止観という、
止と観の行が一致しないと
動静といわれるように
全く反対の概念です。
だから
一致することは難しいと
いわれます。
これは理論で一致させる
というのことではなく、
熟練が一致させてくる
ということです。
西田先生の日記に
今日は本を読み過ぎた
という嘆きが絶えず出てくる
ということです。
先生の講義には
「僕らが本を読む時に、
考えながら読むというんだ
けれど、
読む方が先走ってみたり、
考えが先走ったり、
うまくいかんでしょう。」
というように
止観ということが
一致しないことが出ています
それでもう一つに例として
「デカルトという人が、
あの人は数学というものが
哲学の方法としてですね、
いわゆる解析幾何学という
ものを完成した人ですから
数学の問題というものは、
やっぱり行き詰まると
考えると、
先を読まずにですね、
考えて答えを出すと。
本を読んで
その答えを見つけるのじゃ
なしに、
問題が出てくると、
その問題を考えると。
それで
考える先に答えを読まんと
いうのです。
そういうように、
本の読み方も数学的です。
自分で考えて答えを出して
その後から結果として、
答えの部分を読むだけで
あって、初めから
答えをまで読んだら、
意味なさんわけです。
読む方が先なってですね、
考えが後になってしまう。
こういうようなわけで、
なかなかそれが、
一致しないですね。」
というように
本を読むということ一つ
取ってみても
読むことと考えることが
一致しないという
ことが出ています。
先生はこのデカルトの
話しもよく出てきます。
有名な言葉が
「コギト・エルゴ・スム」
(cogito ergo sum)
という
「我考えるが故に我あり」
言葉があります。
それからもう一つ
「明晰・判明」という
ことが出てきます。
これもデカルトの言葉です
明晰にして判明と
たぶん学生時分に聞いた
言葉ですが
未だに残っている言葉です
その当時の言葉で
クラール・ドイトリッヒ
ドイツ語ですが
辞書を見てもスペルが
分かりません。
信仰の世界というのも
ある面では個人の経験です
その人の心の自内証という
自分でさとったという
その心の中の問題です。
ですから、
内面的な秘なるもの
神秘のベールに包まれた
ものかも知れません。
そのような時
そうではなく、
そういう問題を明らかに
していくという
信仰の世界であっても
明晰にしてかつ判明である
そういうことが
大事ではないかと、
そのような話でした。
たぶん、このあとに
この問題は出てくると
思います。
信仰といってもまた
宗教の世界というものは
曖昧模糊としたものでは
なく、
本来は明晰にして判明な
ものではないかと
そういう試みが
この『十地経講義』で
なされていくところが
とても興味深いところです
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます