よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

自己実現欲求は社会起業を目指す!?

2008年05月29日 | ビジネス&社会起業
MOTの学生の中でもアントレプレナーシップ論をとっている学生は、起業家志向(願望)が強い。オンラインアンケートの結果を見ても、株式会社起業と同じように社会的起業への憧れが強く出ている。

今、著名な米国の大学にはアントレプレナーシップ講座が常設されている。そのなかでも、株式会社起業よりも社会起業に人気があることに多くの人達に知って欲しい。カネ儲けではなく公共の利益のために、ガンガンとイノベーションを社会に還元する社会的企業家が"trendy"で"in"なのだという価値観が急激に拡がりつつあるのだ。

たしかに資本主義社会では、人は自らの利益を最大化するために行動する。ここで注意を向けなければいけないことは、なにが「利益」かということだ。

高い給料
昇進
キャピタルゲイン
配当

もちろん、これらの動機と利益は資本主義社会では正当化される。

地位
名誉
やりがい
充実感
達成感
親和感

このあたりの「利益」を資本主義のキメ事だけで、得ようとする人がいたら、よほど楽観的な人か、極度に自覚的な人だろう。

新自由主義的な競争的市場原理、新古典派経済学に表象される弱肉強食、キャッシュがすべて、という考え方だけでは、医療、福祉、教育、農業といった社会の公衆インフラストラクチャーはガタガタになってしまう、ということが明々白々だ。

新自由主義という世界観におさまらない、パブリックな利益を自分の利益と見なす人々が、新自由主義への反省と反動のなか、自己表現欲求を社会起業で満たしてゆこうとしている、ととらえるのならば、アメリカ知識社会は、なるほどしたたかな活力がある、と見ていいと思う。

軍産学官共同体に跋扈するネオコンという自己実現もあれば、パブリックな世界での社会起業という自己表現もあるのだ、アメリカには。このあたりも、しかとウオッチ、諜知しておかないとアメリカを見誤る。

この行動としての自己表現の幅は、自己意識のスペクトラムの広さに由来する。肥大化する意識のベクトルがアメリカでは、試行錯誤を繰り返しながら自己実現レイヤーのなかで新しい経験価値のありかを求めているのだろう。

経験価値に敏感な知識層ほど、ソーシアル・アントレプレナーという、清く美しそうな役割をカードとして持っていたいというのは、肯ける。

いずれにせよ、こんな新しい人達が日本でも、もっと出てきて欲しい。応援します。

ということで、社会的起業を考える時のちょっといい本を上げてみる。

「チェンジメーカー、社会起業家が世の中を変える」渡邊奈々(日経BP社)
「社会起業家」町田洋次(PHP新書)
「社会を変えるを仕事にする」駒崎弘樹(英治出版)
「社会起業家」斉藤槇(岩波新書)
「マイクロソフトでは出会えなかった転職」ジョン・ウッド(ランダムハウス講談社)

あと、国際的な社会的起業家を目指す方々にとって、これは必見である。おお、と唸る内容だ。

諜報諜略と技術インテリジェンス

2008年05月28日 | 技術経営MOT
昨今の米国、中国、日本の先端的技術動向を探っていると、アメリカ、中国は日本に対して手の込んだ諜報諜略活動を活発化させているのがわかる。

ひるがえって日本の産業社会はIntelligenceを「情報」とか「知性」と訳してしまったせいか、肝心要の諜報諜略活動が遅れている。いや、麻痺しているのではないか。

もちろん外交や政策ではIntelligenceは必須である。昨今の日本国家としての不振のひとつの要因は、インテリジェンス=諜報諜略活動の停滞にあると見立てている。

定年退職者が、能天気に機密をバラまいている。転職した輩が企業の機密情報を吹聴する。信用しきって採用した社員が会社のデータを持ち出す。外国人の社員が情報機関のエージェントだったりもする。国家公務員が極秘機密を垂れ流す。ベンチャーキャピタルのサラリーマンが、デューデリジェンスで得た秘匿を流通させる。役員が社長を裏切り内密情報を売り渡す。身の回りにもこんな事例は山ほどある。

さて、瑣末なことがらはさておき、MOT(技術経営)の一大テーマであるNational Innovation Systemで比較優位を獲得するためには、戦略ロードマッピング、シナリオ展開技法とともに、本来のインテリジェンス活動=諜報諜略が必要である。セキュリティなどと言っている場合ではない。ビジネスタームのセキュリティとは消極防諜にしかすぎない。積極諜報を行なうMOT人材があまりにも枯渇している。そして、リスクマネジメントのためにも諜報諜略は必須の技能要件である。

技術経営専門職大学院は、そのような意味合いでのインテリジェンス活動を活性化させ、高揚させなければならないと常々思っている。まあ思っているだけでは進歩がないので、アントレプレナーシップ論でもインテリジェンス活動=諜報諜略を重視しているし、裏ゼミ「諜報諜略講座」も活性化させてゆきたい。ウチワでは平成の「技術経営中野学校」と呼んでいる。

いや、中野は語らずである。




モノカキという稼業

2008年05月25日 | No Book, No Life
今まで書いてきた本のリストを作りました。

コンサルティング活動を開始してまもなく、仕事のプロセスと成果をまとまった形で残していこうと思ったのがきっかけで本を執筆するようになりました。好奇心、探究心にまかせて仕事で関与する現象を徹底的に分析して問題解決の提案をしないと、妙に気持ちが落ち着かないという個人的な事情もあります。

コンサルティングも数多くの現場をこなしていると、個別解ではなく汎用性のある一般解のようなものが見えてきます。

学術論文も書きますが、実際のところ自由闊達に書き連ねる書物のほうが好きです。ここ10年くらいは会社経営で忙しく本を書く時間があまりとれなく、2年に1冊くらいのゆったりしたペースで書いてきました。今後はもっと頻繁に書いてゆこうと思います。

いずれ自然との触れあい(Nature writing)、文芸、恋愛ロマンファンタジーなどを書きたいのですが・・・。

経営学の虚実

2008年05月14日 | 技術経営MOT
経営を実践したり、コンサルティングしたり、研究したり、かれこれ経営学とのつきあいは長い。経営の構造と機能を分析して、経営という現象のなかに一般的法則や原理を見つけてゆこうというのが、ドイツで発祥し発達してきた経営経済学である。当初は、この経営経済学をよく読んだ。

アメリカに留学して驚いたのは、もはや「経営学」という自己完結的な記述的な体系はなく、組織行動、マーケティング、アカウンティング、ミクロエコノミクス、オペレーション、戦略、ビジネス統計といった各論がビジネススクールの基礎科目として位置づけられていて、そのコンテンツもどんどん学期ごとに変わってゆくのである。えっ、こんなのが学問なの?と思いながらも、ドイツ流の経営学とくらべて、ツール志向が強烈なことに新鮮な感動を覚える。

なぜこうも異なるのか?

保守的な学問としての面目を保とうとすれば、経営現象から一歩身を引き客観的な観察者として記述するのが基本となる。だから、経営現象の後をヒタヒタと追ってゆくことになる。みずから経営現象をつくりだすことはタブーである。日本にはまだこのようなスタンスをとる、もしくは、このようなスタンスしかとれない研究者のほうが多い。

アメリカでは事情は異なる。観察対象ではなく、操作対象として経営現象を置くのである。よって操作の道具=ツール志向になる。経営学説史のようなモノはたいした価値がおかれない。

そのかわり、経営現象を操作する、つまり、起業、新しいビジネスモデルの構築、事業化、統廃合、ファイナンスというような手法に力点が置かれる。しかも、ああだこうのいいながら、移民による人種、文化のごちゃまぜ社会、かつ帝国主義的覇権に執着している国柄の影響もあり、ツールには普遍性を強烈に求めるのでる。つまり、だれが使っても一定の成果がでるという道具。この普遍性志向をグローバリズムといっていいだろう。

