よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

起業後進国ニッポン

2009年06月28日 | ビジネス&社会起業


EconomistsのCountry Briefingは日本について辛口の記事をよく書く。No exitの日本という記事は起業貧困国日本をチクリと分析。

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For decades this cosy form of capitalism ensured that competition was never too fierce and everyone prospered at least a bit. It certainly smoothed out the occasional ups and downs during the country’s stunning post-war economic development, as it rapidly caught up with the West. So it is not surprising that many politicians and business leaders are advocating an even stronger dose of such medicine now. As Japan struggles with its deepest recession since the war, the government has established a mechanism to give financial help to poorly performing firms, companies are being encouraged to provide support to their weaker suppliers, and banks are being asked to do their bit, too.

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先日、某大手ITメーカーの方々と歓談する機会があった。昨今の不況の折、あまり仕事がないそうだ。

「webの世界では、個人の力がはじめにありき。大きな企業ではオープンソースでビジネスやたってソロバンに合いませんよ。いっそのこと、会社やめて起業したらどうですかね?」

「いやー。この年になると・・・。生活の制約もあるし、なかなか思い切ってリスクはとれませんよ」

「じゃ、オープンソースで副業をガンガンやったらどうですか?」

「あまり社内で前例もないようだし。上にばれたらマズですよ。ウチの会社はだいたい10年もいれば色にそまって結局会社人間になるんですよ」

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大不況の今年でも、日本企業の廃業率は英米の半分で、倒産は15%増の見込み。倒産は、前年比で欧州では30%、アメリカでは40%増えると見込まれている。

Tellingly, the shut-down rate of companies in Japan is around half that in America and Britain. And the number of corporate insolvencies is expected to increase in Japan this year by only 15%, despite the depth of its recession, compared with more than 30% in western Europe and 40% in America. Normally a scarcity of corporate bankruptcies is a sign of economic vitality; in Japan, it is a sign of its economic weakness. Of course, keeping struggling firms alive protects jobs. But it also fossilises industry structures and hinders the development of a more flexible labour market and a business environment more supportive of new-company creation―two areas where Japan is also sadly deficient.

かたや日本では、死に体ながら、生きながらえている巨大企業で、不満と不安を抱えながら囲い込まれている人々がサラリーマン経路に依存していて起業には関心が向かない。とことんリスクテーカーではなくビロンガーである。

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ゾンビ企業で高いコストを経営が負担しながら人的資源が腐っていくのを放置するのは実は、社益にも国益に反している。長期安定雇用で社員を囲いこむのはやめて、解雇規制を大胆に撤廃して、流動化を促すべきだ。そして優秀な技術、スキル、ヒューマン・キャピタルを持った人材を起業へ向かわせる必要がある。


幇派と幇会

2009年06月25日 | ニューパラダイム人間学
このブログをお読み頂いた中国出身で現在日本でITビジネスを行っている方から、「知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)」について興味深いご教示をいただいた。

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1)人間関係を支配する法則としては中国では一般的といってよい。階層、階級を問わず浸透している。

2)幇会(パンフェ)については、ビジネスでの関係よりは政治的関係を含意する傾向が顕著。

3)中国語では「知人」に相当する名詞は「認識人」という。→Simplified Chineseでは「认识人」と表記。ちなみに発音は→"rèn shí rén"(レン シー レン)となる。

4)ビジネスでは知人(認識人)と関係が重要。
実力があっても知人と関係との繋がりがないと相手にされなかったり、話も聞いてくれない可能性がある。その人によると「知人と関係で提案のチャンスを頂き、その後は実力で勝負するのが理想的」だそうだ。

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興味深かったのでさらに調べてみた。

「幇」には、公式的・公開的な「幇派」と非公式的、秘密主義的な「幇会」とがある。さらに幇派には、血縁(同姓の親戚グループ)、地縁(省、県、郷、村)、業縁(業種、業界、専門職)がある。幇会には、政治的な利害を共有するもの(洸門、三合会、致公堂など)と非公然的なマフィア(天地会、海陸山など)がある。

幇派、幇会のいずれにせよ、「幇」の性質として一旦契りを結んで仲間になれば、強固に排他的な仲間関係(自己収束的な集団)を形成していく。

幇は中国に独特な行動様式を形成してきた。幇という集団が消長する歴史が千数百年間も繰り返されてきている。中国社会のシステムを維持する方向で作用してきた。

湯武討伐、易姓革命、儒学官僚支配、共産党一党独裁のように中国社会の体制を外形的に説明する原理は変遷してきたが、幇は中国社会に内在していて一貫して機能してきたようだ。つまり、幇はシナ社会を形成する内在的な社会システムとして見たてられる。

シンガポールのシナ社会を中心とした分析としてシンガポール日本文化協会会長の顔尚強氏のレポートがさらに興味深い。

中国ビジネスをマネジメントするさいには、「幇」の理解が必要だ。中国共産党が主導している開放・改革政策、社会主義市場経済は、資本主義のシナ的なるものへの擬制化だ。「幇」的なるものは姿を変えながら存続してゆくのだろう。

