本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

四方正面

2022-05-23 12:02:11 | フラワー

アマリリスも咲き揃いました

アゲハも二匹が脱皮

それぞれ成長が進んでいます

 

 

これは一昨日の写真

じっとしていた幼虫

脱皮するのには

力がいるのでしょう

ゆっくりゆっくり脱皮

メタモルフォーゼです

 

 

そのせいか

脱皮し終わると

その食欲たるや

一心不乱に食べています

 

 

アマリリスも

四方正面というか

どちらからでも見て!!

というように

四方に向かって

花を開きました

 

 

昨日はやや蕾

それが一日明けると

 

 

全部が見事に開いたのです

 

五重塔も

どちらから見ても変わらぬ姿

よくこの塔のように

どちらから見ても

変わらぬ人になりなさいとは

師匠の言葉です

裏表があるのが人の常ですが

でも、

裏表があってこそ

人の深みもあるのかも

しれませんね

 

 

脱皮した二匹のアゲハ

揃い踏みです

手前が昨夜脱皮したもの

奥がお兄さんです

今は一服というか

こういう虫たちは

昼はじっとしていて

夜が活動の時間です

 

今年は見事に咲きましたし

アゲハも3匹が成長中

もう一匹は体もやや緑色に

変わってきているような

明日には脱皮するのでしょう

殺風景な

ベランダの片隅ですが

こういう生きている姿を

見ていることは

心が豊かになるものです。

 

 

 

 

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道理に頷く、道理に頭が下がる

2022-05-22 19:57:31 | 十地経

このところの講義で

頭に残った言葉は

「明るく悩め!」

ということです

悩んだ暗くなるだろう

と思うのですが

「明るく困る」と、

 

それで講義では、

「道理というものを

現代の人は忘れとるという。

なぜ忘れたかというと、

それは論理に幻惑される

からじゃないか。

論理は闘争の武器です。

主張の武器です。

相手を倒す武器です。

論理によって人間が救われる

ということはありえない。

 

道理に救われるんです。

感情に救われるんじゃない。

道理に頷くんです。

道理に頭が下がるんだ。

論理に頭はさがりゃせん。

論理は頭を上げるわ。ん。

 

頭が下がるのが救いです。

無条件にやね。

絶対無条件に頭が下がると、

こういうのが

これは存在の道理に触れる

という。

仏道ではこれを忘れちゃ

いかんと思う。

 

仏教学はなんか論理学と

思ったら、

あの、哲学になってしまう。

哲学ということがあっても

それは方便です。

論理的に頭が悪い

ということはなにも、

損するかも知らんけど、

何も人間として恥じゃない。

けど道理に外れたといったら

これは妄想でしょ。

 

だからして、あのー、

多様なものが一つだと

いうようなことは、

論理じゃない、

存在の構造だと思う。

存在論的な構造だと思う。

もっといえば

存在論的真理だと思う。

 

理性という、

理性という具合に、

論理にするというと

発展せんならんね、

相手と相手と戦う

ことによって。

つまり

結論を出してこんならん。

矛盾を解決せんならん。

 

ところが道理は、

矛盾のままが一つなんだ。

解決しとるんだ。

矛盾を解決することによって

矛盾が解決されるんじゃない

矛盾は矛盾のままで

解決しとるんだ。

それが存在の秩序だ。

 

困ることが

困らんようになって

助かるんじゃないんだ。

明るく困ったら、

困ったもんは

はや解決しとるんだ。

明るく困ると。

 

困らんようになりたいと

いうような、

そういう欲を起こすから困る

ま、そういう、

なんちゅうかね

逃げたくなるし、

なんかそういうような

卑怯な心が

人間に起こってくる。」

 

この頃、

聞いた人たちの間で

「明るく悩め」

「明るく困る」

ということがブームでした

悩むということも

苦虫を噛み潰したような顔

になるのではなく

人生のことを真剣に考えると

それは明るい問題でしょう

ただ、

自分に都合のいいようにと

考えてくると

思うようにならないので

暗くなってくるのでしょう。

 

