本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

作る者なくして作られ、滅する者なくして滅する

2024-07-26 19:56:54 | 十地経

「一心三界。

三界一心というのは、

一心が三界を作るという

のである。

これは三界を作った者は

ないものであるという

ことである。

神や仏が作ったのでなく、

人間が作ったのでもない。

一心が三界に似て転変した

 

作る者なくして作られ、

滅する者なくして滅する。

 

自然ジネンであるという。

作者を必要とせぬ。」

 

なかなか難しい。

三界(サンガイ)というのは

私たちの住んでいる

迷いの世界です。

それを三つに分けて

欲界・色界・無色界と

こういう世界に棲んでいる

 

欲界というのは

欲ですから、

損得勘定の世界です。

普通いう儲かった損したと

言ってあくせくとしている

まあ、一番の関心事です。

それから

色界(シキカイ)というのは

色恋の世界というのでは

なく、

欲界よりも少し上の世界で

簡単には芸術の世界で、

絵画を見て楽しんだり

音楽を聞いて楽しむ

また、お茶を楽しむとか

そういう楽しい世界に遊ぶ

ということです。

 

無色界になると

色も形もなく

思想とかイデオロギーに

生きるという

最終的には一番激しい問題

を含んでいます。

考え方が違えば

生き方も違ってきます。

 

そういう三界に生きている

というのが

私たちのあり方だと

いうのです。

 

そして更にその三界は

一心が作ったといいます。

「三界は虚妄コモウにして

ただ是れ一心の作サなり」

ということが、

華厳経の十地品の中に

でています。

 

この世界というのは

私たちがいようがいまいが

現存としてあると思ってい

ます。

例えば、ここから見える

比叡山は私が生まれる前か

らあるし、

私が死んだ後も変わらずに

そのままあると考えます。

 

ところが、

「三界は一心の作なり」

というと

この三界は私の心が作した

もので、実在している

というのは妄想である

といっています。

 

ちょっと理解し難いです。

 

このことは適切でないかも

しれませんが、

私の場合20年周期で

熊本と京都に住んでいます。

京都に住所を移したら

熊本へ来ると妙に

観光気分のような

お客様のようなあり方に

なってしまう。

熊本に住所があるときは

京都へ来ると

見るもの聞くもの珍しく

興味津々で見えてしまう。

 

熊本も京都も

何一つ変わっていない

変わっているのは

私の心だけです。

同じ京都と熊本でも

自分の心が作り出している

それによって

まったく違った世界を

作り出しています。

 

よくあいつは憎い奴だと

嫌なことを言われて

よくもそんな酷い事をいう

ものだといって憎むのです

が、

よく考えてみると

その時は酷いことを言うと

憎く思うのですが

昼間聞いたことを

夜になっても思い出して

腹を立てている

それは、自分の記憶に

腹を立てているのです。

 

憎いと思った人は

違う人に対しては

とても良い人なのかも

しれません。

勝手に憎い人というのを

作りあげて、その思いに

腹を立てている

ということです。

 

これはあまりいい例では

ありませんが、

三界というのは

私たちの一心が作り出して

いるということです。

 

事実は

私が死ねば比叡山もなくな

るし、この家もなくなる

今、住んでいる家は

私が作り出した家であり

他の人にとっては

同じ家であっても違う家を

演出しているのです。

 

難しいようでも

仏教とほかの宗教との違い

がはっきりしてくる問題

でもあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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磨く、自己を磨く

2024-07-24 19:52:48 | 十地経

磨くということ

お寺では仏具磨きといって

真鍮製の仏具を磨く

とても面倒なんですが

やはり、本堂の仏具が

ピカピカに磨き上げられて

いるのは

気持ちのいいものです。

 

講義の中でよく登場する

スピノザという人

哲学者といわれていますが

手にはレンズを磨くという

職をもっていたそうです。

 

この方、今ちょっとした

ブームになっているそうで

難しい本ですが

この本を読み通すという

人が増えているそうです。

17世紀の人ですが

後の哲学者に

大きな影響を与えたことでも

よく知られています。

 

ただ私にとっては

単純なことなんですが、

磨くという

レンズを磨いて職を得て

あえて哲学者に甘んじる

ことなく、職人という

ところに惹かれたのです。

 

