本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏法は無我にて候!

2018-09-18 21:20:39 | 十地経

無我ということもよく使いますが

分かったようで分からない

しかし何かしら日本的というか

西洋では無我ということは

ないのではないでしょうか。

やはり、

我という自分ということをたてる

俺が俺がと自分ということが

中心のようです。

ちなみに、英語を見てみると

無我ということは

lose oneself in

というか、自分自身を失くす

というような、

熟語としては「無我夢中」とか

こうなると、

英語では、

he ran for his life

というように無我夢中で走った、

と夢中ということが

その訳になるようです。

 

十地経の講義でも

「西洋人というものは

 我というものから脱却できん

 ような思想の体質ですね。」

反対に、仏教でも

「無我ということが誤解される

 ことが多いのです。

 無我ということ、

 何もないことだと、

 こういう具合にすぐに誤解される

 何でも、無といえば仏教だと

 いうことになってですね。

 何か、ニヒリズムみたいなものに

 なったり、

 無我が分からんから、

 我を立てとるんです。」

 

たしかに、なんでも

「む~!」といえば仏教のような

答える時の一つの逃げの言葉

「それはすべて無ですから」

と、分かったような分からんことで

お茶を濁してしまいます。

 

無我ということが

一つの真理であるなら、

反対に有我ということも、

つまり普段の私たちは有我という

立場に立っている

ということになります。

そこで、

 

「無我が理とするならば、

 有我はこれは感情なんです。

 つまり執情ですね。

 執着の感情なんです。

 きわめて主観的な、

 有我というのは、

 一つの主観的な感情に

 すぎんのです。

 無我を真理とするならば。

 だからして、

 無というのは何もないと、

 我がないという意味じゃなしに

 我の執情がないという意味、

 我の執情を否定するという意味

 です。」

 

無我ということは

我がないということではなしに

我の執着を離れる

ということになるのです。

私たちは

俺が俺がという有我の立場で

生きていますから、

 

有我と無我

ここに西洋と東洋の

大きな考え方立場の違い

があるように思います。

 

話しは余談ですが、

先日のUSオープンで優勝した

大坂なおみ選手

「セレナに勝ってごめんなさい!」

と、この一言が

観客の心を一変させた、

英語しか話せない彼女に

何かしら東洋の考え方が身について

その片鱗を見れたことは

心が熱くなりました。

 

 

 

 

 

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喜ばしき哉、想定外! 悲しき哉、想定外!

2018-09-17 21:08:12 | 住職の活動日記

たまたま、テレビをつけると、

NHK教育で小島瑠璃子さんの司会で

福島原発のその後の廃炉作業の現実

をやっていました。

なにせ想定外の事故とはいえ

後、40年か50年もかかるという

まだ、取り掛かるどころか

原子炉内がどうなっているのやら

それを見に行くための

ロボットの開発がやっと完成

ということのようです。

 

今日は「敬老の日」

もともとは9月15日ということで

15日には町内の方より

敬老のお祝いの金一封が届き

なにやら、想定外のことで

嬉しいやらちょっと寂しいやら

複雑な心境です。

 

今は何事もなく

いたって健康に過ごしていますが

最近ふと思うのは

踏ん張りがきかないというか

何かあれば一瞬にして

病気・死ということが

目の前に迫ってきます。

年とともに想定外のことばかりが

起ってきます。

ちょっとしたことで躓いて

オットットットと

立ち直れずそのままぶつかったり

避けたつもりが

頭をぶつけてしまったりと

冷やりとすることが

多くなってきました。

 

以前、お邪魔したお宅で

「年と共に学ぶことが

  多くなりました。」

と聞いて、一瞬 えっ?と

思ったのですが、

最近よく分かります。

知らない、経験したことのない

そういう想定外のことばかり

が起こってきます。

 

明日は何が起きるかわからない

そういう想定外のことを

楽しむのも一つでしょう。

反対に想定外のことで

大変なことに遇うかもしれません。

先日の台風、

両隣りの家が解けたせいか

風の通り道になって

壁にものが飛んできてあたる音

窓を揺らす風の力

心細くもなってくるものです。

 

人間ドッグでも

何もなかったからといって

これから大丈夫ではないのですよ

今までが何もなかっただけで

これからは何があるかわかりません

よ、と言われます。

 

日々是好日

一日一日、今日一日が

何事もなく無事にすんだ

これこそ以外に、

大変なことはないようです。

 

1947年9月15日

兵庫県の野間谷村(現多可町)で

開催されたのが初めてのようです。

もう71年目になります。

その時は55歳以上が対象

ということですから

随分と寿命も延びてきたようです。

 

「5人に1人は70歳以上」

の新聞の見出しが眼に止まります。

ちょうど私ら「団塊の世代」が

70歳を迎えたということで

急激に増えたのでしょう。

そして、さらに、

私たちが後期高齢者となる

2025年が大きな問題です。

一説には火葬場が足りなくなる

ということも聞きます。

また社会保障の面でも

大きな改革が必要です。

人口が減っていくということも

いろいろな面で大変な問題を

孕んでいます。

 

年と共に想定外のことばかり

それを楽しんで受け止めて

日々、期待をもって過ごせたら

何より哉!

と思っています。

 

 

 

 

 

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われもこう

2018-09-16 20:51:15 | フラワー

「われもこう」という花

漢字で書けば「吾亦紅」または

「吾木香」とも書きます。

「われもこう」とは、一瞬

「割れ木瓜」と書くのかなと

思っていました。

 

 

中心の赤やピンクの花の周りを

軽やかに踊っている姿が

「吾亦紅」です。

 

 

この穂先が花の部分です

小さな花の塊が集まって

花穂(かすい)を形作っています

よく見ると不思議な花です。

また、

吾亦紅という名前も不思議です

 

同じような名前に

「百日紅」(さるすべり)、お

あるのではないでしょうか。

 

 

全体を締めている花は

カーネーションとバラです。

そこに秋の風情を醸し出す

「吾亦紅」が飛び跳ねています。

 

 

そしてもう一つ秋の花

「ススキ」も花を添えています

 

 

穂先もこれから開いてくるでしょう

 

ここのところ曇りがちで

気温もぐっと下がってきました。

知らず知らずのうちに

秋の気配です。

 

 

見るこちら側の気分でしょうか

花の美しさも

どことなしか穏やかな

秋の気分が漂ってきます。

 

「吾亦紅」も調べて見ると

花言葉にも由来が感じられます

「移りゆく日々」「あこがれ」

「うつろい」というのが花言葉で

他にも似たような言葉があります

 

吾も亦(また)そのように

ありたい、というところから

出たともいわれます。

一茶の句に

 

「吾亦紅

 さし出て 花のつもりかな」

 

というのがあります。

言われてみれば

その形は花には見えないし

ただの雑草の実のような

それで皮肉って

そう詠んだのでしょう。

しかし、

「吾亦紅」からしてみれば

自分も紅い花のようにありたい

と、あこがれをもって

名乗っているようにも見えてきます。

 

そんなことを考えながら見ていると

実に愛らしくもおかしくも

見えてくるものです。

 

 

 

 

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「一番大切なのは我慢!」

2018-09-15 21:14:03 | 住職の活動日記

USオープンで優勝した

大坂なおみさん

インタビューでの一言です。

「一番大切なのは我慢!」

 

今回の試合全部応援していましたが

明らかに今までとは違う戦いぶり

落着いて丁寧に運んでいかれます。

テニスもメンタルなスポーツのようで

ちょっとしたことで流れが変わり

反対にその場の空気を引き付ける

ことも一瞬にして起ります。

 

 

お釈迦さまの言葉に

「チャラティ・ビサマム・サラム」

ということがあります。

平らでない所を平らに進んで行く

というような直訳ですが、

人生は山あり谷あり

決して平たんではなく

喜怒哀楽の浮き沈みの人生です

そこを心を平らに保って

歩んでいくということでしょう。

 

大坂なおみ選手も

見ていると

以前までは喜怒哀楽がすぐに表面に

出ていたようです。

今回のUSオープン、

そのような場面も度々ありました

しかし、

自分で笑顔を作ったりして

コントロールしていたようです。

そこには新たにコーチになられた

サーシャさんの力があるのでは

ないでしょうか、

テニスをゲームとして

楽しむのも良いけど、

料理人は一品一品、心を込めて

お客に料理をつくる

そのように、

一球一球ていねいに打ちなさい

というような

アドバイスをされたようです。

それからは、

打ち急ぐこともなく

相手に呼吸を合わせるように

打ち返して行かれる

相手のミスを誘い

一つ一つ点を取っていかれる

アドバイスのように丁寧な仕事を

していかれる様子を感じました。

 

今度のUSオープン全試合を見ても

勝つべくして勝った

というように思います。

 

「我慢」ということを

英語ではどういうのでしょうか?

普通には patient

我慢強いとか忍耐する

ということになります。

反対に、

patientという言葉には

患者、治療を受けている病人

という意味もあります。

病気の苦しさを耐えている

ということからでしょうか?

 
大坂なおみ選手どのように
 
言っているのか知りたいものです。
 
 
しかし、まあ、
 
「我慢」ということも
 
仏教の言葉なのですが、
 
やはり、煩悩の一つです。
 
他と比べて高上りする
 
というような煩悩です。
 
コンプレックスもその一つです。
 
常に誰彼なく比べあい
 
一喜一憂しているというのが
 
私たちの姿です。
 
比べなくてもよさそうなのに
 
比べてしまいます。
 
その我慢が
 
堪え忍ぶというガマンになった
 
ということもどうしてなのでしょう。
 
 
言葉の面白さを感じます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
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知識と智慧

2018-09-14 21:29:24 | 十地経

自分なりには、

仏教に関する場合は智慧

生活の知恵というような場合は

知恵と区別して使っていたのですが

以前、

十地経の講義で

「知恵も智慧も変わらんのじゃ

ないか」というようなことを

言われて

それが耳に残っていて、

どうもはっきりしなくて

ちょっと腑に落ちなかったのですが

丁度出てきたのです。

やはり、読んで見ると

「知恵と智慧」ではなく、

知識と智慧ということです。

 

辞書には

厳密に智と慧をわけて

書いてあります。

お経に出てくる言葉には

智もあれば慧もあるし般若という

こともあり、似たような言葉です。

玄奘三蔵もハンニャということを

あえて訳さずに

「般若」と音写したのです。

普通には智慧と訳しますが、

そこには単に訳しきれない

広い意味を持った言葉なのでしょう

 

辞書に

面白いことが書いてあります。

「見も忍も慧の作用である

 見はおしはかること(推求)

 忍は認めてよしと許すこと

 (認可)であるのに対して、

 智はさらに進んで疑いなく

 明瞭に断定することを意味する」

これは慧の働きとして、

見、忍、智ということがある

ということです。

だから、慧といっても

動きがあるというか

ものを見て推し量り

それをみとめて

さらに進んで疑いなく

断定していくという

そういう一連の動きを慧という

ようです。

 

そこで講義では、

「知識と智慧は違うとか

 そういうこともいうけど、

 それはニュアンスで区別する

 だけではないか。

 科学の知も常識もみんな智慧

 じゃないか。

 仏教でいう智慧という場合は

 世間でいうのも智慧だし

 外道も智慧がある。

 お前らには慧がない、

 我々には慧があるというもの

 ではないんです。

 慧は広いんです、

 仏道というか、

 人間をですね、

 本来に呼びさまして、

 人間が、を人間にするような

 智慧ですね。

 そういうような

 技術屋にしたり技術者を作ったり

 学者を作ったりするような智慧

 でなしに、

 人間をして真に人間を

 成り立たせるような智慧ですね。

 人間の尊厳性というようなものを

 自覚させるような智慧ですね。」

 

