熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
ブーバーということを
ネットで見ると
何か、アニメのキャラクター
が出てきます。
最近では哲学用語とか
そういうことに関する言葉が
よく、キャラクターの名前
として出てきます。
「メメントモリ」もそうです。
しかし、ブーバーという人は
(1978~1965)ユダヤ人の
哲学者で、『我と汝』という
言葉で有名です。
また、
Ich und Du (イッヒ ウント ドゥ)
という言葉も、歌の名前としても
有名なようです。
「我と汝」(Ich und du)
ブーバーといいう人は
ユダヤ人でありながらも
イスラエルとアラブの和解
のために生涯を捧げ、
両方の民族から尊敬された
平和の哲学者です。
アインシュタインをはじめ
多くの偉人から共感を得た
ことでも有名です。
講義では
「それから『我と汝』という
ことも今日ではよくはやる
言葉ですけど、
非常に注意せんならんのは
ブーバーで有名なんですけど
ブーバーでは Du 、汝と、
神も永遠の汝ですね。
汝の神と汝の隣人を愛せよ
というのが、キリスト教の
ゲボート(Gebot)〔戒律〕
を代表する言葉なんです。
つまり、
神の勅命ですね。
それを圧縮した言葉なんです
汝の誠を尽くし、
汝の心を尽くして神と
汝の隣人を愛せよ、
こういうんです。
その神は永遠の汝だし、
それから隣人は相対的な汝なんだ
どっちも汝というんだ。
神も汝というんだ。
仏教はそういうこと言わんだろう
と思うですね。
阿弥陀仏を汝といったことは
ないです。
彼という字で表すんですけど。
彼の如来と。
汝如来ということでは
表さないですね。
彼の如来という具合にいいます
仏教では人間がですね、
そういう法に対して汝といわず
むしろ法の方が人間に汝と
いうんです。
これは非常に違う点です。
キリスト教の方では
人間の方が神や隣人に対して
汝というんですけど、
仏教では法の方が人間に対して
汝というんです。
汝という呼びかけによって
我を賜るんです。
我という自覚を。
つまり仏教では
人間が神を証明するんじゃない。
神によって人間が証明される
んだ、汝と。
神に証明された自分をもって、
逆に神を証明していくわけです。
こういうのが仏教なんです。
だから昔は、言葉はなかった
ですけど、
汝というのと仁者と同じ。
つまりその釈迦が我々に対して
釈迦は先輩ですね、
釈尊が我々に
ナンジ、この道を往けと、
こういう時のナンジは仁者という
言葉で表すんです、
往けというのは。
ドイツ語で同じ汝でも、
Du という言葉を使う場合と
Sie(ズイ‐)という言葉を使う
場合とあるんです、区別して。
Sie の方は尊敬をもっとる、
尊敬をもっとるということは
よそよそしいんです。
だから神なんかは、
Sie とはいわんです。
やっぱり Du といってる。
自分の愛人も Du という。
Sie というようなことは、
やっぱり何か、
尊敬を表すんであってね、
何かそこに
よそよそしさがある。」
ドイツ語も難しいですが
日本語も難しい点があります
「汝」という言葉も
辞書をみると、
自分と同等かそれ以下の者
に対して使うと、
あります、が
聖書では
「汝の敵を愛せよ」とあるし
ソクラテスは
「汝自身を知れ」といい、
また経典では釈尊は
弟子に対して汝と呼びかけて
おられます。
自分より以下の者という
よりもこういう
経典や聖書では
親しみを込めて「汝」と
呼びかけておられるようです。
神も汝だし、愛人も汝という
ことは、
どちらも他人事ではない
身近なことと言うのでしょう。
面白いところです。
昨日の続きなんですが、
「頭陀」ということを
詳しく見ていきたいと思います
頭陀・Dhuta・ドゥータ
煩悩を振り払う
湧き出てくる煩悩を振り払う
煩悩を滅するというより
もっと積極的な意味で
振り払いながら修練する
という意味で、
よく見ていくと生活軌範の
ようなものだと思うのです。
こういう生活が身につき
そこから三十七道品という
精神生活が生まれてくる
その一番ベースになるものが
頭陀ということでしょう。
「三学」ということがあって
戒学・定学ジョウ・慧学の
三学です。
まずは規則正しい生活という
ことでもとになるのは戒学カイガク
です
お釈迦さまの最後の言葉は
私の亡き後は戒律をよく守り
怠りなく精進しなさい
ということです。
戒が私の師となるであろう
ということで、
戒律を守ることを特に
厳しく定められていたようです
頭陀の第一番は
1.在阿蘭若処(ザイアランニャショ)
人家を離れた静かな所に住む
2.常行乞食(ジョウギョウコツジキ)
乞食と書いて仏教ではコツジキ
と読みます。
常に乞食に出る。
3.次第乞食(シダイコツジキ)
乞食するのに家の貧富を
選ばない。
物乞いではないのですから
布施を勧めることは
布施する人が物惜しみの心を
離れるということです。
4.受一食法(ジュイチジキホウ)
一日一食ということです。
5.節糧食(セツリョウショク)
過食をしない。
6.中後不得飲漿(チュウゴフトクオンショウ)
中食以後は漿(ショウ、おもゆ)
を飲まない。
7.著弊衲衣(ジャクヘイノウエ)
廃物の襤褸(ランル・ぼろぎもの)
で作った衣を着る。
難しい漢字ですが、
捨ててあった布切れを縫い
それを着たということです
今着ている衣(袈裟)は
縫い目を表に着て、継ぎ接ぎ
の様子を残しています。
8.但三衣(タンサンネ)
三衣以外に所有しない。
但(ただそれだけ)という
意味です。
(三衣ー衣と袈裟)
9.塚間住(チョウケンジュウ)
墓場に住む。
10.樹下止(ジュカシ)
木の下にとどまる。
インドの暑さでは樹下にいると
涼しいと聞いています。
11.露地坐(ロジザ)
空き地に座る。
12.但坐不臥(タンザフガ)
常に座る。
という十二の行です。
食べ物に関するものが五つ、
住に関するものが五つ、
着物に関するものが二つで、
衣食住に関する決まり事です。
こういうことが保たれた
初めて、三十七道品という
精神生活が生まれてくる
ということです。
これを見ていると
厳しく生活軌範が定められて
いるようです。
まずはこういう生活を
保ちなさい、
というのがお釈迦さまの教えです。
こういう規律正しい生活により
戒ということが定まり、
これが身につくと、
初めて禅定という定ジョウが
生まれてきます。
そして、智慧が生まれてくる
ということになります。
智慧が浮かばないと嘆くより
まずは、規則正しい生活で
三昧の心を生み出し
静かになったところに初めて
智慧が生み出される
と思うのです。
双行・止観ということが
続いていましたが、
定ということが止にあたり
慧ということが観にあたる
のでしょう。
そういうことの
基礎になっているのが
この頭陀ということだと
思います。
「人間というものを救う原理
を人間の内に求めると。
大抵の宗教は人間の外に
求める。」
ということがあったんですが
自分を振り返ってみると
お参りするとき
お不動さま、お観音さまと
何か、外の力
お不動さまの力とか
観音さまの力というような
ものを感じてお参りしている
ようです。
ですから、
救いというものを自分の内に
求めるということは
難しいような気がします。
では、
外の力としてお参りするのは
間違いなのでしょうか。
そういう問題があります。
しかし、
それはそれで
いいのではないかと思う
のです。
問題がどこにあるかで
求め方も違ってくると
思うのです。
観音さまやお不動さまの力
を頂いて解決する問題で
あればそれはそれでいい
と思うのです。
人に裏切られ、
どん底に落とされて、
二進も三進もいかなく
なったとき
自分を救ってくれるものは
何なのかという
問いが起こってきます。
お釈迦さま母を亡くされ
国を捨て、家来や国民も捨て
出家された
そして、自分の国は滅ぼされた
そういう境遇の中での出家です
