日本は性表現においてずいぶんと遅れていると言われてきた。もちろんイスラム諸国などに比べればはるかに自由だろうが、「紅白歌合戦(思えばアナクロなタイトル)においてDJ OZMAのバックダンサーが“裸の肉襦袢”(笑)をつけて踊ったことで文科大臣が遺憾の意を表する」ような国なのだから。
かつて野坂昭如が永井荷風(が書いたといわれる)の「四畳半襖の下張り」を雑誌に掲載して裁判になったり(有罪確定)、「恋の狩人」における日活ロマンポルノ裁判(無罪)が、映倫というものの存在を検閲ではないかと逆に露わにしたり……結果として残ったのは“行為としての猥褻”を問うよりも、“画像としての猥褻”を無条件に摘発する傾向だったと思う。ぶっちゃけた話、性器はもちろん陰毛も見せてはいけないという、世界でも稀なルールができあがってしまったのだ。
そのため、画面のすみっこにでもヘアがあったら即修正。昔はフィルムに直接傷をつけていたが(ごにょごにょと白い線のかたまりがうごめいていたでしょう?)、合成して花瓶を前面に挿入したり、そしてのちには例のぼかしやモザイクが入ることになった。
結果、日本のバカな男たちはヘアを観るために狂奔することになる。輸入雑誌(PLAYBOYとかPENTHOUSEとか)はその部分が黒マジックで塗りつぶされていたため、ベンジンだのバター(わははは)だのでそぉーっとふき取るという報われない作業に没頭し、「モザイクは目を細めて見ると消える」という与太話にわずかな希望を託したりした。
つまり、日本においてはヘアがものすごくありがたいものに感じられることになったのだ。シャレじゃなくて不毛なことに。
それが、いつの頃からか一般の男性週刊誌にまで「ヘアヌード」が掲載される世の中になろうとは。記念碑的な作品が宮沢りえの写真集「Santa Fe」(’91)なのは賛同してもらえることと思う。映画においても、医学指導、あるいは教育的(T_T)映画でしか観ることの無かったヘアは、まず芸術的価値があると評価された映画から解禁された。わたしがいちばん最初に“目撃”したのは、「イングリッシュ・ペイシェント」(’96 アンソニー・ミンゲラ監督)における、クリスティン・スコット=トーマスの入浴シーンにおいてだった。さすが、アカデミー賞受賞作だっ!
以下次号「美しき諍い女」篇へ。
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