よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

曼荼羅か粘菌のようなノート

2008年11月29日 | よもやま話、雑談

(この図案の知的財産権はやまとたくや氏に帰属します)

この絵は、今一世さんの講演に参加したM2のやまとたくやクンのノート。ご本人のOK、許諾のもとアップさせていただく。

はじめてコレを見たとき、なんと美しい絵か!と思った。聞けば先日の講演の記録だという。彼は高いお金を払ってマインドマップのセミナーに参加したそうだ。

それまでは、本のテーマアップや、ビジネスのネタ探しなど拡散的アイディア出しによく使っていたが、講義や講演の記録としてマインドマップを見たのはこれが初めて。

なるほど、こういう使い方もあるのかと気がついた次第。そしてこの曼荼羅のようなノートを絵を見るような気持ちで眺めること3分、マル秘のいい着想を得たのだ。たぶんリニアーな論理ではなく、全体のテーマを絵を眺めるように俯瞰することによって、ちょっとした右脳の回路がピンときたんじゃないか。

マインドマップ捨てがたし。


生涯修行、臨終定年

2008年11月26日 | 日本教・スピリチュアリティ

松原泰道老子。
65歳から書き始め101歳になる今年まで140冊の本を書いてきた傑人だ。140冊である。半端な数ではない。

師のデビューは35年前の「般若心経入門」で65才の時。著作の数も半端ではないが、ものかきを始めたのが65歳というのも凄い。65歳で引退ではなく、文筆活動デビューなのだ。65才を過ぎてから1年に3.8冊のペースで書き続けてきていることになる。強烈な著作活動だ。

しかも文明の利器=パソコンやワープロではなく、原稿用紙に向かって一文字一文字を原稿用紙のます目に書きいれるスタイルだという。なかなかできるものではない。

もともと創作経典(仏陀の言葉とは無縁で後世になって書かれた経典)の部類のほうはさほど関心がなかったのだが、松原老子の「観音経入門」だけはアメリカに留学する前に読んでおいた。Lotus Flower Sutraはコテコテの観音様=観世音菩薩の奇跡、奇瑞をこれでもかこれでもかとひたすら賛美する文芸作品的expressoinだが、老子の解説の妙は、はたと気づかせる機知に満ち満ちている。

それ以来、師の本には不勉強のいたりで接してきてはいないが、101歳になる今年、141冊目の著作を出版するという。

その名も、

「人生を豊かに生きる12章」(祥伝社)

老子は、とにかく生きているうちはすべて勉強。
なにかを学ぼうという気持ちを持っていることが
人を若返らせるという。

また「言葉の杖」をもつ大切さを説く。
窮地に陥ったとき、身体窮まるような困難に出くわしたときの体
を支えてくれる言葉。

師の言葉の杖は、生涯修行、臨終定年だという。


社会起業、ソーシャル・アントレプレナーシップ寺子屋 

2008年11月22日 | ビジネス&社会起業


今一生さんを授業に招いてトークショウ。前期の学生の強い要望もあり公開授業にしました。農工大以外からも、東京工科大学ビジネススクール、日本大学ビジネススクール、多摩大学、武蔵工業大学などからも多数ご参加いただきました。

<以下、今一生さん講演録からの貼り付け>

昨今、「社会起業家」という言葉が一部で話題になりつつあります。
今日は、日本における社会起業家の動向を中心に、いったい「社会起業家」と何者で、どんな活動をしているのかについて、ざっくりとした話をしていきます。

まず、社会起業家とは何か。現在では学説的には諸説ありますが、僕はこのように定義するのがすっきり理解できると思います。

社会起業家とは、ビジネスの手法を手段として利用することによって社会的課題の解決という目的に取り組む働きをしている個人や団体。

団体の組織形態はNPO、企業、有限中間法人、社会福祉法人、財団などさまざまですが、ビジネスが手段であり、目的ではないというところがポイントなので、「社会問題の解決と儲けを天秤にかけたら解決のほうを迷わず選ぶ」という構えが従来型の企業活動とはまるで違うのです。

