本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

遊行(ゆぎょう)

2021-09-17 20:48:20 | 十地経

遊びに行くと書いて「遊行」

(ゆぎょう)といって

ただ遊びに行くことでは

ありません

お釈迦さまが各地を廻られる

のを遊行といいます

「遊」という字も

語源的にはのんびり歩く

ということです

 

そういうことを講義で

 

「ゴータマブッダ(釈迦)が

生まれた当時には、

ゴータマブッダのような人が

沢山いたわけです。

それを沙門といっています。

沙門、婆羅門ということが

よくいわれるでしょう。

 

そういった点では、

ギリシャによく似た点が

あります。

プラトンとか、

アリストテレスとか、

ヘラクレイトスとか、

そういう思想家がたくさん

出てますね。

あれは皆、哲学者とか、

知恵を愛する人、

こういう名前で呼ばれている

そういうものが、インドでは

沙門(シュラマナー)です

 

だから

無数の沙門がいたわけです。

遊行という、

遊ぶという字と行くという字を

書いて遊行者という、

ヴァンデルンwandernですね。

ちょうど、プラトンの、

あの当時は寺というのではない

学校ですね。

プラトンの学校はアカデミー

という。

アリストテレスの学校は

これを翻訳して逍遥と

いうでしょう、逍遥学派と。

 

つまり逍遥という概念は

遊行というんでしょう。

遊行するということが

なぜ大事かというと、

思索するのにいちばん便利な

姿勢なんです。

思索するのにいちばん自然な

姿勢が遊行なんでしょう。

 

だからして、ソクラテスが

話しに行く場合、

遊行していくんですが、

思想がやむというと

とどまるんです。

思想が展開するとまた

足を運ぶ、

思想が行き詰まってしまうと

足が止まってしまう。

 

新幹線で来てすぐかえる。

それは商業、経済の用件なら、

それですむんですが。

だから日本人はもう思想が

できんようになっている

のでしょう。

今の日本では、

何でも

仕事になってしまっている。

これは仏教ばかりじゃない。

日本の文化全体から考えても

そういう危険なもので

ないでしょうかね。」

 

と話しておられますが、

何かしら耳に痛い話です

なんでも用事で済ませてしまう

そして、ついでに

ちょっと話でも聞いて

帰ろうかと。

 

昨日も少し散歩したのですが

不思議なことに

いつもの道が車で過ぎるのと

歩くのでは見る景色が

違ってきます

歩くスピードというのは

いろいろなもが見え

虫の音とかも聞こえてきます

 

散歩という字も

散はちる、心が散らばって

集中しないのを「散」

その反対は「定」ジョウです

心が定まる

遊行ということは

定歩ということになる

かもしれません

このような字はありませんが

 

年とともに

散歩が徘徊と間違えられない

ようにならによう

気をつけて

しっかりした足取りで

歩かなければと

思っています。

 

 

 

 

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暮れなずむ宇治川

2021-09-16 20:56:03 | 住職の活動日記

ちょっと宇治橋まで散歩

今日の宇治川は水量あって

とても勢いよく流れています

 

 

宇治川の畔も

近代的な住宅も建ち並び

僅かにこのような風情のある

藁ぶきの建物を見かけます

 

 

 

向かいには十三重の塔も見え

手前の水流は

宇治川発電所から流れ出る

水です

 

 

この発電所が京都の近代化に

大きく貢献したようです

今もってその役割を

果たしています

 

 

夕日が落ち始めています

向かいは平等院

西方浄土を目指して

あの浄土へ生れることを

願って建てられました

 

 

美しいアオサギ? シラサギ

でしょうか

今日の夕食を探しています

水の勢いは早く

なかなか見つからないようです

 

 

この橋を渡れば平等院です

 

 

天ケ瀬ダム放流中の

電光掲示板が光っています

それで、水が多いはずです

琵琶湖の水は沢山の川が

流れ込むのですが

出口はこの宇治川1本です

この水が背割提で

木津川、桂川、宇治川合流し

淀川となって

大阪湾に注ぎます

 

 

ですから、この放流は

台風に備えての放流かも

しれません

 

川沿いには

 

 

新しい名所? スタバが

できています

 