ツール志向には、行動主義、プラグマティズム、功利主義が濃厚に息づいており、使えてナンボ、儲かってナンボの割り切りがあるのだ。経営現象を静かに観察するのではなく、経営をこう変えれば儲かりまっせ、という操作ツールの切れ味が売りなのだ。経営技術のKunstlehreの道を突き進んでいる。技術経営もまた、Kunstlehreの道となるべくしてなっている。

なので経営や技術経営でシノぐ教授も大変だ。クライアント企業を持ち、みずからのモデルやテールを使わせ、汎用化してペーパーや書物にしていかないと存在意味を疑われるからだ。経営の現場を持つ教授は一流の経営コンサルタントでなければならないのだ。

使える経営学がよい経営学テキストである。使えるとは、その道具や方法論を実行すれば経営的な成果があがる、つまり儲かるということだ。だから、方法論を持たない論者や評論家が書いたテキストは、立ち読みするだけで買わないほうがよい。

MOTはWissenschaftかKunstlehreか・・・

2008年05月01日 | 技術経営MOT
学部時代、ドイツ経営経済学という古風な科目の教授は初講開口一番こう言った。確か鈴木英寿先生といったろうか。「経営学とはWissenschaftではなくてKunstlehreである。しかしWissenschaftが経営学を支えるのだ」と。

Kunstlehreとしての経営学は実践の学であるとかの先生は喝破し、うぶな学部生だった自分は、「そういうものか」と思った。Wissenschaftとは言うまでもなく求知・窮理の学問である。すなわち、science=学問一般であり、Kunstlehreとは技術すなわちtechnologyである。

日本語では科学技術というように、いっしょくたんにくくられてしまうがScienceとTechnologyは明確に異なる。Service Scienceの提唱者のジム・スポラーは、分かりやすく次のように書いている。

"Science is a way to create knowledge.
Technology is a way to apply knowledge and create new value.
Business model is a way to apply knowledge and capture value."

ズバリ、これなら分かりやすい。

さて、技術経営はScience≒WissenschaftではなくてKunstlehre≒Technologyを志向する。思いっきりはしょって、前者を学問的知識、後者を実践的知識と言ってよいだろう。

MOT専門職大学院には実務家教授というカテゴリーの教員が存在する。実践的知識を体系化して学生に伝える役割を持つ。汗まみれでビジネスの現場で練りこんできた悪知恵、もとい、プロフェッショナルな実践的知識を学生に向かって職業としての学問≒Kunstlehreを真摯に告白するからProfessorなのである。

自分のMOTアントレプレナーシップなる講座は、起業・企業を対象とするため、極めて世俗的、土着的なKunstlehreである。むせるような泥の臭いさえする。泥のなかでグチャグチャになって七転八倒してきたから、告白する息もさぞかし臭くなるだろう。

それやこれやで、鈴木先生といったか、今はもうとっくに引退しているであろう、ドイツ経営経済学の教授の言葉が身に沁みるのである。やはり、Kunstlehre≒Technologyを志向すればするほど、反作用的に技術経営には学問一般≒science≠科学の求知・窮理的な知が必要になってくるのだと思う。

対象に向かって現実的にアタマと手を動かすことが技術経営とするならば、アタマと手を支える足腰の知が学問一般≒scienceであるとでも言ったらよいか。果実を結ぶ葡萄の木が根を張る土壌のような知とでも言うべきか。

ドイツ経営経済学は日本では見る影もなく廃れ、昨今の経営学、技術経営学はアメリカ一辺倒だ。しかしながら、アメリカ系経営学に勝っているものがドイツ経営経済学にはあると思う。ドイツ経営学はすぐれて弁証的に論を構築する、その論理の済一性に、えもいわれぬ審美的な美しさがあるのだ。シュマーレンバッハの動態的貸借対照表理論はその精華だろう。有機的、あるいは生態的存在として企業を分析する視点は、シュマーレンバッハから始まった。そのドイツ経営経済学の系譜に少なからぬ影響を与えたマックス・ウェーバーこそ、今、Wissenschaftの一端に触れるため読まれなければならないと思う。