本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

先天的煩悩と後天的煩悩

2019-01-18 20:54:34 | 住職の活動日記

煩悩にもいろいろあって

生まれながらに持っている煩悩も

あれば、

生きていくうちに付いてくる煩悩

もあります。

普通には

赤ちゃんは真っ白な純白の心と

いいますが

仏教ではそうではなく

生れながらに身に付いた煩悩を

もっているということです。

 

難しくは

俱生起(くしょうき)の煩悩

分別起(ふんべつき)の煩悩

とよんでいます。

俱生起というのが

生れると同時に起きる煩悩

分別起というのが

生きていくうちに外からの縁で

いろいろ分別して起こす煩悩です。

 

こういう話があります

仏を念じて拝むけれども

なかなか喜びの心が起こってこない

また浄土へ参りたいとも思わない

これは娑婆に未練があって

心引かれるからでしょうか、

と師匠に相談するのです

普通だったら

そうだ!まだ修行が足りない

頑張って修行に励みなさい

ということになるのでしょう

 

ところが

この師匠はそうはおっしゃらない

自分もそうなんだ

お前もそうなのか、と

よくよく考えて見ると

これは煩悩の為せることなのです

と、さとされるのです。

 

もし自分が起した煩悩なら

自分の力で止めることが

出来るはずです

ところがどうしてもそれは出来ない

そこに、煩悩というものは

自分の力ではどうにもできない

一面を持っているのです。

 

そこで、煩悩にも俱生起と分別起

という二つのとらえ方が

出てくるのです。

十大煩悩のなかでも

邪見・見取見・戒禁取見・疑

という煩悩は分別起

後天的煩悩です。

それから、

分別起・俱生起両方にはたらく

煩悩が、

貪・瞋・癡・慢・

薩迦耶見・辺執見の六つは

分別起の煩悩です。

 

面白いことに、

分別起の煩悩は激しいけれど

断じ易いと、

反対に先天的な俱生起の煩悩は

細やかで微かなのですが

これが断ち難いといっています

 

分別起の煩悩は見惑(けんわく)

といわれて

見道の智慧がうまれれば

その智慧によって失せてしまう

ということです

それは後で付いた煩悩ですから

それはこうなんですよ

と納得すれば断じることが

できるのです

ところが、

俱生起の煩悩は激しくはない

微細なのですが根が深い

持って生まれ来たのですから

これは修惑(しゅわく)といって

修道の実践によって

一つ一つ断じていく煩悩です

ここに修行の大切さがあります

 

十地経でも初歓喜地でわかったと

普通であれば

それでいいのではないか

と思うのですが

そこで終わるのではなく

十地という段階があると

これが一歩一歩対治していく煩悩

俱生起の煩悩です

そこに十という修行の道筋が

あるのでしょう。

 

話を聞いてわかった

そこからが始まりで

喜ぶ心が起こらないというのは

俱生起の煩悩が対治されて

いないということです。

この煩悩は十大煩悩のなかでも

六つあってどちらにもはたらく

分別起にも俱生起にも

起ってくるので厄介なのです。

 

こんなことを言いだすと

重箱の隅を爪楊枝でつっつくような

話しになりますけど、

安田先生も、こういうことが大切で

これはものの考え方を厳密にする

ものの考え方を

厳密にするということは

人生が深まることだと

おっしゃっています。

 

また玄奘三蔵もインドへの旅は

こういう微妙な問題を明らかに

するというのが目的だったようです。

 

あらためて、先人たちの智慧

これほど人間の迷いの構造を

厳密に明らかにされたということは

何度読み返しても驚くばかりです。

 

 

 

 

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見(けん)ということ

2019-01-17 17:30:08 | 住職の活動日記

普通には「見る」という字ですが

仏教になってくると

「見」(けん)と言って煩悩の

一つになってきます。

あえて、正しいということと

区別するために

見といわずに「悪見」と

書いてあります。

 

見という字には見るということ

と同時に見解というように

考えという意味もあります

立場が違うと見方も違ってくる

そこから見方、考え方という

意味も生まれたのでしょう。

 

お釈迦さまの説かれた

最初の実践項目に「八正道」が

あります

その目的は「正見」を得る

ということです

私たちのする修行ということも

その目的は正見の智慧の獲得

ということです

 