 

一通り宇治川をめぐって

もとの場所へ

 

 

 

宇治橋に付きだした三の間

ここから水を汲んで

お茶を点てる、という

儀式が今でも伝わっています

 

 

誰もいない宇治川界隈

暮れなずむ宇治橋を眺め

ちょっとしたお散歩が

楽しめました。

 

 

 

 

 

 

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法=Dharma(ダルマ)=達磨

2021-09-15 20:43:11 | 十地経

法という言葉を聞くと

すぐに法律ということが

浮かんでくるのですが

仏教で使う「法」には

もう少し広い内容を含んで

います

インドの言葉ではダルマといい

また人の名前では

禅宗の始祖といわれる方が

達磨という人で、

面壁九年という壁に向かって

9年間座禅したという

それで足が立たなくなり

あの達磨さんの人形が

生まれたようです

 

一応、念のために

仏教辞典には法について

古来からの解釈で

「任持自性(ニンジ ジショウ)・

 軌生物解(キショウ モツゲ)」

という二つの意味があります

「それ自体の自性(本性)を

保持して改変せず、

能く軌範となって人をして

一定の事物の理解を

生ぜしめる根拠となるもの。

従って、

法は任持自性の意味からいえ

ば、

自性をもって存在している

一切の「存在」をさし、

軌生物解の意味からいえば

認識の標準となる軌範、

法ノリ、法則、道理、教理、

教説、真理、善行をさす。」

というように

難しい言葉で述べてあります

厳密を記するという意味で

こういうことになるのでしょう

 

このことを踏まえて

講義では

「仏教では、法とは何か

というと、軌持キジといって

軌範というような意味がある。

我々はそれを知るという。

知った結果

真理があるんじゃない。

むしろ知るということが

成り立つようなものが

軌なんです。

 

その、迷うということも、

悟るということも

真理があるから。

真理がなければ

悟ることもできんのみならず

迷うこともできん。

迷ったという意味がどこから

出てきますか。

真理がなければ迷うことも

成り立たん。

そういうものが「軌」という

ものです。

 

しかし、そこに「持」という

ものが、持というのは

自分自身を持っとるという。

そういうものが、

法の性です、法性です。

法が法としての本質。

真理は真理自身をもっとる

他のものによって

支えられとるんじゃない。

自分で自分を支えとる。

こういうのが

法性というもの。」

 

と、非常に難しい

ここらあたりの講義は

とても眠たかったのですが

改めて読んでみると

真理・法と人という関係

こういうことを

正しく理解できないと

先へ進めないような気がして

面倒でも書いたのです。

 

「真理がなければ

迷うことも

悟ることもできない」

という、

真理がないから

迷ているのだと思うのですが

迷っているということが

分かるのは

真理という変わらない

本筋があるから

それに照らして迷っている

と分かるのでしょう。

 

ですから、

迷ってます、と言えるのは

真理がそばに来ているという

ことです

真理がなかったら

迷っているも何もない

迷いすらわからない

ということです。

 

 

 

 

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時機純熟(ジキジュンジュク)

2021-09-14 20:06:56 | 十地経

時機純熟、時機相応とも

いいます

時と機です

教えが説かれる時

それを受け取る人(機)が

適当するということです

純熟というのは

十分に機が熟したという

意味になります

 

時と機、

どちらも大切な内容です

時というのも

三世(過去・現在・未来)

という時間の流れもあり

また長い時間は「劫」という

一番短い時間の単位は刹那

という単位もあります

 

また、

時間は心によって作られる

ということを言います

楽しい時間は

あっという間に過ぎ

仕事となるととても長く

感じるものです

同じ時間でも

自分の尺度で決まってくる

ということも言えます

 

先日の続きですが

講義は次のように進みます

 

「時機純熟というもので、

時機到来して

それに触れるんです。

本来あったものに。

本来あったんだから、

触れようと思えば触れ得る

というもんじゃない。

触れようと思っても、

その時機が熟せなければ

触れるわけにはいかない。

 

しかしながら、

棚からぼたもち、

待っとるというわけでもない

時機がくれば、

触れまいと思っても

触れざるを得ない。

これはま、一つの時

というものがそこにある。

時というものが

非常に不思議なもんです。

 