生半可なものではなかった
その中から悟りを開かれた
その内容は
「人生は苦なり」という
四苦八苦の発見です。
そういうことがあって、
お釈迦さまの弟子になられた
人達はどのような修行をし、
生活をしておられたのでしょう
ここに頭陀(ずだ)
ということがあります。
母の時代には「頭陀袋」といって
何でも入る布で出来た
ボディーバッグの様なものです
ドゥータという言葉の音写で
斗藪(とそう)、修治などと
訳されます。
斗藪というのも振り払う
というような意味で
煩悩を振り払うように修行する
というので、あえて訳さず
頭陀と音写したのでしょう。
衣食住に対する貪着を棄てて
心身を修練するということです。
それには12の行があり、
それで十二頭陀といいます。
気になったのは
塚間住(ちょうけんじゅう)
といって、墓場に住む
というのもです。
というのは
墓場、死を忘れるな
ということでしょう。
死を忘れると
人間はうぬぼれてしまい
ついつい自分勝手な
考えをしてしまうものです。
それからもう一つ
お釈迦さまが定められた修行に
三十七道品というのがあります
品というのは方法という意味
その最初は
「四念処」(しねんじょ)
身・受・心・法、の四つで
身は不浄である、
受は苦である、
心は無常である、
法は無我である、
ということに思いを凝らして
見つめるということです。
というものの
なかなかそうは思えない
のですが、
「身」一つ取ってみても
不浄とは思えません
立派なもんだと思っている
のです。
しかし、何かあった時に
やはり自分の身は不浄だな
と思える時があります。
そういうようなことで
自分をじっくり見つめる
ということがないと
分からないことです。
そういう修行を弟子たちに
課しておられたようです。
自分の内に救いを求める
というのは
まずは自分自身は
どういうものであるか
ということを深く見つめる
そこから始まるのです。
『十地経』の初歓喜地
初めて歓びが見つかった
ということですが
これは自分が煩悩の主である
ということが分かったという
歓びなんです。
そういうことを見ていくと
自分の内に救いを求める
ということが、なんとなく
分かるような気がする
のですが … 。
ここの話も仏教と
他の宗教との違いを見る
とても面白いところです。
「自覚からいえばですね、
自分の他に仏があるはずは
ないんです、自覚からいえば。
自分の自覚を離れて
仏というものを考えることは
できないんです … 。
これはなにも別に
唯識ということじゃない。
清沢先生でもですね、
宗教は主観的事実だと。
主観におけるできごと
なんだと、宗教は。
それはしかもその、
唯識というんじゃない、
仏教の面目じゃないかと
思うんですね。
人間というものを救う
ような原理を
人間の内に求めると。
人間の外に求めるんです
大抵の宗教は、
仏教以外の宗教は。
なんか自分の外に何か一つの
自分を救うような力を
認めると、
どうしてもそこに
奇跡というようなことに
なるんです。
キリストは歴史の上に
現れた一つの人格です。
ナザレという特定の地域に
現れた、
特定の時に現れた人格です。
空想じゃない。
特定の時。
そこがまあ、
キリスト教の強み何です、
しかし、
その時にですね。
『我に来たれ』と言った。
仏教ではそういうことは
言わんです。
我に来たれというような
ことを言ったら、
それは群賊悪獣というんです
新興宗教の開祖や、
そんなものは。
仏教では釈迦がね、
これも特定の時代、
特定のところにあらわれた
人格ですけどね、
釈迦は我に来たれ
というようなことは言わん。
むしろ『往け』と言う。
『汝自身に帰れ』と、
こういうのが釈迦です。
だから釈迦は救い主と
いうんじゃない。
むしろそこに非常に大事
なのはですね、
ソクラテス的な一つの
性格を持っとるんです、
教育者という。
ソクラテスなんです。
キリスト教には
ソクラテスはないんです。
だから、
神がそのまま歴史上に
