20年前の6月4日、サイクリングクラブの2期上の先輩から電話をもらった。
同じクラブで1期上で、日本経済新聞で記者をやっていた黒田耕一さんが雲仙・普賢岳の大火砕流のために亡くなったというのだ。
黒田先輩はアウトドアと現場志向が強い、プロフェッショナルな記者だった。
「いいか、松下。おれは春からフォト・ジャーナリストだぜ」
と日経新聞から内定をもらった日に嬉しそうにニコンを片手に話していた。
時は経ち、日本航空123便墜落事故のときも、御巣鷹山に他社に先駆けて現場入りし、壮絶な事故直後の現場に踏みいった人だ。
修羅場をかいくぐってきた人だけに、あっけなく大火砕流で亡くなったという知らせは衝撃的だった。
初めて経験した先輩の死である。あれから20年経った。
小学校から片倉の自転車で中山峠、支笏湖へよく行ってました。
車が好きで責任感の強い友人でした。
今生きていれば58歳でしょうか?
いまになっても心が痛みます。
黒田さんの下宿にもなんどか転がり込んで泊めてもらったものです。
訃報、葬儀のあと、30人くらいのOB連中が大隈講堂の前にあつまり皆で泣きました
今年も亡き黒田先輩を偲びつつ北海道を自転車ツーリングします。
道内一の進学校でしたから、そんな彼が日経新聞から内定もらったとクラス内で話題になり「日経も質落ちたたなぁー」等と冗談や冷やかしながら祝福したものです。
悲報で友人皆が絶句、後に愛用のカメラ発見されたこと伝わると驚きと新たな悲しみが伝わりました。
存命であったなら、60過ぎた彼はどのような風貌で何を語っただろう。
自転車で支笏湖や洞爺湖、ニセコなど一緒に旅をしたり、黒田君の家に自転車で遊びに行って、
お母さんが作ったラーメンをご馳走になったりしていました。
彼は、当時からカメラをやっていて、
自分の部屋の天井裏を暗室にし、
写真を自分で現像していたのを見せてもらったりしました。
当時彼は新聞カメラマンになるのが夢と言っていて、中学時代からラジオ英会話を続け、英語が堪能でした。
自転車で一緒に旅をしたとき、泊まったユースホステルで外国人のバックパッカーと話していましたが、彼らが黒田君の英語を褒めていたのを覚えています。
その時はラジオ英会話だけで話せるようになるんだ、と感心しました。
早稲田大学時代は年賀状のやり取りだけでしたが、
経済新聞のカメラマンになったと聞いて、
高校時代の夢を叶えたんだなと思いました。
その後、カメラマン時代は彼に似合わず、無頼派を気取っていて、
いろいろ女性遍歴を彼から聞かされていましたが、
ようやく愛する女性と一緒になって子供もできたばかりのときにあの事故で逝ってしまいました。
葬儀の際に部下たちを避難させた後もひとり現地に残り、最後の最後まで写真を撮り続けていたとの話を聴いて、高校時代から変わらず、優しい男のままだったのだなぁ、本当に惜しい人物を失ったと思いました。
お母様を早くに癌で亡くし、ひとりっ子の彼はようやく自分の家族を持てたのに、神様は残酷だなとも思いました。
あれから30年、あのとき彼は34歳だったことを思い出しました・・・合掌