この時代は哲学をやる人は

結構、レンズを磨くという

ことをやっていたそうです。

勝手に思うのですが

やはり磨くということは

何か集中できる

思索の時間がもてるのでは

ないかと思います。

 

十地経の初歓喜地は

歓喜したと、

何に歓喜したのか

それは自分の煩悩の在りか

が見えた

ということでしょう。

それまでの自分は

迷っているのやら

ましてや悟っているのやら

何もわからない混沌とした

中にいたのでしょう。

 

そんな中にあって

初めて自分の煩悩が見えた

それが大きな歓びだった

後は

その煩悩を対治していけば

いいだけ

その道筋が見えた

というのが初歓喜地です。

 

それから修行が始まる

そして、第七地遠行地まで

くると、一番大きな難関に

出くわす。

そして七地沈空という

空に沈んでしまうという

一番の難関です。

 

それまでの修行は

有功用行(うくゆうぎょう)

といって、

努力の限りを尽くす、

功用(くゆう)というのは

努力というようなものです

 

それが、

第八地不動地になると

もう努力のいらない世界

無功用行(むくゆうぎょう)

になってきます。

よく自然(じねん)という

ことをいいます。

努力が身につくというか

努力している意識すらない

もうすべてが自然に

努力しているという

ですから、

初歓喜地から第六地までと

その中間点が第七地

八地以降は仏の世界

 

第十法雲地は

終わりではなく

無限に努力するという

よくこういうことを

言います。

 

迷いは始めがなく

終わりがある

さとりは初めがあって

終わりがない

 

人間が何時迷い出したか

それは分からない

人類がこの世に出て以来

迷い続けている

そこに終止符を打ているの

が初歓喜地です。

 

そして法雲地が

そこからは終わりのない

修行が始まっていく

何か簡単ですが

こういうことが十地経の

構造のようです。

 

練磨、

ということがあります。

鍛錬するように

自分を磨いていく。

煩悩を磨いて磨いて

練磨して本当の自分を

磨きだしていく

 

十地経の実践ということが

自分を練磨していく道程の

ように思えたのです。

 

 

 

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人類が自己に目覚めたとき

2024-07-23 20:39:58 | 十地経

大きなタイトルですが

「自己とは何ぞや」

という問題に目覚めたのが

時を同じくするように

紀元前300年〜400年頃

西洋ではソクラテスが

「無知の知」という

何でも知っているが

自分とは何かということを

知らない、

 

東洋では釈迦がそして

孔子がそういう問題に

触れてきたように思います

この頃が人類が自己とは、

という問題に

目覚めた時でしょう。

 

講義は前回の続きですが

「一切を知ることが

自己を知ること、

知ることが解脱すること

である。

ソクラテス以前とは、

ソクラテスの哲学は

プラトン・アリストテレス

になると堕落してきた

のではないか。

 

哲学者は学校とは何も

関係なかったのである。

カント以後職業化した。

スピノザでも眼鏡屋で

あったというのである。

職業は自由であった。

それがプラトン以来、

アカデミーの中に

入ってしまった。

 

しかしそれが本来で

ないのである。

それ以前は、自由な、

職業とは無関係の書簡・

対話であった。

初めから専門ではなかった

 

講義まで下がったら、

学問は下の下まで下がった

といえるのではないか

と思う。

学問が専門化し職業化した

ためであると思う。」

 

プラトンになると

アカデメイアという学園を

開き一つの智といことが

純粋性がなくなったと

言っているのでしょう。

 

哲学ということも

今では哲学者と肩書が付く

のですが、

哲学という言葉の

元になったフィロソフィー

は、「知を愛する」

ということです。

それで、

プラトン・アリストテレス

になってくると堕落した

というのでしょう。

 

スピノザは眼鏡屋とあります

が、レンズ磨き職人です。

そいう職人が哲学をやった

別に特別な人が哲学を

やったのではないと

いっています。

 

アカデミーということも

元はプラトンが作った学園

の名前だった。

哲学とはもっと自由な

職業とは無関係の

書簡対話であったと、

ソクラテスも著書はなく

対話集がプラトンによって

編集されたようです。

 