滝に打たれたり断食したり

不眠不休で座禅するとかも

その目的は正見の智慧です

ところが

やることによって

人より違った厳しい行をしている

ということで

悪見を取り除く修行が

かえってよこしまな見解

戒禁取見(かいごんしゅけん)

という、これが絶対だと思う

そういう思い(見)が身に付く

ということです。

 

仏教の経典はどれもそうですが

説かれる目的結論が最初に出てくる

それから、順次その具体的なことが

述べてられてます。

 

八正道も目的は正見

だから最初に正見が出てきます

その正見を見出すには

正しく三業を行ないなさい

ということで

正思(意業)正語(口業)

正業(身業)が説かれ

その三業を正しく行うことが

正しい生活ということですよ、と

正命とは生活ということです

その生活を正しく実践するという

正精進が出てきます

その正しい生活を常に忘れない

ようにという正念

そして正定という精神生活が

成り立ち、正見が生まれる

と説いています。

 

煩悩ということも

三大煩悩があり(貪・瞋・痴)

これが根本煩悩です

それに慢・疑・悪見が加わり

六大煩悩となり

見(悪見)はお経に

「悪見の者は多く苦を受くるが故に」

とあるように

私たちの苦しむ元は必ず悪見が

あるということで

さらに「見」を開いて

五つに詳しく押さえています

そうすると十大煩悩という

ことになってきます

十大煩悩といっても

その中の五つは悪見ということで

いかに見という考え方が大事か

ということです。

 

私自身「見」ということを

何回も書いているようですが

やはり、どうも気になって

昨晩も夢にまで出て来て

むっくり起きて読みなおしたり

どもここから進まないようですが

繰り返すことも大事と

安田先生もおっしゃるように

また、自分に叩き込むように

書いています。

 

その第一が「薩迦耶見」さがやけん

これも難しい

サットカーヤという言葉を

訳さずにそのまま音を当てた

玄奘もどうにも訳しようが

なかったのでしょう

サットは有る、カーヤは身

自分の体が有るという見(けん)

自分自身の身体は日ごとに老いて

いっています

しかし、意識は変わらないので

私自身も変わらないものと

思い込んでいるのです

ですから何かするその背後に

「私の」なになに、という思いが

いつも付き纏っている

ということです。

 

見の中でもこの薩迦耶見が

一番に出て来るように

悪見ということの根本です

 

そこから、

辺執見(へんじっけん)という

どちらかに偏った見方

というものが出てきます。

死んでも魂は永遠だとか

反対に、死んだらそれで終い

というように

難しくは「断見」「常見」

といています。

面倒なのですが

経典では

「阿頼耶識は非断、非常」

といっています

切れてないけど永遠でもない

無くなるが無くならない

無くなりつつ連続している

というのが事実です。

意識というのは一旦切れるけど

業として残る

その業によって

阿頼耶識がまた生まれてくる

そこに連続ということがある

眠るとそこで意識は途絶える

けど、業が残っているので

また阿頼耶識が相続していく

という

とても難しく面倒なのですが

 

人間の見という思い込みは

どちらかに偏った見方

まあ、その方が他人事としては

面白いものがあります

それが週刊誌とかの記事でしょう

それほど

偏見というものの見方は

根深いものです。

 

語り尽くせぬものがありますが

ずっと頭の中にあるので

また思いついたら

また同じ事になるかも知れませんが

繰り返したいと思います。

 

 

 

 

 

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国民とともに歩まれた平成の30年

2019-01-16 20:33:59 | 住職の活動日記

高島屋では

国民とともに歩まれた平成の30年

と題して

天皇陛下の足跡をパネルと

歩まれた各地の品々が

展示してあります

 

 

ご結婚以来ほんとうに

日本各地は言うに及ばず

世界各国もご訪問されて

休まる時がなかったのでは

ないかと思います

 

 

この両陛下のお写真は

お人柄がにじみ出ているようです

 

私というプライベートのない生活

ご自身の全生活が公であるという

本当に象徴という立場を

実践してこられた様子が伺えます

 

災害が起きるといち早く

被災地を見舞われ

だきよってこられる

被災された方をそっと受けとめられる

皇后さま、それを見つめられている

天皇陛下

被災地では同じ目線で

座り込んで話される姿

 

戦争で亡くなられた各国の地で

深々と頭を下げ

冥福を祈られるお姿

どの写真を見ても

私たちと共に歩まれたお姿が

伝わってきます

 

その写真パネルと共に

お行きになった各地での献上品が

展示してあります

それは技術の粋を尽くした

立派なものばかりです

また各国での記念の品々も

見ごたえあるもです

こういうのも日本の技術伝統の

確かさを見ることが出来ます

 

1階に降りてみると

 

 

天皇陛下専用の馬車があります

 

 

間近に見るその姿は立派です

いつもでしたら

通っていく様子しか見れませんが

本当に立派なものです

 

 

菊の御紋も美しく

 

 

車輪の軸のところにも

飾りとして付いています

 

 

こちらが後です

ここのところに御者の方が

立たれます

 

 

真正面のスプリングの様子

ダブルウィッシュボーンに

なっているのかな??

よく見るとところどころ

金箔も落ちているところも

あるようです

そうやって大事に使われてきた

のでしょう。

 

行きたいと思って

新聞の切り抜きを大事に取って

いたのですが

日にちもなくなりそうで

急遽足を運んだ次第です

 

あまり日もありませんが

是非おすすめします。

 

 

 

 

 

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知識は力なり・知識が力なり

2019-01-15 20:55:25 | 住職の活動日記

「継続は力なり」、

という言葉もあり

また最近では「何なりの力」と

力ということが大流行でした。

 

力ということもよそから持ってくる

力もあれば、武力とか権力

しかし、

仏教でいう場合の力は

「能力」というような

自分の内からの力をいうことが

多いようです

 

案外、

人間は内に持っている力が

あるのですが

どうしても外の力に頼りがちです

 

知識は力なり

とは、ベーコンという方の考えです

人間は多くの偏見を持ち

それによって本当のことが

見えなくなっている

だから偏見を排除するには

本当の知識が必要だというのです

 

仏教でも

人間の迷いの根本は「無明」と

いっています

本当のことがわからないという無明

自分勝手な思い込みに固執して

それを絶対と思って

それに依り全ての価値判断を

してしまいます

そこからいろいろの煩悩が

生れ出て、俗に108と言われる

煩悩になってくるというのです

 

唯識という経典では

人間の迷いの構造を明らかにする

そこから

人間の存在を解明しています

人間の迷いはなぜ起きるのか

なぜ迷うのかという問い

その迷いを明らかにする

ことによって

本当の人間とは何か

ということを説いています

 

ベーコンも

四つのイドラ(偏見)を

正しく見ることによって

人間の在り方を正して

人間本来の姿を取り戻すことが

出来ると言っています

 

本当の正しい知識は

人間を明らかにしていく力です

そこからいうと

知識は力なり、です

そこから見出される学問は

人々を豊かにすると

ベーコンは考えたのです

その知識を用いて

働かせて人々のためになるには

いろんな研究所や図書館であったり

養成所であったり

そういうものを作る必要があると

ベーコンは考えたのです

そうなれば

知識が力なり、と

いうことになるでしょう。

 

でも、まあ

ベーコンという方は何といっても

キリスト教圏にいる方ですので

キリスト教では「啓示」という

人間の上の方から人間に呼びかける

という

考え方が基本にあるのでしょう

神の啓示というように

上から天下ってくるというような

 

そこが

仏教との大きな違いで

人間を超えたものは

かえって人間の中にあるという

お経に

「衆生貪瞋煩悩中」

とあるように

煩悩まみれの人間の中から

人間を破るような力が

起ってくると

人間を破るような能力があると

いっています

 

蓮の花はそういうことを

象徴しているのでしょう

泥沼という煩悩に汚れた蓮根

そこにこそ

あの綺麗な花を咲かせる

蓮の花があるとのだと

 

ベーコンという方の考え方を

みていても

何か通じるものがあるように

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アイドル(idol )

2019-01-14 20:00:02 | 住職の活動日記

 なんてたってアイドル 

という歌もありましたが

最近はグループの女の子たちの

なんとか48とかいうアイドルが

人気のようですが

またいろいろな問題も起こったり

難しいこともあるようです

 

「アイドル」という言葉も

もとは宗教的なことから生まれた

言葉のようですが

「イドラ」というラテン語から

「idola」が「idol」に

もとは偶像とか幻影という意味

のようです

 

アイドルも見てるこっちが勝手に

偶像を作り上げ

自分の作った偶像に振り回され

いろんな事件を起こして

いるのでしょう。

 

そこで、

イドラということを見てみると

なかなか興味深いことが見えてきます

イギリスの哲学者

フランシス・ベーコンという人が

人間のもつ先入観とか、

偏見を解読して

いかに人間にとって本当の知識が

大切かを説いています

 

「知識は力なり」

という言葉を提唱しておられます

本当の知識こそが人間を明らかにして

お互いの偏見を取り去ることが出来る

ということです

 

その偏見(イドラ)には四つあって

1.種族のイドラ

2.洞窟のイドラ

3.市場のイドラ

4.劇場のイドラ

という面白い名前を付けて

おられますが、

 

種族のイドラとは

人間共通の先入観ということで

女性は感情的、男性は理性的

というようなことを言いますが

個人差もあることだし

夜空の星を見ていると

星たちが地球の周りをまわっている

ように思う錯覚です

 

洞窟のイドラとは

自分の住んでいる世界がすべて

と思い込んでいることです

井の中の蛙ということもあります

世界を知らないと

自分の住んでいる価値観だけで

全てを見てしまうという偏見です

 

市場のイドラとは

ベーコンは人と人が出会う場所を

市場とよんでいます

その人と人との関係は言葉によって

成り立っています

ところがその言葉がそれぞれ違う

意味をもっているのです

つまり言葉の定義がそれぞれ違う

ということです

そこから起こってくる誤解と

それぞれが持っている先入観で

本当のその人自身の姿が見えない

ということです

 

劇場のイドラとは

権威や伝統から来る思い込みです

肩書を見るだけであの人は立派と

思い込んでしまうとか

お金儲けがうまい人の話は

なるほどと信じてしまう

ということです

劇場という言葉を使っているのは

面白い表現です

 

仏教でもそうですが

求道することの中心課題は

考え方を正すということです

それで

考え方(見・けん)は

煩悩に数えられています

仏教で見といえば悪見で

正しい見は正見と正という字を

つけています

 

三大煩悩があって

それに慢・疑・見が加わり

六大煩悩

その中で「見」は重要なので

五つに開いて

薩迦耶見(さかやけん)

辺執見(へんじっけん)

見取見(けんしゅけん)

戒禁取見(かいごんしゅけん)

邪見(じゃけん)

ということになり

これを加えると十大煩悩という

ことになります

 

人間は本当のことがわからないと

それだけで終わるのではなく

本当でないものを本当と

思い込んでしまう

という間違いを起こしてしまいます

ここに「見」ということの大切さ

があるということです

 

アイドルといっても

本当にその方の人間性を見ている

のではなく

見ている人たちが勝手に

自分の思い思いの見方で

そのアイドルと言われる人の

偶像を作り上げているのです

作り上げるだけなら

問題は起らないのですが

作り上げた偶像を自分の思いと

同じものだと思い込み

自分の考えを押し付けてくる所に

行動となって問題を生じる

ということです。

 

アイドルということも

昔は、あこがれの的ということで

心わくわく見たものですが

今は、

アイドルという語源のように

勝手な偶像として

自分勝手に作り上げるところに

憧れの人であるということですが

行き過ぎて自分のアイドルと

思い込んでしまうところに

また問題も起きて来るように

思います。

 

 

 

 

 

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善哉! ぜんざい!

2019-01-13 20:17:27 | 住職の活動日記

一休さんの誕生日は1月1日

ということもあってでしょうか

1月の月末

一休さんのお寺一休寺・酬恩庵では

坐禅の会と

善哉の接待があるそうです

一説には、

一休さんが善哉を広めたとか

大徳寺を訪ねた折

住職からお餅の入った小豆汁を

ご馳走になった

たいそう美味しくて

「善哉、此汁」

(よきかな、この汁)

と言われたところから

「善哉」になった。

ということです。

 

また別には

出雲地方では11月の神在月で

振る舞われた神在餅(じんざい)が

訛って、「ぜんざい」になった

という説もあるようです。

 

