インタビュアーは「赫い髪の女」(傑作)「リボルバー」(大傑作)や「Wの悲劇」などの脚本で知られる荒井晴彦(「争議あり!」も必読)。彼も触発されて芸談が始まる。
「澤井(信一郎)さんと『Wの悲劇』をやった時、薬師丸ひろ子が処女を失ったあと、朝帰りするシーンがあるんですよ。で、澤井さんは、薬師丸ひろ子に足の間に棒を入れた感じで歩け、ガニマタで歩けと。けれど僕としては、澤井さん、そんなことありえないよと。『処女をなくしたら、どうしてガニマタになるの?そんな女、見たことないよ』と。そんなこと、見えなくたっていいじゃないか、そういうことじゃないことで客にわからせられないのかと。でも、澤井さんは頑強にガニマタで歩かせるわけですよ。で、僕は『見えないものは見えないんだよ』と。書くときもそこで困るわけですよ。いろんな女に電話して『お前、処女をなくしたあと、まず何をした?』と(笑)。で、結局、澤井さんがガニマタで歩かせたあと、薬師丸に部屋で何をさせたかというと、カレンダーに生理日の印をつけさせるんですよ。でも、そんなことしないでしょ」
……自己主張しろよ薬師丸(笑)。それはともかく、このあたりに脚本家と監督の違いがあらわれているような気がしてならない。「意図」と「画面の効果」どちらを優先させるか。このバトルがあるからこそ映画は面白いのだとも言えるだろう。ただ、わたしは今の日本映画界において、脚本家の地位が低すぎるという意見に100%賛成だ。TVが堂々と「倉本聡脚本」などとうたいあげているのに、なぜか映画はそのほとんどが監督のモノとされている。映画を建築に例えれば、設計図を描いた人間より、現場監督の方がはるかに評価されるなんて、どうしても納得できない。ゼロから有を生み出すことがどれだけの苦行か、観客も理解するべきだとつくづく。
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