実際、今日では政治や行政が解決できていない社会問題は山ほどあります。
環境問題、在国外国人の待遇問題、ニートなどの若年失業者問題、高齢者介護の問題、障害者福祉、「ワークライフ・バランス」と呼ばれる仕事と家庭生活の両立問題、キャリア教育支援、農業再生、途上国支援、地域経済の再生など、切実に問題を抱えている人々がいろんな方面にいるわけです。

しかし、それぞれは国全体から見れば少数派になってしまい、行政は「最大多数の最大幸福」を目指して運営されているため、そういう少数派の方々の問題の解決は常に後手に回ってしまい、結果的に解決が放置されてしまうわけです。

こうした社会的弱者たちは、国の制度が変わるのを待っていられないほど苦しみを抱えていますから、結局は国に頼らず、民間の自助努力として解決の方法を探る必要があるため、市民運動家たちが非営利団体などを立ち上げて、問題解決のコストをまかなうために寄付を募ってきたわけです。

<以上、今一生さんの講演録からの貼り付け>

・・・というイントロから始まり、社会起業事例多数。裏話も。ビジネススクールでビジネススキルを鍛えて、既存の営利ビジネスだけに活かすだけでは、いささかもったいない。

とかねがね思っている。IT企業F社に在籍しているKさんは、前回の視力障がい者とタイアップした企業向け出張マッサージサービスのアイディアを社内SNSで語りかけたところ、ある若手社員がビビッと反応して、秋田の盲学校と連携してプロジェクトをたちあげた。

イノベーションの他地域、他ドメインへの伝播(スケールアウト)は社会イノベーションの場合、けっこう早いが、まさにその通り。



講演が終わってからは、飲み会(忘年会にしてはちょっと早いが・・)です。毎回のように盛り上がりました。写真がヘンなのしか撮れなかったので、涙)、写真撮った人、ぜひ僕に送ってください。おってブログに掲載させていただきます。



今さんとともに。農工大MOTM2渡瀬さん提供写真。ありがとうございます。




専門職大学院で学ぶ成果のひとつは人脈づくりにある。



東京工科大学ビジネススクールの秋元さんからフォトを送っていただきました。ありがとうございます。許諾のうえ、このブログにアップさせていただきます。

「コンピテンシー」で篤姫を見ると・・・

2008年11月20日 | ニューパラダイム人間学
朝ドラ『純情きらり』の宮崎あおいのイメージで「篤姫」を見る10代、20代、そして主婦たちから意外な支持を得ているようだ。ちなみに、和宮役の堀北真希は、けっこういける。彼女はちょっと出っ張った頬骨(いつもは意識して前髪で隠しているようだが)と清楚な口元がいい。

さて、篤姫の人生を追いながら彼女のコンピテンシー(能力・行動特性)を分析してみよう。

篤姫は、天保6(1835)年に薩摩藩主島津家の一門今和泉家に生まれた。今和泉家は、家臣団の最上位に位置づけられる高い格式を持つ家である。嘉永六(1853)年、篤姫に転機が訪れる。篤姫は藩主島津斉彬の養女に迎え入れられたのである。時代の波に翻弄される彼女の数奇な人生の始まりである。

さて江戸では、第13代将軍・家定は、京都から迎えた二人の御台所に先立たれ、病弱で、また男性機能を喪失していたので子どもの生まれる見込みがなかった。この間、国内は開国か攘夷かをめぐって紛糾を重ねる。また病弱な家定の後継者をめぐり、紀州家慶福(後の家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が激しく政治的に対立する。篤姫の養父斉彬は一橋派。こうして、篤姫婚姻は、慶喜擁立へ向けた政略結婚の様相も帯びて遅れた。しかし安政五年、南紀派の重鎮井伊直弼が大老に就任し、晴れて篤姫は、21歳で病身の徳川13代将軍家定(いえさだ)に嫁ぐのである。ペリー来航に揺れる幕末の動乱期の出来事であった。

今日の価値観からすれば、男性機能を失った男性に喜んで婚姻関係に至ろうとする健康な女性はいないだろう。しかし、当時の武家の価値観は、家の名誉のためが第一である。篤姫は運命を受け入れ誠心誠意、看病に身を尽くすのである。しかし看病の甲斐もなく、安政5(1858)年、婚礼からわずか1年半で家定は亡くなってしまう。その後、さらに養父斉彬も相次いで死去、不幸は続いた。

