よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

医療改革の過程でムリ、ムダ、ムラが表面化している

2005年02月27日 | 健康医療サービスイノベーション
最近、医療の世界では「変化」という言葉が合言葉のようになっている。医療はたしかに変化の時代を迎えているが、このような変化の波は、医療の世界だけのものではない。

政治や経済など社会全般において、また、日本だけでなく世界中のあらゆる場所で、変化の波は押し寄せている。それでは、医療界ではどんな「変化」が起こっているのか。そして、変化の過程でどのようにムリ、ムダ、ムラが表面化しているのであろうか?

(1)変質、セグメント化する皆保険制度

国民皆保険制度は昭和36(1961)年に制度制定・施行され、長らく日本の医療の屋台骨を支えてきた。国民皆保険制度は日本の公的医療に特徴的な制度で、ある一定レベルの医療を提供する医療機関で、だれでも、どこでも、いつでも、受診することができることを保障する制度だった。

しかし、この制度は右肩上がりの経済成長と、それがもたらす税金によって支えられてきた。経済成長が伸び悩み、以前のような成長が今後も見込めないと予測されるわが国では、従来どおりの国民皆保険制度は限界に達している。

制度として存立しえなくなってしまった国民皆保険に代わって、現在では「セグメント別保険」の考え方が台頭してきている。

その典型は、2001年から施行が始まった公的介護保険だ。つまり、公的な保険では「介護」と「医療」がセグメント化=区分され、また、医療保険でも、公的保険と、公的保険を補う民間保険が区分されつつある。さらに、成人と高齢者、また、高齢者と後期高齢者、などと、保険制度の区分現象は、ますます進むであろう。

(2)フリーアクセスからコントロールド・アクセスへ
従来の日本の医療の特徴であった国民皆保険制度は、フリーアクセス(患者が自由に医療機関を選んで受診することができること)を保障していた。しかし、フリーアクセスもまた、わが国に深刻な影響を及ぼしてきたことも事実だ。例えば、ちょっとした風邪の初期症状でも、地域を代表するような大きな病院や大学病院の外来に行って、高額な検査を受けてしまうというケースだ。結果として、「3時間待って3分治療」という受診状況が生まれてきた。

こうしたなか、近年は、フリーアクセスの患者さんの流れをコントロールしようという方向に変わりつつある。コントロールド・アクセスの動きだ。

コントロールド・アクセスの手法には、さまざまなものがある。病院、病床、新卒医師の数の誘導的な削減だ。どの国でも、国民医療費は、病院の数や病床の数、医師の数とある一定の相関関係がある。したがって、医療費を抑えるために、病院、病床、医師の数を抑制する。しかしベッド数だけを規制する総量規制だけでは、逆に地域にける必要な医療資源の適切な配分にならないため、2005年中に診療科や医師の再配分を医療機関に促すという医療計画制度が抜本的に転換されることとなっている。

病院についていえば、民間、公的を問わず、不採算かつ、その病院ならではの特徴を発揮できていない病院は統廃合の対象になっている。新設病院の許可、さらには増床の許可も、以前と比べるとかなり厳しくなっている。医師の数については、以前は都道府県に1つといった割合で医科系大学が設立されていたが、現在では、看護系大学の設立に力点が移っている。患者さんの自己負担分を増やすことが受診を抑制する方向もコントロールド・アクセスの一環だ。 このようにコントロールド・アクセスは必要な患者を必要な医療機関へムリ、ムダ、ムラなく向かわせることを狙っている。 

(3)支払い方式の変化
わが国ではこれまで、医療費の支払い方式の中心は「出来高払い」だった。さまざまな医療サービスには点数がついていて、患者に対して行った医療行為が計算され、診療報酬明細書に記載されて、社会保険診療報酬基金に提出される。基金で診療報酬明細書に問題がないと判断されれば、「点数×10円」が医療機関に還付される、というのが出来高払いの仕組みだ。

この仕組みは、医療機関、医師の「良心」を素朴に前提としてきた。「良心」とは、医療機関や医師は患者に対して公正妥当な根拠がともなう医療サービスを提供し、それを明細書に公正妥当に記載する行動様式のことだ。この行動様式なしには出来高払いは成り立たない制度なのだが、この良心をどこかに忘れてしまった医療機関、そして医師が、続々と増えてきた。

良心に欠いた医療機関や医師が、医学的に判断しても積極的な必要がない高額な検査を行う、高価な薬剤を投与する、長期間の入院を行う、といったことを積み重ねた結果、医療費の高騰のひとつの原因になってわけだ。このようにして、出来高払いによる医療費支払制度は医療サービスにおける根拠をキチンと追求する態度をともすれば疎外することにつながってきた。また、コストと効果を見きわめて仕事をするといった「効率」の視点も尊重されない傾向が長らく続いてきた。来高払い制度がムリ、ムダ、ムラの隠れ蓑のようになってしまったのだ。

しかし、現在では出来高払いから、定額制の支払い方式への移行が進みつつある。在院日数短縮化と、短縮による診療報酬の上積み加算も、同じ流れのなかにある。

(4)医療経営のオープン化
わが国は、医師の免許をもっていれば、だれでも自由に開業できる自由開業医制という制度を保障してきたが、これが大きく転換されつつある。医療経営のオープン化には金融と法人制度の二つの側面がある。
 
まずは金融面。医療機関は装置産業であり、長期間にわたり地域医療を高度化、進化させてゆくためには初期投資、継続投資ともに巨額の設備投資が必要だ。優良企業では、間接金融依存ではなく直接金融に大きくシフトしているが、病院界では間接金融=借入金によって資金を調達し投資に充当している民間病院が圧倒的多数である。かたや、赤字に苦しむ公的病院では税金の補填を受けつつも、経営責任、経営に対するチェック機能が不明確なゆえに税金補填ファイナンスは限界に来ている。

医療法人、私的病院、独立行政法人、公的病院など設置主体のパブリック、プライベートを問わず、医療機関に対する金融、つまりファイナンス・イニシアチブが進展する必要がある。
そして法人制度面。医療システムのマネジメントを非医師に開放してゆこうという動きだ。組織的側面では株式会社の参入や、非医師の医療経営専門職病院長が病院を経営するという方向性だ。ただし、既得権益を固守しようとする勢力との政治的葛藤が続いており一筋縄ではいかないだろう。

しかしながら、看護の世界では一足先に看護経営のオープン化現象が訪れている。訪問看護ステーションである。訪問看護ステーションは、医師の免許がなくても開業することができる。こうした制度改革は、従来の、病院中心の医療では担えないような地域、在宅に密着しサービスを提供しており、大きな伸びをみせている。 

小倉へ

2005年02月20日 | よもやま話、雑談
金曜日にいろいろなミーティングを行ってから、アメリカで知り合ったベンチャー企業の経営者の方の訪問を受ける。資本政策やVCの動向などについて情報交換。けっこう面白かった。

それから海浜幕張の駅から羽田空港まで拘束バスで移動。新しくなった羽田空港のターミナルから福岡までフライト。そこから地下鉄、新幹線と乗り継いで小倉へ。その間、会社のCRM/SFA関係の資料に目を通す。面白い。出版社から依頼されている原稿にも手を加える。それから大学との提携ビジネスのアイディア出しを新聞紙の余白に書きなぐりながらやる。移動しながらの仕事はいつも通りだが。

夜、グレードアップ・ラボの長野先生を含め3人の先生がたとリーガロイヤルホテル小倉で明日の講演の下打ち合わせをしながら会食。楽しいひと時。それからばたっと寝て、朝、すっきり起きて朝食。小倉なので明太子が美味しい。明太子が美味しいと自然にたくさんご飯を食べてしまう。それからワークショップ形式で話をする。

ワークショップが終わると、急がなければ飛行機に乗れない時刻。わさわさ身支度をして昨日の逆コースをけっこうぎりぎりのタイミングで乗り継いで、やっと海浜幕張まで帰ってきた。

忙しさの連続だからビジネスと言うそうな。


椿咲く

2005年02月13日 | よもやま話、雑談
つい最近まで固い蕾だった椿。
西印旛沼の畔の木立の陽だまりの中でそっと咲き始めている。

濃緑の厚い葉に、椿の赤はいやがおうにも映える。
「わが胸中に火あり冬椿」
という句を歌ったのは、たしか角川春樹だったか。

冬椿は雪の背景があってこそ、白のなかの紅一点で
あざやかに映える。

深い緑色の木立のなかの紅一点にも趣がある。
遠い春をあえて冬景色から遠望するのではなく、
春の確実な予兆を緑の中で体感する。

もうこのあたりは春の予感に満ちている。

コモンセンスはスキーマのスキマを埋める

2005年02月12日 | ニューパラダイム人間学
スキーマ理論が面白い。

体系的な知識の学習には「テクストを読んで理解する」という作業が必ず求められる。テクストを読んで理解するという作業には派手さはない。どちらかと言えば地道な作業だ。しかし、「テクストを読んで理解する」という知的な作業は、Eラーニングのみならず、読書、ネット経由での情報アクセス、大学・院での勉強、生涯学習、著作活動、専門分野の構築、近接分野への進出など、ありとあらゆるラーニングそして、知識を扱う仕事のシーンにとって示唆するものは多い。

さて、スキーマ理論では「テクストを読んで理解する」ことをリーディング・コンプリヘンションという。英語の学習でも使われるリーディング・コンプリヘンションだ。リーディング・コンプリヘンションは、学習者がテクスト(text)の活字から受動的に意味を汲み取る行為ではない。そうではなくてスキーマ理論は学習とはスキーマ(schema)と呼ばれる読み手の持つ先行知識(prior knowledge)とテクストの間の相互作用によって内容を再構築するプロセスと見立てる。

各個人の雑多な知識や経験は、実はスキーマと呼ばれる数多くの入れ子構造の知識として深いレベルの意識におさめられていて、スキーマは知識の記銘、保管、想起、さらには類推、判断などの認知活動にも大きな影響を与える。

だれしも興味があることはすぐに憶えられるが、関心のないことはなかなか覚えることができないのはそのためだ。スキーマは興味を形づくるし、興味がスキーマの持ち方、つまり知識に対する構えを形づくる。

さて、人はテクストに含まれる何らかのカギ(cue)を基に、自分のスキーマから最も適切なものを引っ張り出し、テクストの内容を再構築(reconstruction)する。この再構築した内容とテクストのコンテンツをすりあわせ、合致させれば理解(comprehension)したことになる。さらに理解したことをなにがしかの文脈のなかで活用できれば、アウトプット系の学習や仕事の成果に発展してゆく。

得意分野の本や論文はスラスラ読めるが、あまり読んだこともないような本だとゆっくり読んでもなかなか理解できないという経験はだれにでもあるだろう。読み手にテクスト理解に必要なスキーマがなく、間違ったスキーマを呼び出すと理解までには至らない。また書き手の意図とは違った解釈をすることになる。スキーマの種類、広がり、深さ、浅さが「テクストを読んで理解する」つまり学習を左右するし、アウトプット系の学習にも大きな影響を与える。

インフォメーション・ワーカー。ナレッジ・ワーカー。知識を扱う仕事をうまくこなせる人は、そのためのスキーマを持っているし、たえずスキーマをタテヨコに拡充できる。スキーマを共有できている者同志は、うまくコミュニケーションもできる。プロ級ならば、IT技術者はIT技術者としての共通スキーマがあるし、ウェブデザイナーにはウェブデザイナーのスキーマがある。看護師には看護師としてのそれぞれ専門スキーマがあるわけだ。

近接分野の優良なスキーマを持っている人、自分とは異なった秀でたスキーマを持っている人は大切にしたいものだ。自分の認識の地平線が拡がり、また組織にとってもいいチームができあがる可能性が大きい。

異なったスキーマをもった専門家ほど、それぞれのスキーマを異種交配させるスキーマのノリシロが必要だ。このノリシロのことをコモン・センス(≒常識)といってよいだろう。コモン・センスが飛んでしまっているとコミュニケーションができなくなってしまうから要注意だ。俗に言う専門バカには、ノリシロを埋める常識がないのだ。コモン・センス(≒常識)がスキーマのスキマ(隙間)を埋めてくれると言ってもいい。^^)最後はダジャレになってしまった。

日本対北朝鮮

2005年02月09日 | よもやま話、雑談
辛勝という表現が明日の新聞には数多く載るだろう、ハラハラした試合だった。

1対1で試合終了という悪夢、もしかしたら逆転もありかという極悪夢が次第に現実味を帯び始める。そんな流れのなかで、立て続けに高原、中村の欧州組みがピッチに投入される。するとどうだろう、中盤ががぜん安定して、タマのつなぎがよくなったのが素人眼にもはっきり分かる。さすがだ。

その戦術的流れのなかで生まれた大黒のロスタイムでの勝ち越しゴールには感動。あれがなかったらホームでの試合ながら勝ち点1。大黒のゴールで勝ち点3。この差は大きかった。

「日本対北朝鮮」という構図だけで、交錯した政治的文脈が過剰に塗りこまれている昨今の二国間関係。2対1で日本勝利というのは公安的視点から見ても望ましい結果だったことだろう。騒乱防止を目的にしたパブリック・マネジメント分野でも今回の試合には莫大な治安維持費が投入された。

そんな政治的文脈のなかでこそ、そのような文脈とは無関係のごとくに試合後ピッチ上で握手していた日朝の選手たちは爽やかだった。

ジンザイ、中庸の美学

2005年02月08日 | ニューパラダイム人間学
けっこういろんな会社や病院でまことしやかに囁かれているパロディーがある。一言「じんざい」と言っても、いろいろな人がいるというのだ。以下は学説ではなく俗説の極みだが、大切なことの一端はついている。