真理というものが認識、

初めも終わりもない真理に

初めができるというのは

時だ。

時ということは、

これは時機純熟でしょ。

 

法には時はないけど、

機には時がある。

時機という概念があるように

我々が真理に遇うた

というのは、

偶然に遇うたという

もんではない。

 

ちょうど遇うてみたら、

遇うべき時に遇うたんだ。

もう非常に厳密なその、

論理的な厳密性じゃなしに、

存在論的な厳密性をもっとる

んですね、

一寸一分も狂わんような

時機が今来たんだと。

それは存在論的厳密性や。

論理的厳密性じゃない。」

 

というように出てきます

人との出会いも

同じ事がいえると思います

偶然出会ったのかも

しれません、が

出会ってみたら

それは偶然ではなく

必然であったと受け止める

ところに

この方でよかったと

この人と出会うために

自分があるのだと

何かしらそういう出会いが

あるものです。

 

講義ではこういうことも

「ものがあるには

あるだけの理由をもってある

出遇うには、

出遇うだけの理由がある。

奇跡じゃないんです。

こういうものを歴史と

いうんだ。」

というように。

 

真理に出遇うにしても

同じ事がいえると思います

そこに「時と機」という

お釈迦さまも、

何時さとりを開いた

ということが述べてあります

ただ、漫然とした時の流れ

の中にさとりを開かれた

ということはないのです

「いつどこで」

ということが

お経には出てきます。

 

限りある時の中で

人と出遇うということは

ただならないことのようです

まして、教えに出遇う

というとは、それこそ

「百千萬劫難遭遇」

ということのようです。

 

大切にしていかなければ

つくづく思い知らされます。

 

 

 

 

 

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百千萬劫難遭遇

2021-09-13 20:39:18 | 十地経

お経の一番最初に読む

「開経偈」の

第一句は「無上甚深微妙法」

です

その次の二句は

「百千萬劫難遭遇」です

百千萬劫にも遭アい遇アうこと

難カタし

と読みます

どうも気になっていたのが

「遭遇」という言葉です

 

広辞苑には

思わぬ場面にであうこと。

不意に出会うこと。

「困難に遭遇する」

というように出ています

あまりいいものには出会わない

というような意味合いです

 

開経偈では

百千萬の劫(時間の長さ)

劫というのは

4里四方の石に百年に一回

天女が舞い降りてきて

その石の上で舞を舞う

その衣によって磨られた石が

無くなるのを1劫といいます

それが、百千萬ですから

どれほど長い時間でしょう

 

そういう長い時間の中で

妙なる法に出会った

というのです

その出会ったことを遭遇と

表しています

 

あうには

会、値、逢、遭、遇、邂、

などいろいろの言葉があります

教えにであうですから

値遇とか

邂逅という「ゆくりなくも」

という言葉の方がぴったり

のような気がするのですが

 

講義の中で、

「真理というものは

覆われてあるもんだという

あり方。

覆われたものが取り去って、

開示される。

そういう時に、今日いう、

出遭うというね、

出遭いですわね。

出遭いということが

やっぱりあるですね。

出遭いという、値遇という。

だからして

真理はあるけれども、

ふだんは見えない。

その覆いをとることによって

我々は初めて、ある、

本来あるものを今初めて知る

 

初めのない真理に

初めができる。

そういう時に

出遭いということがね。

真理は、出遭うものなんです

 

真理というものは

気がつくとか

人間の方は、

ただそれを承認すると、

そうであったかと、

さとるというのは、

さと、とるんんです。

そうであったかととるんです

 

出遭いという意味は、

つまりいってみれば、

奇跡というものでもないし、

努力してつかむというような

ものでもないし、

歴史的なもんだという

意味です。」

 

「難遭遇」という

法というものには出遭うこと

が難である、困難である

その後の句に

「我今見聞得受持」と

続きます

そういう法に今、

見聞きしてそれを受け取る

ことが出来たという

そういうように続きます

 

そうであったかと

気がつく

さとりということも

さと、とるという

非常におもしろい表現

ですが、何となくしっくり

腑に落ちる言葉です

 

