よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

2013北海道自転車ツーリング③檜山国道を北上、弁慶岬を経て寿都へ

2013年08月21日 | About me

<いたるところに綺麗な海岸が点在する>

風が強かったので、本格的に寝る前に、テントと自転車を無人状態のガッチリした屋根がついている水場に移動しておいたので、まともに風雨を受けることなく安眠。

だが、やたら朝早くから鳴くカラスは、キャンプ場ではいい迷惑だ。臼別川手前の「てっくいランド大成」まで15km。そこから臼別川に沿って内陸に入り、太櫓越峠という標高180mの小さな峠を越える。

今回のコースは標高500m以上の峠はないので、昨年ほどはハードではないが、やはり小さな峠でも足をつくことなく走りたいものだ。

11:00には峠を越えて、途中、商店のおばさんに道を教えてもらい、北檜山町のせたなという小さな集落に辿りつく。そこで、ライダーさんの3人パーティーと立ち話をしていると、この先にはほどんど飯を食べれる場所がないという。

なので、ライダー氏のすすめもあり、ろうそく岩と三本杉岩の近くにある土産物屋件飯屋で早めの昼食を摂ることにする。

<ホッケ定食>

瀬棚の海岸線は断崖が迫っている。なので、蝦夷親不知なんていう地名もあるくらいだ。急峻な崖が海岸線で落ちているので、必然的にこの区間の檜山国道は、トンネルの連続だ。

車がほとんど通らない上に、トンネルの中はひんやりと空気が冷えていて、とても気持ちがいい。トンネルの外は34度位だが、トンネルの中は25度くらいだ。暑い日中だが、江の島海岸まではとても気持ち良く快走。

ルートはやがて寿都の手前の弁慶岬に差し掛かる。弁慶岬のはるか向こうには積丹半島の稜線が見えている。

 このあたりの風は強烈だ。ほうほうのていで岬につくと、な・なんと、そこには武蔵坊弁慶のデカイ像が立っている。

なに?これ?

義経・弁慶伝説のひとつの舞台なのである。

数年前に、札幌から小樽をへて積丹半島を一周して、寿都にきたことがあった。そのときの寿都の風も強烈だったが、この日の風もまた強烈の一言。

ここで親切なドライバーの女性と会う。風に辟易としながらも岬を立って走り始めた僕の横に車をつけて、「この先、風が強いので、どうぞお気をつけてね!」と。

ああ、うれしい。

寿都は風の町だ。この日も、逆側の長万部方面から強い風が吹きすさび、寿都の沖合は三角波で泡立つよう。

やれやれと、5時過ぎにやっと着いたのは、寿都温泉ゆべつの湯。強い日光、雨、風・・・。この日の天候は変化の連続。けっこう脚に来てしまった。

温泉のおばさんに頼んで、バンガローの横にある「漁師の店」の裏手にテントを張らせてもらうことに。

ありがたや!

これで今日の宿代はタダ。

北海道有数の泉質を誇るという温泉につかり、疲れを癒す。

テントにもどり、あとは爆睡。

走行距離:120km

つづき


自己紹介

2011年12月02日 | About me

早稲田大学商学部を卒業後、ブリヂストン株式会社海外部とMedi Co-opに勤務。その後、渡米してコーネル大学大学院にてMS取得(Policy analysis& management)。国際的コンサルティング会社Hay Management Consultantsにてプロフェッショナル経験を積んだ後、株式会社ケアブレインズ(CareBrains, Inc.)を起業。創業社長・代表取締役として同社の成長基盤を構築後、上場企業に売却しイグジットを果たす。

これらのコンサルティング、ビジネス経験をベースにして、戦略、人的資源管理、健康・医療サービス・システムデザイン、技術経営、アントレプレナーシップを中心としたノウハウを蓄積。現在はこれらの知見を活用して、大学教授、経営コンサルタント、講演講師、エンジェル投資家として活躍中。

得意とする産業は、医薬、医療機器、医療機関、テレコミュニケーション、消費者向けエレクトロニクス、自動車、非営利組織、高等教育、ソフトウェア、オープンソース・ソフトウェアに及ぶ。米国、欧州、日本に本社のあるグローバル企業に対してコンサルティングを提供。2008年から2009年まで、内閣府社会イノベーション研究グループの研究メンバーを歴任。これらによって得られた知見、経験をベースにして13冊の専門書、ビジネス書を出版。

I. 戦略 :

・企業戦略デザインと実施

・新規事業評価、分析、計画、実行

・市場化戦略と実行支援

・戦略的アライアンス構築

・財務分析とファウンディング

II. 人的資源マネジメント :

・マネジメント再設計と戦略計画策定

・マネジメント、ガバナンス設計

・短期および長期の報酬戦略策定

・コンピテンシーモデルのデザインと運用支援

・人事評価、アセスメント

・モチベーションとリーダーシップ

III. 健康・医療サービスのシステムデザイン :

・臨床現場の医療サービスのシステム設計

・業務改善、品質改善、安全のための分析と実行

・バックステージサポートシステムのデザインと実行

・臨床フロントステージ手順・基準・標準の開発

・統合的健康・医療サービスを実現するためのチーム医療

・スピリチュアリティとケアサービス

IV. 技術経営 :

・ビジネスおよび技術のバリュエーション

・技術の商業化

・技術マーケティング

・戦略的事業提携とバリューチェン構築

・技術ライセンシングとアクイジション

V. アントレプレナーシップ:

・起業開発

・ソーシャルエンタープライズ開発

・スタートアップのバリュエーション

・ビジネスモデル分析と開発

・イノベーション創発のためのリーダーシップ

 

◎現在の主たる活動:

・国立大学法人東京農工大学産業技術専攻 教授

・日本工業大学大学院技術経営研究科 客員教授

・札幌市立大学大学院看護学研究科 客員教授

・国立大学法人東京工業大学 非常勤講師

・NPO法人国際社会起業サポートセンター 理事

 

担当授業:

・東京農工大学産業技術専攻(旧技術経営専攻):「アントレプレナーシップ」、「人的資源管理論」、「技術企業経営概論」、「マーケティング戦略論」

・日本工業大学技術経営専攻:「アントレプレナーシップとベンチャー企業経営」

・札幌市立大学看護学研究科:「保健医療福祉サービスのマーケティング論」、「看護開発学特講」

・東京工業大学:「生命の科学と社会」(一部)

 

◎趣味:自転車ツーリング&アウトドア

 

 


自己紹介(ナラティブ)

2011年12月01日 | About me

へんな学生

早稲田大学での学部学生時代は、自転車に乗って過ごしました。ほとんど日本全国を自転車で走り、山岳地域の峠を通算して300位登りました。最も活動的な年は、1年あたり150日は大学や家を離れ、自転車を駆って寝袋、テント、炊事道具を持って山野を走りまわっていました。

自転車に乗って旅をする技術は、自由に生きるという地平を開拓するに余りあり、体力、精神力のみならずリベラル・アーツの涵養に資するところ大いなるものがありました。

商学部に入って分かったことは、ほとんどの経営を教える先生に経営の経験がなく理論や方法論を教えることに終始していたことです。そこで、実務と理論を統合し普遍性を具備した社会科学としての経営学は欧米の大学院で窮めることとし、学部時代は将来の留学に備えて、まずは自転車を機軸とするリベラルアーツと英語の修練に集中することにしました。

いまだ脆弱なものとはいえ古今東西の書に親しみ孜孜たる勉学の基礎を創り得たのは、数少ない学部時代の収穫でした。とはいえ当時の早稲田通りには古本屋が軒を連ねており、社会科学系の古本をと紐解くことにも熱中しました。神保町にもよく通い、歴史ものにはじまり雑駁な事柄を好んで読むのはこの時代からの習慣となっています。

自転車冒険とアウトドア

大学3年次までにはほぼ日本の全県を走破しました。でも自転車大旅行への情熱止みがたく、
3年から4年にかけて、大学サイクリングクラブの仲間と3人パーティを組んで、インドのニューデリーからネパールのカトマンズまで自転車で冒険の旅<expedition>をしました。

この自転車冒険旅行は強烈なもので、初めての海外経験は自転車による前人未到のルートでした。当時1970年代後半、1980年代前半はインドの田舎には日本人の足跡はまったくなく、サイクリストとしては未開のルートを走ったことになります。

この旅では、現地の人々(役人、もの売り、木賃宿、取り囲む群衆、食料調達、その他もろもろ)と交渉することが僕の役割でした。ヒンドゥー語は片言しか話せないので、ほとんどのコミュニケーションは下手な英語です。

当時、英語の鍛錬に熱心な若者の多くがそうであったように、英検1級はほとんど苦労せず楽しみながら取得していました。英検やTOEFLは、目先、口先、手先の上っ面な英語運用能力の一部の証明にこそなれ、アジアの奥地でサバイバルすることに資してはじめて身体化できるものだと勝手な「英語道」を構想し悦にいっていたのは面白いばかりです。

当時、生きる術としての英語を体得しながら世界を走ってゆくことに牧歌的ながらも横溢するロマンを感じていました。当時はポカラやカトマンズには欧米からやってきたヒッピーがたむろしていて、夜な夜なマリワナをまわしながら世界の話に花が咲きました。

そこでアメリカのスタンフォード大学からやってきた応用数学専攻の大学院生と仲良くなりました。自転車に乗って旅行記を書き、一生放浪するという僕の人生プランの話をすると、「その計画は面白いが、学生としての勉強はどうなっているのか?同じ探検でも知的世界への探検のほうが面白いぞ」と諭され、おおいに気づくことろがありました。

インドでは英語(とくにダイアローグ)を足腰を使いながら使いました。不思議なもので、外国語の口頭表現能力というものは、生きるか死ぬかの修羅場、キッタハッタのゼニ勘定がからむ場、異文化の軋轢の場で使い込むほどに、よく身につくものです。

後年、アメリカに渡り国際ビジネスの最前線でも活躍することになりますが、英語によるタフな交渉スキルの基盤は実にインド・ネパールの自転車探検によって培ったものです。

体は頑健なほうですが、インドでは病気になりました。それは、三日熱マラリアという恐ろしいやつで、3日おきに、繰り返し激しい高熱に襲われました。熱でウンウン唸りながらダウンしてヒンドスタン平原で力なく横たわっている自分がつくづく情けなくなりました。

熱にうなされながらも、仲間と助け合って、計画していたすべての行程を自転車で走り切りました。カトマンズの木賃宿で、日本に帰ってからはとにかく大学を卒業してマジメに働いてお金を貯めようと決心しました。そして、次はアメリカに留学しようと決心しました。

このインド・ネパールの自転車探検旅行から、おおむね3つくらいの方向性が出てきました。ひとつめはこの旅で考えたことを異文化間コミュニケーションという視点から『日本人と英語』という論文にしたところ、幸運にも『English Journal』という英語学習雑誌の論文コンテストで1等賞を獲得しました。

それから『サイクルスポーツ』とう雑誌に「世界を走る日本人」という記事を書きました。これを読んでくださった池元元光さんという世界を走るサイクリストと知りあい、後日、日本アドベンチャーサイクリストクラブができました。この団体はその後発展し、世界を走るサイクリストを100人以上輩出しています。ともあれ、これらの経験からモノを書くが大好きになり、かつ習慣化しました。

