よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

Web 2.0 → "Life 2.0"

2006年05月30日 | No Book, No Life
ネット関係の世界では2.0がブームとなってすでに久しい。

Web2.0はおろか、
Software 2.0
Open source 2.0
Service 2.0
SOA 2.0
Company 2.0
Development 2.0
Marketing 2.0
Finance 2.0
Management 2.0
Communication 2.0

などは類推、許容の範囲のなか。許せます。

しかし、

"Life 2.0"

には新鮮な感動を覚えた。これは、たまたまスタンフォード大学の本屋で見つけて読み始めた本のタイトル。Forbes Magazineの社長Rick Karlgaardが自らの自家用小型セスナを飛ばし、アメリカ中のオモシロイ人間に会いに行き、深い味わいのインタビュー、雑談をつらね、そこから新時代のアメリカ人のらいふスタイルを抽出するという構成だ。

起業家、エコロジスト、社会運動家、プログラマ、システムエンジニア、ナチュラリスト、科学者、作家、芸術家など彼が接する人間は多様を極める。そんななかで、著者Rick Karlgaardは、プロダクティブなアメリカ人インテリ層に立ち顕れて来ているライフスタイルとして以下のような傾向を挙げる。

・大都市よりも郊外、あるいは遠隔地の小さなコミュニティに住む。
・知的な、クリエイティブな仕事を生業とする。
・知をわかつコミュニティがアメリカ人インテリ層を吸引しつつある。
・仕事、家庭、個人のバランスを重視。

うーん、なるほどと言う感じか。たしかに、まわりの高度専門職と呼ばれる仕事をもつアメリカ人にはこの傾向を持つ人たちが多い。日本人にも、このようなライフスタイルを持つ人は増えてきていると思うが。

しかし、社会現象として"Life 2.0"のように質的事例研究を、お堅い研究ではなく、ジャーナリズムの立場から、たんねんにかつ知的好奇心溢れる角度から一般化させる試みは、この本が始めての部類だろう。まだ日本ではお目にかかっていないテーマだ。


湯けむり、済生会山口病院

2006年05月28日 | 講演放浪記
仕事をさくさくこなして海浜幕張から羽田へ車で飛ばす。
羽田から山口宇部空港へ。
そこからバスを二本、乗りついてやっと山口へ。
移動中の時間はすべて読書。
その間、携帯が鳴ること数回、会社とヤリトリをしながら、それでも本ありき。

飛行機や新幹線での移動がいいのは、まとまった時間がたっぷりとれること。
しかも到着の時刻の目安がつけれることか。

忙しさにかまけて本から離れるのは、そもそも怠惰への始まり。
文字通り、心が亡くなる状態が忙しい、と書く。
どんなに仕事が詰まっていても、
やっぱ、活字がないと生きてはいけない。
活字を追ってさえいれば、純粋な意味空間、創造空間、
仮想の空間に身を置くことができる。
書くのもいいが、純粋に楽しむ読書が贅沢の極地か。

湯田温泉の旅館ではフグの料理が美味しかった。
温泉につかっていると、萎えていた体にジワジワと
エネルギーがこもってくる。

このエネルギーが活字にまた向かう。
湯田温泉は中原中也が足しげく通ったという。
中也に限らず、文人には温泉を好む輩が多いのは、
温泉から活字への衝動にも似たエネルギーを
得るためか。

翌朝、山口済生会病院へ。玄関のところで江藤京子さんと出会い、
雑談をしながら会場へ。

クリニカルラダー、ヒューマン・サービスマネジメント、MBOなど
いろいろな切り口からお話する。




日綜研博多にて講演

2006年05月21日 | ニューパラダイム人間学
土曜日は博多。クリニカルラダーの開発と運用について話す。クリニカルラダーを職務目的、成果責任、臨床実践能力、コンピテンシーモデルなどの方法を駆使して、創りあげる。この作業は、暗黙知の形式知化であり、過去の総ざらいであり、あるべき姿の仮想でもある。時間がなかったので、質疑応答は残念ながら事務局の判断で割愛。もっと、会場の皆さんと語り合いたかったのだが。

このところ茂木健一郎の「脳と仮想」が面白い。飛行機の中で読み耽る。仮想されたあるべき姿にみかって組織をつくり、人材を評価する。クリニカルラダーの創りこみは、あるべき現実を仮想することから始まる。仮想されたあるべき現実を、向こう側において、目の前の現実(的な状況)に変化を加えてゆくという作業は、けだし、きわめて認知の狭間で微妙な意味合いを持つか。

理念の構想、部門方針の策定、目標の立案など、組織運営にかかわる未来志向的なものは、すべて仮想的だ。未来志向とは「今、ここ」から、その先を見渡す認識のタバのようなもの。私たちの精神は、頭蓋骨の中の「今、ここ」の局所的因果性の世界と、「今、ここ」に限定されない仮想の世界にまたがって存在する。(p67)

社会的存在の人間は、組織との関わりあいのなかで生きている。人間は「今、ここ」に生きていると同時に、「今、ここ」の現実にないものを見ることによって、現実をより豊かなコンテクストの下で見ることができるようになった。(p35)だとしたら、組織は、「今、ここ」の立ち位置を保証すると同時に、未来のあるべき姿という仮想の機会を提供する認識の空間でもある。

どうやら頭のなかの1000億もの神経細胞は、切実に仮想を求め、仮想を求める人のなん割りかは、いたたまれず組織を求めるのだろう。就職、転職、起業、ニートからの復帰、いろいろあるが、人間は組織が提供する役割と本質的に無縁には生きてはいけない。病院、企業、NPO、軍隊、宗教団体を問わず、組織とは仮想をオーガナイズする意味空間を演出する装置でもありる。こと病院に限っていえば、その意味空間を編集するひとつの道具がクリニカルラダーでもある。






Alfrescoに見るデュアルライセンスモデルの進化

2006年05月14日 | オープンソース物語
ECM分野のオープンソース企業、Alfrescoのライセンス体系の変更は示唆に富む。その新体系は彼らのサイトにて発表されているとおりだ。

AlfrescoのECM製品は100%オープンソースとなった。ただし、商用利用の場合はライセンスフィーを支払うものだから、言ってみれば、MySQLと近似したモデルか。オープンソースはサービス領域を活性化させてゆくと、常々言ってきたが、Alfrescoの今回のライセンス体系変更は、トレーニング、サポート、コンサルティングなどのサービス領域重視を反映させた(せざるをえない)ものだと思われる。

同社サイトによると;
「Small Business Network」 $2,995/year、20ユーザまで。
「Enterprise Network」 $7,500/CPU/year、ユーザ数無制限。

Enterprise版はCPUライセンスでユーザ数無制限となっているところがevolutionary and revolutionary。もっとも、エンタープライズCRM界隈では、サイトモデルなど言って、「初期投資+ユーザ数無制限」型は実質的なCPUライセンスによってもたらされる顧客価値に近い。ライセンス収入を減じてもユーザが得る費用対効果を最大化して、サービス領域での収益拡大機会を確保してゆくというシナリオでは必然か。




里山はアウトドア系オープンサービスの宝庫

2006年05月05日 | 自転車/アウトドア
仕事の御縁で多古にある里山に寄り添う古民家でのBBQにお呼ばれにあずかった。

里山は、文字通り、人と山の世界が交わる世界。そこは、人が暮らしてゆくために手を入れた所で、田んぼや畑を耕し、薪をとり、木材を切り出し、炭を焼き、山菜や魚などを採って、生活を営むためのnaturalでartificialな場だ。

この季節、このあたりの里山はありとあらゆる命の芽吹きが重なり合い、足元の草花から広葉樹の林冠までの空間は、荘厳にして静謐な生命のカミングアウトに満たされる。五月晴れの爽やかな風はそんな濃淡さまざまな緑の木立をそよぎ渡り、甘美な香りさえも匂うがごとく、頬をなでる。風香るという言葉は、この季節の低地広葉樹林の里山の風にこそふさわしい。

ひとしきり、ビールで焼肉、ホタテ、さざえをご馳走になってから5-6人の老若男女で里山散策に出かけた。緑の小径には、ツツジ、セリ、フキ、ハハコグサ、ノビル、ショウジョウスゲ、ヤブカンゾウ、サンショウ、タケノコがところせましと自生している。ときおり、畑の向こうをキジが走り、空にはトビはおろか、白鷺、猛禽さえも舞う。そんな豊穣な空間の底辺である地べたに向き合い、おとなも子供も、みなでわーあー歓声をあげながら、タケノコを掘り出し、山菜を摘む。

広葉樹の林を抜け、あぜ道を伝い、集落の一画を歩けば、スサノオの尊を祭る熊野神社が鎮座し、千手院なる密教の系譜を継承する古寺も程近い。宗教的にも里山は多様だ。そこでは、神佛さえもが共存し、習合する。里山は、異質な「もの」や異質な「こと」を解け合わせ、交わらせる不思議な空間だ。そこには、そこはかとなくも歴然と、多神教のクニ、ニッポンの原風景が横たわっている。そして道端の雑貨屋の脇には「神の国は近い」なんていう錆びた標語を掲げるプレートも。

ああ、なんという豊かな時間が遍満するつつましやかな祝福に充満した小宇宙か。振り仰げば、時間が里山の端でおもむろにたたずむように静止しているかのようだ。そして惜しげもなく、春の太陽は暖かな日差しを天空から、この多古の地に息吹きかけるがごとく降り注いでいる。

豊かな遊びは、やはりオープンな野外にこそ存在する。naturalとartificialが交わる場にアソビは生まれるのだ。里山はおおいなるアソビの場なのかもしれない。そして、そこは、ちょっと注意を向ければ、人が自然と交わり、織り成し続けてきた生活の場、精神世界への扉が待っているのかもしれない。