と、このように述べておられます。

大きな違いは

自分を本当の自分に戻してくれる

そういうものが本当の智慧

ということでしょう。

それはただ単に知るということ

だけではなく、

本当に知ると

自分をも否定してくるような

ものが智慧というものでしょう。

自分を根底からひっくり返して

くるようなもの、

それは案外身近にいる人も

そいう智慧のはたらきをする

人なのかもしれません。

 

 

 

 

 

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東山魁夷展

2018-09-13 20:35:03 | 漢字

この方の絵は好きで

長野の美術館も2回ほど訪ねました

今回は京都で、

岡崎の京都国立近代美術館で

開催されています。

 

本当の「あお」に出会う

 

という副題がついています。

やはりいつ見ても感動します。

圧巻だったのは

唐招提寺の御影堂障壁画です。

ただの展示ではなく

御影堂の様子をそのままに

柱、壁、畳まで据えて

その雰囲気を醸し出し

まるで御影堂に上がったような

感じで拝見することが出来ます。

心血を注がれて描かれた

様子が伝わってきます。

 

作品の題も結構難しい漢字が

出てきます。

そもそもお名前も、

「魁夷」と名乗っておられます。

魁とは大きいという意味

魁士といえば勝れた男子、

魁傑はすぐれた人物、

魁には大きいとかすぐれた

という意味のようです。

夷は東方のえびす、未開の人

という意味もあり、

魁夷とは、

勝手に思うのですが、

あえてへりくだって

東方の未開の人ながら

その中でも優れているものを

内なる力を持っている者

という意味を込めて

名付けられたのでしょうか。

 

作品も

「残照」とか「晩照」

どちらも夕日の光、夕焼けという

ことです。

 

「彩林」というのもあり

いろどりのある林、

彩雲という言葉もあり

美しいいろどりのある雲

そこからの発想でしょうか?

 

「秋翳」(しゅうえい)

秋のかげ、秋のくもり

という意味になるのでしょうか

生み出された言葉でしょう。

 

「青響」青の響き

色に音の動きを組み合わされた

その発想に驚きます。

 

「萬緑新」

(まんりょくあらた)と

読むのでしょうか、

辞書の中に、

「萬緑叢中紅」という言葉があり、

一面の緑の草葉の中に、ただ一つ

赤い花が咲いている

多くの平凡なものの中に、

ただ一つだけ、すぐれたものが

交っている、という喩があります

何だかそういう意味を込めて

描かれたのでしょうか?

 

「月篁」(げっこう)

月のたかむら、月にたけやぶ

こういう言葉の使い方も

なるほどと頷きます。

 

「谿紅葉」

音で読めば(けいこうよう)

意味で読めば(たにがわのもみじ)

谿という字もたにがわという意味

あまり使わない文字です

とても言葉を大切にされ

その思いを言葉と絵に

表現されたのでしょう。

 

一瞬の風景を切り取り

絵として表現される

その一瞬は過去の流れから

今に至り、

またその一瞬は未来へと続く今

「永遠の今」

という言葉がありますが、

無限に流れていく一瞬を描き

その絵は止まった瞬間ですが

しかし切り取られたことによって

永遠のいのちを宿す絵となって

いるのではないでしょうか。

 

しばし見とれていました。

また、

題の意味をかみしめながら

もう一度見たいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

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一言で感動する

2018-09-11 21:34:00 | 十地経

「本当の深いものはね、 

 あっち探したり、

 こっち探したりして、

 出てくるもんじゃない

 と思うんですよ。

 万巻の書を読まんならんとか、

 色々苦労してみなければ、

 なんぼ本読んでも、

 そんなもので深いものに

 触れりゃせんと思うんですよ。

 一言で触れるもんだと

 思うんです、人間はね。

 あ、一言で、

 ああそうかと言うんですね。

 そういう形で

 深いものを自覚するんです。」

 

十地経の講義を読んでいて

分かるからというわけではなく

大学時代から聞いていて

よく分かるから続けている

ということではなく、

安田先生から出てくる

一言一言に頷けるからなんです。

 

おもしろいもので

学生時代は安田先生の追っかけ

みたいなもので、

あちこちで講義があるたび

そこまで行っていました。

というのも、三浦先生に連れられて

ということなんですけど、

宿に入られて先生はどこへも行かず

部屋の中で本を読み思索して

おられるのですが、

何かの話でご当地のことになると

どこにも行かないのに

まるでそこの人と親しく話された

ように、

その土地の人柄をよくご存知

なのには驚きました。

仲居さんの話とか、

会座に来ておられる方々の話を

聞いておられるのでしょう

それで土地柄とかを分析されている

ということなのでしょう。

 

経典をただ読むだけでなく

一つの実践問題として

提起してこられる

そして経典の言葉から

搾り出すように生み出される

言葉、

そのことに感動するのです。

そのことが

今もって続いているのです。

 

「学問のない人間でも、

 学問のある人間でもね、

 はっ、と思ったというんです

 その、学問も何もしとらん人間が

 触れるものが人類的なんです。

 特殊な人間だけの道じゃない

 本当の大道というものはですね

 名もない、誰もない、

 普通の人が感動するのが

 大道なんです。

 専門的なもんじゃない、

 色々修行して、

 あとで分かった、

 こういうもんではないんです。

 一言でうなづけるような、

 感動するものが、

 深いものを

 言い当てているんです。」

 

 

 

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お経の途中で携帯に出るお坊さん!?

2018-09-10 21:14:15 | 住職の活動日記

同じもの同士として

アップするのは

どうかと思ったのですが、…

お互いの諫めとして

書くことにしました。

 

その方は来るそうそう

どうも携帯がつながらない

こちらが架ければ出ないし

架かってきたときには

こちらが出られない、

と独り言をいっておられます。

まあ、村のお寺さん

ある面では親戚付き合いのような

親しみはあるのでしょうけれど、

 

それでは始めさせていただきます。

真言宗の方のようです

ちょうど、理趣経の初段が始まり

中頃にさしかかった時

携帯が鳴り出した!

法事の時なので後で出るかと

思いきや、

「ちょっとすいません」

と、お経を中断して

携帯に出られる

思わずお参りの方々から

えっ、とどよめきが起こる

お経よりも大きな声で話され

「どういうこっちゃ!」

といって、

最初からやり直すかと思いきや

途中から続けられる。

 

お説教では、

しきりと、唯物史観と

西洋の考え方に毒されては

いけない、

原爆投下は国際法違反と

自論を展開される。

80歳も越えてきたら

先がないので

言うことだけ言っておかねば

結構冗舌に話される

 

内心、

そういうあなたが

一時も携帯を離さず手に持って

それこそ唯物論になっていますよ

とおもっていたのですが、…

 

思うに、たぶん

先生をしておられた

突然親が亡くなってお寺を継いだ

お経もきっちり習うことなく

仏教の勉強もせず

遇うべき先生にも遭わずに

住職になられたというのでしょう。

この村では

ここのお寺しかない独占状態

檀家の方々にとっては

何はどうあれ、お経をあげて頂く

それだけでいいのかもしれません

 

お墓にお参りすると

お寺は立派な古刹です。

しかし、

静かに人口減少の波は

押し寄せています。

これからが大変になるのでは?

と、一人心配をしておりました。

 

 

お邪魔したお宅の庭さき

ど根性コスモスでしょう

 

 

ちょっとした割れ目から

根を張って花を咲かせています

 

 

庭の垣も実を付けて

これから色づいていくことでしょう

 

 

ススキも出始めております。

早や秋の装い、

野の草たちは一生懸命咲いている

 

お経一つとっても

上手下手は関係なしに

力の限り声を出して

一生懸命唱えて欲しい

このことは私にも言えることなので

あえて記しておきます。

 

その場、その場で

一生懸命やりましょう!!