お釈迦さまも

今では八万四千の法門と

いわれるように

多くの経典が残っています

が、ご在世当時は

書き留めることを禁止され

教えを聞き、

そのことについて対話する

という形を取られました。

 

お釈迦さま滅後

結集といわれるように

残された弟子たちによって

編集されたものが経典に

なったのです。

 

「あらゆる学問や

あらゆる人生経験を通して

そこから哲学に入っていく

ものであると思う。

哲学がぽんとあるのでは

ない。

国語・数学や英語や化学を

媒介にして、

その基礎の上にある

のである。

色々の科学とか

そういうものがないと

哲学はできないもので

あると思う。

求道とかがぽんと

あるのではない。」

 

今まで、

自分にとって都合が良いか

悪いか、

都合のいいものは善であり

都合が悪ければ悪であると

そのような自分中心の

考え方が見直されて、

本当の自己とは何か

そういうことが考えらえた

という時代が紀元前300年ごろ

であったように思います。

この時初めて

人類が自己に目覚めた時

ではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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一切を知ることが自己を知ること

2024-07-20 16:01:14 | 十地経

今回の講義は

テープがなかったのか、

レコーダーの故障か

先生方のノートにより再現

されたものです。

簡にして要を得たものです

しかしながら

このように要約できる文に

なっているところが

素晴らしい。

私たちも一応はノートを

取るのですが

後になって読み返すと

どうも、

文として繋がらないし

ただ単語の羅列のような

読めたものではありません

 

「一度目をさましたら、

眠るということはない。

終わりはない。

それが自覚の問題である。

初めのないものに

初めを見出してくる。

それが初歓喜地ということ

である。

終わりがないというのが

第十法雲地で、

初めを表すのが初歓喜地

である。」

 

よく、

初めがなくて

終わりがあるもの

ということをいいます。

これは迷いということです

反対に

初めがあって

終わりがあるもの

これがさとりの世界です。

 

人間の迷いは

何時始まったか分からない

人類が発生したときから

しかしながら

迷った人間が迷いを翻して

修行の道を歩み始める

そこには終わりはない

ということです。

 

「『十地経』は実践問題

である。

その中に存在問題を含んで

いるのである。

第六地に三界一心、

十に縁起は一心による

ということが出ていた。

その一句が大乗の縁起と

して重要な問題である。

初めて般若の智慧が実現

した。

それを掲げてそれを唯識の

根本教証にしたのが

無著・世親である。

『唯識二十論』の中に、

『十地経』の言葉を唯識の

根本教証として見出して

いる。

 

『十地経』は『華厳経』の

もとになるのであるが、

影響力のあった経文である

しかし、

三界一心は実践問題として

より存在論の問題として

大きく見出している。

その三界一心は必ずしも

阿頼耶ではないけれども、

この『十地経』から地論宗

というのが開けた。

 

唯心縁起と菩薩十地という

両方の意味を『十地経』が

もっている。

願楽位ガンギョウイ、

通逹位ツウダツイ

修習位シュウジュウイ

究竟位クキョウイ

唯識観の実践問題として

この四位を立てる。

 

菩薩十地は修習位にあたる

仏教の認識は対象的認識

であはなく、

それを知ることが解脱する

認識である。

自己を知る、一切種智と

いうが、そこに自己も

その中にあるような一切

である。

 

一切とは法界、

ダルマのコスモスである。

自己をはなれたコスモスは

仏教では無縁のものである。

自己に関わっている

一切である。

その場合の自己は

苦悩している自己である。

人間に関係して

一切があるのである。

 

ギリシャのごとき、

世界の中の一つとして

人間があるのではない。

自己に無関係な世界では

ない。

単なる知的興味ではない。

 

一切を知ることが

自己を知ること、

知ることが解脱すること

である。」

 

真言宗の大学に

「綜芸種智院大学」と

のがありますが

弘法大師が創設したという

日本最初の私学です。

この「綜芸種智」という

ことが「一切種智」という

になると思います。

最初は綜芸種智院大学

何とも長い名前のと

思っていたのですが

こういうことを見てくると

弘法大師の深い願い

のようなものを感じます。

 

 

 

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第七地は媒介点

2024-07-11 18:13:46 | 十地経

この安田先生の

『十地経講義』はほぼ

第七地ということで語られ

ています。

初歓喜地と七地と八地が

一番面白いとも

仰っておられました。

 

やはりよく読んでいくと

七地というところは

染浄世界といわれるように

染という濁った世界、

煩悩の世界と

淨という清らかな世界が

入り混じっている世界です

そこが面白いところです。

 

「染浄というのはやはり

道を行じているから浄と

いうんですけど、

まあ凡夫でもあります。

何ぼ宗教心を起こしても。

だけどその煩悩に埋没して

いるわけじゃないんです。

世間心じゃない、

世間の衆生じゃない。

染行にあらずですから。

 

『如分に平等の道を

行ず』ですから。

如全部に行じているのは

これは如来ですから、

分において行ずるんだ、

如をね。」

 

唯識の始めの言葉に

『満分清浄者』

という一文があります。

満に分に清浄なるものへ

稽首するという、

ということですが、

満というのは、

すべて満たされている

ということで、

仏(如来)を表しています

私たち、というか

菩薩はその一部分を表す

ので、分というのです。

 

講義の中で

「分において行ずる」

というのは

菩薩という立場で行じて

いるということです。

 

「『彼の菩薩、この地中に

おいて力分に随って功用道

を捨てる』と。

まあ功用行を満足したと

いう意味でしょう。」

 

功用(くゆう)といって

簡単には努力ということ

になります。

無功用(むくゆう)という

ことがよく出てきます。

努力を必要としない世界

ということです。

 

「それから

『第八地中に自然に報行を

 得る』と。

第八地に行くというと

さっきいった努力、

力というものすらないんだ

という、自然報行ね。

報行を得ると。

報行というのは報いです。

果報という意味です。

もうすべて道が果報として

行ぜられる。

 

やはりどんな勝れた名人

とか天才というような人

でもね、

個人というものの臭みが

ある間はそれを脱せれん

ですね。

それでそういうことを自覚

していてですね、

人をなるべく光らそうと、

本当に駄目な人間は増々

自分を磨いて光らそうと

するんですけど、

本当の天分のある人は

なるべく光らんように

しようとする。

 

何か下手なように、

もっと話が上手にできる

のにかかわらずですね、

わざと下手なような話を

するというようなね。

ああいうような、つや消し

をやるんです。

 

『仏子よ、菩薩第七地に

住して多くの貪欲等の諸々

の煩悩衆を過ぐるは、

未だ報地に至らざるが

故に』と。

やっぱりその七地はまだ

報地に至ったというわ

けじゃないですね。

 

煩悩に汚れているわけでは

ないが、まだ要求がある。

菩提を得たい。

菩提に対して要求がある。

要求があるから報行という

わけにはいかん。

要求に生きとるから。

 

とにかくこの経文が

何か混乱しているような

印象を受けられたかも

知れませんけども、

七地というのは媒介点

みたいなところで、

煩悩者ともいえんし、

無煩悩者ともいえん、

 

であってやっぱり染浄と、

これは報行の世界、

努力を全く超える世界。

そうかといって全然

何ですね、

染ばかりというわけには

いかない。

何かそこに

染と浄とが相交わっている

というようなですね、

ところが七地にあるわけ

ですね。」

 

本当にじっくり読まないと

分からなくなります。

何回もペンを置き

書くのが止まってしまい

戻っては読みなおしと

進まなかったところでです

まあ面倒なような文ですが

こういう

分かりにくい文に接する

ということも大事なように

思います。

 

 

 

 

 

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天人五衰(てんにんごすい)

2024-07-09 20:49:41 | 十地経

アルティメイトコンサーン

究極的関心

あれも欲しいこれも欲しい

と色々な欲しいものが

ありますが、

その中で振い落されて

最終的に何が残るか、

 

上見ればあれほしこれほし

星だらけ

下見て暮らせほしの気も無し

 

という歌を三浦先生から

よく聞きました。

 

欲しいという要求を

仏教では五欲といって

五つに集約しています。

それは食欲・性欲・睡眠欲

この欲は生きるために

必要な要求です。

それが満足してくると

次に出て来るのが

財産欲と名誉欲です。

 

色々欲望があるようですが

集約するとこの五つに

なるのではないでしょうか。

 

