本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

金剛蔵菩薩と解脱月菩薩の問答

2024-02-23 19:35:00 | 十地経

あまり聞きなれない菩薩

ですが、

『華厳経』という経典に

登場する仏です。

この『十地経』も

金剛蔵菩薩と解脱月菩薩の

対話の形で出来ています

しかし、

対話といっても

ずーっと金剛蔵菩薩が

語っているのです。

七地においてやっと

解脱月菩薩が問いを

発します。

 

この対話ということも

仏教ではそういう形をとる

のですが、

見てみると語り手と聞き手

という形のようです。

 

というのは

『不安に立つ』という

安田先生と茂田井教亨さん

の対話の本があります。

けど、

先生が仰っていましたが

対話という形ですが

ほとんど私が話したのです

ということです。

 

この本は面白く

安田先生の成り立ちというか

名前の由来とか

あまり他では聞けない内容に

なっています。

最初のページ、

自己紹介で

 

「ぼくは学校にも関係して

いましたが、世間人として

生きたことがない。

とにかく、学生のまま

70を越したという

ただそれだけの話です。

田舎から京都に出たのは、

田舎で金子大栄という人の

『仏教概論』を読んだ

からです。

それは文章がいい。

実に新鮮な文章でした。

それまでの仏教の概説書は

村上専精というような大家

の概説はあったが、

文章が悪い。

教科書である。

ところが、金子さんの本は

第一に文章がよい。

ぼくは、まず第一に言葉が

よくなければいけないと

思う。」

 

ここが先生の自己紹介を

兼ねた本の始まりです。

終わりに丸山照雄氏の解説

があって、

 

「本書の展開は読んで

いただければ判るように、

安田理深師の自在な思惟の

展開によって成り立ってい

る。茂田井氏はもっぱら

聞き役にまわっていて

発言は少ない。

 

安田師の法話は鎖状に

つらなって次々と新しい

問題を探って展開していく。

もしその発想を中断させる

ような形で茂田井師の

発言が加わったならば、

この自由な思惟は切断され

展開不能におちいったで

あろう。

 

しかし安田師の言葉は

独白ではない。

それは茂田井師への語り

かけである。

このような「話法」の個性

は尊重されなければ

ならない。」

 

対話という形をとるけど

聞き手が真摯に聞くという

形をとる時に話は泉の如く

湧き出してくるようです

西洋のように

相手の言葉に対して

すぐ次に答えるという

形をとれば展開しないよう

思うのです。

 

先生がティリッヒとの対話

では、

ティリッヒは一つ一つに

問いを発し話がどうも

上手く繋がらないようにも

思えたのですが、

 

この『十地経』では

金剛蔵菩薩が語りそれを

解脱月菩薩が聞くという

形で話は展開しますが

この七地にいたって

問いを発するのです。

 

「その時解脱月菩薩

金剛蔵菩薩に問うていわく

仏子よ、菩薩はただ

第七菩薩地中において

一切助菩提分法を具足する

となさんや」

 

というのが問いです。

その問いについて

金剛蔵菩薩の答えが

「仏子よ、十菩薩地中に

おいてことごとく

一切助菩提分法を

具足する」

ということなんです。

 

そこから、

その内容が展開していく

という形で進みます。

 

 

 

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工夫(くふう)

2024-02-20 20:05:27 | 十地経

工夫、相違工夫とか

工夫を凝らすとか普通に

使いますが

この言葉も仏教語として

辞書に出てきます

特に禅宗で使うようです

 

それからこの言葉に

関連して出てくる言葉に

有功用(うくゆう)・

無功用(むくゆう)が

あります。

七地以前を有功用と

まだ努力がいるといいます

それが七地を超えていくと

無功用と努力するという

ことがなくなる

すべてのことが

自然(じねん)に行われる

そういう世界です

単純には功用というのは

身体で行う動作のことを

いうのです

 

それで、工夫は

辞書を見ると、

工事に従う作業人夫をいい

黙々と精励することから

常に修養に心がけて

努力することを表すように

なり、更に転じて

思慮を凝らす意味に用いる

とあります

 

講義を見てみると、

 

「遠行地というのは何か

というとですね、

方便行の究竟です、

方便行が究竟に達した段階

方便行、これを有功用行、

功用ですね。

有功用行といいます。

功用というのは、

何か努力の姿がある

というんでしょう、努力。

 

禅宗に非常にいい言葉が

あるのは、工夫という。

工夫、

いわゆる実践地というよな

ものじゃないでしょうか。

実践智はつまり、

テクニカル、テクニックな

知識ね。

何かを創り上げるような。

そういうときに

工夫というんじゃないか。

 

自転車に乗るとか、

自動車を動かす

というようなとき

理論では動かないでしょう。

やっぱりハンドルを握って

初めてハンドルの動かし方

を知るんであって、

本ではそれはできんです。

 

だからそこに何か、

実践上の一つの知識がいる

そういうとき、

工夫を凝らすという。

これは面白いんであって

実践上に立っているから

実践を見つけとるんだから

ああだろうか、

こうだろうかと

右往左往しているんじゃ

ない。

そういうものは工夫とは

いわない。

 

それは何というか

暗中模索ですね、分からん

のですから。

工夫ではない。

それから、

工夫を超えたんでもない

やっぱり努力せんならん。

 

何か一つの、

自分の行道が見つかった。

その見つかった道、

道の中に立ったんだ。

立ったけれども、

その道というものを

どういうふうに動いたら

いいかと。

大体の方向は決まった、

しかしそれを具体化する

何が何やら分からん

というのではない。

具体的にならんのです。

 

そういうときの努力を

工夫という言葉で表せる

でしょう。

何か非常にいい言葉です

日本語として。

工夫を凝らすというんです

 

だから今の言葉じゃ、

努力、広くいえば努力です

工夫を凝らすね。

それの極限に達したという

段階を遠行というんじゃ

ないでしょうか。

人間の努力の限界やね。

まあそこが、

人間が努力していくんや

道を歩む。

その努力して、努力の、

もう限界に立ったのが七地

ですね。

 

工夫を超えた世界

それは熟練ですね。

これはあなた方自身も

考えてみてください。

この、決まった

答えじゃなしに、非常に

生きた問題が出ているん

です。」

 

修行ということも

最初は手間取って時間も

かかる、ぎこちない

ものです

それが手馴れてくると

次の行がプラスされてくる

それが身についてくると

またプラスされる

段々増えていくものです

それで工夫を凝らす

のですが

しかし

今思うと、

その行の辛さを嫌がる心が

しんどいのであって

行自体が目的なのだと

思えてくると

行と別な世界(行のない)

そういう二つの世界が

苦しめるので

行しかないと思うと

案外軽くなるものだと

思うのです。

 

 

 

 

 

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第七遠行地(おんぎょうち)

2024-02-19 19:58:04 | 十地経

十地経の講義も

私が聞きだした頃も第七地

そして講義が終わる

第93講も第七地で終わっ

ています、

昭和56年11月28日

が最後の講義です

「時間がきましたんで、

そこまでにしときましょう

講義は。この次に本分を

読んでいきましょう。」

というのが結びです。

先生の心づもりでは

まだ続くという思いだった

のです。

 

説かれた「第七遠行地」

遠くへ行くという

考えれば不思議な名前、

他の経典では

深行地とか深入地、

深遠地、玄妙地という訳も

あります

深いとか玄妙とか

行が進んで深く深遠な世界

へと入っていくことを

表しているのでしょう。

 

その前の地は

第六現前地(げんぜんち)

般若波羅蜜の智慧が

目の前に現れてくるという

地になります。

それで、最初は

初歓喜地、

初めて教えを聞き自分も

進んで行く道が見えたという

喜びに満ちたというところ

 

第二地が離垢地(りくち)

垢(あか)は煩悩ですから

煩悩を離れるという位

 

第三明地(みょうち)

明は智慧、

聞・思・修の三慧により

真理があかされる

 

第四炎地(えんち)

智慧の火が煩悩の薪を焼き

智慧の本体をさとる

という位です。

 

そのように

歓喜から修行の道程が

始まり、

第五難勝地(なんしょうち

難という字があるので

ここも一つの難関でしょう

そこを勝れた智慧で

乗り越えていくという

位です。

 

そういう位があるのですが

やはり中心は第七地

先生の講義は終始第七地に

ついて講義しておられます

 

「方便行ということが

これが第七地の面目なんだ、

方便行。

八地へ行ったら方便を

超えてしまう。

無功用(むくゆう)だ。

それで、遠行地というのは

遠くへ行くというのは

何かというと、

満足ということを

いうのではないか。

 

遠行地ね。

遠くへ行くという意味。

方便行の究、

究竟(くきょう)したと。

(行が極まった)

方便行の満足ですね。

知らんことを知った

というのじゃない。

もう熟練し尽くしたという

ようなところでしょうね」

 

遠行、遠くへ行く

というのは行が満足した

今までやってきた行が

極まったという

何か人間の行の限界を

あらわしそれが

満足したというところに

進んでいくことができる

 

何か、引退の記者会見では

よく、体力の限界

これで引退しますという

ような言葉を聞きますが

そうではなく

限界ではなく

行が熟練していく

というようなことを

表していくようです。

 

そのことは次に回します。

しかし、遠行という言葉は

不思議な言葉です。

 

 

 

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連続していることに意味がある

2024-02-17 21:01:05 | 十地経

久しぶりに西京極幼稚園の

保育発表会に出席しました

コロナがあってなかなか

見ることが叶わなかった

のです

人のお子さんとはいえ

やはり可愛い子たちの演技

は心和むものがあり

楽しい時間を過ごしました

 

年少、年中、年長さんと

それぞれの成長が見れて

嬉しいものがあります。

 

十地経の講義でも

 

「子供はね、何でも、

人間というものは過程と

いうものが大事で、

一つだけ切り離してみると

つまらんもんなんです。

たとえてみたら、

幼稚園でも何でも、

小学校の一年生も

一年生だけ切り離して

みたら、何も大したことは

ない、それだけのもので。

けど小学校の教育の意味が

あったということは

中学になった時に分る。

 

中学をやめたら

小学校もやめてしまうこと

になる。

小学が円満したということ

は中学で分かる。

小学をやっとる時には

小学の意味は分からん。

中学になって初めて

その意味が出てくると。」

 

このように

述べておられます。

2歳児の子たちの演技

傍から見たら何でもない

ことかもしれません

が、このことが次の

年少さんの演技に繋がり

それがまた、

年中・年長の演技と

つながっていくのです

 

それが小学校に入ったとき

幼稚園の意味が出てきて

小学校の意味は中学で

出てくるものです。

 

振り返ってみると

やっと高校に入ったとき

もう少し中学でしっかり

勉強しておけばよかったと

悔やまれた経験があります

 

ですから

この幼稚園での保育は

小学、中学、高校、大学と

またその人の一生の人生に

つながっていくものです

途中で止めてしまえば

前のことまで失ってしまう

 

本当いえば

学ぶということは一生続く

ものなのでしょう。

 

また、安田先生は

一番幼い幼稚園の先生が

最も大切だとも

仰っておられました

大学・高校はいわんでも

やっていくもので

幼い子たちに

いかに手を尽くして

教育するかが大切だとも

 

切り離して考えると

小さい子供がかわいく踊った

というだけかもしれませんが

そうではなく

ある面では

そうやって演技したことが

その人の一生を支えていく

ことかもしれません

そう思うと

幼稚園の先生方は本当に

大変だろうと

右も左も分からな子たちを

毎日の何気ない行いの中で

教育していく

そして

人間の最も大切な部分を

知らず知らずのうちに

身に沁み込ませていく

 

仏教的には

人間としての一番最初の修行

のようにも思えます

そのことを

修行という形ではなく

可愛い、美しい姿として

表現されることは

私から見ればまさに神技

のようにも見えてきます

 

十地経という

人間が人間になる道程です

が、

このことも終わりがなく

あるのは過程だといいます

連続している過程にある

という

終わりがないのだという

それが仏道修行なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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無窓忌・安田先生43回忌

2024-02-16 20:28:58 | 十地経

先生のお住まいだった所で

ご法要が営まれました

その後、お弟子さんの

本多之先生の法話が

「人類の願いとしての

  誓願」

という題で行われました。

安田先生の知られざる一面

を垣間見るようで

興味深い内容です。

 

15歳の頃、禅宗のお寺で

出家され禅宗としての法名も

頂かれたようです

その時におりしも、

金子大栄先生の

「仏教概論」を読まれ

それことが

先生の大きな転機と

なられたようです。

 

早速、金子先生を尋ね

京都へ出来られた

お金もないというので

京都市の職員か何かの

職につかれたのですが

席を与えられ

持ってこられた書類を

前にして一日考え込んだ

という

このために

自分の大切な時間を

割いてもいいものか

出した結論は

やはり人生の一大事を

考え続け求めていこうと

 

それで、辞めてしまわれた

それが先生の

最初で最後の仕事だった

ということです

それから、

命をかけての求道の歴史が

始っていくのです

 

「食えんようになる時が

 死ぬときや」

と、講義の中で

何気なく語られました

 

それからもう一つ

しぶしぶ職に就かれた

それは師である曽我先生の

頼みで

大谷大学の非常勤講師に

就かれた

その時も時間という

観念がなく

始まりのベルが鳴っても

お見えにならない

やっとお見えになっても

終わりのベルも関係なしに

講義は続く、という

 

世間の時間というものには

囚われず、

思索ということになったら

時間は関係ない

 

十地経の講義でも

講義が終わって

それでは食べて飲もう

というのではなく

思惟の中で食べ飲み語る

ということです

 

私達の考えでは

講義を聞いたら次は

内容は忘れて食べて飲もう

というのですが

 

講義で

「その止観を離れて

生活はないと、

だから起きる時も止観に

よって起き、寝る時も

止観によって眠ると」

 

という話しがあります

そういう求道の中に

行住坐臥があるということ

です。

まあ私たちのいう

アフターファイブがない

生活の全てが道である

ということです

何か息が詰まりそうですが

本当はその方が理に適い

生活自体は無理なく

スムースにいくのでしょう

 

しかし

無理なことして楽しみ

疲れ果てるのですが

またそういう楽しみも

大事なのですが、

 

今日の話でも

先生の命を懸けての

求道の姿が思い浮かびます

ですから

子どもさんにとっては

大変身勝手な父親に

映ったようです

亡くなられた

初めて親父の姿を

垣間見られたのでしょう。

本多先生とは同じ年

亡くなられたあと

初めて父親像が分かった

ということのようです。

 

思えば43回忌

私にしてみれば

19歳の時話を聞き

それ以来ずっと先生の講義

に触れている

『十地経講義』を

読んでいると昨日のことの

ように思うのですが

こうやって法事を勤めると

時間の長さというか

短さに驚かされます。

 

無窓忌のいわれも

というか誰がこの名を

名付けたのか聞いたのです

が、

そこは不明でした

「無窓忌」

何とも意味ありげな

私達の問題を提起する

ような不思議な名前です。

 

 

 

 

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立ち居振る舞い

2024-02-15 20:32:59 | 十地経

歩く、坐る、立つ

何でもない動作ですが

こういうことが身につく

そしてそれが自然に美しく

行うということは

難しい面もあります。

 