世界の人身取引と闘うポラリスプロジェクト

2009年06月23日 | ビジネス&社会起業
NPO法人国際社会起業サポートセンターが後援するシンポジウムが開かれます。
社会起業、人権、人身取引に関心のある方、ぜひご参加を。

<以下貼り付け>

東京工業大学 国際的社会起業家養成プログラム 公開セミナー
「世界の人身取引と闘うポラリスプロジェクト」

「チェンジメーカーII」(渡邊奈々著)で紹介されている米国ポラリスプロジェクト。

世界で1000万人以上の女性や子どもが犠牲になっていると言われている人身売買。

その対策においては、米国のみならず世界をリードする活躍をしてきました。
今回は、その事務局長で、米国国務省の(前)人身取引対策担当大使のマーク・ラゴン氏が講演します。

日時:平成21年7月16日(木)午後6時~8時
場所:大岡山駅前 蔵前会館 1階 ロイアルブルーホール
http://www.somuka.titech.ac.jp/ttf/pdf/map.pdf
(地下鉄南北線、三田線、東急大井町線、大岡山駅徒歩1分、エクセルシオールカフェ隣り)
講演者:Dr.Mark Lagon, ポラリスプロジェクト米国本部事務局長
主催:東京工業大学大学院国際的社会起業家養成プログラム
共催:ポラリスプロジェクト・ジャパン
後援:セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン、NPO法人国際社会起業サポートセンター
入場無料 定員100名

講演者略歴
1986年ハーバート大学卒業、ジョージタウン大学で博士号取得。
外交評議会、上院外交委員会勤務後、国務省に入る。
国務省国連局次官補代理後、2007年より人身取引対策室長兼担当大使を務める。

参加希望者は、下記までメールでご登録ください。

inoue.k.aj@m.titech.ac.jp

定員に達して参加不可能な方にのみ、事務局からご返事します。
参加可能な方には、ご返事いたしませんので、ご了承ください。

<以上貼り付け>

なお、講演終了後、講師をまじえて懇親会を大岡山駅そばのインド料理店で行います。会費は、2500円程度です。

是非ご参加ください。

クリエーティブクラスの副業社会起業

2009年06月21日 | ニューパラダイム人間学


1980年代に開発され、その後も彫琢されているSRIのValues and Life Style分析はとても示唆に富む。VALSなどを下敷きにして"The Rise of the Creative Class"のなかで、リチャード・フロリダは、「われわれには価値観、ワークスタイル、ライフスタイルを自分たちで変えるだけの正当な経済的余裕も理由もある。どうしてこれまでそうしてこなかったか不思議なくらいだ」、と。

副業をCreative Classという切り口から眺めてみると、週刊SPA!のような特集とはまったく異なった性格が浮き彫りになる。

アーティスト、建築家、科学者、医師、歯科医、シンクタンク研究者、デザイナー、経営コンサルタント、大学教授など。ハイテクや金融など、専門的分野で知識集約型の職業についている人や起業家などもクリエーティブな人々だろう。

Creative Classにとって副業はプロフェッショナルなスキル、ヒューマン・キャピタルを活かす自己実現へのパスである。

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まわりにも面白いクリエーティブクラスと目される人々がいる。そのなかの一人が永長周一郎(DDS, PhD, MS)さん。彼は、現役の歯科医としてリハビリ病院に勤務している。社会起業志向のヤドカリ型副業起業の実践者である。

永長さんは、「医師不足のなか、歯科医の過剰時代であり、歯科医や歯科医院、病院歯科という、ソーシャル・キャピタル、社会資源を、在宅高齢者の食支援サービスとして使えないか」という問題意識を持ち続けている。

そして口腔ケア研修支援センターWAC顎口腔の疾患と機能を考える会、そして食コミュニケーション研究所 口腔ケア・地域福祉ネットワークを代表として次々と立ち上げ、活発な活動を行っている。

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クリエーティブクラスで社会起業志向のヤドカリ型副業起業の実践者の特徴とは?

・専門を持っている。
・本業で活躍している。
・専門をベースにして関心分野を前後左右の隣接領域に拡張する。
・専門性を拡張して社会的にインボルブする、されることを目指す。
・オープン・マインドでオープン・アクション。
・自由闊達で仕事を通してフロー体験が豊か。
・シンクロニシティーの発動に敏感。
・VALSモデルのIntegration志向が強い。

クリエーティブクラスで社会起業志向のヤドカリ型副業起業は、ソーシャル・イノベーションの新しい人的資源として注目に値する。

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「私はこういう分野が専門ですが、こんな社会的活動を副業としてやっています」なんていうプロフェッショナルがかっこいい時代が到来している。

フロー体験から眺望する人的資源

2009年06月18日 | 日本教・スピリチュアリティ


昨日は、Beyond Boredom and Anxiety : Experiencing Flow in Work and Play
By Mihaly Csikszentmihalyiなどを題材にしてプレゼンテーション+わいがやディスカッション。面白かった点、コメントなどのノート:

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Mihaly Csikszentmihalyi:
ハンガリー出身のアメリカの心理学者。幸福と創造性の研究における彼の仕事で有名。
Flowの提唱者としての長年調査をし、このトピックに関する多くの書籍と記事の著者である。

バックグラウンド:
1934年、ハンガリー外交官を父としてイタリアで生まれる。
1956年、アメリカに渡り、1970年よりシカゴ大学心理学科教授、教育学科教授。
1999年、シカゴ大学を定年退職後、カリフォルニア州クレアモント大学院大学教授。
現在アメリカでもっとも注目される心理学者の一人であり、社会学、文化人類学、哲学等広い守備範囲をもつ。
全米教育アカデミー、全米レジャー科学アカデミー会員

出版物
[1975] Beyond Boredom and Anxiety: Experiencing Flow in Work and Play
→ 楽しみの社会学
[1978] Intrinsic Rewards and Emergent Motivation in The Hidden Costs of Reward
[1988] Optimal Experience
[1990]Flow: The Psychology of Optimal Experience
→ フロー体験 喜びの現象学[1996]
[1996]Creativity : Flow and the Psychology of Discovery and Invention
[1998]Finding Flow: The Psychology of Engagement With Everyday Life
[2002]Good Work: When Excellence and Ethics Meet
[2002]Good Business: Leadership, Flow, and the Making of Meaning
→ フロー体験とグッドビジネス―仕事と生きがい[2008]

※コメント:チクセントミハイはサーファーでもある。彼によるとサーフィンもフロー経験をもたらしてくれるそうだ。学会でハワイにいったときサーフィンで事故に巻き込まれ瀕死の重傷を負ったところをコリン・ウィルソンに発見されたという逸話がある。

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フロー体験、成果主義などを脳機能の観点からとらえたもの。

フローと言う考え方を提唱した事で有名である。フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。

フローとは
○ 一つの活動(行為・行動)に没頭して、他の何事も見えない・問題にならない状態
○ その活動(行為・行動)が純粋に楽しいから時間・労力を惜しまない

組織におけるHRM観点でのフロー
○ 一つの活動(行為・行動)に没頭して、他の何事も見えない・問題にならない状態
 → ある時期、ある部分、ある人材、….など極所では大いに有効である
  → それら極所を大局的にビジネスに結びつけるマネジメントの下で

○ その活動(行為・行動)が純粋に楽しいから時間・労力を惜しまない
 → 特定のスキルを身に付ける場合に有効である
  → 自身の設計スキル、デバッグスキルは、(不謹慎だけど)楽しんで向上
   → 人材育成における、目標を絞ったOJTに有効である

昨今のあらゆる意味で多様化された人材に対して、組織のベクトル
に合わせた成長が望める育成戦略が必要である。

個別に気づきを促すサポートを続け、擬似的フロー状態をつくる


本の中では、極限状態や自己の限界に挑む時に、人間は楽しみや喜びを感じると
記載されている。

ITエンジニアは、うつ病になりやすい職業だといわれている。
- 短納期
- 作業時間
- クライアントからのプレッシャー
- 職場環境
など様々な要因がある。
上記の事から、ITエンジニアはフロー状態が長く続き、限界を超えすぎる傾向にありフロー中毒の結果から“うつ状態”になる事が予測できる。

満足感、充実感のようなマイクロフロー状態が職場では必要であると感じる。

※コメント:この文脈でのマイクロフローの重要性の指摘はもっとも。企業の場には、マイクロフローづくりが必要だ。→新しいMOTマネージャの役割。


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1)外発的動機(新皮質的)
外から与えられる報酬に欲求が満たされる行動や思い。物質的欲求を満たす。

新皮質
・理性的、理論的
・金銭、名誉、地位、
・人気を求める。
・出世欲など。
・法律に反しない。
・競争に勝つ。
・他者より優位にたつ。
・評判
・食欲、性欲

2)内部的動機(古皮質/旧皮質的)
外部から与えられる一切の報酬とは無関係に、心の底からこみ上げてくる喜びや楽しみ。

古皮質
感情(喜怒哀楽)

旧皮質
本能的な欲求
情動(安心、不安、恐怖)
恋愛、性愛

3)成果主義
・人参ほしければもっと働きなさい。
新皮質活性化
   ↓
・旧皮質から込み上げてくる喜びや楽しみがわからなくなる。
   ↓
・仕事の義務化。
やる気がないので集中力が減り、ミスが増える。
   ↓
・フローに入ることができない。
   ↓
合理性を超えたところに確かな満足感と、生活に楽しさを与える。
旧皮質的な現象に、フローの真髄!!

※コメント:脳生理学や脳科学は認知心理学の隣接分野。さらにこの議論に脳の「左右」論が加わると面白いだろう。ex. コリンウィルソンの「右脳の冒険」などの文脈。あと、エンドルフィンやセロトニンなど神経伝達物質の分泌との関係も面白いか。

資本主義の暴走課題もこの論点から掘り下げてゆくといいだろう。

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人的資源管理の立場からフローを仕掛けることはできるのか?

意見
・すべての仕事に対してできるわけではない。
・外的報酬を求める人や、営業は難しいのでは。
・内的報酬を求める思考の人に対しては仕掛けることができるのでは。
・外的な報酬を求める人は淡々と仕事をする。
→ 外的な報酬でも、フローに入れる人はいるのでは?
きっかけは外的報酬でも、仕事の達成感といったものが、内的報酬につながるのではないか。
チャレンジがスキルを上回りはじめると、不安になり、逆にスキルが、チャレンジを上回りはじめると、退屈を感じるようになる。

結論
・外的報酬で仕事をする人も、フローへ達することはできる。
・能力やスキルとチャレンジする取り組みによって仕掛けられる。
・ただしバランスが大切。バランスが悪いとフローにはならない。
・また次の何が起ころうとも対処できる状態は必要。
・常にスキルとチャレンジのバランス状態を仕掛けられれば、外的報酬がスタート
・でもフロー状態へ仕掛けることは可能。
・ただしバランスは非常に難しく、常に結果を求める企業では難しいのではないか。

※コメント:ともすれば儀式化しやすいorヤラサレ感覚が増しやすいマネジメントサイクル内のイベントにマイクロフローを発生させる工夫などあればいいだろう。

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知的刺激に満ちたディスカッションだったと思う。
2010年代のHRM,人事制度デザインには以上のような論点を埋め込むべきだろう。

後でMOTカフェの飲み会に合流。

ヤドカリ型副業起業@週刊SPA!

2009年06月16日 | ニューパラダイム人間学


ヤワラカめの話題。以前このブログに書いた「ヤドカリ型副業起業」をお読み頂いた扶桑社の記者の方から取材を受けた。扶桑社といっても「新しい歴史教科書をつくる会」ではなく「週刊SPA!」からの取材だったのだが笑)

今週号の52ページに、へんなイラストとともに顔写真つきの取材記事が載っている。

田町西口の立ち飲み屋にて。なぜか卒業しても授業に出てくるY川曰く、カミさんには恩師が「週刊SPA!」に載っているとは、恥ずかしくて見せられないという。O村は、ニヤニヤしてマジメな記事ならべつにいいんじゃないですか、と。

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特集を一読してみてあらためて溜息をつきながらも思った。

人は労働の選択においてその人がもつhuman capitalを最も効果的に活用できるように合理的に判断する。ようは、human capitalのナカミが分かれ目だ。これは本業の選択でも副業の選択でもあてはまる。

本業に格差があるのならば、必然的に副業にも格差が生じる。いや、本業の格差は副業においてさらに増幅される。そんな実態がこの特集で浮き彫りになっている。たぶん、この雑誌の購読者層はミドルローやローアークラスが中心なのだろう。

ゆえに、この特集は、本業の格差が副業の格差に繋がり、消耗度の激しい被搾取型の副業のやるせなさ、きびしさにスポットライトを当てることで安直な雇われ型の低付加価値副業の選択に警鐘を発したいのだろう。幸せでないサラリーマン生態のリアルな描写をおりまぜつつ、そこそこ報われているサラリーマンの優越意識をくすぐるというこの雑誌の自虐的に暗く屈折したトーンを下敷きにして・・・。

「ヤドカリ型副業起業」は以上に対する尖鋭なアンチ・テーゼというわけだ。

自分のアイディアを試したい、やる気にあふれるアントレプレナーやhuman capitalの構築に熱心な者にとってみれば、営利追求型起業、社会起業、両方にとって一大チャンスが到来している。秋(とき)はまさに創造的破壊の時代である。しかも、副業から始めるのならばとことんリスクをヘッジできる。

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今度京都大学のシンポジウムでいっしょに話をするサイボウズ創業者、LUNARR米国CEOの高須賀宣さんは、米国では学生が一人でサービスを立ち上げている、個人が世界と仕事できる基盤が整った、クラウドが世界を相手にできる、と最近のITProのインタビュー記事の中で力説している。

どうせやるのなら、こういう世界認識をもって「ヤドカリ型副業起業」に取り組むべきだ。

京都大学イノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門シンポジウム

2009年06月15日 | 技術経営MOT
2009年7月17日(金)
京都大学産官学連携センター寄附研究部門
イノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門シンポジウム
「地域発・グローバルベンチャーの可能性」

にて、アントレプレナーシップとイノベーション創発研究部会の招待講演で:

イノベーションの新潮流:カオスの縁のソーシャル・アントレプレナーシップ

についての研究発表をします。

<以下貼り付け>

京都は歴史的に世界市場で成功したベンチャーを多数輩出してきました。
現在、ベンチャーにとっては、人口動態上大幅な拡大の見込めない日本市場のみを視野に入れるのではなく、スタートアップ当初から世界を視野に入れた取り組みが求められる状況になってきています。

また、ベンチャー企業投資に対する所得控除制度が創設されるなど、ベンチャー企業投資へのインセンティブが高まり、ベンチャー企業側の起業初期での成長を加速することが可能になる契機となることが予測されます。

上記の認識を背景に、ベンチャー企業がその成長のために外部のマネジメント能力や開発リソースをどう活用できるかという観点から、研究発表の場を設けます。シンポジウムでは、初期段階から国際化を目指すベンチャー企業と、ベンチャーキャピタル・投資家をお招きし、講演やパネルディスカッションを通じて、ベンチャー企業の世界への成長戦略に有効な方策を探ります。 


<以上貼り付け>

詳細と申し込みフォームはこちらです。

仲間主義、日本教というエートスが顕現する日本人事制度史観

2009年06月13日 | 日本教・スピリチュアリティ



日本組織の骨格を成すものが日本的人事制度である。そして日本的人事制度を俯瞰、鳥瞰するときに役立つのが日本人事制度史観だ。日本人事制度史観に立つと、日本の人事制度はおおむね20年ごとに大きく制度変更を遂げてきたことが分る。

畢竟、日本教の実行形式は、日本人が働く企業の現場にも存在する。そして日本人の生き方、働き方を規定するのが人事制度である。すなわち、日本的人事制度を分析することは、日本教と日本資本主義を解明する一助になるであろう。

日本的人事のエッセンス、蘊奥は仲間主義である。人事制度は、過去、年功制、職能資格制度、成果主義と変遷してきているが、仲間主義は仲間の対象は変化しつつも一貫して保持されてきている。

●第1期:1950年~1960年代

この時代、敗戦の焦土から日本は復興しつつあった。新産業が勃興して企業は組織的な拡大にまい進した。機能体の衣を纏いつつ国民の生活を保障する共同体として企業が登場したのだ。この時代の人事理念は「生活保障」に尽きた。

役職が最もビジブルなステータスだった。拡大基調にある組織では、係長、課長、部長、役員というようにタテ方向に上がっていける機会は多く、単純な職階制度がとられた。社員は仲間とみなされた。善き仲間には評価は不要。したがって暗黙的な年功評価が中心だった。

賃金も年功給がベースとなり、その上に役職給が乗るという構造が中心だった。ベースアップは、賃金表の書き換えと定期昇給によった。イケイケドンドンの時代、人事制度は後手後手に回るものでよかったのだ。

一社懸命に働けば、役職も得ることができる。そして会社は社員という仲間を拡大し囲い込んでいった。独身寮、世帯寮にはじまり、企業による福利厚生の提供が正当化された。

農村共同体が崩壊し、企業に雇用される都市住民が急増していった。こうして企業は、機能体でありながらも代替的な共同体(Gemeinde)として発展していった。善き仲間の一員でいること、その仲間から仲間と見たれられることが、なにより重要なことだった。

この時代の人事制度の分析・記述は、日本組織を相対化して観察することができる外国人の視点が中心だった。その代表格がジェームズ・アベグレンである。終身雇用(Lifetime employment), 年功賃金(Seniority-based wages), 定期雇用(Periodic hiring), 企業内訓練(In-company training), 企業内組合(Enterprise union)などの概念が定式化された。

●第2期:1970~1980年代

オイルショックなどを契機として、拡大基調にあった企業組織に陰りが見えてきた。このような時代に登場してきたのが、職能資格制度

職能資格制度は日本ならではのユニークな制度だ。職能資格制度とは、従業員の職務遂行能力、略して職能の程度に応じて内部労働市場、つまり、会社や会社グループの閉じた会社空間にのみ有効な”資格”を付与する制度。

1970年代を中心にして企業社会に流行し一部上場企業のうち9割くらいが、この制度を運用しているといわれる。「年功的な人事を見直し、能力基準の人材登用を可能にする」「役職にとらわれることなく、人の能力を基準にして処遇する」、「人を重視する人本主義の具体的な制度への反映」などという言説が流行ったものだ。

一言でいえば、過去の主流すなわち職階・年功主義に対するアンチテーゼとして登場し普及してきたのが職能資格制度。しかし10年、20年するうちに年功運用的色彩が織り込まれ、年功資格制度になってしまったと見立てられる。その背景:

・社内職能資格には標準滞留年数がある。能力が急進すれば職能資格も急上昇するはずだが、社内職能資格は急上昇しない。能力が劣化しても、職能資格が落ちることはまずない。

・人事評価は、職務遂行能力に対して公正になされることが期待されたが、職場では明確な優劣をつけることが憚られる。評価における中心化傾向が顕著となった。

・職能資格の付与は年功的になる。そして職能資格にリンクしている職能給は、結果として年功給になっていった。

例えば、経理部の責任者である「経理部長」は”役職”であるが、責任者ではないが経理部において部長級の仕事をする人としての「経理部 部長」は”職能資格”である。「マーケティング部長」は”役職”だが、「マーケティング部 参与」や「マーケティング部 部長格」は”職能資格”ということになる。

ポストによるモチベーションはかなわなくとも、資格による選別とモチベーション維持策が行われるようになった。長期安定雇用を前提にした共同体の仲間づくり、仲間の維持は、まだまだこの時代の大きなテーマだった。

この時代には、参与的観察者が登場した。職能資格制度のイデオローグとして楠田丘や弥富拓海、弥富賢之などの活躍を見る。また経営学領域で日本的人事を研究対象とすることがなされるようになった。

●第3期:1980年~1990年代
グローバライゼーションが昂進した時代、それまでの共同体としての企業組織に成果主義すなわち機能体の原理が持ち込まれるようになった。

第1期、第2期は共同体の原理が中心だったが、この時代のカギ概念はそれまでの原理と異質な「成果主義」。そもそも成果を計量的に測定するためには、職務(Job)の内容が確定している必要があるのだが、共同体でありつづけた日本の組織では、職務(Job)という概念が疎外されてきた。

米国では、機能組織としての企業経営、人事制度運営の蓄積がある。よって1980年代以降、米国発のHuman Resources Management系のプロフェッショナル・ファームが日本でもクライアントを持ち始める。職務分析(Job Analysis),職務評価(Job Evaluation),目標管理(Management by Objectives), 成果主義賃金(Pay for Performance)といった手法が本格的に和風に調整されて日本の大企業を中心として移植された。

企業と従業員のGive and Takeの「場」としての職務(Job)を確定し、目標管理でさらに精緻化し、目標の達成度に見合った職務給を支給するという新たな方向性は、共同体原理と先鋭な対立と雇用者側の鬱勃たる不満をもたらした。第1期、2期の郷愁と決別できていない中高年層にとって、この不満は大きなものだ。

企業組織に内包される従業員から、企業へ能力と成果を売り、その見返りとして報酬を得るというGive and Take方式は、なるほど、仲間関係に機能主義を持ち込んだ。その結果、仲間はより厳しく選別されるようになった。しかしながら、成果主義は、管理職→一般職という順番で導入されてきた経緯があり、役員階層は成果主義を運用する側であって、なかなか成果主義の対象とはならなかった。

人間には機能体的人間関係の中で自分の実力を発揮していきたい、という成果主義的な願望と共同体的人間関係の中でゆったりとすごしてゆきたい、という相矛盾した欲求がある。この時代の人事制度の精神は前者におおきく舵を切ったと言えよう。

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さて、今の時代は2010年に向けた第4期にあたる。日本組織に通底してきた日本教そして仲間主義はどのように存続してゆくのだろうか。

人事制度や人事制度が基礎となって提供される人事サービスにはラディカルなイノベーションはそぐわないとされる。漸進的、改善的なインクレメンタルなイノベーションが中心となると考えられる。

経路依存(Path dependency)が強い人事制度は、過去の延長線上に構想されて実施される。よって、明日の日本教、人事制度の姿を予見、予測、さらには先取りしてデザインするには、人事制度の過去を知ることが大事になってくる。

すなわち、人事制度史観に依拠して古を振り返ることが肝要となる。「それ銅をもって鏡となせば、もって衣冠を正すべし。古ともって鏡となせば,以て興賛を知るべし」(『貞観政要』任賢篇)


中国ビジネスとインテリジェンス・リテラシー

2009年06月09日 | ニューパラダイム人間学


以前コンサルティングをしていた巨大企業にS島さんという中国ビジネスの達人級のプロがいた。Sさんは、中国政府、中国共産党、企業、大学に独自の人脈を持ち、Sさんなかりせばその会社の中国ビジネスはまったく進まない状況だった。

その会社は、第二、第三のS島さんを育成しようと躍起になっており、その教育プログラムづくりの一環としてS島さんの能力特性・行動特性を調べてくれと筆者に依頼してきたのだ。

Sさんには、リーダーシップ、対人関係能力、イニチアチブといったコンピテンシーには人を抜きんでたものが備わっている。しかし彼に潤沢にあって、他の中国ビジネス担当者に不足しているものは、ある種の濃密な中国古典と中国社会に対するインテリジェントなオリエンテーションだった。

彼は10代のころから漢文、漢籍に親しんでいて、中国の要人と接するたびに仕事のことはさておき、中国古典に関する意見、知見を交換してきたのだ。わからない部分は手紙で質問したり、後日、研究して新しい解釈を開陳したり、という具合に。S氏の鋭い質問に相手が答えられない時は、その相手は、大学の先生や読書人(知識階級に属する人々)を紹介する。そうして、S氏のまわりには、自然と人脈が形成されることとなった。

