何だか、仏教で意味する「法」ということに
誤解があるように思います。
仏教で言う「法」は、
人間が作った「法律」(その宗教内において、守るべきもの、従うべきもの、戒律)のことではありません。
むしろ、自然科学における「法則」をイメージしていただいたほうが、より近いと思います。
稚拙な例えですが
例えば、「テーブルの上に、真っ赤な林檎が、1個ある」とする
それを見て、林檎が大好きな人は「まあ、美味しそうな林檎」と見るでしょうし、
林檎が嫌いな人は「うわっ、酸っぱそうな林檎」と見るかもしれない。
ある人は、気にも留めない(林檎があること自体、気づかない)かもしれない。
また、ある人は「お腹すいたけど、1個しかない・・・これ、食べていいの どうしよう」と迷い、
また、ある人は「私のために、私の好物を置いてくれていたに違いない」と考え、
ある人は「私の嫌いなものをテーブルに置くなんて、嫌がらせに違いない」と考えるかもしれない。
私たち人間は、自分の価値観・思想を通して、自分の見たいように、物を見る。
「テーブルの上に、真っ赤な林檎が、1個ある」
それは、事実(真実)であり、何の感情もはさまない「あるがまま」=「法」である。
誤解があるように思います。
仏教で言う「法」は、
人間が作った「法律」(その宗教内において、守るべきもの、従うべきもの、戒律)のことではありません。
むしろ、自然科学における「法則」をイメージしていただいたほうが、より近いと思います。
稚拙な例えですが
例えば、「テーブルの上に、真っ赤な林檎が、1個ある」とする
それを見て、林檎が大好きな人は「まあ、美味しそうな林檎」と見るでしょうし、
林檎が嫌いな人は「うわっ、酸っぱそうな林檎」と見るかもしれない。
ある人は、気にも留めない(林檎があること自体、気づかない)かもしれない。
また、ある人は「お腹すいたけど、1個しかない・・・これ、食べていいの どうしよう」と迷い、
また、ある人は「私のために、私の好物を置いてくれていたに違いない」と考え、
ある人は「私の嫌いなものをテーブルに置くなんて、嫌がらせに違いない」と考えるかもしれない。
私たち人間は、自分の価値観・思想を通して、自分の見たいように、物を見る。
「テーブルの上に、真っ赤な林檎が、1個ある」
それは、事実(真実)であり、何の感情もはさまない「あるがまま」=「法」である。
少なくとも、「法」が私のイメージとは違う概念であることは分かりました。
リンゴの例え話は分かるのですが、それを悟りの対象とした場合、のことがちと・・・
自分は何者か?というようなことでしょうか?
仏教では、真相を明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。私たちは多くのはたらき(いのち)に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら今日にいたるまで生きています。こうした私の本当の姿を真に知ることは、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。
阿弥陀さまのまことの光にてらされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。仏法をいただき、真実に触れ、ありのままがありのままに頂けたとき、虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされてくることであり、と同時にそこには自ずと明るい道が開けてくることでしょう。
http://www.honganji.or.jp/oshie.html#9 この最初からお読みいただくと
浄土真宗の教え 考え方が 少しは ご納得いただけるかと存じます。
そうです!
自分は何者か? を 知らされるのが
仏の教えです。
「法」を ピカピカの鏡と例えたら、
それに映し出されて、初めて気づく私の心のあり方です。
「あるがままではなく、自分の見たいように見て、自分勝手に思いこんでいるなあ~」と気づかされることです。
仏を知る ということは、謙虚に、私の心を知る ということです。
「近くの僧侶」様が仰っている
「凡夫」「闇の中にいるもの」とは、
あるがまま(真実)が見えず、
自分の見たこと、自分が感じたことに、自分の心が支配されている状態の者
のことです。
近くの僧侶さん、
ご紹介ありがとうございます!
厚く御礼申し上げます。m(_ _)m
数学を学ぼうとしている四則演算がやっとの素人に、微積分の説明をされるようなものです。
私も長く人にものを教えてきた経験がありますが、自分のレベルや言葉ではなく、相手に合わせた説明でないと、理解を得られません。
仏教用語は、同じ日本語でも、一般人の理解とは違った意味があるし、独特の単語もあります。
それらを、説明なしに使用されると、聞く方は混乱して、理解不能になります。
例えば「法」「真理」「自力」など
「そんなことも知らないのか」と思われるかもしれませんが、そんなことも知らないから、このブログで学ぼうとしているのです。
ご紹介のサイトの内容が理解できるようなら、苦労は致しません。拝見しましたが、真宗語で語られているので、俗物語に翻訳する必要を感じます。
まさに、このブログがそれなのですが。
法専寺さんは、素人の感覚で説明されるので、分かりやすいのです。
ところで自分が何者か?がテーマに近いとして
それなら、長年悩んできたことでもあります。
方向違いかも知れませんが、なぜ自分が存在するのか、どうあるべきか、が人生の課題でした。
それも、すでに囚われていることになるのでしょうか?
親鸞聖人は、その生涯において、真実とは何かを求め続けられました。その結果、人間の真実の姿とは、煩悩に振り回されている愚かなありさまでしかないと気づかれたのです。仏の真実に向かい合った私自身のありさまは、自己中心のあり方から離れられず、まさに「愚悪」としかいいようのない姿であったのです。
http://crs.hongwanji.or.jp/kyogaku/osie-rekisi.htm
なぜ、自分が存在するのか、どうあるべきか、は人生において、大切な疑問だと思います。
それは、とらわれの心とは、違うと思うのですが・・・
遠くの僧侶さん、
ご紹介いただきまして、ありがとうございました。
ご指導に厚く御礼申し上げます。