今のテレビ番組でも

グルメに関するものが多く

見受けられます。

食欲はそれほど強い要求です

睡眠欲は

何かしら欲望でないような

好きな時に寝て

好きな時に起きる

すごく当たり前のような

気もするのですが、

これがやはり道を求める

というよ大きな煩悩になる

のです。

規則正しい生活が出来ない

と、まず修行ができない。

睡眠も欲望と捉えている

ところは面白いものです。

 

でも

最近は寝るということが

大きな問題です。

眠たくなって

いざ床に入ると妙に目が

冴えてくるということが

あります。

 

そこで、「天」という世界

ここは人間より一つ上の

世界でまだ迷いの世界です

まあ人間の考える要求が

すべて満たされた世界です

ですから、

ここで最高のように思う

のですが、

人間には妙な所があって

自分だけ満たされれば

それでよいかというと

そうではなく、

自分を犠牲にして

他のために尽くして

満足する途いう一面を

もっています。

 

それで、

天人五衰ということが

あります。

天人が滅びていくときに

五つの特徴が現れる

というのです。

 

衣服が汚れてくる。

次に頭に冠っている花の

冠がしおれてくる。

これは一つには私たちの

頭の毛が薄くなったり

白くなったりというように

頭の髪型というのは

一つの象徴です。

それから体が臭くなる

加齢臭が出て来るという

ことでしょう。

そして、

脇の下から汗が流れる

臭くなるのと同じような

気もしますが

最後にこれが重要ですが

自分の位置を

楽しまなくなる。

ということの五つです。

 

上の四つは

身体的特徴ですが

最後の一つは心の問題

になってきます。

この天人が滅びていく時

どんなに若さを誇って

いてもやがてはその自分に

楽しめなくなってくる。

 

そこでどうなるかというと

もう一度、人間界に戻って

苦労をして来い

というのです。

天の世界は最高の世界では

あるのですが、

有頂天ということもあり

人間の迷いの最高点です。

 

今まで考えた

私たちの要求、欲望は

方向が間違っていた

のではないかということが

考えられてきます。

 

面白いのは

菩薩という仏と

普通でいう仏(如来)

との違いは見た目では

仏は本来無一物といって

衣を一枚纏っているだけ

なんですが

菩薩は冠を冠り首飾り

イヤリング、腕飾りなど

装飾品を付けています。

 

私が

ブランド物を欲しがるのは

自分に価値がないから

せめて、ブランドをつけて

少しでもよく見せようと

しているのです。

 

ですから、

菩薩の飾りとは全く方向が

違ってくるのです。

欲望というより

一つの権威付けというか

もう次には悟りを開く

という確信がそういう飾り

に現れているように

思います。

 

人間の欲望も

方向を見直した時

それは個人的な欲望に

止まらず、

それは他のために尽くす

という欲求に変わってくる

ように思うのです。

 

そういうように

欲ということも考えなおし

見直してくると

別な面が見えてくるように

思うのです。

 

 

 

 

 

 

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一大事を発見する

2024-07-08 19:41:33 | 十地経

「やまいこいぼう

    よくいなり」

ということを言います。

東寺の朝参りをして、

「今日はお山してきます」

といって、

稲荷山へ行かれるのです。

最近はどうでしょう、

そういう方も少なくなった

のではないでしょうか。

 

病は東寺のお大師さんへ

金儲けはお稲荷さんへ

ということです。

やはり健康で金儲けする

これが身近な関心事です。

どんなにお金があっても

寝込んでいたら

お金の使い道はありません

また健康であっても

お金がなかったら

自分のしたいことが

出来ないということも

あります。

 

まあそういう

関心事もありますが

人間の究極的関心事は

どこにあるのでしょうか。

 

安田先生もそういう

世俗的な関心事を疎かに

しないで、

そういうところにこそ

本当の関心事が眠っている

と仰っておられます。

 

「僕が昔会ったティリッヒ

という人。

あの人が

アルティメイトコンサーン

(ultimate  concern)

ということをいうんです。

究極的な関心です。

関心ですね。

関心といいますか、関り

ですね。

 