最後の出遭いという意味は

奇跡でもなければ

努力してつかむものでもない

歴史的なもの

ということがありますが

先生はよく「歴史的」

という言葉を使われます

どうも分からないのですが

次のところには

そことについて

述べてあります。

 

 

 

 

 

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タマスダレ

2021-09-12 20:42:30 | フラワー

久しぶりに

カメラを持ちました

ここのところ籠りっきりで

あまり外に目が

向かなかったのです

 

8月は長雨が続き

あの真夏の太陽を拝めません

でした

このことは虫たちにとっても

大変なことではないかと

セミにしても

やっと地中から出てきたら

世界は雨のなか

羽化してもすぐにずぶぬれで

成虫になれなかったのでは

ないかと心配していました

 

回覧を配りに回っていると

ふと、タマスダレが

元気よく咲いていました

 

 

この場所は空き地で

先日草刈りが行われ

すると

そこにタマスダレが出て

来たのです

何もなかった空き地に

咲き出したのには

何かしら美しさを感じます

 

 

葉の部分が細い棒状

なので簾スダレのようであり

花が玉のようなところから

この名が付いたのでしょう

 

 

昨夜の雨で花も少し痛んで

いるように見えます

 

 

これは別の場所ですが

今の時期、目を引く美が

あるようです

 

 

この草むらにでは

虫たちの声が聞こえます

いつの間にか秋の気配

もう9月ですね

 

 

たぶんこの花は

センニンソウのようでもあり

別の花かもしれません?

ちょうど今の時期は

目立って見える花は

少ないようです

 

町内をぐるりと歩いて

回覧を配りましたが

出て見ると自然は少しずつ

動いている気配を感じます

 

 

タマスダレの横には

ネコちゃんも居たのです

野良ちゃんのようでもあり

近寄っても逃げません

しかし、

もうこれが限度でしょう

これ以上近づくと

せっかくの

おくつろぎのところを

邪魔することになるので

この距離感でしばらく

お見合いをしていました。

 

察するに

この草むらは猫ちゃんに

とっての絶好の棲家だった

のかもしれません

 

引き寄せて結べば草の庵にて

解くればもとの野原なりけり

 

という歌がありますが

引き寄せて我が家としていた

のかもしれません

それがすっかり

刈ってしまわれて突然

我が家がなくなったのかも

しれませんね。

 

勝手な想像ですが?

 

 

 

 

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「機」という言葉も面白い

2021-09-11 20:49:27 | 十地経

機という言葉は非常に幅広い

内容を持った言葉です

仏教でも特に重要な意味内容を含んでいます

普通には、

機械とかいう言葉が

浮かびますが

機嫌とか機微などと云う

心の内を表現する言葉として

も使います

 

もとの意味は

機具の経タテを開閉する

道具の名、そこから始動を与える

道具の名となり、

きざし、おり、などの意味も

ここからきています

ということで

もとは道具の言葉が

始まりという意味できざし

というような心の内面を

表すようになったようです

 

そこで仏教に関する言葉を

見てみると、

機根、衆生の心の中に

   備わっている能力

 

機嫌、もとは人の嫌うこと

 機が嫌がるですから、

 そこから、気分、気持ち

「ご機嫌いかがですか」

という言葉になったようです

 

機微、かすかなきざし、

 仏の教えによって発動する

 微かな善を内に持っている

 ということ

 

機縁、衆生に能力があり

 動機があって、

 仏法を聞く縁があること 

 

というような言葉が

辞書には出てきますが

そういう内容を含んだ「機」

講義では

 

「真理の問題、

あるいは仏法の問題。

それは一番大事なものは

なにかというと、

その真理を見る機がね、機だ

人間がその真理を見るという

ことに気づくと、

それを機として真理は

はたらくんだ。

 

見なければ

真理があるといっても

ないのと同じであって

真理も死んでしまう。

真理がはたらこうとする

ためには、

人間が気づいてくれないと

困るんです。

 

人間が真理を求めるよりも

以上にですね

真理の方は人間を求めとる

一念一刹那も

休むことなしにですね

我々に語り掛けとるんです。

 

智慧というものは、

人間が求めるものじゃない

かえって

真理が人間に求めたものだ

もし人間が求めないならば

真理もないのと同じものに

なってしまう。

 

真理が真理になるために、

人間が必要なんだ。

絶対の真理が絶対の真理に

なるために、

不完全な人間が必要なんです

こういうところにですね、

人間を機として真理は展開

するんだ

こういうところに

人間のかたじけなさ

というものがあるんです

 

人間が尊重せんならんと。

人間の尊厳性ということを

いいましょ。

人間というものが尊厳だと

いうのはそこにあるんだ。」

 

絶対の真理が完成するには

不完全な人間が必要なんだ

という言葉は

50年前に聞いた言葉ですが

今更ながら再び

新鮮な言葉として蘇ってきます

 

「人間を機として

真理は展開する」

ということも、そこに人間の

尊厳性があると

不完全ではあるけれども

その不完全な人間が

真理を展開する

何かしら、大きな問題が

隠されているようです。

 

 

 

 

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今になって気がついた漢字の間違い

2021-09-10 20:41:01 | 漢字

よかったというべきか

今頃気がついて

今までに何遍も書いていた字

「漏」(ロウ)という字です

雨漏りとか使います

この「漏」はまた煩悩の異名です

自分ではなんともうまく表現した

字のように思っています

煩悩が漏れ出てくる

そういう感じを表しているようです

 

よく見ると

尸 カバネ の中に雨を書きます

ところがです

どういうわけか

戸 トカンムリ の中に雨を

書いていたのです

『十地経講義』を写していても

よく出てくる字で

何度も何度も書いていたのに

気がついたのは

どうも書きにくい字で

バランスもとれないので

書き順をネットで見たら

なんと、尸ということに

気がついたのです

 

そうやって書いてみると

形もとれてバランスよく

なりました

今更ながらですが

この書き順というのは

よくできているもので

書き順通りに書けば

形よく書けます

ということで最近は

今一度、書き順を

見直しながら書いている

といことです

 

ところで

「漏」というのは

アースラバの訳で

漏泄の意味です

排泄の泄で、なんとも

いけないものが漏れ出てくる

ような意味合いです

煩悩のために常に六瘡門から

不浄を流出する

というのが伝統的解釈です

瘡門ソウモンというのは

眼耳鼻口および大小便道の

六つを六瘡門といいます

 

よく言ったものですね

目ヤニは出るわ

鼻水は出てくる

口からよだれ

大小の方は緩くなり

大変です

 

一休さんの歌には

 

有漏路より無漏路へ帰る

  一休み 

雨降れば降れ 風吹けば吹け

 

という一休という名前の

由来になったものがあります

有漏路ですから煩悩のある身から

無漏路という煩悩のなくなった

世界へ帰っていく

その今という一瞬に

一休みしているのだという

そういう意味でしょうか

 

まあ、漏ということが

漢字自体が分かっただけでも

書き順を見てよかったと

思っています。

 

 

 

 

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人と法・人間と真理

2021-09-09 20:33:19 | 十地経

「仏・法・僧」と三宝と

いいますが

仏と法と僧と

僧というのはサンガといって

坊さんではなく

一切の人々を含んでいます

善人も悪人もひっくるめて

僧伽(そうぎゃ)サンガ

僧ということです

 

面白いことに

真理というのは迷った人間の

上にはたらくというのです

真理は永遠不変の真理ですが

人間がいなかったら

真理といえども眠ったままで

人間がおればこそ

その人間の上にはたらいてくる

ということです

 

講義では

「真理に障りがあるというん

じゃない。

真理は人間を超えておる。

けどその真理を得、

認識を得た人間には

障りがある。

仏教では、理というのが

別の言葉で言えば法です。

人と法、人間と真理です。

この間に非常に混乱を許さん

ものがある。

真理は人間を超えとる。

しかし

その真理は人間を超えとる

けど、

その真理は人間において

現実になる。

 

真理がはたらくという場合、

そのはたらく場所は人間。

真理を見出し、

見出された真理は、

見出した人間を超えとるけど

その見出された真理が

現実にはたらくところは

真理を見出した智慧において

はたらく。

 

真理はどこではたらくか

といえば、

智慧の、

智慧としてはたらくんです。

自分が得た智慧がですね、

自分の得た智慧がかえって

自分を変革していくんです。

 

智慧以外の何かがあって

自分を変革するんじゃない。

我々が真理を得れば、

その得た真理の認識がですね

得た自分にはたらく。

 

はたらくというのは

否定、肯定です。

得た人間を否定し、

肯定していくんだ。

つまり、断惑理証というね、

これがはたらきです。」

 

というようにでてきます。

「得た人間を否定し、

肯定していくんだ」

とありますが

ちょっと分かりにくい

ように思います。

 

真理を得たというと

これは絶対やと!

何かうぬぼれてしまうように

思ってしまいますが

そうではなく

真理を得たということは

今まで

これが絶対と思っていた

自分の自我の妄執が破られる

ということで

このことが否定です

自分が否定されない限り

本当のものははたらきようが

ありません

 

今まで、

俺が俺がと思っていた

自分の考えが根底から覆され

破られたところに

初めて真理がはたらく場所が

見つかるのです

そういうことが肯定

ということでしょう。

 

人と法、人間と真理

面白い関係ですね

そして又一番重要な問題

のようです。

 

 

 

 

 

 

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智は地になる

2021-09-08 22:07:15 | 十地経

「智」は般若と音写されます

インドの言葉でジュニャーナ

パンニャーとなり

般若と漢字になったのです

『般若波羅蜜多心経』の

般若です

ですから『般若波羅蜜心経』

は智によって波羅蜜ですから

パーラミター彼岸へ行く

というような意味になります

 

智ということも辞書には

一切の事象道理に対して

きっぱりと是非正邪を決定し

断定しよく弁別了知して

ひいては煩悩を断ずる

主因となる精神作用のこと、

というように出ています

智のハタラキとしては

見ケンと忍と智に分けられます

見はおしはかる(推度スイタク)

忍は認めてよしと許す

智は疑いなく明瞭に断定する

というようにあります

 

「地というのは何が地だと

いうと、

地というのは立つところ

というのが地ですけど

何に立っとるかというと

智に立っとる」

 

というように

講義では出てきます

何だか難しい

この講義を読みながら

ふと思い出したのは

ある信者さんの事です

 

相談に見えられました

主人の浮気が止まりません

何か止めるマジナイのような

ものはありませんか

ということです

ご主人はよく仕事が出る方で

もし女性を作らなかったら

蔵が3つ建っているかも

という話しです

 

その時に私が言ったのは

ご主人はご主人

あなたの人生がご主人に

振り回され台無しになったら

その方があなたにとって

より大変でしょう

それよりあなた自身の人生を

本当に生きたらどうですか

ということで

どうしたらいいですか

もし時間に余裕があれば

毎日日参してみてください

毎日というと大変です

せめて1週間を単位として

まず1週間

それが出来たら次の1週間

 

そうやって毎日

お参りに見えられました

すると

2.3週間もすると

次第に

ご主人の出ていく回数が

減ってきたということです

奥さんの顔つきも

次第に変わってきて

ご主人が出ていくといっても

動揺もせず

どうぞ行ってらっしゃいと

見送ったそうです

 

このこともある面では

奥様が腹をくくられた

というか腹が座った

その堂々とした態度に

ご主人が何かを感じとられた

それから

3か月を過ぎる頃から

ピタッと女性通いが止んだ

ということです

 

なんだか、

「智」ということと

関係ないようにも思いますが

ある面では一つの「知恵」が

芽生えたのでしょう

よし、

自分は一人でも生きていくと

主人に頼らなくても

自分は自分で、という

決断が … 

その覚悟の程を感じとられた

ご主人の方が

そのことによって自分の事を

考え直されたのかも

しれません

 

「智」という

本当の事実をよく見る

そのことによって

自分の立つところを「地」

を見出された

ということでしょう

 

こういうことも

一つのきっかけですが

智慧ということになると

そこからが本当の修行で

努力という加行道から

無間道・解脱道・勝進道と

段階が進んで行くのです。

 

こういう変な譬えを出すと

先生に叱られそうですが

私の勝手な譬えで

ご勘弁ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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