お参りに行った際

ぞうりを脱ぎ

仏壇の前に座り

ろうそくをに火を灯し

お線香をあげる

こういうことも

いかに修行してきたか

ということが現れる

ものです

 

まして、法事の席とかで

衣を着替えるとなると

皆の目が一斉に注目します

そこで何事もないように

さらりと着替えをし

お経も終わり、さて

衣を脱ぎたたむという動作

このことも

慣れていないと

たたんだ衣が団子のように

丸い塊になってしまいます

 

行住坐臥といわれるように

歩く姿、立ち姿、坐る姿が

美しく理にかなったものに

なるのにはやはり

修行が大事なようです。

 

思い出すのは

安田先生、

タバコの吸い方がとても

美しかったのです

吸い方によっては

下品にもなりますし、

吸い方が人柄を表す

ようにも思います

今読んでいる講義の時は

もう止めておられました

病気される前は

とても気持ちよさそうに

吸っておられました

吸った後も

灰皿の吸殻や灰も

美しく揃えて一つの塊に

しておられたのが

とても印象的でした。

 

今日はお釈迦さまの涅槃会

お釈迦さまはこの行住坐臥

を厳しく言われ

ご自身もそれを実践されて

おられました

涅槃のお姿は

右手を枕として右脇を下に

両足を重ねた形です

これは四威儀のなかの

臥法のやり方で

こういう姿でいつも

休んでおられたのです

 

この臥法も理に適っていて

鼻が詰まったり

いびきをかいたり

無呼吸症候群の人など

この臥法で寝ると

鼻詰まりもいびきも

なくなるものです

しかし

厳しく身につけないと

すぐに仰向けに寝たり

してしまうのです

 

涅槃(ねはん)という言葉

今では一般的になった

ような気がするのですが 

もとはニルバーナという

言葉を訳さずにそのまま

音写した言葉です

あえて訳すと

寂滅とか滅度、単に寂と

なります。

 

よく亡くなられたあと

お位牌に新円寂とか

書きますが

これのことも

新しく涅槃に入られた

という意味を表しています

 

ニルバーナ

吹き消すという意味です

仏教語でなかったら

単に火を吹き消す

ということもニルバーナ

といいます

燃えさかる煩悩の炎を

吹き消した

煩悩を滅したということで

ニルバーナといったのです

 

ですから、

仏教の目的もこの涅槃と

いうことが最終目的です

それで

仏教の特徴を表す

三法印(旗印)の一つが

涅槃寂静です。

 

涅槃ということも

いろいろな意味があって

思い出すのは

無住処涅槃という

本来的には難しい解釈も

あるのですが

よくいわれたのは

住所を持たない

(自分の立場を固執しない

という意味で)

その場その場でそこの人に

なりきるという

そういうあり方が大事では

ないかといわれたものです

 

まあ、一つの例では

聞法会があったとして

お客さまではなく

その会の主人は自分である

というように

自分のために

教えが説かれるのだ

というように受け止める

自分の問題として

 

自分の固執を取り払って

その場その場でなり切ると

そういうあり方で

無住処涅槃ということが

よくいわれたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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失敗しない人間もまた完成せん

2024-02-14 20:18:01 | 十地経

「深心妙行」

(じんしんみょうぎょう)

 

この言葉も安田先生が

よく色紙に書かれた言葉の

ようです。

(深いところにたって

 自由にはたらく)

という意味で

さとりの世界を表現した

言葉です。

 

人生というのは浅くも

深くも生きれるもので

それはそれぞれの考え方

生き方の違いです

どちらがいい

というわけでもありません

 

講義も先日の続きですが

 

「立ち上がらなきゃ

だめなんだけど、

しかしながら

失敗しなけりゃなお

だめなんだ。

立ち上がらんだけじゃない

失敗せん人というものは、

こりゃだめな人じゃないか

 

立ち上がらんのも

だめだけど、

同時に失敗せん人間も

また完成せんじゃないかと

こういうことがあります。

 