宗教心といってもですね。

稲荷さんに参っとるのも

宗教心といってですね、

分からんです。

そりゃ弘法大師にみんな

お参りに来ています、

善男善女は。

みな宗教心でないとは

いわんです。

あそこでも二重なんです。

何か表面からみると、

病気を早く治してもらいた

いとか、何とか頼みます

というわけです。

何かその人は意識して

いないけど深いもんがある

んでしょう。

 

この間、僕の所の近所で、

親一人子一人の家族が

あったんです。

母親一人、子供一人

小学校の三年生です。

ところが母親がえらい重病

絶えず病気に悩まされて

もう生きる力がない

というような難病で。

それで自殺したんです。

 

それを見て、

一緒に寝ていた子供がね、

近所の病院から飛び降りた

死んだんです。

そして

その懐に文章書いている

『家に運んでくれ』と

『家ではお母さんはもう

死んでいる』と

『私をそこへ運んで連れて

帰ってくれ。誰もみんな

親切でなかった』

と書いてある。

 

あっちこっち小学校の

三年生の子供が、

かけずり回ったんでしょう

医者を呼んでこようと思っ

て。

今日は日曜だといってね

どの医者も来てくれなんだ

それでとうとう死んだんで

す。それで自分も、

枕がその横に、

母親の死んだ横に置いて

あったというんです。

一緒に寝とったんでしょう。

 

その小さい子が食事も作る

しね、

母親は寝とるんだから。

それでまあ死んだんです。

そういう事件があって、

えらい胸の痛む話です。

 

その死んだとこにね、

その翌日から花が立ててある

菓子も供えてあるし、

牛乳も供えてあるんや。

今日はもうやめになったかと

思って、通ってみたら、

やっぱり花が立っていた。

もう大分なりますが。

 

まあ何ともいえん、

もうどうしてみようがない

けど、その方法がない。

会ってみたところで、

色々言ってみたところで、

誰も不親切であったという

子供の言うことを繰り返す

だけであって、

後の祭りです。

 

あんな時に、

ああいうところに原始宗教

というものがあるんじゃ

ないだろうか。

どうしようもないけど、

そのままに放っとくことは

できないんです。

絶えんでしょう、

あの花は。

絶えるはずはない、

問題が解決せん限りは。

 

ああいうような、

最後は何かどうなるという

もんじゃないんだろうか、

人生というものは。

最後はそういう何か祈り

みたいなもんでしょう、

人生というものは。

 

あの原始宗教という、

あれ原始的なもんです。

教理もないです。

『十地経』も何もない

です、あの宗教には。

 

あれはやっぱり、

ああいうものを内面に

深めていくところに

本当の宗教というものが

出て来るじゃないでしょうか

 

ああいのは、原始的な

もんです。

放っておけば、

安価なものになってしまう

ここらに、

弘法さんに参ってくる人も

みんなあんなもんです、

表面から見れば。

けど、

その内面は非常に深いもの

があるじゃないか。

 

それで人生の問題は

最後はどうにもならない

もんじゃないでしょうか。

そのどうにもならんものを

引き受けていく

という以外にはないんです

 

あれもしかし

よほど人間の心を打ったん

ですね。花や菓子が絶えん

ところを見ると。

あそこに教理もなにもない

のですけども。

 

とにかくその一大事という

ものがね。

それを表す言葉はなかった

んですけど、

一大事見つかるというと

ですね、むしろ死ななければ

ならないけど、

死んで行けるんじゃない

でしょうか。

一大事が発見されたら。

 

死しても後悔のない道

というような、

それ以外に道ないでしょう。

それ以外のことは

どうにもならんじゃない

でしょう、

一大事を発見する以外に。

 

あれは昔だったらあそこに

きっと地蔵さんが立った、

今はそんなような教養が

なくなっているから、

あんな牛乳瓶に花生けて

パン供えてるんです。

ただもう祈るということ

しかない。」

 

長くなりましたが

こういうところに本当の

宗教心の在りかがあると

思うのです。

簡単なことに深いものがある

ということをいいます。

それを縁として

どのように深めていくか

それが私たちの問題では

ないかと思います。

 

 

 

 

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無煩悩者・有煩悩者

2024-07-04 18:22:24 | 十地経

無煩悩者・有煩悩者という

いい方もあるのですね。

私たちは二元論の世界で

考え方が侵されていて、

有るか、無いか、

在れば形あるものとして

有るし、

なければ形が無い、

そういうように

有るか・無いか、

有れば見えるし、

見えなければ無い、

見えないけれども有る

そういう世界を感じとる

豊かな心をなくした

ともいえます。

 

