よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

SugarCRM、GPLv3をプラグマティックに採用

2007年07月26日 | オープンソース物語
無償版Sugar Open Sourceに関するニュースと今回のGPLv3の採用についてのFAQです。日本語版に関するアナウンスも来週あたりにさせていただきます。

さて、SugarCRMコミュニティは、次期バージョン5.0より無償版Sugar Open SourceのライセンスをGPLv3に変更することになりました。そして無償版Sugar Open Sourceの名称を「Sugar Community Edition」に変更することを発表しました。これにより、Sugar Community EditionはOpen Source Intiative認定の正式なオープンソースソフトウェアとしてさらに広く普及してゆくことになりました。

実は、今回の変化の背景は長いものでした。「Sugar Community Edition」という名称については1年半あまりの議論、そしてGPL v3の採用については、ここ半年間、相当煮詰まった議論をしてきました。京都で語らい、幕張で議論し、メールで喧々諤々、ときに、生々しいケースを俎上においての実にエキサイティングな(ときに疲れもしたが・・・)ヤリトリでした。コマーシャル・オープンソースとオープンソースの境界域、そしてコミュニティ・モデル、ビジネス・モデルの根幹に関わるイシューには一冊の本になるくらいの実に奥深いものがあります。FAQにいたっては、日本語コミュニティリーダー兼ケアブレインズCTOのruchidaが発表の数時間前までチェックをするという国際協調体制?でした。

SugarCRMはいまや世界中の企業が日々活用するCRMの標準的なアプリになっています。もはや一企業のソフトウェアというより、「ユーザによる、ユーザのための、ユーザのCRMソフトウェア」として世界の人々に共有される集合知的公共財になるべきだ、との認識が一致。また、やや微妙なことですが、コマーシャル・オープンソースにつきものの派生プロダクト対策という側面での見解も共有できました。

日本におけるパートナー代表のケアブレインズの意見を最大限尊重し、かつ最終的にこの重大な決断を下した SugarCRM社のボードメンバーの意思決定力、見極めは、けだし、果敢かつ、プラグマティックなものだと思います。

日本IBMのOSSの集まり

2007年07月26日 | オープンソース物語
本国のみならず日本IBM先進システム事業部はオープンソースに本腰を入れて取り組んでいる。同社が企画、実行したシリコンバレーで活躍するオープンソース系の米国企業を訪問するツアーは大盛況。関心の高さが伺える。このツアーがSugarCRMに注目した関係上、その締めのミーティングと懇親会に参加させていただいた。

参加者の一人一言の体験談には時代の潮目を感じる。異口同音の感想は:

「業務アプリもOSSの時代になってしまった」
「企業ユーズに十分耐える高品質のOSS業務アプリの存在に驚愕した」
「OSSの周辺のみならず、中核にもビジネスチャンスがある」

参加者はプロプラなソフトウェアを扱う企業で、OSS領域を新事業として取り扱う方々が中心なので、必然的に「どうようにOSSで儲けるのか?」が気になる模様。そこから先の各論は、まさに百家争鳴の観あり。懇親会のテーブルに花が咲き、たっぷり議論を楽しませていただいた。


希望という名のあなた

2007年07月14日 | よもやま話、雑談
「この国にはなんでもある。ないのは希望だけだ」希望の国のエクソダスで村上龍は、反乱を起こした中学生に言わせた。ギョットするような台詞だった。たしかに、街にはモノが溢れ、欲しいモノはなんでも手に入る。欲しい情報もネットを駆使すれば、即座に手に入る。

でも希望がない。

小中高校生の国際比較調査を見ても、日本の青少年の希望度は他の国々とくらべて低い。「希望格差」なんていう造語も受け入れられ、家庭の所得レベル、学歴と持ちうる希望の度合いなどもしきりに議論されつつある。

かつて日本は希望の国だった。

37年前の1970年、「希望」が日本に溢れていたのだ。岸洋子が歌った「希望」だ。時代は高度成長期の只中、多くの日本人にはありったけの希望とたぶんそれ以上の挫折もあった。希望と挫折によって、人のこころにはひだが生まれてくる。希望と挫折とによって生まれるひだのような心情・感性の陰影を国全体がしっくりと受け入れていた。

「希望という名の あなたをたずねて 
 遠い国へと また汽車にのる
 あなたは昔の あたしの思い出
 ふるさとの夢 はじめての恋
 けれどあたしが大人になった日に
 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
 いつかあなたに また逢うまでは
 あたしの旅は 終わりのない旅」

「希望という名の あなたをたずねて
 今日もあてなく また汽車にのる
 あれからあたしは ただ一人きり
 明日はどんな町につくやら
 あなたのうわさも 時折り聞くけど
 見知らぬ誰かに すれちがうだけ
 いつもあなたの 名を呼びながら
 あたしの旅は 返事のない旅」

「希望という名の あなたをたずねて
 寒い夜更けに また汽車にのる
 悲しみだけが あたしの道連れ
 となりの席に あなたがいれば
 涙ぐむとき そのとき聞こえる
 希望という名の あなたのあの唄
 そうよあなたに また逢うために
 あたしの旅は いままた始まる」
 (『希望』作詞:藤田俊雄 作曲:いずみたく)