こうしてS氏は、インナーサークルの機微な情報・知識を共有するキーパースンになっていった。必然的にビジネスもS氏のまわりに形づくられるようになっていった。S氏はこんな話を、飯を食べながら、酒を飲みながら目を細めて楽しく語ってくれた。宗族外にいる日本人としては、中国ビジネスを進展させるためには、インナーサークル、つまり知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)と呼ばれる人間関係の濃密さを絶対的に強めてゆく集団に受容される必要がある。

知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)に連なるインナーサークルの人間関係はいわば中国社会の法則。共産主義、社会主義市場制度といった外形的な制度を超えて中国社会の深淵に通底している。

インナーサークルに入るためには、知人、関係、情誼、幇会に関する深い理解とともに、Literacy for Nine Chinese Classics(四書五経)をはじめとする漢籍に関する教養が重要となる。もっとも共産党の指導のもと、儒教は脇へ追いやられてきたので、四書五経よりは歴史、文学のほうがウケはいい。

S氏からは本当に多くのことを学んだ。中国でまっとうなビジネスを行うためには、標準的なビジネス系大学院のカリキュラムだけでは不足だ。そこを補完するものとして畏友・麻生川静男氏がピリッとしたことを書いている。

麻生川静男氏のブログより。

<以下貼り付け>

『漢文なんて時代遅れだ、漢文なんて不要だ』、と世間の漢文に対する評価は恐ろしい程低い。私はこういう風潮には大いに反対である。これは漢文自体が不要ではなく、高校の漢文教育が不備だという評価と考えなくてはいけない。従って逆に高校で十分教育できない分だけ一層大学で『漢文を十分に読める』教育をする必要があると考えている。

現在、私は京都大学で一般教養課程で『国際人のグローバル・リテラシー』(Global Literacy for Cosmopolitans)の授業をしている。ここでは、授業の最後の10分に、漢文が読めるようトレーニングをしている。具体的には、漢文のテキスト(返り点なし。ただし句読点はついている標点本)を学生に配布する。学生の一人が書き下し文を読み上げ、他の学生は単に目でテキストを追う、というだけである。この方法を数ヶ月続けると、返り点なしの漢文の読み方のこつを会得できる。

そもそも、なぜ今さら漢文教育に力をいれるかというと、それは次の三つの理由からである。

理由1:我々日本人は漢字の『ネイティブスピーカー』であるので、漢字の意味やニュアンスを正確に知っておくことが必要である。しかし残念ながら、現在の高校までの国語教育では教育指導要領などの縛りがあり十分ではない。また使える語彙(特に抽象単語)を増やすには漢字テストのような、コンテキストから遊離した形式で覚えるのではなく、情感豊かな漢文と共に覚えることが重要である。

理由2:この『情感豊かな漢文』の中には、人としての生き方について、哲学書や宗教書とは比較にならないほど優れた文章が存在している。具体的には司馬遷の史記に代表される史書にはそういった文章が数多く存在している。私の経験から言うと、難解な専門用語の羅列の哲学書を読んで、著者本人ですら理解していない抽象論を弄ぶより、歴史上の人の生きざまを知るほうがはるかに人生について考えさせられる。

理由3:中国は今後、日本にとって非常に重要な国になるとともに中国人との付き合いも増えてくる。従って中国人の深層心理を正しく理解することは、個人のみならず、国家戦略上重要である。中国人にとって、過去の歴史的事実を知っているという事は日本人の理解をはるかに超えて、非常な重みをもつ。そして新しい言い回しや論理より、由緒ある伝統的な文言に引き付けられる傾向が強い。そういった心情の中国人とまともに(あるいはまとも以上に)付き合うことができるためには、日本で漢文と言われている文章(春秋戦国時代から唐・宋まで、望むらくは明・清もふくめて)を読み、内容を理解できる必要がある。

ただ、このような理由で漢文を読み始めるにしても、漢字だけの文というのは興味が湧きにくいもであるのも事実だ。それで、私は最初は故事成句を含む文章からなじむことを勧めている。

いくつか挙げてみよう。

『百聞不如一見』(百聞は一見に如かず、漢書、69巻)。前漢の趙充国は宣帝から羌族(きょう)への対策について下問を受けた。時に趙充国は70歳を超えていたのだが、そのような大役を任せられるのはこの自分しかいないと答え、ついで、『百聞不如一見、敵陣をこの目で確かめないと戦略はたてられない。どうぞ安心して臣にお任せあれ』と宣言した。これを聞いた宣帝は苦笑して『諾、OK』と任せる他なかった。

『騎虎之勢可得下』(騎虎の勢い下るべからず、魏書、96巻)。晋の陶侃が温橋(ただしくは山偏)を援助していたのだが、温橋が戦いに負けていたばかりか、食料も足りなくなったと言って来たのに腹をたてた。温橋は冷静に『敵は今やまさに滅びようとしているではありませんか。騎虎之勢可得下、ここで戦いを中途半端に止める訳には行かないでしょう。』これを聞いた陶侃はもっともだと思い怒りを納めた。