道理に頷けば

明るく困るのでしょう

自分の思うようにと

考えてしまうと暗くなる

その当時はやっていた

コマーシャル

「明るいナショナル」

という言葉が三浦先生の

お気に入りでした。

 

 

 

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頷く世界が内面の世界

2022-05-21 20:35:24 | 十地経

教えを聞くという時

分かるとか分からない

ということより

頷くということが大事です

私たちの頭で理解できる

程度のものなら

それこそ大したものでは

ないのでしょう

私たちの理解を超え

心の中にスッと入っていく

身体に沁み込むような

 

よく講義の中でも

ノートを取らんでもいい

感じた言葉に頷けばいい

と、先生も

仰っていました

 

「だけどまあ

キリスト教とか仏教とか

そういうことを考えるのが

はやけちくさいじゃないか

キリスト教とか仏教が

大事なんじゃない

生きとるものが大事なんです

 

そこにはやっぱり、

違いながら、

べつにキリスト教に

仏教が降参するんじゃないし

キリスト教が仏教に

降参するんじゃない、

もう絶対に違いながら

感応道交(カンノウドウキョウ)

するというのがですね、

これが僕は

大事なことじゃないかと。

 

僕はべつに

キリスト教を感化して

仏教に入れる必要はないと

思う。

キリスト教はキリスト教の

ままで頷く。

いうように

仏教がなればいいわけです

なにも人を、

だから唯物論者を観念論者に

転向させる必要はないと思う

唯物論者なら唯物論者、

何でもええんです。

それで、

しかしながら皆が頷くと。

 

頷く世界というのが

さっき言った

内面の世界です。」

 

よく先生の講義の中でも

「えっ。」「うん」

という言葉が入っています

先生ご自身が

自分の言葉に頷きながら

話しを展開されている

自分の言葉でも

一番先に聞いているのは

自分の耳です。

 

それで、あえて

「ああ」とか「まあ」「えっ」

という言葉は

そのまま書き写しています

その方が話されている

その時の様子が

思い出されてくるからです。

 

先生がお亡くなりになり

奥様が一人でいらっしゃると

よく、キリスト教系の方が

勧誘に見えられたそうです

まあ、奥様も毛嫌いせず

話を聞いておられた

ということです

それで次第に相手の方も

だんだん上の方を連れて

お邪魔され

話しに熱が入ったそうです

しかし、

繰り返し話されているうちに

自分は仏教でよかったんだ

相手の方も

キリスト教でよかったと

どちらも頷かれたそうで

なかよく別れられた

という話しです。

 

私たちの場合、

相手に巻き込まれまいと

最初から拒絶して

話も聞かないというような

そういうことに

なってしまいそうですが

話しを重ねるうちに

お互いの立場が明らかになる

そういう会話が出来たら

素晴らしいと思います。

 

ただ、「頷く」

ということが教えを聞く上で

一番大事なことのように

思うのです。

 

 

 

 

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メタモルフォーゼ

2022-05-20 20:29:53 | フラワー

ベランダに眼をやると

レモンの木に

間近に虫たちがいます

 

 

右には脱皮を終えた緑の虫

左にはこれから脱皮しようと

している黒い色の虫

まあ、見ているのが楽しみ

なんですが

それに今日満開に花開いた

アマリリス

いま、私のブームです

 

 

両方に二輪開き

まだ蕾の花が二輪あります

 

 

見れば見るほどこれも

不思議な花です

 

 

昨日脱皮したばかりの

アゲハの幼虫

カフカの小説に

『メタモルフォーゼ』

というのがあります

ちょうど教科書で

朝起きたら自分の身体が

虫になっているという

変身(メタモルフォーゼ)

した

そのことを思い出しながら

真っ黒い幼虫から

緑色の美しい姿に

それから蝶になっていく

 

 

黒い点が目のように見え

頭にバンダナをしている

ような形にも見えます

脱皮した黒い皮は

昨日はお尻あたりに

付けていたのですが

それも食べてしまったようで

今日はこんな立派な体です

 

 

