よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

コンゴ民主共和国の惨状と資本主義

2012年02月20日 | 技術経営MOT

公用でコンゴ民主共和国へ行ってきます。行く案件は、国際協力機構と国立国際医療研究センターがらみのプロジェクトです。

このビデオは必見です。

コンゴの危機~知られざる真実~ 

このビデオに簡潔にまとめられているように、120年以上、コンゴという国は、コンゴの人々が自治、政治、経済のありようを決めたことがなく、すべて異国、外国、国内の私権によって簒奪、搾取されていた経緯があります。

なぜか?その理由の大きな一つが資源です。象牙、金、ダイヤモンド、ゴムに始まり、銅、コバルト、ウラニウムなどの豊富な埋蔵資源のためです。ざっと歴史を振り返りましょう。

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1885-1908: レオポルド2世などによる領地の個人所有と搾取

1908-1960: 西洋列強による植民地支配と簒奪

1961:コンゴ人改革派リーダーの暗殺

1965-1997:ディクテーターシップによる抑圧、搾取、簒奪

1996-2002:ルワンダ、ウガンダなどの隣接外国でのジェノサイドとその悪影響など。

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日本を含め、現代の先進国の技術経営はコンゴ由来の資源(natural resources)なしでは成り立たない状況です。自動車、エレクトロニクス、航空機、携帯電話、パソコン、そして原子力発電の核燃料・・・。

コンゴ由来の資源がなかったら、私たちの生活は成り立ちません。

さて、バリューチェーン(価値の連鎖)という観点でみると、資本主義国としての日本は、これらの資源を輸入して、R&Dを経て、資源を加工して、設計、製品化し、マーケティングして市場に投入するというフェーズに特徴があります。コンゴは、そのバリューチェーンの起点です。

バリューチェーンの起点から終点までを一括して、運営しているもの。それが近代資本主義。バリューチェーンの終点近くでも、現下の資本主義はガタガタしていますが、起点では、無残な簒奪、収奪、搾取のオンパレードです。それも1世紀以上の永きに渡って。

さて、資本主義のありかたについては、日経BPの連載などでいろいろ書いてきました。

で最近のリアル論壇では、「資本主義以降の世界」(中谷巌)がイケていると思います。この人(懺悔の人きどり)の前作は、ちょっと?でしたが、今回の本は、真摯な筆致で、ずいぶん、書きづらいことを大胆に描いています。見直しましたね。

で、この本で著者が描いている視点でコンゴを見ると、バリューチェーンの起点としてのコンゴは、まごうかたなきフロンティアだったということ。①西洋人が環境破壊をやりまくって好き放題に収奪してきた「自然フロンティア」、②西洋列強が植民地化して収奪してきた「地理的フロンティア」。

もちろん、西洋列強に支配、簒奪される寸でのところで、近代化を苦労して成し遂げて、西洋列強を跳ね返した明治国家としての日本の世界史的に特異な位置づけには健全なプライドを持つべきです。自虐史観はダメです。

その西洋列強の跳ね返し方(日露戦争、大東亜戦争)が、西洋列強(米国)の逆鱗に触れたので、日本は広島、長崎で原爆を落とされたということです。その原爆の組成物質もコンゴ(当時はベルギーの領地)から採れたものでした。そして、福島第一原発事故により、日本に降り注いでいる放射性物質の少なくない割合も、もとはといえば、コンゴ由来の「資源」です。

コトはかくも複雑です。その複雑なシステムの、非常に重要な一端がコンゴです。このあたりの事情を見てこようと思います。

見るだけではなく、状況のKAIZENに具体的に貢献することが、今回の仕事ですが。


facebookセミナーに出てお酒飲んできた

2012年02月17日 | よもやま話、雑談

昨日は、農工大・多摩小金井ベンチャーポートでのfacebookセミナーに参加。といっても、自転車&アウトドア関係の友人たちが多く参加するので、主眼はその後の飲み会だったのだが。

セミナーで新しいものごとに触れるとき、けっこう面白いのが、講師もさることながら、その場に集まったご面々との雑談だ。そしてそんな雑談の中で見えてくる集団的なプロフィール特性がけっこう面白い。

昨夜集まったご面々は、かつては大企業に属しながらも自立した侍業、コンサルタント、ベンチャー企業家の方々が80%を占め、残りの20%が、それらの方々をケアしたり支援したりする立場の方々。

いってみれば、活動の軸足を、既存の組織=集団から、個人の方向にシフトした、あるいはシフトしつつある人達だ。

と言いながらも、個人と集団を二項対立させて議論するのは、古い思考方法だと思う。個人の活動と、集団の活動を分離してデザインするっていうのも、そぐわない。

企業、団体、NPO、地方公共団体、学校、大学、同窓会、クラブ、私的な集まりなど、ありとあらゆるコミュニティと個人は入れ子構造、相互依存の関係になっている。二項対立ではない。いや、むしろ、個人のアイデンティティー、いろんな活動がリードして、集団やコミュニティのアクティビティや性格が形成される。

あたりまえといってしまえば、あたりまえ。ソーシャル・マーケティングの動向は、たぶんそのあたりまえの方向に展開している。

「コミュニティが個人の力をリード」ではなく、「個人の力がコミュニティをリード」。facebookのようなソーシャルメディアが、ソーシャルだと言われるのは、後者のベクトルが強くはたらいて新しいソーシャル性を後押しするメディアだからだ。その意味で、

facebook市役所

ドイツ警察がFacebookページで指名手配犯を逮捕しまくり

「キター!県民の皆さん」「新聞に抗議。不買運動しましょう」 Facebookで奈良県幹部   が“暴走”

という動きは、象徴的だ。

初歩的テクニカルな説明に終始するfacebookセミナーはつまらない。公・共・私にわたる関係性の構造と機能の大変化のなかでの個人の振る舞いを論じるような構え、大局観が必要だと思う。

①その構え、大局をどうデザインするのか?②そのためのテクニカルな対応はどうすべきなのか?こういう流れで、③事例を検討し、ヒントを共有し、テクニカルマターの応用ティップスを紹介する。そんな流れのfacebook活用セミナーを企画したら面白だろう。いっちょやりますかね。