ニューエコノミー的はたらき方 → ナウエコノミー的生き方

2007年07月06日 | No Book, No Life
以前、新潟経済大学の野呂一郎さんから贈呈いただいた「ナウエコノミー: 新・グローバル経済とは何か」をやっと読了。この本、ウィットに富んだ題名がいいです。題名はソフトタッチだが、ナカミは鋭く、硬派にして犀利な分析が満載。

この本の視座は、物質的幸福と経済成長をひたすら追いかけるアメリカ型経済=ニューエコノミーの時代は終わりつつある、とする見方だ。アメリカ型経済は、弱者や地域社会、対立する異文明を切り捨て、格差をかえりみない経済が、アメリカを常に失業やテロにおびえる不安定な社会にしてしまったという。なるほど。

野呂さんによれば、ニューエコノミーは日本にも現れているという。中小企業は倒産におびえ、ワーキングプアーやニートと呼ばれる人々が増えている。地方はますます過疎化が進み、コミニュティの危機どころか、その消滅さえささやかれている。理不尽な殺人事件や親が子を殺し、子が親を殺す痛ましい事件が続発し、すでに安全や平和は日本の代名詞ではなくなった。もし日本がこのまま”痛みを伴う改革”をすすめ、アメリカ型ニューエコノミーを追いかけるならば、こうした社会のひずみはますます大きくなるだろう。

この本に関する識者の書評に曰く、

「新しい経済の時代だ。その名をナウエコノミーという。これはかのマーケティングのグル、コトラーの言葉にちなんだ名前であるが、すでにグローバル経済は、このナウエコノミーの時代に突入している。ナウエコノミーとは何か。それは、一言で言えば、ヒューマン・エコノミー、つまり人間性という価値を中心にした新しい経済のことである。本書「ナウエコノミー 新・グローバル経済とは何か」は歴史、理論、企業のケーススタディを通じて、このナウエコノミーというグローバルな大きな時代の流れを解明し、企業の生き残りの処方箋を提示するものである」

野呂さんは、人間性という価値に対して経営学や経済学のみならず、宗教的な側面(顕密双方を視野においたプラクチショナーだからこそ捕らええる隠れた側面)からも語れる実に多面的な論者である。

一読の価値あり!

バランスをいかにとるか?

2007年07月01日 | ビジネス&社会起業
「ITベンチャー経営者や従業員には、お金の虜のような人が多すぎるね」
「一生懸命働きながらも、お金の虜になっちゃいけないね」
「経営や働き方にも、精神的な背骨が必要じゃないのか」
「カネと精神と働き方。このバランスをとりたいね」

知人と雑談中、こんな話になった。

「カネと精神と働き方のバランスやいかに!?」
こんなことを言うと、「なに、それ~?」といわれそうだが、これらのバランスが崩れやすい(崩れている)企業社会にとって、けっこう重要なテーマだ。

この文脈の中で避けて通れないのは、なんと言ってもマックス・ウェーバーだ。彼の最も著名な業績は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905) だろう。ウェーバーは経営と精神の関係を、社会科学的に論ずる。(と、言うか、彼の論考によって社会科学の礎が創られた)この本でウェーバーは、生産活動には一生懸命に励みながら、世俗的な富の追求と過剰な消費は慎むべきである、といった一見、資本主義に反するようなピューリタンの行動様式(エートス)こそが、実はその富の蓄積の推進力となり、ひいては近代資本主義の基礎となりえたと論じる。このように、ウェーバーは、プロテスタントに共有された行動的禁欲(アクティーフ・アスケーゼ)こそが、キャピタリズムの精神なのだと喝破する。

行動的禁欲?簡単に言えば、勤勉。ちょっと難しく言えば、労働を崇高な目的の手段ととらえる精神。このようなことを論ずる人は日本の文壇にもいる(いた)。

かって山本七平は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を下敷きにして、ピューリタニズムと西洋近代資本主義の関係を、16世紀に活躍した禅僧・鈴木正三の思想と日本近代資本主義の関係に対比させて、バブリーになりつつあった日本型資本主義の源流をさぐり、警鐘を鳴らした。

鈴木正三は言う、「農業、即仏行なり」と。山本は、敷衍して「労働、即仏行なり」と。山本の慧眼(一部に山本日本学とも呼ばれる)は、この鈴木正三の命題をしかととらえ、はたらくこと自体が、精神を高め、自己救済に直結する(させる)という考え方が日本近代資本主義の精神である(でなければならない)とする。この論を継承した小室直樹は、バブル崩壊による日本経済の破綻を1992年の時点で予見し、最大の理由を、この考え方の欠落に求めた。「日本資本主義崩壊の論理」

カネのためだけに経営することは健全な資本主義を窒息死させる。
カネだけを求める従業員は疲弊し生産性を低下させる。
カネのみを求める社会は崩壊する。

ひるがえって、

かけがえのない自分の役割を果たすことが、自己実現につながる。
役割を一所懸命に果たすことが、自分を助けることになる。
仕事を果たすことが修行でさえある。

はたらくことの意味を見つけ、みずから高めてゆく。
はたらくことの精神的な目的を見つけ出す。
はたらくことのありがたさを共有できる仕組みをつくる。
はたらくことによって大いなる内面的な充実感、達成感、フロー経験を得る。

どうやら、カネと精神と働きかたの関係から、いったん、カネの呪縛を横に置いておいて、真正面から精神と働き方の関係を見つめなおすことが必要だ。