そういえば

明日の14日は

東寺で勤められている

「御七日御修法」の結願日

真言宗で一番大事なお勤め

御所から御衣が来て

それを1週間後祈祷するという

行事です

前七日は神式で行われ

後の七日は仏式で勤められます

午後1時ごろから道場公開があり

その時のお供えを見られと

(昔と変わらなければ)

茹でた小豆に砂糖をかけた一皿

その横にはお餅があり

つき仏供という御飯

干し柿と榧(かや)の実が

あります

茹でた小豆にお砂糖をかけ

餅を入れれば、善哉になります

 

昔から小豆は貴重で

徳に目出度い時に頂いたのでしょう

当院でも

毎月の28日のお不動さまの

お接待はお赤飯です

昔は大きな蒸籠で蒸していましたが

蒸籠も壊れてしまい

今では焚きおこわとして

お出ししています

 

「素人は

 小豆と生糸には手を出すな」

ということが言われていたそうです

石炭は「黒ダイヤ」といわれ

小豆は「赤いダイヤ」といわれた

ということです

先物取引としてそれほど

小豆は難しかったのでしょう

 

子どもの頃は

甘いもののない時代

小豆を焚いて砂糖を入れた

あんこというのは最高の

ご馳走だったのです

ですから、牡丹餅とかおはぎ

ヨモギ餅とかなにせ餡を入れた

物は最高のおもてなしでした

 

そういえば

安田先生も「御座候」がお好きで

講義の前には必ず準備したものです

所によっては「今川焼」とか

熊本では「回転焼き」というように

いろいろよび方はありますが

中に餡を包んで両面を焼いた

というものです

 

しかし、

元々はお経の言葉ではないかと

思うのです

いつも読んでいる『理趣経』の

最後には

「善哉、善哉」という言葉が

出てきます

きれいな節を付けて読むのですが

これは

お経を編纂した時

(結集けつじゅう、といいますが)

いろいろ聞いた人はいるのですが

一つにまとまったものとしては

出来てこないのです

そこで、阿難の登場ですが

阿難尊者は聞くだけは

聞いていたのですが未ださとりを

得ていないということで

結集には参加できなかったのです

しかし、肝心なところがどうも

わからない

そこで阿難に尋ねると

「如是我聞」と

私に於いてはこのように

承りました、と

この我というのは阿難のことです

我というのも厳密には主格ではなく

インストルメンタル・具格

私に於きましては、と

非常に謙虚な立場で言われています

おれがこう聞いた、とは

おっしゃらないのです

 

そこで

阿難の話されることを

みな静かに聞いて

最後に、その通り!その通り!

(サドゥー!・サドゥー!)

善き哉!善き哉!と承認された

それでみんなで大変喜んで

仏の修行へと邁進した

という流れで

お経が締めくくられています

 

このように

善哉ということは経典では

大変重要な言葉ですが

どこでどうなって

「ぜんざい」という食べ物の

名前になったかは、

一応一休さんとはいうものの

はっきりとこうなったとは

言いがたいものがあります

 

まあ、こんな美味しいものは

他にはない

善き哉・善き哉と言ったところ

からと、

単純に思った方が

いいのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

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おのおの はなのてがらかな

2019-01-12 20:53:51 | フラワー

今年最初の花が入りました

 

 

賑やかに百花繚乱という

ところでしょうか

 

 

それぞれの花が

見事に調和して咲いています

 

「くさいろいろ おののはなの

  てがらかな」

松尾芭蕉の句です

門弟たちと別れる時の

謝辞を込めた句ということです

門人たちがそれぞれ自分の花を

見事に咲かせている

そういう思いを込めて詠んだ

句ということです

 

 

今の季節、外を歩いても

冬籠りというか

春に向けて静かに眠っています

そんななか

玄関には色とりどりの花が

やってきて我が家も

急に明るくなりました

 

 

中心には青々とした麦の穂が入り

何かしら力強さを感じます

 

面白いもので

「手柄」漢和辞典には

載っていないのです

これは日本で生まれた言葉

なのでしょうか?

広辞苑には

功績とか腕前、手並み

というような意味が並びます

普通には

「おてがら、おてがら」という

よくやったという意味で

使うようです

念のため

「柄」を引いてみると

え。器物の取っ手。という意味です

次に

いきおい。という意味もあります

それから、日本での意味として

品格。性質。という

人柄という言葉もあります

 

おのおの

はなのてがらかな、というのは

それぞれが競い合っている

というのではなく

花の持っているそれぞれの力

能力というものを

出し切っているということでしょう

 

 

一即一切、一切即一

ということでしょう

一つの花が全体をあらわし

全体として一つの花である

 

 

一つひとつは独立しているけど

全体としても

置かれたところで

自分だけ目立つのでなく

自己主張することなく

全体に溶け込んでいる

その一つが欠けても

全体が崩れてくる

 

本当に手柄を出し切ってこそ

全体の一員として

その役割を十分に果たしている

それが全体の調和として

美しさを表現している

 

そう思ってみていると

一つ一つの花が

愛おしくも見えてきます。

 

 

 

 

 

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見て敬い聞いて忘れず

2019-01-11 20:38:19 | 十地経

どうも気になり

また再び『十地経論講義』を

最初から写し始めました

ふと日付を見ると1月11日

日付も1並び始めるには良い日かも

しれません

 

昭和46年3月18日が最初の講義です

この講義は昭和56年11月28日まで

続けられます。

その10年間に94回の講義があり

その講義録のテープが起こされて

30巻の講義録にまとめられました。

 

この講義は不思議なもので

先生も繰り返しとおっしゃるように

第1巻から書き始めても

また新鮮に感じるのです

普通は読んだところであれば

これはもう済んだと思うのですが

また再び感動を呼び起こしてくる

 

「見て聞いて敬い忘れず

ということがありますが、

結局学問とか研究とかいうことを

簡単に言えば、聞思ということです

何でもかんでも考えるというのでは

なしに、

思惟というものに、一つの方向を

与えておるのが聞という

聞というのは法を聞くんです。」

 

というところから始まりますが

私にとってはぞくっとくる一文です

ただ読むだけでいいのではと

思うのですが

貧弱な頭には、

一言一句噛み砕くように

書き綴らなければ

新たな発見は生まれてこないのです

 

今書いているところが

第17巻八地のところです

そこに述べてあったことが

既にこの最初に述べられている

次のような内容ですが、

 

人間の中にあって人間を超えている

人間を超えているけれど

それが人間の外にあって、

上から天下ってくるのではなしに

人間の中にね、

人間の中に人間を破って

真理が自分を現す

現すことによって人間を転ずる

人間の上の方から

人間に呼びかけるとか語るとか

いうような形がキリスト教における

考え方でしょうけど、

しかし仏教の方では、

そういうような上からという

ことではなしに、中からですね

人間を超えたものはかえって

人間の中にあるんだ。

 

というような17巻のところでも

同じような問題が出ています

やはり安田先生には

菩提心という問題が

貫いているように思います。

 

思い立ったことが幸いして

やはり最初から書き写すという

あながち間違ってはなかった

ようです

同時進行ということは

行きつ戻りつではないですが

感動が繰り返し出てくるようです

 

つくづく、

不思議な講義だと思います

何回読んでも

新たな感動を呼び起こす。

(まあ、私だけかもしれませんが

 自分が感動するものを見つけた

 ということは

 それは自分にとって最高の教え

 だということです)

 

また、新たな喜びがふえました!!

 

 

 

 

 

 

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醪音(もろみね)

2019-01-10 19:31:27 | 住職の活動日記

桃山御陵駅を降りたところに

お店はあります。

 

 

醪が発酵する音になぞらえた

のでしょうか

ここは英勲さんで有名な斉藤酒造

酒に合う魚を吟味してお出しする

ということです

 

 

店内にも大吟醸のお酒が並びます

 

 

楽しみな、久しぶりの一献です

 

 

まずは濁り酒が

和み水に丸い氷を浮かべて

この水はお酒を作る時のもので

名の通りまろやかな味です

 

まず紅白ナマスと数の子

お造りと進み

日本酒はあまり飲まないのですが

とても美味しく感じます

 

 

七輪と一緒に一夜干しの魚

 

 

炙りながら頂くのですが

その焼けていく匂いが

また食欲をそそり

次にはチロリ(銚釐)に入った

燗でいただきます

たぶん錫で出来ているもので

冷えにくいように

(酒に夢中で撮るのを忘れ)

メインはすき焼き

 

 

最後の〆は

五目御飯をお出汁で頂く

 

 

手前の土瓶がお出汁が入っています

酔いが廻ったわけではありません

ちょっと傾けて撮ってみたのです

 

醪という字は(ロウ)と読み

もろみという意味です

漢文では濁り酒とあります。

 

我が家から近鉄で6分

いいお店が見つかりました。

しかし、

駅から我が家まで徒歩8分

微妙な坂道を登る

これが酔った体には

少し堪えます。

久しぶりのゆっくりと日本酒を

味わうことが出来ました。

 

 

 

 

 

 

 

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人間は人間では分からない!?

2019-01-09 16:03:17 | 住職の活動日記

最近はAIの進歩はすごいもので

次第に人間の仕事が奪われるとか

いうことも話題です

将棋の世界では人間がAIに負ける

ということも起きています

自動車の運転もAIが行う

こちらから、話すことを理解して

音楽を鳴らしたりエアコンの

調節をしたりという車も

発売されたようです

 

身近な所では

我が家のアイロボット「ルンバ君」

少しだけAIがあるのでしょうか

時間になると動き出したり

留守の時は掃除をしてくれたりと

活躍していますが

見ていると、

むだな動きも多く行きつ戻りつ

同じ所を何回も行ったりと

これにAIが組み込まれると

部屋の大きさ、

物の置いてある場所を認識して

もっと短時間に出来るように

なるでしょう

 

そいうことがあると

やはり、人間とは?という問題が

クローズアップされてきます

人間のすることをすべて出来る

ということになると

人間との違いは

では、人間とはなにかという

ことが問われてきます

 

お釈迦さまは人間の存在を

苦の存在として捉えられました

「人生楽ありゃ苦もあるさ 

という歌もありましたが

そうではなく、

一切は苦であると

年をとっていく、老い

病気をする

今では二人に一人は癌と

身近な所でも耳にします

死という問題

愛する人とも必ず別れが来る

嫌な人とも一緒にいなければ

いけないという

また欲しいものは手に入らない

身体と心がバラバラで

思うようにならないという

というような苦しみがあります

 

ところが先日のテレビ

受験生のインタビューで

みな一応に

「自分との闘い」

とおっしゃっています

よく考えれば不思議なもので

自分の中に

勝つ自分と負ける自分がいる

つまり、

自分の欲望には打ち勝って

そして、目的を叶える自分が

いるということでしょう

 

ここに、

人間が自分の都合のいい頭で

考えても、解決できない

ということが起こってきます

自分の我がままを対治する

ということは

自分の中に自分を打ち負かす

自分がいるということです

 

仏教ではこういう心に

「発」(ほつ)

という字を使います。

この字も(はつ)と読めば

普通の発射するとか

もとは弓を射る「ハッ」という

音かららしいのですが

仏教でいう場合は

発菩提心とか発心(ほっしん)

発意(ほつい)というように

(ほつ)と読むようです

 

この言葉は

自分の中にあるのですが

自分を打ち破って出てくる

というような意味を含んでいます

そういう心だからこそ、あえて

起るという字を使わずに「発」

発る(おこる)と読ませたんです

 

自分を破るというと

普通に他からの力を借りて

ということになるのですが

自分との闘い、

と覚悟したときには

他からの力ではなく

自分自身にある心と決めたのです

自分では

分からないかもしれませんが

そういう心が沸き起こってくる

 

ですから、

人間は自分でいくら考えても

自分ということは分からい

ということです

自分を超えたものによってのみ

自分を本当に理解することができる

ということがあると思います

 

普通に

人間のことを考えると

欲の深い人間とかこすいとか

そういうことが出てきますが

それは自分の迷った心で

考えただけで、

迷った人間の目からは

人間とはそういうものしかありません

ですから、

人間が何であるかということは

人間にはわからないのです

 

私たちはなぜ迷うのか

それは

迷いを迷いと分からないからです

迷いが見つかった

自分との闘い、と分かった時

何に迷っていたかが分かる

ということです

 

自分では自分はわからない

自分の中にある

自分を超えたものによってのみ

自分が分かると

いえるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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