で、失敗とか、

立ち上がらせるとか、

しかし、

失敗というものを転回点

として更に再出発するとか

そういうようなものを

支えているものを

願というんですわ、

根底にね。

 

失敗、やめて、

失敗くらいでへこたれん

ものを願というんです。

願いです。

人間が深く生きるとか

浅く生きるとかいうことは

人間がどれだけ深い願、

願に立っているかという

ことが決定する。

 

願といっても

浅い点からいえば、

欲望にすぎんわね。

幸福になりたいとか、

名利が得たいとか、

しかし

そいつを叩き壊しちゃ

いかん。

叩き壊せるものじゃない

しね。

 

色気と何とかのないものは

おりゃせんのやからして。

うぬぼれと、色気と、

これでも捨てたものじゃない

というようなところ、

みんな持っとるから

生きとるんですわ、

厚かましく。

 

だから、

そういう欲望がある、

何も恥ずかしく思わんで

いいです、

色気があることを。

だけど、

その色気が色気に

止まってもだめじゃないか

もっと高い要求に

超えていかなきゃ。

 

それ、願が深まるんです。

初めは、

感性的な要求ですけど、

次第にそれを、

深めていくんです。

 

で、この『十地経』を

支えているものは、

大菩提心という願が支えて

いるんです。

一切衆生のために、

また無上菩提のためにと、

こういうですね。

非常に普遍的ですね。

 

そういう意味で、

この、道というものは、

何か少し一本調子のもの

でないということを七地が

明かにするんです。

非常に大事な意義です。」

 

なかなか高い要求には

達しませんが

浅いところの願いで

うろうろしているのです

それでいいというわけでは

ありませんが

人間は本来、根底には

そういう高い願いを

内包しているということを

知っておくことが大事です

 

その心を仏性というのでは

ないかと思います

その心が何かの縁に合うと

芽生えてくる

だからどんな人でも

ばかにできんし

疎かに出来ないものです

 

仏になる可能性をもった

存在であると

別な言葉では稟性と

カリスマというのでしょう

 

 

 

 

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楽無作行対治(らくむさぎょうたいじ)

2024-02-11 20:44:13 | 十地経

七地の加行道に出てくる

最初の対治なんです

これが楽無作行対治

「楽無作行対治」言葉は

よく耳に残っているのです

しかし、

意味は分かったようで

分からない

 

講義に

「六地を得たものが

六地を出ようとせずに

とどまったから、楽、

楽無作行ということに

なったんですね、

停滞したから。

住したものに停滞したら

得たものの所へ停滞

してしまったら

得ん元に帰ってしまう。

 

油断も隙もならん

もんなんだ。

得たものに停滞すれば、

もう、

得たものも失ってしまう」

 

楽という一服する根性を

諌めているのでしょう

やはり、

何か一つを成し遂げると

ちょっと一服するものです

そのことで

よく叱られました

「一服するのは死ぬとき

でいい、休むな」

 

よく修行は

坂道に喩えられます。

一歩一歩登っていっても

一服して休めば

坂道ですから落ちてしまう

足踏みしていて

やっと現状維持です

足を止めてしまえば

とたんに落ちてしまう

本当に油断ならんものです

 

七地の面白いところは

そういうところに

あるのでしょう

ですから、

前上地勝といわれるように

前の六地(初地から六地)

後の三地(八、九、十)

に勝れているという

 

やっと七地にたどり着いた

という安堵感、でも

経典には「七地沈空の難」

といって

その安堵感が空に沈む

もう上に求めるべきものも

ないと、そういう空に沈む

努力をなくしてしまう

経典では

諸仏の七勧といって

仏たちの激励があると

書いてあります

 

そういう空を知ったという

楽を知った

だから無作行

行をやめてしまう

その心を対治するので

楽無作行対治

というのが一番最初に

出てくるのです

それが加行道だと

いっています

 

