本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

アンガ‐マネージメント

2016-11-30 22:15:43 | 住職の活動日記

アンガーマネージメント、

怒りのコントロールということが、

最近話題のようです。

「覆水盆に帰らず」ということもあって

怒りという事は

全てをダメにしてしまいます。

 

会社にとっても

上司の怒りということで

新入社員が育たなかったり

辞めてしまったりと

会社にとっても大きな損失と

なってしまいます。

 

貪・瞋・癡(とん・じん・ち)

といって三大煩悩の一つに

瞋シン、という怒りがあります。

貪り・怒り・愚癡という

貪りは水にたとえられ

怒り(瞋)は火にたとえられます。

水は静かに忍び寄り

私たちの心を煩悩で一杯に

してしまいます。

火は激しく燃え盛るように

怒りの心は全てを壊して

元も子もなくしてしまいます。

 

仏さまの中にも

「阿閦如来」(アシュク)といって

怒らない修行をして

仏さまに成られた方も

いらっしゃいます。

アシュクとは怒らないという意味です。

自分は絶対に怒らない修行をしよう

どんな人からも蔑まれても、

ニコニコして

腹を立てなかったそうです。

それで、

あだ名として「怒らない人」

『アシュク・アシュク』と呼ばれて

ついには悟りを開いた。

そのまま

あだ名が仏さまの名前になった。

「阿閦如来」と、

 

確かに、

一つ腹を立てると

つぎつぎ、見るもの聞くものに

腹が立ってくるものです。

 

以前、三浦先生といる時は

よく叱られました。

良くもまあ、

ここまで叱る事ができるものと

一度聞いた事があります。

すると、

自分もそのことで悩んだ

だから、私たちの間違うところ

悩むところが分かるので

叱るのだと、

同じ悩みが分かればこそなんですね

 

よく聞くと、

自分も好き嫌いが激しく

嫌いな人には腹が立ったと

おっしゃってました。

でも、

嫌いな人であればなおさら

自分から近づいて

好きになるように努力した

と、すると

嫌いな人も好きになってきて

腹も段々立たなくなってくると

何でも訓練ですよ、と

 

先生でも腹を立てない

努力をされたのだと

改めて感じ入りました。

 

徳川家康の人生訓にも、

堪忍は無事長久の基にして

怒りは敵と思え

勝つことばかり知りて

負くることを知らざれば

害わいその身に至る、…

とあります。

怒りという心をいかにコントロール

するか、

やはり、最大の問題なのです。

 

腹が立つというのも

煩悩ですから

ほったらかしにしておいたら

いくらでも腹が立ってくるものです

その修行が必要です。

そのことを

現代の問題としては

「アンガ‐マネージメント」

いう形で取り上げています。

 

煩悩もなくせと

いっているわけではありません。

それこそ

コントロール、マネージメント

ということです。

煩悩の奴隷になるな

煩悩の主人となれ

といわれています。

 

五欲といえば

食欲・性欲・睡眠欲・

金銭欲・名誉欲

の五つです。

最初の三つは生存に必要な欲

後の二つは自分の名利に関する欲

食欲も煩悩ですが

この一つとっても

いかにコントロールが難しいか

思い知らされます。

お腹ははち切れそうなのに

口だけは欲しがるのです。

 

「足るを知る」

とよくいいますが、

自分のこととして実践するとなると

なかなか難しいものです。

しかし、

これも訓練です。

少しずつでもやっていけば

自分でコントロールできるように

なってくるものです。

 

自分をマネージメントする

なかなか面白い問題です。

が、

いざ実践となると本当に難し問題です。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう、師走ですね!!

2016-11-29 22:10:59 | 住職の活動日記

11月のお不動さまが終わると、

もう12月、師走です。

何かと気忙しい季節になります。

 

月一回のペースで

「奥村歯科医院」へ歯のメンテナンスへ

歯はとても大事です。

命の寿命も歯に比例するとか、

動物の寿命も歯を見ると

分かるそうです。

サメのように次々と歯が生えてくれば

いいのですが、

大変になる前に予防として

歯のメンテはこまめにしておかないと、

 

 

奥村歯科さんでは、

もう、12月のクリスマスの

デコレーションができています。

 

 

可愛いスノーマンも、

 

 

ハシゴを上る小さなサンタさん、

 

 

クリスマスの上には

本蔵院伝来の開運招福の

『宝船』も飾ってあります。

 

なんだかこの景色も面白い!!

 

また1月末にはお邪魔します。

正月飾りか?

節分の飾りか?

また楽しみです。

 

そしてまた、今日は

気心が知れた友と共に早々と

忘年会、

といってもまわりを見渡せば

男の子?、じい様は私一人

 

 

 

豪華なお昼に

話も弾みあっという間に

時が経ってしまいました。

 

 

金峰山にお別れして

ほろ酔いした体を

新幹線のシートに沈めていました。

 

また、来年も楽しく学びましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本はまだ青々として

2016-11-29 21:56:52 | 住職の活動日記

やはり熊本はまだ温かいようです。

お寺のイチョウも紅葉も

青々としています。

 

 

なんだか紅葉する気配もないようです。

その下では、

 

 

ふきのとうの花が

静かに散り始めているようです。

これからは、

 

 

山茶花の出番でしょうか。

たくさんの蕾を蓄えています。

 

お不動さんを前に

表の掃き掃除をしていましたら

 

 

「さわやか号」という

お掃除の車がやって来ました。

 

 

ブウォ~ンと

大きなエンジン音を響かせ

歩道にある落葉を道端へ吹き飛ばし

その落葉をさっきの車が

回転ブラシでかき集め

あっという間にきれいになりました。

 

見とれながら、

どうもありがとうございます

と一礼!

掃いていたら小一時間

もかかっていたでしょう。

 

機械の力に感服!

私はちまちまと、

白砂利に落ちた落葉を

一枚一枚手で拾い集めました。

 

すっきりしたところで

お不動さまのお待ち受け

ほぼ完了でしょう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望遠鏡越しに覗く熊本城

2016-11-27 17:18:43 | 住職の活動日記

当たり前のことかもしれませんが、

携帯からブログがアップできる。

初体験坑道です。

結構簡単にできるものです。

 

という事で、

オモシロイ写真が撮れました。

 

 

望遠鏡を覗いてみると、

熊本城の勇姿が無残な姿です。

天下無双の熊本城、

破損状態は大変な様子です。

復興の見通しはまだまだでしょう。

 

携帯で写真撮って、

そのままアップできる

なんとも便利な限りです。

 

 

 

 

しかし、

考えながら作るというと、

携帯ではまだ、馴染めないものが

ります。

 やはり、携帯ではじっくり、考えながらは無理なようですね❗

 

リアルタイムにちょっと打つには適しているかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新幹線からアップです

2016-11-27 12:51:14 | 住職の活動日記

山口を通過しました。

 

 

雨も上がったようです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山川草木悉皆成仏!

2016-11-26 21:41:28 | フラワー

美しい庭のお寺を拝観したときの

ご住職のお話、

拝観に来られたから

お坊さんは毎日美しい庭を

見られてしあわせですね!

すると、

木も草も花も池の水も

すべてが仏様なんですよ、

と答えたといことです。

 

なるほど!

自然の美しさは

人間の力では作りだすことは

できません。

そのような思いで

あらためて活けられた花を

見ていると、

 

 

本当に美しい、

 

 

季節の時々の花が

うまく調和して活けられています。

 

山川草木一切成仏

(さんせんそうもくいっさいじょうぶつ)

とお経には書いてあります。

山も草も木も一切が仏に成っている

また、

一切衆生悉有仏性

(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

という表現でも出てきます。

一切の生きとし生けるものには

すべて仏の種を宿している。

ただ、煩悩に覆われているから

わからないのだと、

 

人間だけが仏性を宿しているのだと

思っていました。

勝れた人間だけにあって

動物とかましてや

心のない草花に仏性なんか

あるものかと、

 

しかし、

草や木はそのままで美しく

動物たちもいるだけで

私たちの心を和ましてくれる

ふと…、…

反対に人間だけが仏性を

発見できないのではないかと、

 

山川草木はもうすでに

仏に成っていて

仏に成っていないのは

わたしたち、自分だけでは

という思いにかられます。

 

山川草木悉皆成仏といっても

一切衆生悉有仏性といっても

そこに大事なのは自分が抜けている

自分をよそにおいて

山川草木を眺めている。

 

自分というものを考えた時

悉く仏性がる

というのであれば、

逃げることはできないのです。

努力をやめることはできないし

縁尽きるまでは

その力を出し切らなくては

 

功徳ということがあります。

功徳とは他から与えられる

ものではなく、

それは自分の努力によって

勝ち取るものだと、

努力によって見出した場合

それが自分を荘厳する

荘厳功徳といわれるものです。

 

まあ、

花の話がえらい難しいことになって

しまいましたが、

 

 

花は花自身で

自分の持てる力を出し切って

荘厳(しょうごん)しているのです

 

 

本当に花の貌(すがた)は

美しい!

恐れ入るばかりです。

 

けれども、

煩悩即菩提といいます

煩悩があればこそ

仏の心(菩提)が芽生えるのだと、

だからこそなおさら

精進努力を怠ってはいけない

のですね。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バッタの行旅人

2016-11-25 17:22:23 | 住職の活動日記

行旅人と旅行人とでは

大きな違いがあります。

家があって楽しいところを見て回り

美味しいものを食べてと、

また家に帰ってくる。

それはレジャーとしての

楽しい旅行です。

行旅人は簡単には行き倒れ

自分の家がなくあてもなく彷徨い

行きついた先で亡くなる人の

ことです。

 

旅行はなぜ楽しいか?

それは、帰る家があるから

なんです。

帰る場所を持たない旅ほど

辛いものはありません。

 

 

この時期、もう虫たちも

死んでしまったのかと

思っていましたら、

 

 

玄関前に一匹のバッタ

ここ二、三日の寒さが

堪えたのでしょうか

手に取ってみると

 

 

微かに動いている。

 

まあ、バッタにとっては家もなく

行った先々がわが家でしょうが、

こういう生き物はその場その場が

わが家なのです。

 

「かたつむり、どこで死んでも

わが家かな」

 

という歌もありますが、

人間だけがわが家で死ねたらという

はかない望みを持っています。

なにせ今は、

病院のお世話にならなければ

死ねない時代です。

 

そういえば、お釈迦さまの死も

「行旅人」の死だったのでしょう。

ただ私たちと違って

死にたくないといって死ぬのではなく

やるべきことはすべてやり尽くした

すべての命を燃焼しきっての

涅槃だったのです。

 

亡くなられたお姿は

大きなお姿で金色に輝いている

それは阿難尊者が見られた

お釈迦さまのお姿です。

何も知らない通りすがりの人には

痩せこけた年寄りが死んでいる

そのことが事実なんでしょうが、

阿難尊者には

肉身としてのお釈迦さまではなく

法身としてのお釈迦さまのお姿が

目の当たりにあったのでしょう。

 

以前も、仏教学の講義を

聞いていた時、

その講義の場所に来られる姿は

よぼよぼして足下もおぼつかない

ところが、

一端席に着き講義を始められると

そのお姿は凛として声も張りがあり

とても大きく見えたものでした。

 

あの立派な涅槃図のお姿は

阿難尊者に見えたお姿なのです。

また、涅槃ということでも

「無住所涅槃」ということがあります。

住所を持たない涅槃です。

一定の安住の地を持たない涅槃

普通は安心する場所を持った

涅槃です。

決まったところを持たない涅槃

その場その場で涅槃に入る

自分に与えられた場所が

わが棲家として腰を落ち着ける。

けれども、無住所ですから

その場所は

決まったものではありません

困ったもので、

今の場所を与えられても

もっと他にいいところがあると

錯覚してしまうのが私たちの

常のあり方です。

仮にでもマイホームを持って

安心したいのです。

 

まあ、そういうことからいうと

他の生き物たちは

無住所を住処として

生きているのです。

 

しかし、

今日のバッタさん、

何もわが家の玄関先で

行き倒れにならなくても

よかったものを、

 

 

察するに、ちょうどシクラメンの

花の前に倒れたということは

 

「願わくば花のもとにて我死なん…」

 

という歌ではないですが、

花の下で亡くなりたりたかった

ということではないでしょうか。

 

そっと手に取って

わが家の草むらにおいてあげました

 

このこともまあ、面白いもので

若し夏の盛りにやってきたら

それこそ、そこらじゅうの

緑というものは食べ尽くして

しまうことでしょう。

そうなれば駆除しなければ

ということになってしまいます。

人間も自分の都合ですね!

都合が良ければ可愛そうに

ということになりますが、

都合が悪ければ

全部駆除してしまえと、

勝手なものだと思います。

 

ちょうど読んでいた百人一首

 

「奥山に 紅葉踏み分け

鳴く鹿の 声きく時ぞ

秋は悲しき」

 

と出てきましたが、

なんだか虫の死にも

悲しいものを感じます。

 

 

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山門!? 三門!? 

2016-11-24 20:25:13 | 住職の活動日記

お寺の門を山門(三門)といいます。

 

最近は普通の住宅でも門を

見かけなくなりました。

ひと昔前はどのような家でも

門は付き物のようにありました。

デザインの凝ったお宅では

どこが入口かわらない家も

たまに見かけます。

 

門という言葉も面白く、

門を叩くとか入門という

その一門に入るということもあり、

育った家から出ることを

門出ともいいます。

 

お釈迦さまが出家の動機になった

四門出遊の物語も有名です。

 

仏教では門をとても大事にします。

浄土がわかっても

門がわからなければ

入ることはできないと。

意味合いは違いますが、

巡礼とかに行って

お寺は見えているのに

門がわからないばかりに

入れないということもあります。

 

門から入り、そこに住して

そこからさらに出ていくという

十地経でもそうですが、

一つの地から出て次の地へと

歩みを転回するという

入・住・出ということを

大切にします。

地に入り、そこに住して

安住してしまえばだめですが

その地を出てさらに進むと

 

一つの修行が終わると

安心してしまって

そこに止まってしまい(住)

そこで歩みが止まってしまうものです

経典では、

諸仏の激励があってさらに進むと

という表現ですが、

 

初めて十地経の講義を聞いたとき

十まで行ったら次は何を、

と聞いたことがありますが、

最近読み直してみると

終りがなく無限に展開すると

ということが書いてあります。

 

頭で考えると大変ですが

事実は実践としては

無限に展開するということが

本当なのでしょう。

 

その部分部分は

一部分かもしれませんが

一部分が全体を表している

命の長い短いはありますが

やはり全体を表している

短くてもその人の人生は

それで全部、全体を表している。

ということが言えると思います。

 

三門という場合は

 

 

東福寺の三門です。

扉が横に三つあります。

お経には

「空」・「無相」・「無願」の三門

をくぐって浄土へ入ると

本来は、

 

 

先日の金剛輪寺ですが

一番下に大きな提灯が下がった

門があり、

それをくぐって「白門」という門

さらに進み、階段を上がって

 

 

やっと本堂の門に着くことができます。

こういうふうに

下から順に三つの門をくぐって

ご本尊さまのおひざ元に

お参りできるというのでしょう。

 

 

インドの仏頭の入り口には

「トリー」インドの言葉で門のこと

が立っています。

 

お釈迦さまの頃は

お寺というと町を離れた

静かの森の中に作られました。

日本でもそのことが

修行するには静かな山の中に

お寺を作ったのです。

高野山とか比叡山とか永平寺もそうです

そこから、お寺には山号が付くように

なってきました。

東寺は八幡山、高野山金剛峰寺、

比叡山延暦寺というように

そこから、お寺の門を山門というように

なったのでしょう。

 

また門には

 

 

鐘楼門といって門と鐘楼が

一緒になった形もあります。

門が響けば、ここが入口ですよと

わかりやすいかもしれません。

 

それから、黄檗山萬福寺のように

山門に「第一義諦」と掲げた

門もあります。

一番の関心事、生き死にの問題を

持ってる人は入りなさい

物見遊山の人は入ることを拒んだ

ということでしょう。

東寺の昔の管長さんも

密教は見世物ではない、と

拝観を拒んでいました。

けど、

門戸を開くということもあります。

 

本当に門ということも

考えれば難しい問題です。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋もいよいよ深まり!!

2016-11-23 21:39:40 | 住職の活動日記

昨日は小春日、

打って変わって冷え込む朝

 

 

わが家の山法師も色づいて

秋の深まりを感じながら

京都市の植物園へ

 

 

いたるところで

深まりゆく秋の姿を見せています。

 

 

見上げるほどのフウの木、

 

 

下から見上げると

その形も面白い

 

 

近くの木の下では落葉をバックに

モデルさんを連れて写真撮影

 

 

落葉もの姿も美しいものです

 

 

枯れた葉に日があたり

 

 

何とも言いがたい幻想的な

雰囲気です。

 

 

もうすっかり葉を落としたイチョウも

秋の風情です。

 

 

バラ園ではまだ少しだけ残っています。

園内を歩いていると

 

 

時ならぬ桜の花を見つけました。

 

 

また、紅葉しない針葉樹の

ヒマラヤスギ

この園と同時に植えられたのでしょう

 

 

枝には握りこぶしよりも大きな実を

付けています。

 

 

池では鴨たちも紅葉狩りです。

周りには大勢の人がいても

悠々と楽しいでいる様子

 

 

日に照らされているところと

日の当たらない木々のコントラストが

微妙な美しさを出しています。

 

 

秋の日はつるべ落とし、

あっという間に夕方に

日の力もなくなってきます。

 

その姿も秋の風情でしょう

 

 

ハスの花も台だけのこし

枯れている葉の姿は

それなりに美しさを感じるものです。

 

 

わが家の牡丹

大きな花を咲かせてくれました

葉から出すその香りは

虫を寄せ付けず

とても重宝しました。

しかしもうその力もなくなったのでしょう

カゲロウのような虫は寄ってきます。

もう葉としての働きを終えたのです

役目を終えて葉を落とし

これから眠りにつき

土の中では春に向けて

静かに準備をするのでしょう。

 

春はただ花のひとえに咲くばかり

もののあわれは秋ぞまされる

 

という歌があるように

自然の移ろいゆく姿は

秋の方がおもしろいようです。

 

しかし、東京では明日は雪の予報

一気に寒さも増してくるようです。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リュウズ !?

2016-11-22 21:34:04 | 住職の活動日記

意外な発見!

時計のゼンマイを巻くところを

「リューズ」といっていました。

 

最近では、

時計もクオーツになり

ねじを巻く必要もなく

電波時計ですと

時間を合わせる必要も

なくなってきました。

 

 

古い時計で

その当時では自動巻きという

新しい部類でした。

ちょっと、ほったらかしにしていると

止まってしまいます。

その度に、

「リューズ」を引っ張り出し

時間を合わせなくてはいけません。

 

 

電波時計ではないですが

クオーツなので、

このリューズも飾りのようなものです

 

ところが、「リュウズ」とは

てっきり、

外国語かと思っていたのですが

れっきとした日本語で

漢字では「竜頭」と

竜の頭と書きます。

 

 

梵鐘の一番頭に付いている

梵鐘を吊るすときにここに金の

輪っかをかける部分です。

 

 

梵鐘もそれぞれ意匠があるようで

「竜頭」の形も色々あるようです。

 

 

時の鐘とあるように

梵鐘ももともとはお釈迦さまの説法が

どこまでも届くという

という意味合いを表していたのでしょうが

時刻も表すようになり

梵鐘の頭の竜頭と

時計も頭のところということで

リュウズというようになったのかも

しれませんね。

 

「龍」という架空の動物は

仏教ではよく使われます。

禅宗系統のお寺では

法堂の天井には必ずといっていいほど

龍の姿が描かれています。

 

弘法大師が干ばつの時

神泉苑で祈られ「善女竜王」を

中国より呼び寄せ

都に雨を降らせてという

有名な話も残っています。

 

また、

弥勒菩薩が56億7千万年後に

この世界に出現されるといわれる

場所が「龍華樹」のもとと

いわれています。

それから、

「龍象」(りゅうぞう)

というのは、ナーガといい

インドの言葉の「ナーガ」は

「龍」とも「象」とも訳され

水の王である「龍」と

獣の王である「象」にたとえて

徳があり学識のあるお坊さんを

「龍象」と言うようです。

 

意外な発見がありました!!

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする