このところ昼飯を食べながら、変わった話題になることが多い。子供のころどんな悪い遊びをしたか、ということで盛り上がった。
僕が生まれ育った浜松には市街地にたくさんのお寺がある。お寺の裏手の小高い山や丘には防空壕がほられていた。戦争が終わっても開きっぱなしになっている防空壕を探検するくらいは、初歩的な遊戯みたいなもの。
そんな遊びに飽きたころ、悪いガキどもと語り合って、寺の裏の墓場に入って、墓あばきをしようということになった。墓石をずらして中から骨壷を取り出す。それを足で蹴散らして骨を撒き散らすのである。通過儀式として、それができれば一人前のワルガキの正式な仲間となる。ひるんで二の足を踏んだり、怖いと言って逃げ帰れば、意気地なしという烙印を押し、押されるのだ。
今の時代ではとうてい考えられないような遊びだ。どんな時代でも遊びにおける重要なひとつのファクターは、タブーや社会規範からぎりぎりのところで、人知れず、意図的に離反し、逸脱することだろう。人に知られれば相当にまずいことになる。とんでもないことになる。だからこそ、ワルガキどもは目を輝かせて、とんでもない作業をいそいそとつづけたのである。
そんな遊びも、困り果てた住職が警察に通報して、警察官が夕暮れ時の墓地に立った日からなくなってしまった。その日の夕刻、仲間同士で「これでやめられる」と言いあい、ほっと安心したのが不思議といえば不思議だった。
そんなワルサに身を染めた子供だったせいか、長じても世間的な遊び(俗に言う、ノム・ウツ・カウ的なこと)は平板で無味乾燥なものでしかない。子供時代に「遊び」すぎると、あとの人生がつまらなくなるのか。
僕が生まれ育った浜松には市街地にたくさんのお寺がある。お寺の裏手の小高い山や丘には防空壕がほられていた。戦争が終わっても開きっぱなしになっている防空壕を探検するくらいは、初歩的な遊戯みたいなもの。
そんな遊びに飽きたころ、悪いガキどもと語り合って、寺の裏の墓場に入って、墓あばきをしようということになった。墓石をずらして中から骨壷を取り出す。それを足で蹴散らして骨を撒き散らすのである。通過儀式として、それができれば一人前のワルガキの正式な仲間となる。ひるんで二の足を踏んだり、怖いと言って逃げ帰れば、意気地なしという烙印を押し、押されるのだ。
今の時代ではとうてい考えられないような遊びだ。どんな時代でも遊びにおける重要なひとつのファクターは、タブーや社会規範からぎりぎりのところで、人知れず、意図的に離反し、逸脱することだろう。人に知られれば相当にまずいことになる。とんでもないことになる。だからこそ、ワルガキどもは目を輝かせて、とんでもない作業をいそいそとつづけたのである。
そんな遊びも、困り果てた住職が警察に通報して、警察官が夕暮れ時の墓地に立った日からなくなってしまった。その日の夕刻、仲間同士で「これでやめられる」と言いあい、ほっと安心したのが不思議といえば不思議だった。
そんなワルサに身を染めた子供だったせいか、長じても世間的な遊び(俗に言う、ノム・ウツ・カウ的なこと)は平板で無味乾燥なものでしかない。子供時代に「遊び」すぎると、あとの人生がつまらなくなるのか。