本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

初歓喜地

2023-05-06 19:49:00 | 十地経

「歓喜」(かんき)という

普通にも使います

ベートーベンの歌にも

「歓喜の歌」というのが

あります

でも、仏教では同じ言葉でも

「歓喜」を(かんぎ)と

濁って読みます

 

『十地経』も第一第二第三と

進んで行くのですが

最初の第一地は「初地」と

いうように言います

それで最初の地は

初歓喜地(しょかんぎじ)と

いうのです

 

仏教でいう歓喜は

普通でいう思いがけなくも

良いことがあった

宝くじが当たったとか

そいうことで喜ぶことを

「歓喜する」というのかも

しれませんが

そうではなく

煩悩を対治する道(方法)が

見つかったという

そういうことを

いうのでしょう

 

しかし、

仏教に限らず物事の始まりは

「歓喜」ということです

勉強にしても

ずっとやっていても

どうも分からず

それでもあきらめず

やっていると

ふとしたきっかけで

今までの問題が閃き

分かるということがあります

そういうときは

本当に歓喜(かんき)します

ということがあって

勉強が好きになるという

ことがあります

ですから、

歓喜ということが物事の

出発点になります

 

お経の中にも最後の方に

「歓喜」ということが

出てきます

『皆大歓喜信受行』

という言葉で結ばれています

最初は『如是我聞』で始まり

お釈迦さまの教えを

このように聞きました

ということで始まり

最後は

皆大変喜び

その聞いたことを信じ

身に受けて実践するという

言葉で結ばれるのです

 

また、「歓喜」ということは

身が喜ぶのを「歓」といい

心が喜ぶのを「喜」という

ように分けていうこともあり

信心歓喜とか

踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)

という言葉で表現します

手の舞い足の踏む所を知らず

踊りまわるという

色々の場面でも

人間は本当にうれしい時

飛び上がって喜ぶものです

 

ある面では

ただ何となく始まる

ということはなく

ものごとが始まる時は

必ず歓喜ということが

あるはずです

歓喜によってものごとは

動き出し

動き出したことで

更に歓喜を呼び

ものごとが完成していく

ということが道理のようです

 

歓喜して出発するのですが

歩き始めると

今まで見えなかった障りが

明かになってくる

それを退治するために

次の地へと進むのです

 

第二地が「離垢地」(りく)

垢を離れると書きますが

つまり

戒を破り煩悩が増す心を

離れるという位です

次々地が展開していくのは

修行が進めば進むほど

自分に潜んでいる煩悩が

明かになってくる

ということです

 

『唯識』という経典には

第七地の菩薩までは

幽霊を見るというのです

それが第八地の菩薩になると

もう幽霊を見ないといいます

それは

七地までは

まだ煩悩が残っているので

見間違うことがあって

夜とかに

物干し竿に掛かっている

浴衣とかを幽霊と見間違う

ということです

それで

第八地からの菩薩を

大菩薩というのです

地蔵菩薩とか勢至菩薩とか

大勢至菩薩というように

自分の煩悩がすっかり

対治されたということです

 

いずれにしても「歓喜」

ということがないと

ものごとは始まらない

ということです。

 

 

 

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人生全体が途中なんだ! | トップ | 今まさに咲かんとす »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (tamachan)
2023-05-11 12:24:44
こんにちは
とても勉強になります
ありがとう御座います
返信する

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事