それこそが

無住所涅槃、

心の世界の表現ではなかと

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヘルパーさん

2018-09-09 19:51:24 | 住職の活動日記

ある法座の会へ

お世話になった先生、

ここのところ体も不自由になり

歩くのもままならず

お迎えに行って

一緒に聞法して家までご一緒する

ということなんですが、

いつもお会いしているのに

受付の方

「ヘルパーさんですか」と、

どうもヘルパーさんと思って

おられるようです。

「はい、そうです」

と答えていたのですが、

 

ふと思うと「ヘルパーさん」

という言葉はなんともいい響きです。

「助ける」

仏教の中にもよく出てきます。

仏のお助けとか助けられるとか

 

助けるという字も

横に力という字が付いています

ひとに力を加えてたすける

ということが語源のようです。

辞書を見ていると

たすける、という字も色々あって

漢字にはそれぞれ微妙な意味の違い

あります。

そういうことをみるのも

漢字の面白さでもあります。

 

そこを漢字を使わず

「ヘルパーさん」と、

「介助人」というとどうも

しっくりきませんし、

何かしら親しみがわかないような

気もしてきます。

上手に英語に直して使うと

何となく優しい言葉に聞こえてくる

から不思議な気もします。

 

そういうと、

「Help」というビートルズの歌

「助けてほしい!

 そばにいてくれるだけで

 助かるんだ!」

と、歌っていますが

助けて、という叫びです。

あらためて翻訳を見てみると

どことなく

共感できるものがあります。

 

昔ですと

一休さんと蓮如上人の歌が

あります。

「阿弥陀にはまことの慈悲は

 なかりけり

 たのまぬものは助けたまわじ」

阿弥陀さんの救いとは

安もんではないかと

たのむ人しか助けないのか、と

一休さんが歌を送るのです

すると、

蓮如上人がすぐに返歌をされます

「武蔵野の葉ごとに月は宿れども

 露なき草に月はやどらじ」

お月さまは平等に光を投げかけて

おられるけれども

露のない草には月の光は

映らないのでは二でしょうか、と

 

助ける、助かる

ということも微妙な問題です。

こちらが助けているつもりが

逆に

身体の不自由になった先生に

導かれて助けられているのでは

と思うのです。

先生が不自由になられた

ということがなければ、

私自身この法座に出ることは

なかったと思うのです。

 

助けているつもりが

助けられている

強い人が弱い人を助ける

というけれど、

弱い人によって強い人が

助けられている

という現実もあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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虫の声に耳を澄ませて

2018-09-08 20:55:32 | フラワー

台風一過、暑さもずいぶんと

和らいだような気がします。

 

今日も花が活けられました。

 

 

バラとユリを中心に

アイビの葉が取り囲んでいます

 

 

可愛く小さな花ですが、

花材的にもあまり変り映えしません

と思いつつも、

ふとこの言葉を思い出します。

というのも、

外に耳を澄ますと

 

 

たぶんこの茂みの中に

いるのでしょう。

虫たちの声が聞こえてきたから

なのです。

 

二度とない人生だから

一輪の花にも

無限の愛をそそいでゆこう

一羽の鳥の声にも

無心の耳を傾けていこう

 

という真民さんの詩です。

という思いで花を見なおすと

世界が変って見えてきます。

 

何気なく見過ごしてしまうことも

聞き逃してしまう声も

いのちの響きのように

聞こえてきます。

ただの草むらですが

ここで虫たちは生きている

 

いつものように活けられた花も

バラもユリもアイビの葉も

輝いて見えてくるものです。

 

「世の中の字は小さすぎて読めない

 しかし、これをかけると

 世界が変わる。」

というコマーシャルの文句が

ありましたが、

本当に何かの眼鏡をかけて

見聞きしてみると、

見えないものが見え

聞こえないものが聞こえてくる

ものです。

 

しかしながら

最近は視聴覚も衰えてきて

眼には飛蚊症のフィルターが

掛かっているし、

耳には年中虫の音が聞こえてきます

これも、

耳が聞いているのではなく

脳が聞いているということです

同じように

眼が見ているのではなく

脳が見ているとのこと

という眼科の先生のお話、

 

耳を澄ませば

ということが大事で

そのものに成りきって聴くと

聞こえてくるようです。

 

九月は寝覚月ともいいます

自然の動きに耳を傾け

自然のハタラキに驚くのも

楽しい過ごし方のようです。

 

 

 

 

 

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