自分を現しているんだ。
絶対的なものが、
絶対のかたちをもって
相対の中に現れとるんです
そういうのは奇跡じゃないか
仏教ではそういう自分の
外にね … 。
外にあるものは仏教では
どういうかというと、
先輩後輩に過ぎんのです。
釈尊は我々の先輩なんだ。
つまり
後輩と先輩というのは
師弟なんです。
学生と教師なんです。
それだけの違いがある。」
仏教では十界ということを
いいます。
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・
人間・天と、
ここまでが迷いの世界で
声聞・縁覚・菩薩・仏
という四つの世界が
仏の世界、さとりの世界
ということで、
私たちが迷えば
地獄・餓鬼・畜生・修羅
という世界にさまよい
修行して行けば
菩薩仏という悟りの世界
へ入っていくということです
よくその喩えとして
蓮の花を使います。
根の部分は地獄餓鬼畜生を
表し、そして茎が伸びて
その上に花がある
その花が菩薩仏を表してい
います。
仏菩薩が蓮の花に座るのは
そういうことを表しています
つまり、
仏といっても他ではなく
自分の中にあり
地獄も自分の中にある。
仏といってもその下には
地獄餓鬼畜生をもっている
人間というのは
間的在り方です
地獄にも堕ちていくし
仏にも成れるという
ことです。
「自分の他に仏があるはずは
ないんです、自覚からいえば」
という言葉はそういうことを
表しているのです。
「救う原理」というのは
お釈迦様が説かれた
色々の修行の内容でしょう。
また次回、
第七地に至ると
空に沈んでしまうという
大きな関門が出てきます。
面白いことに
「7」ということは
仏教ではいろいろ出てくる
のですが、
何か大きな転換点という
ものを表しているようです。
お釈迦様がお生まれに
なった時、七歩歩まれて
天と地を指さし
「天上天下唯我独尊」
と名乗られたという。
それから六波羅蜜では
第六の智慧波羅蜜を超えて
第七番目が方便波羅蜜
そして今出てきた
第七地は「七地沈空の難」
という最も大きな難関です
今までやってきた修行が
完成し目の前に空の智慧
を現前に見た
そこが第六現前地です。
そこでいいようですが、
第七地に進むと
空に沈んでしまうという
ことがあるのです。
当てはまらないと思う
のですが、
スポーツ選手でもそうですが
あるところまで到達すると
ふとスランプに陥ってしまう
ということがあります。
今までやっていたことが
出来なくなる。
そういうことがあるようです
沈空ということとは
少し違うようですが
何か似たような気もします。
講義では、
「よく一般に、沈空という
『十地経』の七地のところ
に出ている問題を、
七地沈空の難という。
空というのは、先に出てきた
第六現前地の結果なんです。
第六現前地というものに
よって、
初めて空というものに
達するんです。
ところが空に立つと、
腰を落ちつけるというのは
沈むという意味ですね。
これは別に空が悪い
ということではない。
沈むのが悪い。
空が間違いというん
じゃない。
沈むところに間違い
がある。」
というように出てきます。
お釈迦さまがさとりを
ひらかれた時、
自受法楽(ジジュホウラク)
といって自らさとられた
内容を楽しんでおられた。
ということです。
それで、これでいい
もう説く必要はないだろう
と、あらためて悟った法を
楽しんでおられた、
ということです。
そのことを知った
娑婆世界の王、梵天が
どうか悟った法を
説いて欲しいと懇願されます。
悟りを開かれた最初の七日目
のことです。
ところがお釈迦さまは
世の中の人を見るに
あまりにも欲深く、
身勝手で他人のことは考え
ない、
私のさとった法は
微かで妙なる法なのだ
きっと理解できないで
あろうと思われたのです
梵天はそこで退かず
次の七日、次の七日と
お釈迦さまのもとを訪ね
さらに懇願されます。
すると
やっと七七、四十九日目に
座を立ち、
法を説かれます。