『間不容髮』(間髪をいれず、漢書、51巻)。枚乗が呉王鼻(本当はさんずい偏に鼻)の役人として仕えていた。呉王鼻は漢朝に対して謀反を起こそうとしたので、枚乗は上書して諌めた。『現在の状況を見るに非常事態です。まるで深い穴に落ちた人が切れそうなロープを頼って登ってくるようなものです。ロープが切れずに登りきることができるかできないか、間不容髮です。』

この『間不容髮』の原文を見るまで私は『間髪、をいれない』という風に理解していた。つまり間髪という実体が何かあるように錯覚していたのだ。ところがこれは、『髪の毛が入る間(すきま)も無いほどぴっちりと』という意味で、元は空間的な意味だったのだ。しかし、当時すでに時間的な意味にも転用されていたようだ。

一方ドイツ語でも全く同じ言い回しがある、um ein Haar。本来の意味は『一本の髪の毛の分だけ』であるが、『すんでのところで、間一髪で』という意味に使われている。発想が同じ(空間的なものを時間的表現に転用する)上に同じ単語(髪の毛)を使う発想の一致に驚く。

既に2千年以上も経っているにも拘わらずこのような表現がそのまま現在もなお使われている漢字の生命力の強さ、強靭性(robustness)に私は深い感慨を覚える。

<以上貼り付け>

味わい深い分析だ。つけくわえると「中国人の深層心理」には資本主義的な契約の概念は極めて希薄だ。知人→関係(クアンシー)→情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)の外延では契約はかろうじて尊重されるが、情誼、幇会というように人間関係が深まるにつれて資本主義的な契約(ユダヤ・キリスト教を背後論理とする契約)が入り込む余地は消失してゆく。そして強固な人間関係、あるいは人治の関係こそが、契約を超越した紐帯として強固な拘束力を発揮する。

人間関係の外延において、交渉の結果として契約を結ぶのではなく、より親密な人間関係を構築するイニシエーションとして、交渉の手始めとして契約を結ぶのである。

漢文教育あるいは人文教養に比較社会システム論が加わればGlobal Literacy for Cosmopolitansとして申し分ないだろう。中国ビジネスを進展させるためには、以上を含めたインテリジェンス・リテラシーが必須である。


野心的な若者はアジアのビジネススクールを目指す!?

2009年06月07日 | ニューパラダイム人間学


「検証 ビジネススクール~日本でMBAを目指す全ての人に~」は早稲田、慶応、一橋のビジネススクールの談合本ながらも、そこそこ面白い。ただし、「日本で~」というローカルなフレーズを「世界で~」に代えてみる視点が必要だ。

さて国内の著名大学で学士をとってからベンチャーを起業し、一段落したのでビジネス関連の修士号を取りたいという野心に溢れる若者からキャリア開発の相談を受けた。

その彼と上記のムック本とBusiness Weekの論説をネタにしてディスカッション。遅ればせながら増えてきた日本のビジネススクールの現状が話題に登った。

              ***

In Japan, it has never been easier to find an MBA program. Twenty years ago, only a few universities offered business administration courses, so most aspiring students headed to the U.S. to study. Even as business school degrees gained in popularity around the world, the number of domestic programs edged up only slowly. However, in the last five years the number of Japanese universities with business schools has more than doubled, to 55.

              ***

さりとて、日本のビジネススクールではほんの数校を除いて授業は日本語のみのローカルな内容。大半のローカル系Bスクール卒業生は、日本企業を中心とした長期安定雇用の年功賃金型のジョブ・マーケットを相手としている。企業内のスペシフィックなスキルに重点を置いて保守的な人事部が仕切る日本企業人材コミュニティはMBAにとって実はタフな市場。このセクターにMBAの価値を浸透させるのは容易ではない。

さて、昨今シンガポール、インドのような英語圏につづき、中国、韓国、フィリピンの主要Bスクールも英語による授業を標準化しつつある。ポストモダン化する人材市場で高い付加価値を提供し、リターン(報酬)が高いジョブマーケットに参入を希望する若者のニーズに応えるためだ。

海外のBスクール動向と比較してみると、日本のBスクールは英語が事実上の標準となっているグローバル人材市場ではなく、日本国内のローカル人材市場を主要なマーケットとしているが浮き彫りになる。日本のBスクールは選択的にガラパゴス現象の経路を歩んでいるのだろうか。

昨今、優秀かつ野心的なビジネス志向の若者は(1)欧米の一流Bスクール、(2)日本国内Bスクール、という2つの選択肢から選ぶことができるようになった。しかし、3つめのシナリオが急上昇中だ。それは、英語で勉強できるアジア圏の卓越したBスクールだ。

結局、件の彼は三つ目のシナリオを選び、国内のビジネス系大学院はおろか、アイビーリーグも蹴って、清華大学ビジネススクールへ旅立っていった。

彼は言った。「カリキュラムの骨子はアイビーリーグと比べて遜色ないし、英語で学べますよね。2年間でマンダリンも習得して、その後は、北京でベンチャーを起業することにします」

新しい世界級キャリアの予感か。