書はハイレベルな実務家による著作物ではあるものの、ライティングスタイルについていささか気がついた部分を挙げておこう。

(1)社会起業(Social Entrepreneurship)という切り口がない

本書はfor-profitのビジネス起業を中心に構想しているが、social(社会的)インパクト、社会イノベーションといった昨今の社会起業の動向に関する記述が見当たらない。これらのテーマに対しても一瞥を加えておいた方が、本書の相対的位置づけが明確になったことであろう。

(2)知財を活かす「三位一体の戦略」(246ページ)

「知財戦略の三位一体とは、①研究開発戦略(技術戦略)、②事業戦略、③知財戦略」(248ページ)を挙げているが、この言説に関する先行文献にもリファーしておくべきだろう。

(3)マーケティング・ミックスの4P

異なる章の2か所で重複して解説されている(079、216ページ)。無用な重複は避けるべきだ。

(4)オープンイノベーション(283ページ)

近年、ベンチャー企業、地域クラスター、産官学連携コミュニティとオープンイノベーションの関係性が盛んに議論されつつある。起業家やベンチャー企業単体を凝視する目をミクロの目と呼ぶのならば、オープンイノベーションを俯瞰するのはマクロの目だろう。京都という土地柄を借景として、起業を国内事例中心に論じる本書にとって、このような議論に独自の一石を投じる視角もあってよいのではないか。

しかしながら、以上はむしろ瑣末な点とすべきであり、前述した本書の大胆な構成、斬新な着眼点をいささかも損じるものではない。読者諸賢には、瑣末な点は横に置き、本書の本質とじっくり対話をして欲しいものである。

 

<以上貼り付け>


シュンペーター伝

2011年02月20日 | No Book, No Life


最近日本語で出たシュンペンター関係の書の中では、やはりこれだ。以前別のところに書いておいたものを張付け。

<以下張付け>

同著の原題はProphet of Innovation:Joseph Schumpeter and Creative Destructionとなっているように、資本主義の本質を間断のない創造的破格をもたらすイノベーションであると論考したシュンペータの思想の軌跡を丹念に追った学術的かつマニアックな本だ。

過去シュンペンターに関する伝記的な著作物は2冊ほど出ているが、シュンペーターの業績を時代の文脈を追って解釈する包括性、プライベートな生活の変遷の写実性において、先行する2冊ときちんと差別化が図られていて、一皮むけた内容となっている。

マニアックさは、シュンペータ本人や彼自身が縁を持った女性、親戚などが保管していた表には出ることがなかった書簡、手紙を執着質的に渉猟し、ある程度の品位を保ちながらも大胆に表に出す記述スタイルによく現れている。グラディス、アニー、ミーア、エリザベスといった個性極まる女性達との波乱万丈、逸脱至極の女性遍歴の物語は、そのまま創造的破壊なるものを提唱したシュンペータの思想遍歴において重要な主旋律を構成している。

「人間は物質主義の浸ってしまうと甚大な損傷が生じる」(p168)と断じるシュンペーターの人間と社会に対する観察眼は犀利を極める。人間と社会の半分を構成する「女性」とのシュンペンターのかかわりあいは、シュンペンターという傑出する思想家の少なくとも半分を理解する上では有用だろう、と著者のマクローはエスプリの含意を漂わせている。

シュンペンターの主要著書を時代背景とともに解説しているのがありがたい。流石に企業史を専門とするマクローだけあって、その著述力が光っている。それゆえに、本書をもってシュンペンターが紡いだ書物、論文の良きガイドブックとして位置づけることも可能だろう。

172ページにも渡る充実した注釈もありがたい。索引や写真も充実している。本書は、シュンペータ研究者ならずとも、イノベーションを研究する人々、近代経済史に興味がある方々にとってもシュンペータの全体像を提供する良書であると確信する。

<以上張付け>