こうして篤姫は二十四歳の若さで仏門に入り、天璋院と名を改め、若き14代将軍家茂(いえもち)の養母となるのである。数奇な運命をあがなうことなく受け入れ、自分の立ち居地を守るという姿勢を貫きとおす。このころの篤姫のミッションは「公武一和」である。朝廷をいただく公の寡頭勢力も、徳川家を頂点とする武家勢力も、それぞれ仲良くやってゆこう。それこそが安心安楽の世の中を保障する時代精神であるという先見性に裏打ちされた卓見である。

さて公武一和の実現に尽力した天璋院と改まった篤姫は、大奥の柱石としてその存在感をいかんなく発揮する。家茂は挙国一致して時局にあたるため上洛した。その間、天璋院は家茂夫人の和宮とともに、将軍不在の江戸城の留守をあずかった。そして、その妻和宮(かずのみや)とともに江戸城大奥をとりまとめる。

フォーマル、インフォーマルな人間関係が錯綜し、権力関係が葛藤する大奥をマネジメントする政治感覚力は卓越している。またあらぬ敵意を見せる相手に、自分を受け入れさせ自分の味方にしてしまう人間関係構築力にもただならぬ才覚を見るのである。

○篤姫の政治力学感知力、人間関係構築力、分析的思考
しかし、また不幸が訪れる。14代家茂が大坂で陣没し、徳川家の良き理解者であった孝明(こうめい)天皇が崩御すると、天璋院の実家である島津家と婚家である徳川家の間で生じた葛藤は深刻を極めもはや修復がつかなくなってしまった。そして、時代は一気に倒幕へと動き出す。

慶応4(1868)年の戊辰(ぼしん)戦争時には、篤姫は江戸城に迫る西郷隆盛らの新政府軍に巧妙に働きかけ、江戸城無血開城に大きな役割を果たしたのである。いずれドラマでも、このあたりはドラマチックに演出されるだろうが、篤姫一流の組織感覚力と対人影響力がいかんなく発揮される。だれもが無理だと思う状況において最後まであきらめずに、自分が設定した期待成果を実現させてしまう。達成志向性というコンピテンシーにも人並みはずれた優秀な資質が発揮されるのである。

宮尾登美子の「天璋院篤姫」では、積極的には描かれていないが、篤姫は時代の変化や権力関係に対する分析的思考にも優れた才覚を持っていたと思われる。少ない情報環境のなかで、どこを押さえれば、こう動くという権力関係の構図が彼女の意識の中には絶えず存在した。

ほぼ無血の状態で時代を画する権力構造の大転換がなされたのは、世界史的に見ても前例がない。それほどまでに明治維新歴史革命は特殊であり、その意味で近代日本史の特異な位置を際立たせる。このような時代の一代転換のなか、篤姫のミッションは、徳川幕藩体制の崩壊を境目に徳川家の存続へと変質を遂げて行く。

ここでも、篤姫一流の組織感覚力、人間関係構築能力、達成志向性が発揮される。なんと、将軍職を辞して奉還して駿府にみずから蟄居した代15代慶喜(よしのぶ)に代わって、篤子は自ら徳川存続を賭けて新政府軍への強硬な嘆願を行い、16代家達(いえさと)の家名継承を取り付けることを成功させてしまうのだ。

○時代を受け入れ自らの役割を達観する

維新後の篤姫は、将軍御台所であった誇り胸に秘めつつ、時代の表舞台からは離れ、16代家達の他旧幕臣の精神的後見役として徳川家の行く末をじっと見守る。幼い家達の養育を第一としてその成長を支え、明治の時代となり、歴史の脇に置かれるようになった徳川家の威信を守り承継することに徹するのである。
 
その後、篤姫は、14代将軍家茂の御台所となった和宮とともに大奥を束ね、明治維新の動乱期に徳川家存続に向けて働き、維新後は16代当主となった田安亀之助(後の家達)の養育に力を注いだ。そして、家達が立派に成長したのを見届ける。そして明治16年、篤子は、48歳の短くも波乱に満ちた数奇な人生を終えるのである。

この功績に拠り平成の今日も徳川家は断絶することなく家系を保っている。ちなみに徳川宗家第18代当主の徳川 恒孝は日本郵船の副社長を務めた後「徳川記念財団」の理事長となっている。今上天皇皇后両陛下が江戸東京博物館(東京)の「徳川将軍家展」を鑑賞した際には、徳川恒孝氏が説明役を務めている。代が代なら…と歎ずるのは筆者に限らないだろう。

大奥という特殊な世界で、養父島津斉彬の政治的な人形としてではなく、自分のものの見方を信じて、世の中を渡っていこうと凛と決意する志。病弱な夫・家定との夫婦としての交わりのない生活のなかでも愚痴ひとつ言うことなく夫をいたわるいたいけな姿。生活習慣が根本的に異なる和宮と嫁姑の確執を超えて、折り合いをつけて寄り添おうとする一途な努力。

江戸城明け渡しのあと、そそくさと薩摩に帰ることを慄然と拒否し、徳川家の人間として、孫・徳川家達を育て上げ「家」に尽くすそうとする静かな決意。

その姿が、歴史の大波に翻弄され、過酷な運命となろうとも、時代を逆恨みすることも、自らの逆境をなげくこともなく、静謐にありのままに運命を受け入れる姿に感動するのだろうか?

今一生氏、講演会:「社会起業運動の動向と社会起業家から学ぶもの」

2008年11月04日 | ビジネス&社会起業
11/21(金)19:00からアントレプレナーシップの授業の一環として外部の有識者を招いて、寺子屋風の講演会、自由討論会を開きます。

東京農工大大学院の学生はもとより、他大学、社会人をまじえたオープンな集まりとします。今回の企画は以下のおとりです。

ふるってご参加を。毎回どおり、飲み会も盛り上がります。笑)

●スピーカー:今一生さん
●演題:社会起業運動の動向と社会起業家から学ぶもの
●内容:上記テーマによる講義と、参加者を交えての自由討論
●日時:11/21(金)19:00~
●場所:キャンパスイノベーションセンター4階(田町駅南口徒歩1分)
●参加予約:下記の2点について11月14日頃までに事務局あてメールください。
kikaku@mot3.sakura.ne.jp
(1)講演会:参加 or 不参加
(2)終了後の飲み会:参加 or 不参加

●備考:予約者が多い場合、立ち見になります。その際はご容赦を!

今一生さんのブログから以下貼り付けさせていただきます。今さんの問題意識の一端が論じられています。

<以下貼り付け>

約1年続けてきたこのブログも、今回で最終回となります。

 そこで、東大自主ゼミで僕が社会起業をテーマに取り上げる前に、なぜさまざまな「社会的弱者」(ニートやユニークフェイス、精神科通院者など)の当事者たちをゲスト講師に招いたのかについて、説明しておきます。

 その理由は、社会の仕組みが悪いために「社会的弱者」にさせられている立場の人に共感できる能力がないと、社会起業は成り立たないからです。

 たとえば、何不自由なく育てられ、受験勉強のための塾や通信添削などの費用も無理なく調達できる富裕層の親に育てられた人ほど高学歴になっている現実は、端的に貧乏な家に生まれた不幸な子は低学歴の人生を余儀なくされるということを同時に意味します。

 幼稚園や小学校の頃から私立に通い、中高一貫教育を受けている高校生が、自分と同じ年齢でも貧乏な家の子が高学歴の人生を手にできず、気がつけば、「社会的弱者」の大人になってしまうという現実に対して、ただ「かわいそうな運命ね」と片付けてしまうのを見る時、僕はやりきれない気持ちがします。

 恵まれた環境に育った以上、それによって育まれた知恵や人脈、資産を低学歴の子たちともシェア(共有)していくことはできないのでしょうか?

