本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

妻よ薔薇のように!

2018-05-31 19:37:14 | フラワー

いま、「妻よ薔薇のように」

という映画が話題のようです、

まだ見ていませんが、

近々行こうと思っています。

 

 

薔薇尽くし、というか

華やかなバラたちが活けられました

 

 

玄関に活けられただけで

家じゅうが明るくなります。

 

 

どこから見ても美しい

その美しさゆえ

昔の教会では

人々を惑わす美しさとその香り

ということで敬遠され

ただ薬草としてのみ

栽培されたということです

 

 

イスラム世界では

真っ赤なバラは唯一神のアッラーを

表すということです。

 

薔薇という字も

漢字で書けと言われても

ちょっと難しい!

「薔」はショウと読み

みずたで(水蓼)、という意味

もあり、

「薇」は、ぜんまい、

薔薇と書いてショウビとも読む

ようです。

 

 

薔薇も英語ではローズ

文字によりそのイメージは

いろいろ変ってくるようです

 

古くは万葉集にも出て来て

「うまら」とか「うばら」という

言葉であらわれているようです。

 

 

まあ、そんなことを思いながら

色とりどりのバラの花を

楽しんでいます。

 

また、庭のアマリリスも

つぼみが膨らみ花開いてきました

 

 

この赤も美しい

 

 

昨年は静かに眠っていて

今年は元気に葉を咲かせました

自然のハタラキに感謝です

さほど手を加えることもなく

存在すら忘れかけていたのに

こうやって、

「ここにいるよ!」

とばかりに見事な花を咲かせる

 

ほんとうに

ほとけさまがいらっしゃる

ということです。

 

 

 

 

 

 

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勉強会

2018-05-30 17:08:01 | 住職の活動日記

「勉強会」、

「会」というものの大切さを

思い知ります。

勉強するといっても

なかなか一人ではできるものでは

ありません。

勉強会があるということで

こちらも勉強し、聞く方も

お互い勉強するということになり

会ということの場が

大切になってきます。

 

それを、サンガ(僧伽・そうぎゃ)

つまり、僧とよんだのです。

だから、僧とはお坊さんの事ではなく

一緒に勉強する仲間

という意味を持っています。

 

いま、普通の主婦の方々が

必死に取り組んでおられます

それも、あの難しい「唯識」

煩悩というところを勉強中

まずもって、

出てくる言葉がむつかしい

今まで聞いたこともない言葉が

連続します

 

まるっきりわからない

ということであれば

とっくに続かなくて終わっている

ことでしょう

でも、続けて一緒に読みつづける

ということは

解らないと言いつつも

何だか身にそって頷ける

そういうこともあるのでしょう。

 

月に一回

普段の好きや嫌い、

損得勘定の世界で生きている

頭にはなかなか切換が大変です

でも、

こういう難しい経典の言葉に

接するといいうことも

大事ではないかと思います。

教え教えらるという関係ではなく

一緒に学ぶということで

勉強会と、お互い共に学ぶ

他と共にということが

いかに大切かということを

思い知ります。

たぶん一人でいたのなら

何も無く、ボーっと

時間が無駄に過ぎて行くことに

なってしまうのではないかと

思います。

 

わかるわからんは

二の次、

読んで行こうという志が

大切ではないかと

自分の頭でわかるような経典は

つまらんと思います

煩悩だらけの頭に分かるはずが

ありません

ですから、

ご出席されるご婦人方は

つくづくすごいことではないかと

終わるたびに思っています。

 

私にとりまして

本当に有難い場所を頂いたと

感謝しております。

一緒に学べることの大切さ

しみじみと感じています。

 

 

 

 

 

 

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熊本市役所より熊本城を望む

2018-05-28 21:27:30 | 住職の活動日記

熊本市役所14階

中々の、

穴場スポットではないでしょうか

 

 

熊本城が一望に見渡せる

工事も真っ最中

 

 

大きなクレーンが2機

物資を運んでいます

 

 

大天主は鯱(しゃちほこ)も上がり

瓦も葺き上がっているようです

丁度6時過ぎ

 

 

西の金峰山には美しい夕日

(5月27日)です

 

 

見ていると

空は微妙に美しさを変えて

色々な姿を見せてくれます

 

 

 

こんなに美しい飛行機雲も

久しぶりに見ました

 

 

14階のホールには

熊本城の貼り絵が展示してあります

よく見ると

 

 

千羽鶴でこのお城を

見事に表現してあります

 

直通のエレベーターを降りて

久しぶりに町を歩いて

 

 

「ここさ」という新しいビル

 「あんたがたどこさ

  ひごどこさ」 

からとったのでしょうか

その歌に答えるように

「COCOSA」と命名された

のでしょうか?

美しいビルが出来ていました

 

どこに行っても気になる

マンホールのふた

 

 

熊本はやはり「肥後つばき」を

モチーフにしたデザインです。

行く先々でマンホールの蓋は

写真に収めています。

 

というように

散歩しながらあっという間に

たどり着きました。

 

面白場所をご提案いただき

一人で堪能しておりました。

 

 

 

 

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本蔵院の小さな命たち

2018-05-28 10:18:55 | 住職の活動日記

先月、土の中から出てきた

カブトムシの幼虫、

土の御飯がなくなり腹へった

という雄たけびだったようです。

新しい土を入れ

今は落ち着いてサナギになり

静かに眠っているようです

 

 

金魚の子ども達も

すくすくと大きくなっているようです

まあ、それにしても数十匹はいる

このまま大きくなったら

はたしてこの池で飼えるのか

心配なところもあります

 

 

庭に出ると

テントウムシも忙しそうに

這いずり回っています

 

 

庭の紫陽花も咲きだしています

 

 

本当に七変化というだけあって

色々な色が楽しめます

 

 

濃い紫もあれば

 

 

うすむらさきもありと

これから色の変化が楽しめるのでは

 

 

今日は五月お不動さまの大祭です

荘厳も整い

1時からの護摩法要です。

裏方さんも朝から

準備に大童

お赤飯も炊き上がり

お見えになる方の準備万端

整っているようです。

今日は小山さんも駆けつけてくれました

素晴らしい太鼓の音を聞くことが

できるでしょう。

 

 

 

 

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不即不離

2018-05-26 20:41:24 | 十地経

「不即不離」

つかず離れず、ということですが

辞書には

二つのものがつきもせず、

離れもせずの関係にあること

とあります。

広辞苑には、仏教語として

生死と涅槃のように二つの概念が

矛盾しつつ背反しないこと。

と載っています。

 

『十地経』のなかに

「家不断の行」

という一文が出てきます。

そして続けて

「而も貪欲の行事を示す」

と出てきます。

なかなか難しい文ですが

安田先生の「十地経講義」では

貪欲の行事とは結婚というような

意味であると、

 

十地経では面白いもので

普段我々が直面する問題にも

丁寧に答えています。

 

経文は続けて

「貪欲に随順する煩悩使を遠離す」

と出てきます

煩悩使とは煩悩の使いということで

使ということも煩悩の意味で

煩悩の奴隷という意味です

私たちが起した煩悩の奴隷に

使われてしまうということです。

 

家不断の行、というのは

家が断絶せん行ということ

何か矛盾のようですが

貪欲に従う煩悩を遠ざけるけれども

而も貪欲の行を行ずる

というように出てきます。

 

講義の中では

結婚せんと気張るのでもないし、

結婚を待ち焦がれる

というのでもないし、

普通の生活をしとるじゃないですか

煩悩も与えられたもの

煩悩を起こしては悩むけど

悩むものも与えられたもの

与えられたものだけど

それに使われない

煩悩を私するから使われる

我が入ると使われてしまう。

何か、自分だけは

結婚せんといってですね

高踏的に生きるんじゃなしに、

誰でも結婚しとる、人間は。

大地に人間にかえる、人間らしい

何も好きだとかいうんじゃなしに

普通の人間としての

宿業を生きていくということです

 

家庭を逃げだすのでもないし

かといって

家庭の中に埋没するのでもない

そこに満足して、

家庭が一切だというのでもないし

家庭から恐れ逃げ出すのでもない

家庭におって家庭を超えている

超えているけど

かえって家庭に背かんと。

 

こういうようなことを

何か、不即不離、というと

あっちついたり、こっちついたり

二股膏薬に見えるけど

そうではなく

極めて自然なことじゃないかと

逃げも隠れもせんと

いつでも世間の中において

世間を超えて世間に安住する

 

というようなことが述べてあります

「不即不離」

ということも

なかなか微妙な問題で

人との人間関係も

こういう間柄が保てたら

素晴らしいのではないかと

思います。

 

煩悩が起こらなければ

家が断絶してしまうし

かといって

煩悩の奴隷になって使われて

しまっては

自分を見失ってしまいます

経文の中では

「而も貪欲の行事を示す」

難しい言葉で書いてありますが

これを結婚、家庭の問題として

読み解かれる

安田先生の講義は

非常に興味深いものです。

 

 

 

 

 

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白いカラス!?

2018-05-25 20:32:51 | 住職の活動日記

最近の政治の世界も

はたまたスポーツの世界においても

隔靴掻痒というか

何かスッキリしない

腑に落ちないことが多いようです。

 

先日の京都新聞「天眼」

佐和隆光先生の記事です

その昔、霞が関では

次のようなジョークが流布していた

ということです

「一人前のキャリア官僚は

『カラスが白い』と言えないと

いけない」

 

キャリア官僚というと

圧倒的に法学部出身者が多い

これはなにも

法律を作るからだと思っていた

のですが、

どうもそうではなく、

法律を学ぶことにより

何ごとも「正当化」する理屈を

こねあげる能力を備えている

ということです。

 

また、こういう言葉も話題です

「乖離」

この言葉もあまり使いません

「乖」という字は

丿(へつ)部に入り

羊の角が左右に分かれている形と、

そむくという「北」とが合わさって

出来た字です。

 

北という字も

本来は家は南向きに作り

それの反対側ということで

北という字はそむくということが

もともとの意味になります。

 

そこから「乖離」は

そむきはなれる、という意味です

監督の心に背き

選手が勝手にやったと言わんばかり

の答弁ですが、

そこまでの意味合いではなく

監督と選手の理解に隔たりがあった

という意味で使われたのでしょう。

 

確かに字面上は

文字にしてしまえばきわめて

冷静なような

なにかしら味気ないものになって

しまいますが

その場の空気というものが

あります

 

『場の理論』

という本でしたか?

(ちょっと定かではありませんが)

なぜ日本があのような無謀な戦争に

突き進んだのか

その時のあの様な場には

反対する空気はなかったと

そういうことを書いてありました。

理屈では分かるのですが

その場の空気というものがあります

案外、空気というものが

物事を動かすということがあります

 

かの選手も

目に見えないプレッシャーというか

その場の空気に反対できなくて

追い詰められていったのかも

しれません。

 

やはり、

「カラスは白い」と言い通す

力というか、屁理屈というか

そういうものがおし通り

真実なるものは覆い隠されて

しまうような気がします。

 

「不妄語戒」

ウソをついてはいけない

という戒律があります

ウソは嘘八百というように

一つウソつけば

それを隠すために次々と

ウソをついていって八百にも

なっていくということでしょうが

ウソをつくのは

やはり苦しいものです。

 

 

 

 

 

 

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玉置浩司のプレゼント

2018-05-24 15:05:25 | 住職の活動日記

母の誕生日と母の日お祝い

ということで、

息子よりチケットのプレゼント

熊本ででも公演があり

とても感動したので

是非、

行った方がいいよということで

 

 

名古屋での公演に

雨の中を車で行っていきました

 

 

やはり大都会、

国際会議場のホールということで

とても大きな会場です

 

2部構成

一部は、私の知らない曲

でも、オーケストラとの共演は

圧巻です

楽器にも引けを取らない

伸びのある声が会場中に広がり

あらためて、

歌のうまさに聞き惚れます

 

 

2部はなじみの曲ばかり

普段とは違う

オーケストラの音に合わせ

響きの反響もあるでしょうし

あえて、

その場の音に響かせるように

歌っていかれます。

 

ふと、勝手ながら

お経もこんな唱えられたら

さぞかし

気持ちが良いのではないかと

思っていました。

しかし、残念がらこんなホールで

読めるほどの声は

持ち合わせていません。

昔のお坊さん方は

マイクのない時代

アカペラで唱えられ

堂内いっぱいに響き渡らせる

声をおもちだったのでしょう。

 

余韻に浸りながら

ゆっくりとくるを飛ばし

何とかその日の内に我が家へ

無事到着!!

 

思わぬ、

息子のプレゼントに感謝

 

機会があれば

やはり、CDとかではなく

本物の演奏を聞くものだと

つくづく思いました

伝わってくるものが違うようですね

 

 

 

 

 

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御所の新緑

2018-05-22 18:47:45 | 住職の活動日記

カラッとした気持のいい日

五月晴れの空

 

 

この空間は何ものにも替えがたい

美しさがあります

気持ちも晴れ晴れとしてきます

 

 

いつ訪れても新しい発見

自然の生きざまを

見ることが出来ます

 

この桜の木、

幹の部分はこのような

ぽっかりと穴が開いています

でも、

 

 

しっかりと生きているのです

切られた幹の先端から

また新しい枝を伸ばし

葉を茂らせ

 

 

色とりどりのサクランボを

つけています

 

 

後ろに回ると

まあ、それこそ芯はなく

皮一枚で、それも穴の開いた

 

 

あっ晴れな桜の木です

 

 

もみじの新緑もまばゆいばかり

 

 

この時期は空気も澄んで

目に青葉です

 

 

そして、やさしい木陰も作り出し

風も吹き抜け

気持ちのいい一時

明日からはまた天気も崩れそう

今日は絶好の日和です

 

 

風に揺れながら

蝶々はしっかりと

花につかまって

蜜を求めています

 

 

木に咲いている花ですが

木犀のような

でも香りはないのです

大きな木の下で

木陰を楽しむかのように

自分の花をつけています

 

 

見上げれば大きな赤松

御所には松の木も多く

松の香りが

なんともいい風にのって

漂っています。

 

今月の25から27日まで

御所のトンボ園が解放されます

時間を見つけて

訪ねたいと思っています。

 

市内のど真ん中に

このような自然を感じる場所は

何とも有り難いものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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見取見(けんしゅけん)

2018-05-21 20:45:08 | 十地経

仏教では「見」ということが

一番の中心課題です。

お釈迦さまの最初の教えに

「四諦・八正(聖)道」

(したい・はっしょうどう)

ということがあります。

四諦-四つの正しい真理

諦とは、あきらめるという字ですが

真理という意味があり、

あきらめるということも

仕方なしにあきらめる

というのではなく、

物事を本当に明らかに見る

ということです。

第1は、

 迷いのこの世はすべてが苦である

第2は、

 苦の原因は求めて飽くなき愛執

 である

第3は、

 その愛執の絶滅が究極の理想の 

 境地である

第4は、

 このような苦滅に趣くには

 八聖道の修行によらねばならない

ということです。

 

その八聖道の中心は

「正見」正しくものごとを見る

ということです。

 

「見」というと仏教では

自分勝手な自己本位の見方

ということで、悪見といいます。

見というと悪見になりますので

正しい場合は「正見」といいます。

 

「見」というのも煩悩の一つで

この自分勝手な見方はさらに詳しく

五つに分けて説明してあります。

 

最近の情勢を見ていて、

なにかしら心配なような

それぞれが自分本位で動いて

いるような気がしてならないのです

 

ちょうど読んでいる『唯識』

のなかに、

「見取見」という一つの

悪見を見て頷くことがあったのです

 

「見取見」

見(考え)を取(固執)した見

(考え)ということになります。

これは思想的なことです。

自分で考えたり、

人から教えられたりして、

こういう煩悩が起こってきます。

考えることは悪くないのですが

ところが悪い癖で、

自分の考えたことは間違いない

と固執するのです。

そして、それを振り回す。

これが見取見といわれるものです。

見は悪くない、が

取見が悪い。

振り回すということで、

これがあると必ず争いの元になる

といわれています。

 

人間はいろいろな立場で、

いろいろなことを考える。

年寄りは年寄りらしく

ものを考えるし、

若い人は新しい時代に生れて

新しい考え方をする。

国の代表も国のことを思って

国の方向を考える

それはなにもさしつかえない。

ただ、

自分が一番偉くて、

自分の考えが一番正しいのだと

固執して譲らない

これが一番困る

それは喧嘩の種、争いの元になる

 

先日も

国連の会議の席で

何とかファーストと言っている国の

代表の方、

自分の言うことだけ言って

相手の話は聞かず

退席されてしまった。

 

自分が一番というのは

まだいいとしても

相手の話、立場も聞かない

というのは一番困る

 

経典には

「五濁悪世」(ごじょくあくせ)

ということが出ている

世の中の五つの汚れ

その中に「見濁」(けんじょく)

ということがあります。

自分が一番という考え

そしてそれを振り回している

こういう思想・考えの汚れを

「見濁」というのでしょう。

 

いつの時代でも

こういう問題があったことに

驚かされます。

何も今に始まったことでなく

お釈迦さまの時代から

「見取見」という

人間の煩悩を見出して

こういう問題に答えているという

ことです。

 

いつでも

「見取見」ということが

争いの元になっている

今も、

非常に危険なものを感じます

そのために

大勢の人が亡くなっている。

他の立場も理解し認め合い

何とか共存する方法は

ないものでしょうか。

対話ということが

今こそ必要に思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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LOVEの仏教的見方

2018-05-20 21:25:09 | 住職の活動日記

昨日のヘンリー王子の結婚式で

牧師さんがやけにLOVEを連発して

おられました。

やはりキリスト教では

神の愛というものが中心課題

のように思います。

仏教では愛というと、

愛着とか渇愛と言って煩悩の

一つでもあります。

 

ところが、

L・O・V・Eの成り立ちは

LはListen、聴く

OはOverLook、見つめる

VはVoice、声をかける

EはExcuse、赦す

ということで、

その内容をみていると

どうも仏教の問題とも重なる

ような気がします。

 

お経の最初の文句は

「如是我聞」という

聞くということから始まります

また、

聞思修(もんししゅう)といって

修行の第一歩も「聞」

まず自分を無にして聞く

といいうことです

そして、

聞くということは

相手を認めると同時に

自己否定といいう

二つのことが成り立っている

ということです

さらに自己否定ということは

真実に触れる根本的立場

でもあります

俺が俺がと言っていたのでは

真理に触れることは絶対ない

ということです。

 

見つめるということも

親という字は分解すれば

木の上に立って子を見つめる

ということにもなります

見るという字は

観音さまの観という字も

世の中の姿を見つめる

止観といえば静と動

実相を見るには止という

心を一点に集中する

そのことは同時に

観ということが成り立つという

また、

お釈迦さまの説かれた

最初の修行の徳目は

「八正道」

八つの正しい道

その中心はただしい見方

正見(しょうけん)です。

英語ではover・look

ということも

見つめることだけではなく

仏教では中心の問題でも

あります。

 

声をかける、ということは

仏教で菩薩の修行に

「四摂法」(ししょうぼう)

ということがあります。

布施・愛語・利行・同事

ということです

愛ということも、ここで言う愛は

煩悩の愛とは違っています

相手の立場に立って、

相手の身になって声をかける

人は言葉によって救われ

心無い言葉によって傷つく

それほど言葉とは大切です

十善戒の中でも

言葉に関する諌めが四つあります

妄語、綺語、悪口、両舌

綺語とはお世辞ですが

一見、

人に対して心地よくするように

思うのですが

あまり言いすぎると

自分の真心までなくしてしまう

そういう恐れがあります

ですから、

単に声をかけるといっても

空言戯言になってしまては

それこそ人を傷つけてします

だから、

声をかけるといっても

あだや疎かに出来ないもので

本当に親身になるということが

大切です。

 

EのExcuse赦すということが

どうも仏教的ではないような

当てはまらないような気がします

ゆるす、には

赦・許・恕などいろいろあります

許は、それでよいと認めてゆるす

恕は、あわれんでゆるす

赦は、つみをゆるす。

というように使い分けがありますが

なにかしら

上下関係のような

上から目線で、ゆるす

というような感じがします。

 

仏教には「一切衆生悉有仏性」

一切の生きとし生けるものには

仏性があるのだと、

仏の魂を宿している

というのです

このことは具体的には

俺だけが仏の魂をもている

という

俺だけがということも

いわせないし、

また、

自分はもう駄目だともいわせない

そういう厳しい言葉でもあります

だから、

あらゆる人間は、賢い人も

愚かな人も、偉い人間も

さとった人間も

さとらん人間も区別はない

さとるさとらんは時間の問題だと

我々は、ただ迷った人間

というだけでなく、

未来の仏という意味も持ている

そういう平等の立場が

私たちであって

ゆるすとかゆるさんというのは

どうも上下関係において

あるような気がします。

 

そういうことからすると

L・O・V・Eということも

ただ単なる今で普通に使っている

「愛」ということより

もっと深い宗教的意味を持っている

のではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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