人財: 高い能力で大きな成果をあげている人。職場、社会から見て財産のような人。
人材: 能力開発途上の人。磨けば光る、いい素材として将来の可能性を秘めている人。
人在: いるだけの人。いてもいなくてもどっちでもいいような人。
人済: 御用済みの人。過去の栄光の人。
人罪: 罪な人。その人がいると周囲が迷惑するような人。

かたや人は皆等しく宝石だという見方がる。人を宝石のように大切にして磨けば人は一様に光を増すという考え方だ。だから人はその個性や能力の差を越えて平等に処遇すべきだと考える。なるほど、美しい考え方だ。

どちらも真実の一端をついてはいるが、ちょっと違う。

はじめからベタッとレッテルを貼るようなジンザイ類型論はあまりにも救いがなさすぎる。ある会社でたまたま人済でも別の会社に移ってから人財になることだってあるだろう。

いっぽう、人は皆宝石だという考え方は一見ヒューマニティ溢れる見方かもしれないが、この見方も単純な決定論にしかすぎない。宝石であるがゆえに、品質=人の質にはやはり「ちがい」がある。「ちがい」があるから、それぞれ磨き方、鍛え方、接し方が違ってくるべきだ。「ちがい」はそれぞれのオンリー・ワンといってもいい。

十人十色の個性、能力をもった人には、それぞれ合った仕事=適所があるべきだ。この考え方を一言で言うと、「適材適所」となる。

俗な「じんざい」論のなかでも、「適材適所」という表現には中庸の美学を見る思いがする。この中庸の美学をHRMのシーンで実務的に翻訳してみるとどうなるか?

適材適所とは、十分に優秀な人材をスクリーニングして採用し、リテインし、またそうでない人がスムーズに流出できる仕組みを動かすこと、となる。

大雪の札幌にて

2005年02月05日 | 講演放浪記
札幌鉄道病院から講演の依頼に預かっており、朝から羽田から千歳へ移動。羽田では千歳がふぶいており着陸できる可能性は50%だと言われ焦る。

しかし無事雪の千歳に着陸。よかった、よかった。エアポートで札幌まで移動。途中の雪景色がきれい。目の底が痛くなった。講演では看護部門の戦略構築、実行、MBOなどのテーマを扱う。皆さん、大変熱心に講演に参画してくれた。

札幌雪祭りにそなえて雪のオブジェクトが大通公園には林立しているそうだが、見物する時間はとれるか?結局、雪祭りは見れずじまい。

よどんだ鉛色の空のもと、雪におおわれた豊平川の川原の風景は寂寞感にあふれている。夏、緑の風が行き渡る透明感あふれる豊平川とはまったくの別世界だ。この寂寞としたやるせないような風景の拡がりに触れたからこそ、夏の豊平川の、のびやかな情景を楽しむことができるだろう。

夏にまた札幌を訪れたい。

フロー体験とカタルシス

2005年02月04日 | 日本教・スピリチュアリティ
麻生川さんのコメントに触発されて考えてみた。

フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、その経験それ自体が楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすことができる状態。したがってフロー体験は、悲しい、辛い、煩わしい、妬ましい、腹が立つ、焦るといたネガティブな感情とは隔絶した、うれしい、楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、自己効力感をもたらしてくれる。

さて、カタルシス(catharsis)という言葉はそもそも医学用語で、排泄物を体外に出して身体をきれいにするという作用を意味している。それを、アリストテレスが、その偉大な詩学のなかで精神世界の叙述において含意をもたせ援用したものであると言われている。

フロー体験をある種の精神的なカタルシス体験としてとらえることもできるだろう。つまりフロー体験には、日常直面するようなネガティブな感情、もしくはネガティブに反応してしまう認知神経的なエネルギーを浄化・転換する作用があると見立てるとこができる。

また脳神経科学・発達認知神経科学の知見を借りれば、フロー体験はエンドルフィンのような神経伝達物質の分泌を活性化する作用があるという類推も成り立つだろう。エンドルフィンは、脳内で痛みを止めたり、気持をよくしたり、快感を誘うだけでなく、自律神経を介して体温の変動や血圧の低下、また食欲の増進や、胃腸分泌の抑制などにも作用していることがわかってきている。呼吸の抑制、嘔吐にも関わり合いがあり、リビドーの増進にも関与しているし、認知行動、学習効果の促進にも作用する。

いずれにせよ、心身的にホリスティックに健康であるためには、人は本来潤沢なフロー体験と接続される必要がある。近年、健康管理学の分野でも予防医学の延長線に構想されたwellnessを増進するためにフロー体験のデザインがとみに重視されている。アウトドア系アクティビティ、趣味、読書、仕事、そして生活のなかで、いかにフローをデザインしてゆくのか。

こんなことを考えるだけでも楽しくなる。フローを体験することのみならず、フロー体験を考えることも、けっこうフローだ。