本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

忘れるという煩悩

2018-12-04 20:27:56 | 十地経

忘れるということは

年と共に多くなるし

自然な流れなのかなと思っていた

のですが、

仏教では煩悩の一つとして

数えられています。

 

以前、師匠からは

「忘れるということは罪である

 不安という罰を与えられる」

ということを聞き、

「忘れました!」

と言うととても叱られたものです

 

普通には、

忘れました。失念しました。

記憶にございません。

と言えばそれで通るのです。

政治の世界でも、裁判の中でも

「忘れました」

と言えばそれ以上は何とも言えない

ということです。

 

大随煩悩のなかでは

「失念」という煩悩で出てきます。

「念」ということは、

憶念不忘というように

経験したことを憶えていて

忘れないということです。

「念力」ということも

忘れない力ということです。

 

そういえば、

昔は暗記するということが

一番の勉強でした。

漢文でも丸暗記するように

繰り返し声に出して

おぼえたものです。

小学校の頃は国語の教科書を

声に出しておぼえる

そこから始めていました。

 

お経も、

お釈迦さまの説かれた教えを

憶えて口伝えに伝えていった

ですから、

インドでは覚えておく

ということが何よりの勉強で

口に出しておぼえやすいように

とてもリズミカルに唱えています

ところが、

中国の伝統は

書き残すという

憶えていたことより

紙に書いてあることを重要視して

口伝えのものを書いて

お経として残したのです。

 

では、

なぜ、忘れるという「失念」が

大随煩悩になるのでしょうか。

経典の中には

正しく念ずることを妨げ

散乱を引き起こしてくる

元になるから、と書いてあります

仏法を聞くということは、

大事なことをしっかり覚えておいて

意識が散乱しない、ということです

仏法を聞くという功徳は

生活の意識の中に

散乱ということが出てこない

ということになると思います。

 

散乱とは心が千千に乱れ

見れば見たものに心惹かれ

聞いたら聞いたことに

心が持っていかれ

集中できないという状態です

私たちの生活はまさに

このような有り様でしょう。

 

だから、

失念ということは

自己を忘れさせ、

人間が自己に立ち戻るという

ことを妨げてしまうのです。

そこが

煩悩と言われるところでしょう

 

面白いことに

ある有名な先生は

絶対に忘れたということを

言われなかった。

心のそこにあるのですが

今、出てこないだけですと

言われてましたが

その時は何か詭弁のようにも

思えたのですが

忘れてしまったのは

心にないのですが

心にはあるけど今出てこない

微妙な違いがあるようです。

 

『十地経講義』の

最初のところにも

「見て敬い聞いて忘れず」

とあります。

それは何回も繰り返して

読み返すことが必要だ

ともおっしゃっておられます。

 

金太郎飴というものがありますが

どこを切っても金太郎が出てくる

安田先生を見て思うのですが

どこから見ても

仏法しか出てこない

お酒を飲んでもご馳走を頂いても

歌を歌われてもテレビを見ても

どの話をしても

仏法の話になっていく

 

その根底には仏法しかない

いつでも仏法に浸っておられる

だから出てくるものは

仏法しか出てこない

そういうことが正念ということ

なんでしょう

だからその念を失う失念とは

人間として一番大切なものを

失くしてしまうから煩悩に

数えられているのでしょう。

 

また、

どういうことを忘れたか

ということで、

その人の人間性が出てくる

とも言われています。

自分にとって関心あることは

繰り返し見たり見たり聞いたり

するので忘れないものです

人でも自分に都合のいい人は

忘れないし

どうでもいい人は

忘れてしまうものです

そういう所にその人の

人間性が出るというのです

だから、

「忘れました!」

ということも努々おろそかには

出来ないように思います。

 

 

 

 

コメント
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