きょうは法専寺仏教壮年会の総会&懇親会でした。
懇親会の折、I氏が「『生と死』も、自分がなす『善と悪』も本当に紙一重だと思う」と仰って、「まさにそれが仏教ですよ」と話したことでした。
自分がなす「善悪」も紙一重。
「水戸黄門」の登場人物のように「いい人」「悪い人」とはっきりは分類されないのが私。その場、その時の縁によって、何をしでかすかわからない・・・
仏教では「無我」を説きます。
みんな「自分がある」と思っている自分の「我」ですが、「諸行無常」が真理であるように、「我」も「無常」、つまり常ならず、移り変わる。
固定的な「我」というものはない・・・ということです。
じゃあ、今「自分」と思っているものは何か・・・というと、それは「仮我」。
自分の身体と考え(精神)で仮に成り立っている我ということです。
「仏教」のテキストによれば、「因縁がとければ、解体されるもの」と書かれています。
ひろさちや氏の「仏教初歩」すずき出版 の中では、「預かっている『自分』」「『わたし』とは借りてきたもの」と表現されています。
ーーーわたしは、「わたし」をほとけさまからお借りしているーーー
p101 わたしたちみんな、それぞれ「自分」をほとけさまからお借りし、預かっています。だとすれば、わたしたちは、その「自分」を大事に使わねばなりません。(略) ほとけさまからお預かりしている命だから、粗末にしてはいけません。
自殺はもちろん言うまでもありませんが、暴飲暴食もお預かりしている自分のいのちを大切にしてないこと・・・
きょう、懇親会でS氏が「飲み過ぎ危険のメーターでも身体に表示されれば、用心するんだけど・・・自分ではわからんで、限度を越えてしまうもんね」
そうです、何事も「わかっちゃいるけど、やめられない」
お酒好きの方ならば、その場、その時の感情で楽しく、あるいはやけ酒で、身体(内臓)を酷使。
仏さまから「お預かりしている命」といつも思っていれば、穏やかに大切に生きてゆけるのでしょうが、すぐ、忘れちゃうのが凡夫。
「無我」の境地なんて、遠~い、遠~い。
仏さま、ごめんなさ~い
懇親会の折、I氏が「『生と死』も、自分がなす『善と悪』も本当に紙一重だと思う」と仰って、「まさにそれが仏教ですよ」と話したことでした。
自分がなす「善悪」も紙一重。
「水戸黄門」の登場人物のように「いい人」「悪い人」とはっきりは分類されないのが私。その場、その時の縁によって、何をしでかすかわからない・・・
仏教では「無我」を説きます。
みんな「自分がある」と思っている自分の「我」ですが、「諸行無常」が真理であるように、「我」も「無常」、つまり常ならず、移り変わる。
固定的な「我」というものはない・・・ということです。
じゃあ、今「自分」と思っているものは何か・・・というと、それは「仮我」。
自分の身体と考え(精神)で仮に成り立っている我ということです。
「仏教」のテキストによれば、「因縁がとければ、解体されるもの」と書かれています。
ひろさちや氏の「仏教初歩」すずき出版 の中では、「預かっている『自分』」「『わたし』とは借りてきたもの」と表現されています。
ーーーわたしは、「わたし」をほとけさまからお借りしているーーー
p101 わたしたちみんな、それぞれ「自分」をほとけさまからお借りし、預かっています。だとすれば、わたしたちは、その「自分」を大事に使わねばなりません。(略) ほとけさまからお預かりしている命だから、粗末にしてはいけません。
自殺はもちろん言うまでもありませんが、暴飲暴食もお預かりしている自分のいのちを大切にしてないこと・・・
きょう、懇親会でS氏が「飲み過ぎ危険のメーターでも身体に表示されれば、用心するんだけど・・・自分ではわからんで、限度を越えてしまうもんね」
そうです、何事も「わかっちゃいるけど、やめられない」
お酒好きの方ならば、その場、その時の感情で楽しく、あるいはやけ酒で、身体(内臓)を酷使。
仏さまから「お預かりしている命」といつも思っていれば、穏やかに大切に生きてゆけるのでしょうが、すぐ、忘れちゃうのが凡夫。
「無我」の境地なんて、遠~い、遠~い。
仏さま、ごめんなさ~い
ちょっとした きっかけで
方向が変わるってことが
あるように思います
特に
自分を持っていないことに関しては