加行・無間・解脱・勝進

という四道

この中に「前上地勝」

は当てはめてありません

 

「前と上とに勝るる分

というのは、この四つが

はいらんのです。

これは

こういう付加してある

付け加えてあるんですけど

これは全体にかかっとる

わけですね。」

 

「前上地勝」

というのは七地全体に

関する問題です

前にも勝れ上にも勝れる

という、

十地ということも

初歓喜地から始まり

十地まで一直線にすうっと

いくのではなく

やはり七地という難関が

あるのです

ここが大きな転換点です

 

初めから何の問題もなく

いくのではなく

大きな問題を孕んでいる

そこに鍛えられてくる

私達の問題があるのです

 

「何かやる人はつまり

立ち上がるという意味です

立ち上がるということが

ないとあかんのです。

 

やったらよかろう

というようなこと

いっとたら百年たっても

何もできない。

『やろう』と、

立ち上がるんです。

 

立ち上がるところに

何か、

人間がやっぱり人間に

なっていくんでしょう。

 

しかしやれば必ず何かに

つまずくでしょう。

つまずくということが大事

なんだということろに

今いった

転回があるんです。」

 

というように続きますが

七地というところは

そういう大きな転回を

持っているところが

大事な点だと思います。

 

 

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妄想を知ればそこに真理は来ている

2024-02-09 20:27:23 | 十地経

安田先生の講義も

最初は経典の言葉から

始まります

つまり、この講義の

結論なんです

結論を最初に述べ

その結論について順次

述べていかれるという

そういう形です

 

これは、どの経典も

そうなんですけど

最初に結論が出てきます

その結論について順次に

語っていくということです

 

『般若心経』でも

「観自在菩薩が

深く般若波羅蜜多を

行ずる時

五蘊は空であると照見して

一切の苦厄を度したまう」

というところまでが結論

になります

それで、「舎利子よ」と

呼びかられ

順々と説いていかれます

 

七地の構造を

加行・無間・解脱・勝進と

四道として

そのことが

楽無作行対治・彼障対治

双行分・前上地勝差別・

彼果対治と関係していると

そこから話がっ展開して

いきます

 

「禅宗の言葉で、

面白い言葉があるね。

我々はいたずらに真理を、

真理をつかもうと

あせっとるけど、

そういう必要はないと。

 

真理は向こうから

はっきりしてくるものが

真理というんだ。

向うから現れてくるものが

真理というものだと。

我々は真理をつかもう、

つかもうと焦っとるけど、

真理をつかむ必要はないと

 

ただ妄想を知る必要が

あるんだと。

妄想を知れば真理は

向うから来とるんだ。

妄想を、

妄想ということも

分からずに、

ただ真理をつかむといえば

そのつかんだままが

妄想になってしまうと。

 

何かいい言葉だね。

 

真を求むるを要せんと。

ただ妄を知ると、

これだけは必要だと。

こう言っとるんです。

 

だからして、

その妄を知るっていうこと

真をつかむという間に

媒介がないから、

無間というんです。

間がないでしょう。

だから

妄想を対治するというと、

真理が現れてくる。

 

その現れてくるのを

解脱というわけです。

妄想を対治する、

その、無媒介に、

そこに真理が現れてくると

妄想から解脱するんです。

 

妄想を破った、

破ればですね、

そこに妄想から解脱して

真理が現れてくる、

真理に触れると。

こういうかたちになっとる

んですね。」

 

余談ですが

舎利子という人は

舎利弗(しゃりほつ)とも

呼ばれ

とても聡明で

お釈迦さまの言葉を一番

理解した人です

それで、般若心経でも

二度も名前が出てきます

ですから、すべてのお経は

舎利子に向かって説かれた

といってもいいでしょう。

 

反対に

周利槃特

(しゅりはんどく)

という人、自分の名前も

忘れるほどの愚かな人

といわれています

お弟子の中から

ああいう人がいると

お釈迦さまの名前に傷が

付くから破門したら

どうかという話しが

出てきたのです

 