この幼虫も下から見ると

口のあたりが緑色に

今晩は時間をかけて

ゆっくり脱皮するのでしょう

 

葉っぱも埃で汚れていて

いるようです

美味しくないかもしれないと

葉の汚れを拭き取りました

横にいるものですから

ついつい気になり

おせっかい爺爺になって

いるようです。

 

 

 

 

 

 

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花は開き始め虫は脱皮し始める

2022-05-19 20:25:13 | フラワー

最近は観察するのが

忙しく

またそれが楽しみでも

あるのですが

 

 

アマリリスも開き始めました

朝起きるとこのような状態で

それが時間と共に

膨らみ始めてきます

 

 

夕方には大きく開き

外は風も強く

花も大きく揺れています

それで、部屋に入れたのです

よく見ると

美しくもありまた

不気味なような姿でも

あるようです

 

 

三匹いたアゲハの幼虫の

一匹が脱皮しました

お尻の方に黒いものを

付けているのが今までの

殻のようです

 

 

カメラを向けると

ちょっとびっくりしたようで

体を曲げてしまいました

 

 

この方ももう少し

で脱皮しそうです

今も、

ライトを持て見に行った

のですが

まだのようです。

 

こうやって見続けると

なにかしら

我が子のように愛おしく

なってくるものです。

 

 

 

 

 

 

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Ich und Du(イッヒ・ウント・ドウー)

2022-05-19 19:48:02 | 十地経

「Ich und Du」

この言葉もよく出てきます

「我と汝」ということです

この本が英訳されると

「Ⅰand Thou」となります

thouはyouの古語で

それで汝と日本語になった

のでしょう

 

「仏教では、

煩悩に苦しんどる衆生を、

あなたと。

大地に自分を投げ出すような

凡夫が、

実は大地を支えるような

大きな力を証明する場所

なんだ。

それがもう無上の

それは事業です。

 

そういう立派な事業を

凡夫に与えられとる。

そこに初めて凡夫はですね、

あえて

偉い人にはできないような

素晴らしい価値を自分に自覚

するんです。

 

人間を菩提心として

呼びかける言葉が

汝じゃないか。あなた。

人間のもっとるその能力とか

そんなものに対して

汝とは言わん。

どんな劣等生の学生でも、

あなた、とこ言う。

 

それはその、

劣等生の学生の、

劣等性すら侵すことの

出来ない尊厳なものを

もっとるから。

絶対に劣等にならんものを

もっとるから。

 

それを礼拝するのが教師です

生徒に威張るのは

本当の教師じゃない。

生徒の菩提心を礼拝する

ところに

教師があるわけです。

そういうのが、

汝という言葉です。」

 

こういう言葉は

聴講されていた洛南高校の

先生に向かって

語られたのでしょう。

教育の根本を人間の菩提心

として捉えられた

そいう観点からみないと

頭がいいとか成績がいいとか

勉強ができない

そういう見方しかできない

ようになってしまいます。

 

他者を汝として

見ることによって

自分もわれになるという

「あなた」を認めなければ

「てめえ」になる。

「てめえ」じゃわしも

「わし」になれんです。

「おれ」になってしまう。

 

それは親分子分じゃないか

それでは人間の世界は

自分になれんです。

自分を尊敬できないだろう

「おれ」ぐらいな自分なら。

 

というようにも出てきます

我と汝

これも大きな問題です

今はこの関係が失われ

つつあるようです

「てめえ」と「おれ」では

こういう人間関係では

自分も明らかにできないし

他者も尊敬できない

ようになるようです。

 

 

 

 

 

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不思議な美しさ

2022-05-18 19:56:35 | フラワー

毎年咲いていたのですが

こちらが気がつかない時に

咲いてしまい

その変化の様子を見ることは

なかったのです

ちょうど座ったすぐ横に

アマリリスがあるので

毎日のそれも時間ごとの

様子が伺え

その変化に驚いています

 

起きてみると

まず

気になっているのでしょう

カーテンを開け

アマリリスの様子を見ます

 

 

開いた花が十文字に横に伸び

その真ん中から

また二つの花が出ています

 