十地経の中に

『菩薩は、この第七菩薩地

において、多くの貪欲等の

煩悩衆を過ぐる。

この菩薩がこの菩薩遠行地

中に住するならば有煩悩者

とは名づけない』

という言葉があります。

 

このことを講義では

「七地の菩薩は有煩悩者

というわけにはいかない。

けどそれなら

無煩悩者かというと、

無煩悩者というわけにも

いかんと。

 

煩悩をもった人間とも

衆生ともいえんし、

煩悩がまったくない衆生と

いうわけにはいかないと。

何をもってかというと、

一切の煩悩がそこで行じて

おらんのやから、

それで有煩悩者と名づけ

ないと。

 

しかしながら

如来の智慧を貪求しとると

何か求めとるというんです

『如来の智慧を貪求して

未だ満足しとらんが故に、

無煩悩者ともいえん』

だろうと。

 

だからこうしてみる

というと、

七地の煩悩は、

まさしくその染汚ゼンマ

ともいえんし、

純粋に清浄ともいえん。

やっぱり染汚清浄という

ところに、

七地があるんだと。

染汚清浄というところに

菩薩七地というものが

あるんでしょう。」

 

ここに出てくる

「貪求」という言葉も

面白いですね。

貪トン、という字は煩悩の

ことです。

貪りという煩悩です。

それがいい言葉として

使われている。

むさぼりもとめる

ということです。

なまやさしくないですね。

 

「信心があるということと

煩悩があるということと、

何も矛盾せんのです。

 

初地に入った菩薩が出世間

心を起こしたでしょう。

世間を超えたんだ。

それなら

煩悩はなくなったか。

それなら仏ですと、

そういうわけじゃない。

 

煩悩があるということと

信心を得るということは

何も矛盾せんのです。

信心は煩悩というものを

嫌いやせん。

まあ好きじゃないですけど

脅かされんです。

 

悪も恐れんです、信心は。

悪を恐れるようなのは、

宗教心じゃない。

だけどやっぱり悪はある。

完全に悪がなくなった

としたら仏です。

 

宗教心を起こしても

まだ我々は凡夫です。

凡夫ということと、

信心を得たということは

何も矛盾せんと思う。」

 

ここらが微妙で難しい

というか

二元論の頭では理解が

難しいところです。

じっくり読まないと頭に

入ってこないところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お札と御札

2024-07-01 20:22:54 | 住職の活動日記

7月には新札が発行される

ようです。

最近ではキャッシュレスで

お札を持ち歩くことが

少なくなったようですが

しかし、お札の発行枚数は

増えているということです

 

ということもあって

気になったのが

「札」という字、

お札ともいうし、また

御札オフダともいい

同じ字を使うのです。

 

かたや経済を動かす大事な

ツールでもあるし、

また、御札オフダといえば

信仰での仏の魂を表す

ようなものです。

経済と信仰、

正反対のようでもあり

またどこかで繋がっている

ようでもああります。

 

「さつ」と読むのは

昔、紙のない時代は

細い木の板に字を書き

上の方に穴をあけ

それを束ねたものを

冊といいそれが札になった

ということのようです。

 

また、お金を表す言葉に

幣という字があります

それで紙のお札を紙幣

コインのお金を貨幣といい

ます

この幣という字も

御幣ということがあって

神さまにお参りしたとき

御幣でもってお祓いを受け

ます。

 

菅原道真の歌に

「このたびは

幣ヌサも取りあえず手向山

紅葉の錦

神のまにまに」

 

取るものも取りあえず

出てきたので

幣ヌサ、お供えを

持ってこなかった

紅葉の錦をお供えします

という歌があります

 

また、幣立神宮ヘイタテ

という神社もあります

幣(ヘイ・ヌサ)というのも

神さまにお供えする

供え物ということです。

 

何かしら

経済と信仰ということは

何か繋がりがあるような

そのような気がするのです

が、

 