みっつめは、歴史宗教的な探索です。御釈迦様が生まれたルンビニを訪れ仏教が伝搬したルートに思いをはせたり、チベット密教の影響が濃いカトマンズの寺院をおとずれ、チベットからやってきた密教修行者に出会って、自分の前世の一端に触れました。ダライラマの本を初めて手にしたのもカトマンズでした。

ビジネス

1981年、ブリヂストンタイヤ
という会社の海外部門で働き始めました。一度は日本の大企業、製造業の内側にはいって会社員になるのもいいだろう。しかし、年功序列・終身雇用スキームに乗って係長、課長、部長、事業部長という中間管理職になることは、まったく関心がありませんでした。はじめから、「腰掛」のつもりで入社したのです。このような自覚的かつ確信犯的な新入社員というのは珍しいでしょうが。

ある日、友人を介して病院ビジネスを展開する実業家と知りあいました。サラリーマンにない迫力、成長意欲、起業家精神そしてそれらを裏付ける妙な暗さと劣等感のある人物でした。熱心な引張りにあり、僕自身も実業家や起業家に憧れていたので転職しました。

一部上場企業をパッと辞めて海のものとも山のものとも分からないベンチャー企業のような会社(病院の土地建物を所有して医療法人にそれらを賃貸する業態)に移るのはキチガイ沙汰だ、と周りからは言われました。

このころ、フロリダ州タンパへ医療システムのリサーチに行きました。宗教系の病院を訪問したところ、キリスト教福音派でファンダメンタリストの善良な牧師さん(彼は戦後神戸に来て伝道、復興活動をしていた)と仲良くなり、彼の家にしばらく泊めてもらいました。この牧師さんとはよく話し合い、福音派の教義に触れました。

それがきっかけになって人格的一神教の由来を調べるようになりました。さらには、多神教、方面の探索に勢いがつきました。

結果としてこの転職は成功でした。なぜならば起業や新規事業の立ち上げのノウハウを大いに学ぶことができ、次の展開へ直結したからです。

コーネル大学

インドで抱いていた留学妄想が、だんだんと具体的な輪郭を帯びてきました。当時の日本にはきちんとしたビジネススクールはなく、本格的に経営学を中心として社会科学を大学院で学ぶためには、アメリカがいいという結論に達しました。

こと社会科学に関しては、似非学問や輸入学問しか教えない日本の大学院など、世界レベルから見えば無きに等しい存在で、日本語という壁をもって世界から隔絶された日本国内の学会はひたすら内向きです。日本に特殊な事象ばかりを対象にするあまり、世界に通じる普遍性<universality>が決定的に欠如しているのです。

アメリカには2300もの大学があります。その玉石混交の中でもIvy Leagueとよばれる大学群が学問水準、研究教育環境が傑出しているということを知って、さらにいろいろ調べてみました。

ビジネススクールでmanagementを学べ、他の大学院で本格的にpolicy analysis、health services administrationの知見を得て、social science全般を渉猟もできるコーネル大学からオファーが来ました。ラッキーの一言でした。

コーネル大学は全米No1の美しいキャンパスと豊かな自然に囲まれていて自転車などアウトドアが大好きな自分にとってまさにピッタリの環境。渡米したのは1986年のことでした。

1985年初には250円台だった円相場が1986年末には160円を突破。1987年のルーブル合意でドル安に歯止めかける方向で合意したもののしばらくドル安が進み、1ドル=120円台にまで上昇しました。1987年は経済成長著しい日本は、なんとアメリカを追い抜かして一人当たりGNP世界1になった年です。

こんな時代を背景にして「日本的経営」を特別講義で世界中から集まった学生を相手にレクチャーするという珍事にも恵まれました。面白い奴だということで、日本人としては初めてKappa Alpha Societyというフリーメーソンの流れを汲むFraternity house(ギリシャの伝統を汲む友愛組織)にBrother「兄弟」として迎えられ、美しいキャンパスの中に棲み込みました。

さてコーネル大学では、生まれて初めて学問づけの生活というものを体験しました。専攻はPolicy Analysis & Managementというものです。Managementのほうはビジネススクール(Johnson Graduate School of Management)で学ぶのですが、これが凄い。ケーススタディーの洗礼を受け、とにかくガンガン意見を表明するクラスメートに圧倒されました。

Policy Analysis のほうはHealthcareに注力しました。Sloan Program in Health Services Administrationという大学院専門課程です。ここでは、なんと2人の教授が15人ほどのクラスに張り付いて、討論形式で授業を進めるのです。まさに対話が授業の本質でした。ソクラテスの「対話」による知の拡大、あるいは知的探求は書物により一応は理解していたつもりでしたが、この教室ではそれが現前している、その情景にある種の眩暈を感じたほどでした。

読む本の分量も半端ではなく、孜孜たる勉学の毎日でした。半年もすると、このような対話やプレゼンテーションにも慣れ英語によるコミュニケーションには違和感は感じなくなりました。

烈々たる勉学のはざまに、ふとニューイングランド特有の燃えるような紅葉の馥郁たるを感じ、読書に飽いてはまた風格このうえない校舎の壁を這う蔦の青々たるに目を遊ばせるのはまさに贅沢そのものでした。

1年と2年の間には、フィンランドの友人のつてをたどり、フィンランドのプライマリーケアについてフィールド調査を行いました。そのインターンシップの後には、聖書を片手にバックパックで、スウェーデン、デンマーク、オランダ、スイス、オーストリア、ギリシャ、ロードス島、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルと2か月かけて回り、アップステート・ニューヨークへと帰ってきました。