 僕の自主ゼミでは、常にそうした問いかけを行いました。
 すると、東大をめざしていた女子高生が社会起業家を多く輩出している慶應大学湘南・藤沢キャンパス(SFC)に志望校を変え、見事合格しました。

 成績優先で進路を決めるのではなく、本当に学びたいものを学べる大学へ進学したいから受験勉強にも身が入ると思うのです。
 
 大学は長い人生の中ではただの通過点にすぎませんし、卒業後の進路はみんな「社会人」になるわけですから、会社から雇用されるか、自分でビジネスを始めるかのどちらかを選んでいるわけです。

 会社という組織では、どの社員も「取り換えのきく存在」です。
 誰かが今日抜けても、明日から業務が止まるわけではありません。

 しかし、世の中には、誰かが手を差し伸べないと問題に苦しみ続ける人がたくさんいます。

 だからこそ、「俺がやらねば誰がやる?」と意気に感じて社会起業家になり、毎日生き生きと働いている人がいるわけです。

 その一方で、心を病んで自殺してしまう人もいます。

この両者は、どこでどう差がついてしまったのでしょうか。

それは、連帯できる仲間を見つけられたかどうか、です。

 自殺を選んでしまう者の多くは、下流資産層から中流層に成り上がった低学歴の親に育てられたため、「食えれば仕事は何でもいいんだから。夢なんか追わずにとにかく働け」「夢なんか持ってもお前なんかにできるわけがない」などと言われ続けてきました。

 簡単に言えば、自分の生きがいを親にも教師にも応援されてこなかったのです。

 しかし、それだけに「この社会には生きやすくなるための風穴が必要だ」という直感だけは冴えていました。

 まさに、それは社会起業家であるジェッド・エマソン(※渡邊奈々・著『チェンジメーカー』参照)のいう「パンクロック」の精神そのものです。

 NHKのワーキングプア層を取材したドキュメントの番組でも、若年ホームレスが行政の仕事で草むしりをしたら市民から感謝されて自尊心を取り戻し、復職への意欲につながったという実例が紹介されていました。

 このように、下流資産層は自分が必要とされる体験に飢えていますし、それは同時に社会起業家の存在意義にもピンと来ることを意味しているのです。

 言い換えれば、自殺にまで追い込まれているようなニートやフリーター、ネットカフェ難民の若者ほど、社会起業家として成功するポテンシャル(潜在的な勝算)が高いのです。

 事実、自身のホームレス経験から起業した「エム・クルー」の社長・前橋靖さんは、建設軽工事請負業を通して「社会的弱者にやさしい社会を作りたい」と考え、街をさまようホームレスの若者に声をかけては、自身が作った短期宿泊施設に泊まらせました。06年度の売り上げは約9億円に上るといいます。

 「2015年には正社員が労働者全体の半分になる」と試算される今日、2人に1人は雇用されないのですから、自営業者になるか、自分で会社を立ち上げる以外に、まともな暮らしは望めなくなります。

 その時、ホームレス生活のようなどん底を経験したことは武器になります。

 社会的弱者だった経験は、自分と同じような社会的弱者が何を切実に求めているかがわかるので当事者意識を分かち合えますし、支援対象である顧客と連帯できるからです。

 山口県で生まれた地域活性化のための社会起業家「地域維新グループ」でも、「自称ニート」の青年たちが荒れ果てた茶園にレゲエを聞かせながら再生に挑んでいるといいます。
みんなが放置してしまった場所は、彼らの愛しい楽園なのかもしれません。

 社会起業は、ともすれば死んでしまいかねない社会的弱者にも居場所を与えるのです。

 自分自身の働きが社会問題を解決することに貢献できることは喜びであり、ふつうに会社に就職してもそうした喜びや働く意味が得られない若者にとっては、目の前の社会問題を解決できる仕事こそが働く意欲をそそるものになるでしょう。

 働く意欲を得れば、人は「今」という時間を楽しく生きられます。

 自分の仕事だと胸を張れるものが見つかれば、それがすぐには人並みの暮らしを約束しないものであったにせよ、人は笑って死ねるのだと思うのです。

 読者のあなたにこう問いかけて、このブログを終わります。

「今日で人生最期でも、あなたは今の仕事をやりますか?」

<以上貼り付け>