また、話は別な話ですが

イタリアにルカ・パチョーリ

という修道士がおられて

この方は

信仰の道を歩みながら

数学者でもあり

そこから、今でいう

経理の複式簿記の形を

作られたのです

それで近代会計学の父

ともいわれています。

この時代が1400年末期

日本では戦国時代という

この時代にすでに

イタリアでは複式簿記を

作られているということは

目を見張るものがあります

 

勝手に思うのですが

信仰の世界というのは

ある面では

原価があってそれに対する

利潤というものが正確で

ないということがあります

お布施にしても

誤魔化そうと思えば

どのようにもなるものです

 

そういうなかにあって

このルカ・パチョーリという

方は、

そういう世界であればこそ

尚更、お金という経済を

明らかにしていかなければ

ならないと思われた

のではないでしょうか。

 

利益ということもあれば

ご利益ということもあり

ます。

同じ字ですが

その内容は全く違ったこと

になってきます。

 

経済にしろ信仰にしろ

明らかにしていかなければ

ならない問題です

どちらも疎かにできません

両方明らかにしていく

ところに信仰も経済も

はっきりしたものが見えて

くるようです。

 

御札とお札

まったく違ったもので

ありつつもどこかで

繋がっているようです。

それぞれに考えてみるのも

面白いものが見えて

くるのではないでしょうか

 

 

 

 

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宗教心と世間心

2024-06-14 16:38:39 | 十地経

煩悩ということも

修行をやっていくうちに

それに悩まされ、

かき乱され、惑わされ、

汚されていくということで

たくさんの名前があります

修行の中から

それを対治していった

中から生まれたのでしょう

 

随眠ズイミン、眠らせる

漏ロ、もれだすという

自分では隠そうとしている

のですが漏れ出てくる

それで、煩悩があることを

有漏ウロ、無いことを無漏

といいます。

 

一休さんの歌に

 有漏路より無漏路に至る

  ひとやすみ(一休)

   雨降らば降れ

   風吹けば吹け

というのがありますが、

迷いの煩悩の世界から

その迷いを超えたさとりへ

行くという

その途中には雨も嵐もある

だろう、が

今はその一休みという

ところから名前がついた

のではないかと思います

 

その有漏、無漏という

言葉はよく出てきます。

 

「この染というのは

何であるかというと、

別の仏教の言葉でいえば…

清浄というのは無漏という

こと。無漏であると。

それから染汚(ぜんま)

というのは有漏といって、

漏というのは煩悩のこと

ですが、

つまり何というか、

宗教心と世間心ですね。

 

関心ということです。

人間関心です。

人間関心の中には、

人間というものはただ

何でもかんでも

世間的なものを要求しとる

というものじゃないと

思うのです。

 

そういうように考えるのは

人間を馬鹿にした考え

じゃないかと思うんです。

何か純粋なものを求めてる

もんじゃないかと

思うんです、

人間というものは。

 

そりゃ何も

金と富と、そういうものが

あれば満足だというような

こと言ってる人は、

その人自身嘘ついている

んじゃないかと思うんです

 

それはその人の本当のこと

じゃない。

その人の理知がですね、

そういうことをいわさせ

とるんだと思うんです。

「わしが」なんてこと

いっとるだけですね、

本当のわしはないと思うん

です。

 

そういうように

純粋な要求もあるんだと

思うんですね。

しかしそうかといって、

そうでない正反対の、

この世的なものに惹かれる

ような関心もあるわけです

 

そういうものが

相交わっとるんですね。

そういうのが現実の人間と

いうものじゃないかと

思います。

 

そういうものがあればこそ

このような会が開けとるん

です。

これが、

純粋な人間だったら

こんな下手な講義なんか

聞きに来ません。

それからまた、

まったく浄なんか全然ない

ものなら

こんな馬鹿な所に誰も

来ませんです。

 

何か、相交わっているから

来てですね、

何かちょっと

一つはっきりしたいと、

こういうものが

みんなあるわけです。

あなた方にもあるし

僕にもあるわけです。」

 

前に「染浄世界」という

ことが出てきました。

染と浄が入り交わっている

世界、それと「純浄世界」

もっぱら浄だけの世界、

私たちも

淨だけでも生きれんし

かといって

染という煩悩だけの世界

でも生きれない。

染と浄とが相交わった

世界に生きているのが

現実ということのようです

 

 

 

 

 

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