 

実に不思議です

真ん中の二つの花芽も

また横に伸びるのでしょう

 

 

こういう形をしている

 

自然の作り出す形は

私たちの思いをはるかに

超えています

 

 

下を見ると茎の部分が

真っ赤に染まっています

光合成で葉っぱが養分を

根に送り

根の中で赤い色が作られ

それを花に送っている

のでしょうか

見れば見るほど不思議です

 

すべての花々も

そうなのでしょうが

何というかいのちのハタラキ

私たちの力では

どうやっても作ることは

出来ません

 

 

このアゲハの幼虫も

次第に大きくなっている

この位の大きさなら

いいのですが

緑色の虫になれば

食べる葉の量も多くなり

この檸檬の木の葉だけでは

足らないようです

 

調べると

楠木の葉も好物とか

今度は楠の葉を求めて

探しに行かなければ

なりません

ご縁があった命です

羽ばたくまで見取りたいと

思っています

 

 

 

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アマリリスとアゲハの成長

2022-05-17 20:58:31 | 住職の活動日記

朝起きてみるとアマリリス、

花が二つに割れ始めている

 

 

花の姿としては

二つに割れ始める前の

初々しが感じられる

花のつぼみが好きなのですが

花の成長としては

こうやって花が開くという

成長の過程なのです

 

と思いつつ

アゲハの幼虫も気になり

そっと見てみると

 

 

順調に成長しています

計ってみると2.5㎝ほど

もう少しすると

緑色の大きな幼虫に

変わっていきます

 

そうやって観察すると

お昼ごろには

アマリリスも

 

 

花が二つに割れる間隔も

少し大きくなってきています

一日の内でも

見る見る成長してく姿は

驚きです

 

 

根元の葉の形も

栄養を一杯吸い込むように

立派な葉を広げています

 

それが夕方近くになると

 

 

ここまで大きく開きました

朝から夕方にかけて

こうも大きく

成長していくのです

 

狭いベランダながら

生き物の成長を見守るのは

何かしらの楽しみがあり

平々凡々の生活の中に

いのちの息吹を感じるもので

私たちの生活の中に

ピリッとしたエスプリを

与えてくれます。

 

明日には花開くでしょう

楽しみ待ちましょう。

 

 

 

 

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自利利他と自利他利

2022-05-16 20:55:39 | 十地経

忘己利他モウコリタ

「己を忘れ他を利するは

慈悲の極みなり」

というのは最澄の言葉です

やはり「利他」というのは

仏教の真髄です

この言葉も

言葉の流れからすると

自利利他というより

自利他利の方が正しい

ような気がするのです

それを他利でなく利他と

されたのには意味がある

ような気がするのです。

 

講義では

「我々の立場では

利他という概念は使えない

立場だと、

我々からいうと他利という

ことしかいえないと、

人間の立場では。

 

自分も利せられる、

それによって

自分も利せられるならば、

それによって他も利せられる

と。こういうことが

言えるだけでね、

他を利益するということは

人間にはありえないんだと。

そういうことを

人間が勝手に考えとるんで

あって、

自分が設けたいだけじゃ

ないかと、

こういうんです。

 

人を助けてやる

というようなことは

人間にはありえないことだと

人が助かっとるだけの

話しであって。

自分も助かり

人も助かっとるだけの

話しであって。

人を助けてやるというような

ことはそれは欺瞞だと。」

 

なるほど、

言われてみると

人を助けるということは

ありえないともいえます。

そこで思い出すのは

 

「施身聞偈」セシンモンゲと

「捨身餓虎」シャシンガコの

説話です

聖徳太子が非常に感動されて

玉虫厨子の扉に描かれた図が

有名です。

施身聞偈という物語は

雪山童子が教えを聞くために

自分の身を羅刹に捧げる

という話しです

その教えが

「諸行無常・是生滅法

 生滅滅已・寂滅為楽」

という四法印です

印とは旗印ということで

仏教とは何かといわれると

この四法印が仏教の真髄

を表しています。

 

教えを得るために

自分の身を捧げる

このことは何とか分かる

のですが、

捨身施虎の話になると

飢えた虎のお母さんがいて

あまりの飢えのために

今まさに自分の子を

食べようとしている

その時に童子は

我が身を飢えた虎に投げ出す

ところが虎は弱り切っていて

食べようとしません

それで童子は

自分の身体を傷つけ

血を流して虎の食欲をそそる

そして食べられるという

物語なのです。

 

教えのために身を捧げる

というのは何となく

分かりますが

ただ飢えた虎に身を差し出す

こうなると

理解できない話です。

 

先程の利他と他利という

ことでは

施身聞偈は他利ということで

捨身施虎ということが

利他にあたるのではないかと

思うのです

これは私の勝手な考えで

正しい解釈ではないかと

思うのです。

 

また、

こういう話しもあって

 

「身を削り人につかうる

すりこぎの

この味しれる人ぞ少なし」

 

という歌があります

この歌も今の若い方には

分からないようです

すりこ木も使ったことがない

ということですから

山椒の木で出来たすりこぎ

すり鉢で擦られるたびに

身が減っていく

しかし、その山椒の木の

わずかな味が残るという

このことも

身を捧げるという話しに

通じるものがあるのでは、

 

それから、

貢献と献身

ということがあって

「貢献」はあえて言うと

自分は安全圏においていて

出来る限りのことをする

それに対し

「献身」となると

出来るできないを超えて

身を捧げるという

そういう違いがあるように

思うのです。

 

自利利他・自利他利

ということも

どちらもウインウインの

関係という

それが自利他利

自分も利し他の人も利す

そこをあえて

利他としたのは

その関係が全くなくなった

ただ、他のために

身を捧げるという

捨身飢虎の物語が

本当の利他行のような

気がするのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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実相院の青モミジ

2022-05-15 20:30:23 | 住職の活動日記

岩倉具視が隠棲したという

岩倉の地

その近くに実相院はあります

車で30分ほどの距離ですが

昔は徒歩で行くと

一山越えて半日は掛った

ようなところです

 

 

実相院門跡とありますから

門跡寺院です

 

 

豊かなもみじで埋め尽くされ

います

 

 

その中にある白い塊

これはカエルの卵です

ここからオタマジャクシが

生まれて下の池に落ちる

という上手な場所に

生みつけています

 

 

比叡山を借景にした

近代的な庭

紅葉の頃には隣のもみじが

真っ赤になりこれも見応え

があるようです

 

 

真っ赤に染まるモミジも

いいですが

生まれたての青モミジも

美しいものです

 

 

ここの見ごたえある場所は

この板の間に映るモミジです

生憎この場所は撮影禁止

待合室の流れているテレビ

の映像で想像してください

 

 

これは横にあるパネルです

このお寺はもとは北区にあった

それが応仁の乱でこの地に

避けるように移ってきた

女院御所ともいわれ

やはり当時としては

本当に山奥という場所

そこで静かに仏法を護り

修行しておられたのでしょう

江戸時代には

しばしば、天皇の行幸もあり

華やかな一面もあるようです

 

そこからほんの数分歩くと

岩倉具視幽棲旧宅があります

 

 

この門から大久保利通

坂本龍馬、西郷隆盛などなど

王政復古、新政府の中心人物

が通られた門です

 

 

当時の米びつ

 

 

こうやって一人で生活して

おられたようです

藁ぶきの主屋があり

中庭を挟んで

 

 

附属屋と呼ばれる離れがあり

この離れが生活の場で

竈などがそろっています

 

庭も綺麗に手入れされ

落ち着いた雰囲気は

当時を偲びながらゆっく

できるところでもあります。

 

 

岩倉具視は江戸へ行き

亡くなった後

その遺髪が納められた

瘞髪碑(えいはつひ)

これを作るために

主屋を2メーター後ろへ

引いたということです

 

ガラス障子の作りも

おしゃれで

今でも通用するような

作りです

その縁側に座り

説明を聞きながら

ゆっくりした

時間を過ごしました。

 

 

 

 

 

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