お釈迦さまは

そうではなく、

頭の良し悪しがさとりとは

関係がないのだと

それで周利槃特に

箒を持たせ

「垢を除かん塵を払わん」

この言葉だけ唱え

掃除をしなさいと教えます

 

すると自分自身の煩悩を

知って対治できた

という話しです。

 

ここでいう

普通のお弟子さんのように

真理を求めることなく

ただ自分の煩悩を知った

知ることによって

真理が来たというのです。

 

余談の余談ですが

周利槃特のお墓に生えて

きた草がミョウガです

漢字で書けば「茗荷」

自分の名前を背負っている

周利槃特からと思えば

面白い字でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

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四道(しどう)

2024-02-08 21:02:33 | 十地経

四道というと

加行道(けぎょうどう)

無間道(むけんどう)

解脱道(げだつどう)

勝進道(しょうしんどう)

の四つです

このことが七地ということ

密接な関係をもっています

 

真言宗でも

四度加行(しどけぎょう)

ということがあって

得度が終わると最初に

始める行が四度加行です

度というのですから

渡ということ

涅槃へ渡っていくための

修行(加行)というのです

 

加行道というと

まず煩悩を断じるという

無間道というと

無間とは間が無いと

書きますから

煩悩を断じることと

そのさとりへ至る道が

同時というのでしょう

解脱道は

まさしく真理を証し

解脱を得る道に居ると

そして勝進道は

さらに進み、

修行に終わりがない

そういう道を歩み続ける

ということでしょう

 

講義では

七地と関係づけて

楽無作行対治が加行道

彼の障対治が無間道

双行分が解脱道

次の前上地勝の差別

勝進道が彼の果の差別

と難しそうな言葉が

続きます

 

「加行というのは、

六地を手にして今度は

六地の菩薩が第七地に入ろ

うとする努力を加行と

いうのです。

加行、無間、解脱、勝進

といってですね、

これは、

修行の展開していく道程

というものがですね、

どの地でも、

みんなこういう構造に

なっとるんですね。

 

無間・解脱というのは、

解脱するのに無間である、

間が無いと。

彼の障対治と

対治ということが

これは何か排除するね、

間違いを排除する

というのが対治。

妄想を排除すると。

そして真理をつかむと。

 

真理をつかむ場合には、

真をつかむ場合は、

妄を捨てる

ということがないと

できんでしょう。

夢から覚めるという。

夢から覚めて、

真理に目覚めると。

 

その妄想から破れて

真理に触れるのは、

真理に触れるということと

妄想を破るということと

その間に媒介者はいらん

のです。

妄想を破って、

それから真理を開く。

その間に何ら無媒介です

ね。」

 

講義の最初はこのように

経典から始まります

聞いている方にとっては

難しい言葉が続き

聞いているだけでは理解

しがたいものがあります

こうやって文字になると

何となくつながりが

わかってくるのです。

 

妄想が破れる

それから真理に触れる

それは同時だと間が無い

無間ということを

言われています。

 

前回の講義が

「前上地勝」ということが

でてきて

前の地にも勝れ

さらに後の地、八・九・十

にも勝れているという

理解し難いこともあります

が、理屈でなく

実践としてみると

よく、

スポーツ選手も匠の人も

極めてみると

これで終わりではない

さらにそこからやるべき

先が見えてくると

いうようなことを

言われています

 

これでいいと

そこにとどまってしまえば

それは下っていることだと

そこに修練に厳しさがある

そういうことを

「前上地勝」という

言葉で表現しています

 

歌舞伎でも三日休めば

稽古不足を見抜かれると

いうことをいいます。

ですから

後の地にも勝れている

ということは

そのところにとどまる

ことなくさらに進んでいく

そういう重要な地である

ということをいっています

 

これから講義が面白く

展開していきます。

 

 

 

 

 

 

 

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