これが初転法輪ショテンボウリン
といわれています。
経典には、この時
十方の諸仏が七種の法を
以て勧め励まされる
そこで勇気を奮い起こして
第八不動地に進んでいく、
ということが出ています。
私たちには
そこまで深いものは
ありませんが、
何かしら途中で嫌になったり
心が沈んで動けなくなったり
そういうことがあります。
諸仏の激励ということが
ありますが、
やはり、師匠や友や先輩など
周りの励ましで
やっと足が一歩出る
ような気がします。
私たちの悪い癖で
何か一つのことを達成する
と、そこに
腰を落ちつけてしまう。
すると今まで得たものまで
失ってしまう、
ということが起こってきま
す。
ではどうやって失わない
ようにするかということが
次のところです。
「真実というものに
腰を落ちつけ真実を失う
場合に、どうして
失わないようにするか
というと、
方便ということが
生まれてくるんです。
真実を擁護する方便です。
普通方便は真実に達する
のを方便というんだけども
そうではない。
真実から出てくるものを、
真実から出て真実を守る
ものを方便という。
これは非常に大事な点です
方便にはそういう二義、
二つの意義をもつのでは
ないかと思います。」
方便ということも難しい
「嘘も方便」ということが
一般的で、その考え方が
頭に沁みついて離れない。
原語的にはウパーヤupaya
近づける、近づくという
意味で真理に近づける
ということです。
ここでは
真理を守る、ということが
方便とあります。
方便ということは
よく出てくる言葉です。
次の方便波羅蜜という
ことがよく聞く言葉です。
六波羅蜜が十波羅蜜に展開
するとき、
布施波羅蜜(布施)
持戒波羅蜜(戒)
忍辱波羅蜜(にんにく)
精進波羅蜜(精進)
禅定波羅蜜(禅定)
智慧波羅蜜(智慧・慧)
以上が六波羅蜜で、
これに
第七番目が方便波羅蜜
願波羅蜜(願)
力波羅蜜(力)
智波羅蜜(智)
を加えて十波羅蜜と
なります。
第七番目ということが
面白いところで
十地経でも第七遠行地
ということが
大きな転換点になって
きます。
「七」というところが
何か重要なことを暗示
しているようです。
第六地が「般若現前地」
般若の智慧が目の前に
現れてくるというのです。
初歓喜地から修行して
初めて空という智慧に
達すると、
これは大きな歓びでしょう
それで、ほっと一服して
しまうといことがある
ようです。
「第六地は何というか、
般若という一つの、
般若というところに
とどまったんです。
その般若を超えるんです。
つまり、
根本智というものが
般若ですが、
根本智を超えるんんです。
そこにかえてっ方便が
出てくるんです。
そこにかえって
方便智が出てくるんです。
根本智は真実かも
知らんけど、
真実を得たのが六地です
けど、真実を得ても、
真実に腰を落ちつけると、
真実が消えてしまうんです
どんないいものでも、
それに腰を落ちつけたら
かえって全部失ってしまう
どんないいものでも、
それをつかんだらですね、
そしたら、
それを全部離すことになる
こういうところに
実践というものの本当の
意味があるんでしょうね。
つかまなきゃ
なにもならんけども、
つかまなきゃ腰を落ちつけ
ようがないけども、
つかんだら、
腰を落ちつける場所が
できるんです。
しかし腰を落ちつけたら、
そのつかんだものが
全部消えてしまうんです。
こういうところに、
一つの実践、
論理じゃないですね。
道程というものがある。」
あるところまで到達すると
腰を落ちつけたくなる
ものですが、
腰を落ちつけると
全部を失ってしまうと。
オリンピックで金メダルを
取った選手の言葉、
これからの目標はと
聞かれて、
次の試合もあるし
また世界大会もある、
4年後にはオリンピックが
始まる、
休む間はありません
明日から練習です。
という言葉です。
なるほど、
到達して腰を落ちつける
暇はないんだと
ああいう世界でも
やはり道程というものに
生きておられる。
腰を落ちつけたら
意識がよどんでいく
その意識が元の木阿弥に
してしまうのです。
熊本を出る時、祖父が
『人生修行の旅』
という本をくれました。
死ぬまで修行だという
諌めを込めて渡したのだと
思います。
一服したら
その場に止まってくれると
思うのですが、
そのままでおれなくて
一気に最初に戻ってしまう。
厳しいものです。
足は遅くとも歩み続ける
それが本当の人間の
あり方のように思います。
止観という、
止と観の行が一致しないと
動静といわれるように
全く反対の概念です。
だから
一致することは難しいと
いわれます。
これは理論で一致させる
というのことではなく、
熟練が一致させてくる
ということです。
西田先生の日記に
今日は本を読み過ぎた
という嘆きが絶えず出てくる
ということです。
先生の講義には
「僕らが本を読む時に、
考えながら読むというんだ
けれど、
読む方が先走ってみたり、
考えが先走ったり、
うまくいかんでしょう。」
というように
止観ということが
一致しないことが出ています
それでもう一つに例として
「デカルトという人が、
あの人は数学というものが
哲学の方法としてですね、
いわゆる解析幾何学という
ものを完成した人ですから
数学の問題というものは、
やっぱり行き詰まると
考えると、
先を読まずにですね、
考えて答えを出すと。
本を読んで
その答えを見つけるのじゃ
なしに、
問題が出てくると、
その問題を考えると。
それで
考える先に答えを読まんと
いうのです。
そういうように、
本の読み方も数学的です。
自分で考えて答えを出して
その後から結果として、
答えの部分を読むだけで
あって、初めから
答えをまで読んだら、
意味なさんわけです。
読む方が先なってですね、
考えが後になってしまう。
こういうようなわけで、
なかなかそれが、
一致しないですね。」
というように
本を読むということ一つ
取ってみても
読むことと考えることが
一致しないという
ことが出ています。
先生はこのデカルトの
話しもよく出てきます。
有名な言葉が
「コギト・エルゴ・スム」
(cogito ergo sum)
という
「我考えるが故に我あり」
言葉があります。
それからもう一つ
「明晰・判明」という
ことが出てきます。
これもデカルトの言葉です
明晰にして判明と
たぶん学生時分に聞いた
言葉ですが
未だに残っている言葉です
その当時の言葉で
クラール・ドイトリッヒ
ドイツ語ですが
辞書を見てもスペルが
分かりません。
信仰の世界というのも
ある面では個人の経験です
その人の心の自内証という
自分でさとったという
その心の中の問題です。
ですから、
内面的な秘なるもの
神秘のベールに包まれた
ものかも知れません。
そのような時
そうではなく、
そういう問題を明らかに
していくという
信仰の世界であっても
明晰にしてかつ判明である
そういうことが
大事ではないかと、
そのような話でした。
たぶん、このあとに
この問題は出てくると
思います。
信仰といってもまた
宗教の世界というものは
曖昧模糊としたものでは
なく、
本来は明晰にして判明な
ものではないかと
そういう試みが
この『十地経講義』で
なされていくところが
とても興味深いところです
8時の点火に合わせて
仏壇に火を灯し
お参りしました。
お精霊(しょりょ)さん
送りの大文字です。
我が家からは如意ヶ嶽の
大文字が斜めに見ることが
できます。
廊下よりお参りしました。
大文字の大の中心部分には
祠があってそこには
弘法大師がお祀りされ
浄土宗の僧侶によって
お参りされ、
その火をもって点火されます
今年は北風もあって
点火には苦労された様子
でも去年と違って
雨も降らず、
美しい大文字が拝めました
後はテレビから
大文字の火を拝みます
左大文字です
面白いのは筆順に添って
灯されていきます
大文字の半分ほどの大きさ
です
火床もそれぞれ形があって
また灯し方も違います
興味深いのは鳥居です
松のジンといいますか
真ん中の部分を使い
火は赤く燃え上がります
そして、
火床はステンレス製で
ここに火のついた松明を
持って走り火床に突き刺す
という
珍しいものです。
大文字の送り火は
地域の方々によって
守られています。
古い時代はそれぞれの地域
で字も形も色々あって
ご先祖さまを送るという
そういう行事だったのです
いつの時代か
こういう五山という
形にまとまったようです
京都には色々の行事が
ありますが、
この大文字も送り火ほど
宗教色が強く
かといって
お寺とかが関係するのでは
なく純粋に
それぞれのご家庭のご先祖様
をお送りするという
誰彼に見せるという
ものではなく
何かしら宗教心の純粋な
ものを感じます。
祇園祭とかもありますが
13日にお見え頂いた
ご先祖さまを送るという
大文字の行事は
誰でもがどこからでも
お参りできるという
ほんのわずか30分ほどの
行事なのですが
何とも奥ゆかしい
心静かにお参りできる
私にとっては一番好きな
行事でもあります。
学ぶことも多く
未だ、
終わりそうもありません。
本当に道半ばです。
知れば知るほど
何も知らなかったことが
思い知らされます。
無学ということがあります
普通には
謙遜して、無学な者で
というのですが、
仏教では無学というと
仏のことです。
もはや学ぶことは何もない
一切を学びつくした
ということです。
反対に私たちのことを
有学ウガクといいます。
まだまだ学ばなければ
いけない者ということです
ということは
まだまだ学ばなければ
ならないということは
当然のことです。
道半ばで終わる
ということをいいますが
道は半ばなのでしょう。
道(どう)というと
仏道とも言います。
あらためて見てみると
なかなかいい言葉です。
仏道、仏へ至る道
また歩み続けることが
道ということです。
講義にもよく出てきますが
三十七道品という
修行の方法があります。
道品(どうほん)
品というのは方法という
意味になります。
このことを
修行することによって
仏になるということです。
お釈迦様により三十七の
方法が示されています。
また、四道(しどう)と
いって、
このこともよく講義出てくる
のですが、
加行道(けぎょうどう)
無間道(むけんどう)
解脱道(げだつどう)
勝進道(しょうしんどう)
の四つです。
加行道というのは
準備的な段階で方便道とも
いい、煩悩を断ずるための
準備的な実践です。
無間道というのは
無間、間が無い
講義でのたとえとしては
千年の闇もマッチ一本で
消えると、
千年続いたから
闇が明けるのに千年かかる
かというとそうではなく
そこには間はなく
一瞬で消えるといいう
人間の迷いも
先祖代々迷ってきたが
その迷いが消えるには
本当の教えに会えば
一瞬でその迷いは消えて
しまうということです。
解脱道というのは
解脱ですからさとりです
それで、お終いかというと
さらに
自分の迷いが見えてくる。
そこで次に
勝進道ということが出て
きます。
更に進んで他の煩悩を対治
しようとするのですが、
他の煩悩を対治する
ということで最初の加行道
に戻ってくるのです。
行ということは
円を描くように進んでいく
といいます。
やればやるほど
新たな煩悩がみえてくる
ということです。
何もやらなければ
煩悩も見えないし
それはそのままで完成して
いるのかもしれません。
歩めば自分の中に潜む
煩悩が現れてくる。
だから
道になっていくのでしょう
道は半ばであって
到達するものではないと
思うのです。
やればやるほど次の課題が
見えてくるものです。
見えて来なかったら
止まっている証拠です。
止まれば、
そこにいるだけではなく、
元の木阿弥で
元に戻ってしまう。
歩むところに道はあり
止まってしまったら
それ以下になってしまう。
精神も堕落してしまう
のでしょう。
生きるということは
歩み続けることと
いってもいいと思います。
道は半ばですですね。