熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
熊本は日差しも気持ちよく、
沢山の『くまもん』が迎えてくれました。
2月のお不動さま、
なんとなく気忙しいような、
明日からはもう3月
あっという間に日が経っていきます。
柊も小さな花を咲かせています
木偏に冬と書いて「ひいらぎ」
刺があるので鬼門除けにも植えたりします。
木偏に春と書いて 『椿』
椿の蕾が大きく膨らんでいます。
こうやって見ると
鳥の顔にも見えるような
そんな一枚です。
お寺では、
「百万遍の念珠」が修理できたとのこと
住職より手に取って
みなさんにお披露目がありました。
白い玉は新しく補充した分です。
この百万遍の念珠は普通の念珠と違って
玉の数が五倍540個あります。
黒い玉は第15世誠意法印が手作りで
作り上げたものです。
一つ一つ丹念に玉にしていったのでしょう
ばらつきがあるところが
温かみを感じます。
これが親玉、
子どもの頃にはこの玉がまわってくると
何か意味も分からず、
頭に押し頂いて、頭を撫でたものです。
540玉になると広げると
本堂一杯になるようです。
私の頃はもう少しこじんまりに
小さい輪でしたので
ほんの20人くらいで
お参りしたものです。
いつも、夜のお勤めで
寒い時もあり …
しかしながら、紙芝居や幻燈器での
物語があったりで、
なによりもお米で作ったポン菓子の
おせんべいが頂けるのが楽しみで
仕方なしに参加していたようです。
その当時はあまりお菓子もなく
とても好きなお菓子でした。
そのような思いのこもった
「百万遍念珠」
この度、崇正住職により
復活していただいたことは
なにより嬉しいことでした。
3月のお彼岸からご一緒にお参りするそうです。
是非ぜひご参加してください。
また違った意味で、
全員参加のお参りですので ですヨ。
このような面白い企画もあります。
今、神戸市立博物館では
チューリッヒ美術館展を開催中
足を踏み込むと、
その展示品の素晴らしさに
圧倒されます。
やはり本物の持つ力、
素人の私にもその凄さが伝わってきます。
ピカソ、セザンヌ、シャーガール
モネ、ゴッホ、ゴーギャン、…
とどれをとってみても一流品です。
写真とかで見たことのある絵画、
それが目の前に見ることが出来る。
中にも面白い仕掛けがあって
このゴッホの絵の前で記念写真が撮れます。
複製があったのですが …
欲しいものでしたが、
写真だけにしました。
このゴッホの絵画は正面の
入り口にも大きいものが作ってあります。
神戸のおしゃれな街のど真ん中に
神戸市立博物館はあるのです。
時間があれば散策してみるのも
買わなくても、
自分がお洒落になったような ??
そんな雰囲気を醸し出している
街なのです。
というより、ぜひ見ていただきたい
そんな展示会です。
お掃除ロボット「ルンバ君」
頂いたものの
あやちゃんがいて、驚いたり、
また、あやちゃんのごはんを
引っくり返したりと、
そんなこともあって、
ずっと眠っていました。
転居の祝いに、
崇正住職より頂いたものなのです。
こうやって自分のベースで
じっとしていることが多かったのです。
一年ぶりぐらいに
やっと活躍の時を得ました。
こうやって、留守の間に
部屋中くまなく動き回り
お掃除をしてくれます。
結構、ごみはよく取れるものです。
前の部分を外すと、
この部分がごみを貯めるところ、
ひっくり返すと、
このように動かすたびに
ゴミは溜まっています。
しかし、
ルンバ君が活躍できるということは
障害物が無いように
それなりに部屋を片づけてなかったら
ものに乗り上げて止まったり、
紐とか紙切れ、靴下など
片づけ忘れていると
巻き込んだり大変なことになります。
だから、
ルンバ君が思う存分活躍するためには
部屋の片づけが一番大切なのです。
おかげさまで、
床には何も置かないように
片付けができるようになったのも
ルンバ君がいてくれればこそ、
ということになります。
でも、
やはり掃除機は手放せません。
ルンバ君で手が届かないところ
また、ルンバ君の掃除も、
ただ溜まったごみを捨てるだけでは
いけません。
中のフィルターを掃除して
細かいゴミは掃除機で吸い取ってと
やはりひと手間いるものです。
されど、
今は留守中に掃除してくれるので
大助かりです。
鍵 …
弘法大師は鍵という字も
こういう「鑰」(カギ)という
字を使っておられます。
読み方は「やく」と読みます。
弘法大師の著書に
『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)があります。
秘密の宝の蔵を開く鍵、
というような意味になるのでしょうか。
結果が大切、といいますが
仏道修行においては、
因果の道理ということからすれば
結果よりも「因」の方を大切にします。
お経の中にも、
因の中に結果は含まれている
と書いてあります。
仏道修行するその求道の志
そのことがハッキリしていないと
修行だけ終わったといって
結果だけ見てしまうと、
「有相に住し」と
かえって自分の自慢の種にも
なりかねません。
全てのことにおいても
自分の志の「因」ということを
明らかにしておくことが大切です。
そのことが「鍵を握る」ということです。
鍵さえ握っておけば、
悟りという扉はいつでも開けることが出来ます。
悟りという結果を急ぎ追い求めるから
返って取り逃がしてしまうようです。
結果を追い求めるより
自分の志という因を明らかにする方が
先のように思います。
「急がば回れです。」
弘法大師の書かれた
「秘蔵宝鑰」という書
まだ歯が立たず読みこなしていませんが
たぶん、
「鑰」という鍵を
キーワードにされているような気がします。
どのような仕事においても
「How to」よりも
「Whot to」ということを
重要に考えた方がいいような気がします。
小手先だけ上手になっても
そのもとになる自分の
求める力を今一度考えなおすことの方が
先回りできるのではないでしょうか。
意味は違うと思いますが
イタリアの貴族の紋章とかにも
鍵をモチーフにしたものを
見かけます。
仏教で言う鍵とは違っていると思いますが
キリスト教では天国の扉を開ける
鍵ということになるのでしょうか?
いずれにしても、
「鍵を握る」
ということは一つの大きな智慧なのでしょう。
宇治川のほとりのヤナギも
ほんのりと芽を吹き出し始めています。
風は少し冷たいものの
薄着して歩くにはちょどいいくらい
JR宇治駅から少し歩くと、
「宇治源氏物語ミュージアム」
「源氏的なるものと宇治」という
宇治歴史資料館の歴史講座がありました。
なかなか面白い講座で、
3人の女性の研究員の方々より
講義が … 如何せん 時間が
限られているので、
とてもよく調べられた資料なのに
充分な説明とはいかなかったようで
少し残念 !!
でも、
源氏物語に出てくる源氏と
平家物語に出てくる源氏の違い、
二つの源氏があることなど、
またまた、宇治の地がいろいろな意味で
深い内容を持っていたなど
新しい発見ばかりでした。
館内も
宇治橋を渡るところを
デザインされているのでしょうか
喜撰法師の歌が
反対には六地蔵からの道行きが
中の展示も面白く、
物が動かない代わりに光の効果で
季節感が変わったり、
スポットの使い方で人物が浮かび上がったりと
とても工夫された展示になっています。
外の庭もよく整備されていて
建物と水の流れと庭の木々が
ともいい調和を見せています。
帰り際に面白いセミの抜け殻発見
一緒に脱皮したのでしょうか
いろいろ想像がふくらみます。
その横に、枯れた枝が美しい
「ニシキギ」です。
このごちゃごちゃした枝の絡み具合が
不思議な造形美を感じるのです。
そしてこの時期、美しい
山茶花と似てますが、これは
寒椿です。
耳も目も心も満タンにして
源氏ミュージアムを後にしました。
先日23日は本山の醍醐寺で
『五大力さん』が勤められました。
当院からはその前行の結願日21日に
宗良君が出仕させていただきました。
「力」(ちから)ということは
最近では「〇〇の力」という名前で
よく取り上げられています。
そういえば、
祖父はハガキ伝道として
毎月『力の泉』を発刊いたして
おりました。
仏教でも「力」ということは
とても大切な意味をもっています。
よく耳にする言葉は
「自力」「他力」ということがあります。
醍醐寺で行われた「五大力さん」も
力が付いています。
三十七道品にも、
「五根」ごこん
「五力」ごりき
「七覚支」しちかくし
「八聖道」はっしょうどう
というように「五力」ということが出てきます。
十波羅蜜の中にも
「力波羅蜜」と九番目に出てきます。
なぜ仏教に「力」ということが言われるのでしょう。
「五力」の中を見ると
1信仰の力 2努力の力 3憶念の力
4禅定の力 5智慧の力
ということが書いてあります。
これは悪をやぶるのに力(ちから)が
あるから力(りき)といいます。
力、力というからなにかしら
特別な力があるように思うのですが
当たり前のようにも思えます。
普通はパワースポットとかに行って
不思議な力を頂くようにも
思えるのですが、
実は自分自身の中に眠っている
力なのです。
努力して、忘れないように
心静かに智慧を磨く、
ということが面倒なので、
他からの力が
欲しくなるのかもしれません。
お釈迦さまの説法も
「五力」といわれています。
それは私たちの煩悩をやぶってくれる
そういう力を持っているからでしょう。
力もよそらうものではなく、
自分の中から
発掘していくものなのでしょう。
力ということも
考えてみると面白いものです。
あしうら『蹠』(セキ)を合わせるという
合蹠(ガッセキ)のポーズ、
足を開き両足裏を合わせ前屈
ところが、
たまたま履いていた靴下
なんとも かわいらしい??
というか年甲斐もなく
それで、合蹠のポーズをとると
こんな感じになったのです。
普段、足裏というのは何も気にしていませんが
よくよく考えてみると、
日の目を見ることもなく、
黙々と大地を踏みしめて、
私たちの全体重を支えて、
文句も言わずに、私たちの行きたいところに
一歩ずつ足を運んでくれます。
お釈迦さまが亡くなられた後、
最初は仏像は作られませんでした。
お釈迦さまを象徴するものとして
仏足石という、
お釈迦さまの足裏を石に刻んだものを
礼拝していたのです。
また、御足を頂くといって
仏さまの足を拝みます。
この形は今もタイとかには残っていて
王様とかお坊さまに対しては
ひれ伏して足をいただくのです。
そしてまた、自分の髪をなげうって
仏さまの足が汚れないようにという
姿も残っています。
また、今日読んでいた十地経の中に
三十七菩提分法という
悟りの境地を実現するための実践項目として
三十七の項目があるのですが、
その中にも、
四如意足(シニョイソク)ということがあり
一つの拠り所という意味で「足」
という字が使ってあります。
ま~ 「脚下照顧」という
履物をそろえると心もそろう
ということがあります。
普段何も気にしない足ですが、
されど、足の裏です。
足の裏は第二の心臓ともいわれています。
ということもあってか、
風呂に入ったならよく足の裏を洗い
あがったら、撫でながら
揉みほぐしながら、
ありがとうございます、
と一言感謝の言葉を言っています。
何十年も使ってきた足の裏
せめてクリームでも塗って
ご苦労ねぎらってみるのも
気持ちのいいものです。
今朝は冷え込み外は0度
陽も昇り気温もどんどん上昇
暖かくなりそうです。
今日の花ですが、
門外漢の私が勝手に名前をつけて
「ブレイド」と
意味は細長い葉、そこから
刀の刀身というような意味もあり、
私のイメージでは、
寒い冬を切り開いていく刀のような、
左右に伸びる線がそのように
感じとれました。
花は丸く柔らかい線ですが、
それを直線的に表現しているのは
面白い構図だと思います。
中心の四角い花の塊、
右に伸びていくバラ
左下にも
バラが伸びています。
「もうすぐは~るですよ 」
と口ずさみたくなる
そんな春を切り開いていく
「ブレイド」(刀)のような
感じのする作品です。
(花も活けない門外漢の私が
勝手な薀蓄をたれて
申し訳ない )
外は日差しを浴びて
「OKUMURA1号」
新芽を膨らませてくれました。
切る時期を間違えて
ずいぶん心配しましたが
春の命は力を持っています。
水鉢の中では、
体中コケだらけになりながら
虫さんがもうすぐ来る春を
じっと耐えているようです。
私の下手な歌
「もうすぐは~るですよ 」
聞こえているかもしれません。
ガンバレ
重宝な品をゲットしました。
「ペーパーエイド」という本とかの
補修用テープです。
以前から欲しかったのですが、
なかなか適当なものが見つからず、
セロテープとかで代用していたのですが
少し時間が経つと汚くなってしまい
かえって本を傷めてしまいます。
以前は和紙の保存用に使う用紙を
短冊に切って糊で補修していたのですが
やはり色も違うし
体裁の良いものではありません。
経本もよく折れ目が裂けてきましたので
こうやって補修して、
ちょっと分厚くなってくるのですが
我慢して使っていました。
このたび求めた「ペーパーエイド」
この辞書の裂け目も、
このテープで、
ご覧のように修理した跡が残りません。
まったく紙になじんでいます。
使い方を読んでいると、
Made in Germany とあります。
こういう品物でしたら日本の方が
得意ではないかと思うのです。
ネットで安いものを見つけましたが
861円
この漢和中辞典もネットで中古品なら
もっと安いのがあるかもしれません
しかし、
使ってきた年月を考えると
使い慣れて私を助けてくれた
友ですから、
修理しながら愛用していきたいと
思っています。
本に限らず紙製品でしたら
修理には重宝するのではないでしょうか
の一品です。
二河白道の物語でも、
旅人は東の岸からは
釈迦の「行け」という声を
西の岸からは弥陀の
「来たれ」という声を聞いたと、
西行もたぶんこの声を聞いたに
違いないのでしょう。
でなければ、
「西行」とは名のらなかった
と思うのです。
しかし、このことは
第三者の声がきこえたという
わけではありません。
キリスト教の場合は神の啓示とか
モーゼもシナイ山で神の声を聞いた
ということが書かれています。
仏教ではそうではなく、
内面の声でしょう。
仏教的にはそれを自覚的に
明らかにするのです。
十地経というお経でも
第七地というとても大切な所
があります。
大きな転換点です。
修行も直線的に梯子段を上るように
いくのではなく、
六地までと八地以降とでは
まったく違った内容になってきます。
これは理論ではなく、
実践としてやったならば
必ず実感できることです。
あるところまでは順々に進んでいくのですが
あるところから …
普通にはスランプに陥るという
難関があるのです。
そこをいかに超えるか、
その時に自分の心の底から
湧き上がってくる
大地の声とでもいうような
内面の声を聞くのです。
二尊(弥陀・釈迦)の声を聞いた
という表現ですが、
佛の名前を出しているのですが
自分自身の内面の声といっても
いいのではないかと思います。
真剣に物事に取り組んだならば
だれでも、この難関というか
経典では「第七地」という問題に
ぶつかるのです。
経典では、
「七地沈空」とでています。
空に沈む、
スランプというか、今でいう
虚無、空虚という体験です。
西行も、出家の動機は
いろいろと語り継がれています。
しかし、
根本的には人生の行き詰まりです。
いろいろ誤魔化してみたが
誤魔化しきれない、
醒めてしまう。
お金や地位や名誉などなどいってみても
それに満足することが出来ない。
いろいろうろうろされたのでしょう。
死ということを目前にしたら
人間は誰しも真剣になるのもです。
悩み苦しんでいるときに
初めて内面の声、
二尊の声がきこえてきたのでしょう。
その声が聞こえたという表現が
出家という決断をあらわしている。
いろいろな場面、人生の経験
人は皆違うものですが
誰しも真剣に取り組んだときには
声を聞く、
という経験があると思います。
ですから、十地経でも
「第七地」というところが
一番の肝心要です。