文化人類学をやっている同じ寮の左翼反米的なアメリカ人学生とは妙に波長があって、いっしょにバンを運転して北米大陸を車で横断・往復しました。道連れはもうひとりいて、そいつはその文化人類学専攻の学生のホモ達でしたが、僕はストレートなので旅の間は「俺の前ではホモるな」という条件を彼らに果しました。

ホピ族とナバホ族のconcentration(特別居住区)を訪れて、ネイティブ・アメリカンの神話を収集したり、トランス・ダンスのフィールドワークをしました。僕は非差別民族としてのネイティブ・アメリカンの貧困や医療の問題を調べました。鉢巻の模様やダンスが、阿寒湖のアイヌの人々のそれらと同型で、そんなことを話すとネイティブの人々はとても喜んでくれました。

僕の顔立ちがネイティブアメリカンとちょっと似ていることもあってか(笑)、とてもよくしてもらいました。モンゴロイドとして確かに太古の血と知は繋がってということを体感するに至りました。

東海岸の大学からではなく、ネイティブ・アメリカンの視点からアメリカを見るいろいろと本質的なものが見えてきます。西洋のデキモノみたいなアメリカという征服・搾取・抑圧国家の姿がそこには集約されていました。留学後、盲目的にアメリカ一辺倒のようになってしまうおめでたい、あるいは表層的な日本人が多いなかで、そうならなったのはたぶん、この旅があったからでしょう。

経営コンサルタント

このまま大学院に残って研究者になるという発想はさほどもなく、卒業後には理論と実務の統合を目指すべく、経営コンサルタントになると決めました。生業としてコンサルタントをしながら、研究的生活を続けることにしたのです。

当時、コーネルのみならず、アイビーリーグやその他トップレベルのビジネススクールでは、野心的でデキる連中はこぞってコンサルティングファーム、投資銀行、ベンチャー企業に職を求めていました。日本では大企業や公務員に職を求めるのが圧倒的多数でしたが、アメリカのエリート達は対照的です。

運よくフィラデルフィアに本社があるHay Management Consultantsからのオファーがあり、コンサルタントとしてのキャリアを積むことになりました。東京オフィスでの仕事はエキサイアティングなものでした。クライアント企業の20年、30年に一回くらいの戦略改訂、組織変革、人事制度変革に立ち会い、それらのプロセスに関与するコンサルティング業務が中心でした。

日本は言うにおよばす、欧州、中国など広範な地域の組織に対してコンサルティングをしました。

 Hayという組織は面白い組織でハーバード大学のマクレランド教授(達成動機やコンピテンシー理論の世界的大家)らが創業した会社を買い取って一部門(Hay BacBer)にしていました。そこで、コンピテンシー理論や人的資源管理論などの学問的ノウハウが凝縮されており、仕事はハードでしたが、大学院のような雰囲気もあり、知的刺激に充満しています。それやこれやで研究的生活も進み、研究成果を専門書として書き始めました

ことのなれそめは出逢いからでした。コーネル大学にいる時に日経BP社の記者の方が取材を兼ねてわざわざ遠路はるばる東京から僕に会いに来てくれたのです。それが縁になって生まれて初めて書いた本は日経BPから出版させてもらいました。「ナーシング・ストラテジー」という本でした。

この本がきかっけとなり、日本看護協会で講演をさせていただいた折、ぜひ看護のための経営学をまとめるように熱心に勧められて書いた本が「看護経営学」と「続・看護経営学」という本です。そしてこれらの本が縁となり、日本全国の医療機関や看護協会から講演に招待れるようになりました。それ以降、講演はライフワークのようなものになっています。

ウィークデーはコンサルタント、週末は本や論文の執筆と講演。副業どころか三足の草鞋です。とても忙しい日々の中、副業だけで資本金に充当する額が自然とたまったので、起業することにしたのです。当時の最低資本金は1000万円でした。ほかにこれといったお金の使い道がなかったのです。

起業に際してはノウハウが不足していたので、当時早稲田大学ビジネススクールを立ち上げていた松田修一先生の起業コースに参加して起業・創業のノウハウを勉強しました。変な話ですが、早稲田では卒業してから本格的に勉強したことになります。


起業家

(株)ケアブレインズというベンチャー企業を興し、「人と組織の知恵をケアする」ということを理念にしました。10年突っ走って結果を出す、従業員の給料の遅配は死んでもしない、ということをスサノヲ尊を祀る出雲の熊野大社に詣でて祈願しました。1997年のことでした。人生のビックバンのようなものです。

この会社ではコンサルティング、eラーニング、産学官連携、コマーシャルオープン・ソースなどの事業を手掛けました。自分で考えて、周りの人々の理解や共感を得てビジネスに仕上げてゆく。ビジネスモデルにはなにかしかのイノベーションの工夫を仕掛ける。こんなことが飯よりも好きでしたし、今でも大好きです。

僕は特定の分野の狭義の技術者ではありません。しかし、経営という体系・ノウハウをsocial science系の技術と見立てて、ビジネスモデル、バリューチェンを創りだす経営技術者、技術経営者を自認しています。

経営プロフェッショナル、アントレプレナーとして技術リソースを技術の壁、市場の壁を突破させてビジネス化することが好きです。そしてインベンションを普及させてイノベーションにしてゆくプロセスにワクワクします。

「資本主義社会の主人公は起業家だ」と素朴に信じて起業してしまいましたが、実は「市場」というところは、大変厳しい場所であるとが遅ればせながら気がつきました。創業社長は月月火水木金金で休むことなんか考えてはいけません。自分の給料を割いても、従業員のペイにまわなさければいけません。タフだからできるし、好きでなければとうていできません。

市場は「癒し」の場なのだろうか?強い人にとっては、自己実現の場ですが、たぶん万人に「癒し」を与える場所でありません。市場でシノいで成功する人はいいのですが、市場で失敗し、排除される人々も増え続けています。

さて2007年にある上場企業から、僕が経営していた会社を買いたいという奇特な申し出があり、いろいろ考えました。自由を求めて起業したのですが、いつのまにか、自分が起業した会社の中で自由を感じることができなくなっていました。

元来、決めごとをしたり、決断するのは直感的にスパッとやるほうです。30分もあれば、たいがいの事柄を選択したり決めることができます。しかし、このときは3カ月以上の時間をたっぷりかけて、諸般状況を見極め、我流のインテリジェンスを駆使しながら、ゆっくり意思決定をしました。

そして決断。一株残らず会社の株式を、とある上場企業に売却してイグジットしました。精神的にはタフなほうだ思っていましたが、利害関係が輻輳する進退窮まる局面では、醜い裏切りや騙しあい、駆け引きの機微が絡み合い、これにはけっこう辟易としました。

市場のなかでは、会社も、社長も、人材も、ビジネスモデルも、知的財産も交換可能な「物象」です。会社売却とは、過酷な物象化をいかにシノぐのかという命題です。会社をきれいさっぱり売り払ったあとは一抹の寂寥感もありましたが、それ以上に爽やかさがありました。これは2007年のことでした。

その半年後くらいにはリーマンショックが訪れ、大企業もベンチャーがバタバタ倒産しました。結果的にはいいタイミングで売却したことになります。あのタイミングで売る決断を先延ばしにしていたら、買い手も逃げたでしょうし、経営的にもマズイことになったでしょう。

素朴な額ですがキャピタルゲインを得ました。会社経営時代にはコンサルティング業務や経営経験から得た知見を抽象化することにより前後6冊の専門書を執筆する機会を得ました。会社経営から得たものはキャピタルゲインよりも体験を基礎とする知識のほうが大きかったと思います。

会社を売却して、晴れて天下の素浪人となり、さあどうしたものか、と今後の展望しました。またインドに行って放浪でもしようかと思っていると、僕が会社を売却したという話が漏れ伝わり、東京農工大学技術経営研究科から教授として教鞭をとらないかというオファーをいただきました。

いきあたりばったり

振り返ってみると、我ながら珍奇なことをやってきたものだと思います。「人間万事塞翁が馬」としかいいようがありません。まあ、こういうものありなんですね。

Business、Consultingのフィールドで、Deformerとして、Entrepreneurとして培ってきた経験や、汎用的なスキル・ノウハウの使い道はいろいろあるでしょうが、現在は主としてAcademiaで若い方々に還流しています。

Academia、Business、Consulting、Deformer、Entrepreneurの頭文字をとって、ABCDE変態キャリア(笑)と呼んでいます。

はじめから運命として予定されていたなどとは考えられません。いってみれば、いきあたりばったりの中の「縁起」です。

法則としての「縁起」によって生じる行為(現行)にはたらきかけるのは人間の意識や志(阿頼耶識)の深いところにある種子(ビージャ;無意識の複合体)です。種子が行為を生むとこもあれば、逆に行為が燻習(くんじゅう)して種子に影響を与えます。

いずれにせよ、種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子というように、この循環は無限に続くわけです。そんなどこかの一点の刹那に今の自分がたまたまいるということなのでしょう。また、一点の刹那で、いろいろなモノゴトがシンクロナイズして共起する(つまりシンクロニシティ)ということも、ままあります。

そして自分は、まわりのいろいろは事柄とおたがいによりかかって存在している。「おたがいさま」という日本語は言い得て妙です。この言葉は、まさに、相互依存の関係の中に人は生かされていて、人と人の間の絆や信頼といったものを尊ぶべきものだ、ということを言いあらわしています。

ずいぶん前に自転車冒険旅行で訪れたインド・ネパールの地にはじまり、その後いろいろな旅で出会った方々の数は計り知れず、また頂いた御縁もはかり知れないものです。そんな中で、いろいろな選択枝(現行)が現れて、いろいろ考え選択し、また人さまからも選択されたり、されなかったり、そのような連綿の流れの、ひとつのちっぽけな結果が、「今」の自分ということなのでしょう。


About

2011年11月02日 | About me

Hiro's Area of Professional Practices:

Upon graduation from Waseda University with BS in commerce, Hiro started his career with the international division of  Bridgestone Corporation. Then he moved to health services management field  with Medi Co-op, a healthcare management consultancy in Japan. He then attended graduate school of Cornell University to obtain his master’s degree in policy analysis & management. At Cornell he also attended Sloan Program in Health Services Administration. He developed his global professional career as a management consultant with Hay Management Consultants, an international management consultancy. As an entrepreneur he founded, grew substantially and sold CareBrains, Inc. to a public company in Japan. 

Running parallel with these experience, Hiro’s professional practices have encompassed strategy, human resource development, health services system design, technology management and entrepreneurship. He currently integrates his expertise into practices of management consulting, business implementation and the activities in academia. His industry experience includes pharmaceutical, medical device, hospital, telecommunication, consumer electronics, automobile, not-for-profit organization, institutions of higher education, software and open source software. He has consulted with multi-national corporations headquartered in the United States, Europe and Japan. 

He was a member of the Japanese government cabinet research team on social innovation from 2008 to 2009. He has so far published thirteen books based on his expertise and practices.

I. Strategy :

• Corporate Strategic design and implementation

• New business assessment, analysis, planning and development

• Formation of go-to-market strategy and implementation

• Due-diligence of new business

• Formulation of strategic alliance relationships 

• Financial analysis and fund raising.

II. Human Resources and Organizational Effectiveness :

• Reorganization of management structures and strategic positions 

• Design of management and governance structure

• Design and implementation of short and long-term compensation schemes

• Development and implementation of competency model

• Appraisal and assessment systems

• Motivation management and leadership

III. System Design of Health Services :

• System design of care and cure services

• Work transformation analysis and implementation

• Back-stage support system design and implementation

• Development of front-stage clinical procedure and protocol

• Assessment of service quality

• Team approach to integrated health services

• Spirituality and care service

IV. Management of Technology :

• Valuation of business and technology 

• Commercialization of technology 

• Technology marketing

• Strategic alliance and value chain development

• Licensing and acquisition of technology

V. Entrepreneurship:

• Entrepreneurship development

• Social enterprise development

• Valuation of start-ups

• Business model analysis and development

• Leadership for innovation

 

Hiro's current primary responsibilities include:

- Professor, Graduate School of Industrial Technology and Innovation, Tokyo University of Agriculture and Technology

- Visiting Professor, Graduate School of Technology Management, Nippon Institute of Technology

- Visiting Professor, Graduate School of Nursing, Sapporo City University

- Lecturer, Tokyo Institute of Technology

- Executive Board Member, International Center for Social Entrepreneurship

 

Hobby:

Bicycle touring & outdoor

 


自分流ギャップ・イヤーと世界自分価値(world value of yourself)

2011年06月25日 | About me

知人で、一般社団「日本ギャップイヤー推進機構協会」という面白いことを始めた奇特な人がいる。そのギャップ・イヤーについてWikipediaにはこうある。

<以下貼り付け>

ギャップ・イヤー(英: gap year)は、高等学校からの卒業から大学への入学、あるいは大学からの卒業から大学院への進学までの期間のこと。英語圏の大学の中には入試から入学までの期間をあえて長く設定して、その間に大学では得られない経験をすることが推奨されている。

この時期にアルバイトなどをして今後の勉学のための資金を貯める人も多い一方で、外国に渡航してワーキング・ホリデーを過ごしたり、語学留学したり、あるいはボランティア活動に参加する人も多い。

<以上貼り付け>

今も昔も日本には、ギャップ・イヤーというコンセプトはない。でも、それに近いことを勝手流にやってきた。私の場合、自転車狂、放浪狂で、学部の3年から4年になる時期の準備も含めて半年間、友人とパーティーを組んでインドとネパールを走った(資料1資料2)。

同時に素朴にも、梅竿忠夫の「文明の生態史観」などに触発されて、比較文明・文化のフィールドワークにも凝っていた。帰国してから、その自転車冒険旅行を文章にしてみると、一本は「サイクルスポーツ」という月刊誌に載り、もう一本はEnglish Journalという英語雑誌の論文コンテストで一等賞を取り、合計で12万円稼ぐことができた。当時の初任給くらいのお金だった。

こうして、学部在学中からモノカキ稼業に手を染めるようになった。異質な経験こそが、文章になり、その文章に読み手がつくとカネになるということを皮膚感覚で学んだのだ。こういうのを原体験というのだろうか。その後も、今に至るまでいろんなモノを書き続けている。

学部に通うというよりは、クラブの部室に出入りしているほうが圧倒的に多かった。古本が好きで、やたらと乱読した以外は、あまり大学の勉強はやっていない。ただし、夢は大きくIvy leagueのビジネス系大学院へ行きたかったので、ビジネスの基本となる英文会計学と英語はそれなりに準備しておいたのだ。

当時は、グレードポイント換算にカラクリがあり、そのカラクリのお陰で、自動的に成績表を英文にしたときは見栄えがよくなったのだ。日本語の成績表はボンクラ、英文成績表になると、グレードポイントアベレージ3.7(4点満点)。

英語上達法と上記のカラクリは、こちらでまとめてみた。

英語の勉強を続けて国際ビジネスのイロハを知りたかったので、ブリヂストンタイヤ(今は、タイヤがとれてブリヂストンっていうそうな)の海外部に入った。ただし年功序列だの、終身雇用は肌にあっていなかったので、まぁ、2年くらい居るつもりだったのである。

予定どおり、2年でその会社を辞めたものの、会社の寮母さんと仲が良かったこともあり、退社してからもなんと寮に居座ってタダ飯を食っていたのは、図太いといえば図太いか。

そして次の会社へ。当初私をヘッドハントした企業グループのオーナー兼会長は、「社費」で私を留学させてやる、と言っていた。しかし、私よりも先に留学していた社員が帰国するや否や、別の会社に逃げてしまい、恐れをなした会長は海外留学制度を廃止してしまったのだ。

それやこれやで、3年サラリーマンとして下積みの仕事で働いて、晴れてコーネル大学大学院へ自分のコスト負担で留学することになったのだ。事情をコーネル大学に話すと、大学では奨学金を用意するから心配するな、早くやって来い、と言う。ありがたや。

自転車日本一周やインド・ネパールの自転車冒険で、貧乏旅行やサバイバルは得意なので、この感覚でアメリカに渡ったのだ。どこの組織にも所属せず、自分だけで目的地、ゴールを設定し、走る道を探して走ってゆく。

当時はコーネルに行ってみると、日本人もけっこういた。

驚いたのは、彼らの大半は、日本の一流大学を卒業して一流企業や霞が関の役所に就職をして、派遣としてまるで、出張するかのような意識で留学に来ているのである。留学とはいえ、けっこう日本人で納豆のようにネチャッと集まって英語もあまりしゃべらない。日本人租界を作って、そのなかで要領良くやって帰国するというような感じなのだ。よくないね。

そうこうしているうちに、「おまえ面白いな」ということで、日本人なんかまったくいない、フラタニティハウスのKappa Alpha Societyに日本人初のbrotherとして迎えられ、その寮に格安の条件で棲むことになったのだ。

         ◇    ◇    ◇

大学院に入るまでに5年間のギャップイヤーを過ごしたことになる。イースト・コーストの大学院では、放浪に明け暮れた学部とは打ってかわり、本当に学問づけの日々だった。人にアゴで使われるサラリーマンの悲哀を経験した後の、別天地での学究生活の有り難さは骨身に沁みるものがあった。

タテ割ニッポンでヨコ方向へはみ出ることは、周りからは奇異な目で見られる。その反面、ヨコ方向へのはみ出し系から見れば、閉鎖系タテ割伝統系の方々は奇怪に見えてしまう。

この溝はなかなか埋まらないように見えるが、企業社会では年功序列や終身雇用が崩壊しつつあるので、現状では「意図的でないヨコ方向へのはみ出し系」が増えてはいる。

今も昔も、ニッポンの本質的な体質はそれほど変わっていない。

多様性の尊重!、異質の創造!、イノベーションで牽引!。

ほんとですか?

産学官のタテマエでは、こんな言葉の大合唱だが、潜在意識の底に横たわるホンネは違う。深層のホンネでは、日本という内向き隔離・閉鎖共同体空間の中で、目先、手先、口先のことにこだわり、もって「日本的~」を冠することを偏愛する傾向がある。いいとこどりのツマミ食いで、選択的に外部世界の文物を移植しつつ。

こんなことを連綿とやってきたので、日本という伝統主義社会は、ガラパゴス島のように、文明、文化、人間社会生態の経路が外の世界とは異なってきたのだろう。

         ◇    ◇    ◇

人の行く道の裏、花の山。

その後は、いろいろと長くなるので省略するが、外資系のコンサルティング会社を経て、裸一貫から自分の会社を起業して、成長させて、喜怒哀楽の後、上場企業に売却してキャピタルゲイン(小銭)を得た。自分で言うのもなんだが、バリバリ商(シノ)いで稼ぎもいい方だった。

こんなことをやってきたので、友人・知人にもけっこう奇人・変人が多い。プー、キモヲタ、起業家、サイエンティスト、学者、医者、AV監督、変態、作家、歌手のできそこない、サイクリスト、自然愛好者、お役人、ピンからキリまで、友人や知人との交流は広い方だろう。

反面、マジメで杓子定規な人は苦手だ。権力をカサにかけて威張る人、一緒にいる相手をカンファタブルにしようとする習慣がない人も苦手だ。

今は大学院で技術経営、マーケティング、イノベーション、医療サービスマネジメントの研究・教育を行いつつ、イノベーション人材、若手起業家の育成、支援も行っている。

振り返ってみると、勝手流のギャップ・イヤーを使って、ヨコ方向に奔放にはみ出して、ずいぶんムダなことをやってきたと我ながらに思うのだが、ムダな経験の中にこそ、得るものも多かったような気がしている。

グローバル・リテラシーなんて、たいそうな言葉があるが、世界のどこでもだれとでもわいわい、がやがややったり、駆け引きしたりして、いっぱしの仕事をして、しぶとく生きてゆく世渡りの人間力は涵養されたのではなかろうか。

世渡りの「世」というのは、日本の世間ではなく、世界の「世」に置き換えてみるといいと思う。

日本のいくつかの大学院で教えてみて実感するのは、日本国内仕様の空気を胸いっぱいに吸い込んでしまい、世界とのインターフェイスを持たない、内向きな人が多数派を占めるということ。こうして日本教の無自覚的な経路に乗ってしまう人は多く、その結果、インテリジェンス欠陥症候群(詳細は、この連載で詳述)に罹患してしまうのだ。

日本の病のひとつの根源が、このあたりにあると見立てているのだが、さて。

世界における自分価値(world value of yourself)を上げて世界のどこでも、だれとでもビジネスをやれる柔軟さとクリエイティビティこそが、job securityである。

ギャップ・イヤーというのは、空気という同調圧力に過剰に整合し、インテリジェンス欠陥症候群に陥りやすいマジメで内向きな日本人だからこそ必要なシステムだと思う。おりしも、この日本の空気はFUKUSHIMAからダダモレしている放射線物質で汚れてしまっている。

こんな空気、若者が吸いつづけたらヤバイぜよ!

ギャップ・イヤーを自分で創って、世界と自分の境界を越境して、外の新鮮な空気を吸い、世界と自分の関係性をヨコ方向に再デザインするには格好の機会なのではないか。

イノベーション人材には、通念、定説、常識にとらわれない、意図的なヨコ方向へのハミダシが必要なのだ。


起業家教育をめぐるあれこれ

2010年05月25日 | About me

京都大学の麻生川さんが日本の起業活動が低迷していることについてピリッとしたことを書いています。『ベンチャー起業家よ、失敗を誇れ?!』 (『日本の起業家育成の本質的欠陥』 

上記の記事で麻生川さんが指摘されているように、日本人の起業行動が沈滞している現状には歯がゆさを感じながらも、現在は、大学院で技術をレバレッジとする起業家や社会起業家輩出のためのコース(社内新規事業創造も対象です)を担当しています。ちなみに僕には自ら創業した会社を成長させ、その会社を上場企業に売却してイグジットしたささやかな経験があります。

麻生川准教授が聞いた、アメリカコンコーディアベンチャーズ創立者兼パートナーで数年前からカリフォルニア大学バークレー校のビジネススクールでベンチャー教育の教鞭をとるナイーム・ザファー氏(Naeem Zafer)の言辞を引用します。


<以下貼り付け>

(1)『事業がおかしくなったら、なるべく早く撤退するか、倒産させてしまうのがよろしい。芽の出ないビジネスにいつまでもしがみついていないで、新たなビジネスを興す方が、よっぽどいい。』

(2)『事業ステージで社長を変える方がよい。即ち、立ち上げの時に相応しい社長が必ずしも、事業の次の段階でも適任とは限らない。そのような時は、社長を変えることで、会社のカルチャーを変え、新たな観点で展開を考えるのがよい。』

<以上貼り付け>


この2点は本質的に重要な点です。SVで働いている起業家の間では「世間智」のようなものですが、日本ではほとんで共有されていません。起業評論家は、このような言辞を紹介はしますが、なかなか行動様式としてキモに落ちていないところです。

「世間智」とは、日本人が好んで口にする文系・理系といった二項対立の図式を超えたところにあるプロとしてのプロトコルのようなものです。やや拡張していえば、麻生川さんがいうところの、グローバル・ビジネス・リテラシーの実務よりの発露とでも言えるでしょう。

             ***

さて、日本では銀行から借入金がある状態で倒産させるのは個人保証という日本的に特殊なリスクを負わされる(chapter11は日本ではありません)ので、現実的ではありません。

上記(1)については、事業の対局を読み切って売却相手を探し、なるべく有利な条件で売却してイグジットしてキャピタルゲインを確保するのが王道です。しかし、これができない社長が多いです。自分の全存在を事業=ビジネスに埋め込んでしまい、会社を属人化させているような中小・ベンチャー社長は、どうしても割り切りができずに、期を逸してしまい会社とともに沈没、というケースが非常に多いのです。

この目的合理的な割り切り思考(プラグマティズム)がなければ、イグジットはできません。事業ユニット(会社)は市場で交換される非人格的な物象であることを肝に銘じて起業・経営しなければいけません。資本主義の精神を体現するのが起業家であり、起業家たるもの、ウェットな心情に流されて、会社に全存在を埋め込んでしまうような小さな器ではダメです。

やや逆説的になりますが、ゲゼルシャフトとしての会社を市場の中で交換の対象=物象として扱うためには、別次元で贈与関係の場=ゲマインシャフト(金銭、利害関係ぬきにつきあえる絆中心の人間関係、信頼関係)を保持しておくことを強くお勧めします。家庭、地縁の仲間、昔からの友達などです。このバランスが大切です。

上気の(2)については、創業後、成長ステージに入ったら、ナンバー2を採用・育成しておいて、将来そいつを社長にするため力量門地を見極めながら、権限移譲をしておくことが大事です。

M&Aステージで社長を交代するというのは、短距離リレーのバトンタッチ・ゾーンで最高速度を維持しながらバトン交換するようなものです。このゾーンはグラウンドのように整備されているわけではなく、むしろ魑魅魍魎が跋扈する獣道。したがってリスクに満ちています。

M&Aフェーズになれば、買う側、売る側、株主、新社長など、当然、露骨な私利私欲が蠢きます。とくに社会的な規範が薄弱化しつつある今日、私利私欲に流されれば、ゲゼルシャフトの住人は汚いことも平気でやります。既存株主に情報をリークしたり、対象会社と内通したり。汚いことにいちいち逆上していたら起業家は失格です。むしろ、そのような人間の行動を所与のものとして対局から清獨併せ飲み、平然と受け止める人間観が問われます。

対象会社幹部や次期社長を時にうまく泳がせたり、「用間」(孫子)として動かし状況を創ってゆくインテリジェンス(諜報謀略)能力が問われます。

        ***

僕の場合は、起業するときに3つある会社の出口(IPO、M&A=会社売却、倒産清算)のうち、キャピタルゲインを得ることができるIPOとM&Aに出口を絞り込みました。経営コンサルタント出身者は、けっきょく個人の能力に依存したかたちで、ダラダラ会社を経営してしまいイグジットできないことがほとんどです。年をとったり、病気になったらThe Endです。入り口=創業時点で出口の戦略を構想しておくことが大事です。これは起業家が身につけるべき行動様式=資本主義のエートスのひとつです。

ちなみに、日本人一般に欠けているもののひとつは、入り口で出口を構想するシナリオプランニング能力であると思われます。とくに、組織を扱うエントランスとイグジットの結び方がダメなことが多いのです。ゲゼルシャフトであるべき組織を、ゲマインデ(共同体)化させてしまう悪い癖は、大東亜戦争の時の陸軍・海軍においても顕著でしたが、戦後もずっと企業組織、公共団体のなかに陰微に継承されています。

現在、ビジネス起業のみならず、社会起業への支援、Base of Pyramid起業支援もやっていますが、思いのほか、自らの起業経験一式が役立つ局面が多いので、よかったと思っています。人生なにが役に立つのかわからないものです笑)

自らの起業経験などというものは、経営現象の森羅万象のなかの芥子粒のような特異・特殊な経験です。しかしながら、そのような経験でも、経営理論やモデルで濾し出してみると、けっこう使えるのには多少ながらも驚いています。サッカー選手の経験のある人間がサッカー・チームの監督になる。臨床医の経験がある医者が、臨床指導者になる。プロ教育というのは、その道の専門的なエクスペリエンスが大事なのでしょう。

会社を経営するようになって、自分でも面白いなぁ、と思ったことがあります。それは、それまで、むさぼるように読んできたビジネス本や実務書に手が伸びなくなり、歴史宗教を含む古典を多読するようになったことです。

この文脈で、東西古今の古典に通じる麻生川氏と知己を得たのは妙なる縁起。僕が経営していた会社のアドバイザーにもなっていただきましたが、今も氏と東西古今の古典を材料にしてグローバル・ビジネス・リテラシーを、ベンチャーの今を語るのは、愉しいひと時です。