お寺のオバサンのひとりごと

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お経は誰のためにあげるのか?

2021年11月28日 | 仏教
 先日、佐賀教堂報恩講での法話の中で、
「お経は誰のために称えているのか」
と、ご講師がある方から尋ねられたエピソードをお話くださいました。
 そのお話を伺って、私がご門徒さんのご法事にお参りさせていただいた時のことを思い出しました。
 勤行の後、お参りの皆さまに
「お経は故人のためでなく私のためにお称えさせていただいている」
という趣旨の法話をさせていただきましたが、お参りのご親戚の方から、
「『お経は自分のためと』言われたが、何だか故人に対して冷たくないですか?」
と、言われました。
 お経や念仏を称えるのは亡くなった方のため 故人の冥福を祈るためと、思っておられる方にとって、
「私のため」
というのは私の下手な法話もどきでは、意味がわかられなかったのだと思い、あわてて、
お経はお釈迦さまのお説法で、今は仏と成っておられる故人をご縁として、私が聞かせていただくものです。
と、申し上げました。
 でも後から、こうも思いました。もしかしたら「私のため」という意味を、
私に好都合な現世利益を願って、お経や念仏を称える
というように誤解して受け取られ、自分のことを願って、故人の冥福を願わないとは「故人に冷たい」と受け取られたのかもしれないと。
 「私のため」のお経ですが、
仏教は、まず、この「私」が問題。
 仏教は「成仏・私が覚りの仏に成らせていただく教え」で
先ず「私の心(感性)が、仏に、いかに程遠いか気づかせていただく」のがスタート
という根本が忘れられていては、「私のため」は、誤解を招くかもしれないと思ったことでした。
 
 
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