本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

安田先生の夢を見た!

2018-01-29 16:00:25 | 十地経

なんとも不思議なことですが

一昨日安田先生の夢を見ました。

にこやかなお顔でした。

一対一で面と向かってという場面

自然な会話でした。

「そうかね!」と

いつもの返事です。

 

昭和57年2月19日に亡くなられ

既に36年も経っています

人間の記憶は不思議なもので

そういうことも思い出してくる。

 

十地経の講義の時

いつのまにか私がお茶当番でした

とても緊張する時間です

お見えになると

頃合いを見計らって

お抹茶を点ててお出しする

ゆっくりかみしめるように味わわれ

次にはお煎茶です

お抹茶は次の間で点てるのですが

お煎茶は目の前で淹れます

ところがお湯が冷めない

何気ない話ができれば

間がもてるのですが

何を話してよいやら…

先生と沈黙の時間が長く感じます

 

今思うと

安田先生も世間の色々な話が

とても興味を持たれていました

ご近所の薬屋さんの話とか

先生といえどもそのご主人の話を

よく聞かれておられるのです

仏法云々より

世間の話をとても大事にされている

講義の時は丁寧に話されますが

それ以外はよく人の話を聞かれた

のではないかと思います。

 

私の先輩で

周利槃特のような下座行に徹した方

講義の中で滅多に

人の名前は出ないのですが

この方の名前が出て来て

ちょっと驚きましたが

先生のお宅が火事に遭われた時

その後片付けに

大活躍されて

先生も大助かりだったようです

名だたる先生方も講義を受けて

おられるのですが、

その実践力を

高く評価されておられました。

仏法を聴きに来る人よりも

そういう身体を持って実践する人の

話しを大事にされたように思います

 

夢の中の対話でも

「こういう苦労もあるのですよ」

というようなことを言ったと

それに対してお説教するのではなく

「そうかね!」 と

にこやかに聞いていただいたような

話しをしていたようです。

今から思えばもっと

何でもないことを気軽に

聞いておけばと思うのですが、

 

その当時は講義が終わった後

一人ずつ感想や質問をする

というかしなければいけない

という雰囲気でした

どうでもいい質問には

沈黙(まあ無始というか)

質問した方が恥ずかしくなるような

空気でした。

そういうこともあってか

なかなか先生には近寄りがたい

という存在でした。

 

ご病気された後は

奥様もご一緒にお見えになり

気を使われて

「お茶は薄めにしてください」

と、たのまれるのですが

「葉っぱをそのまま飲むから

大丈夫!」と、

奥様は速記をされていて

一言一句もらさず書き取って

おられました

帰りがけには

「お前が先に!」と

一応ここはレディーファーストでね

と笑顔で奥様を先に乗せられる

という一面もありました。

 

話を聞いてどうするこうする

ということではなく

聞くということ自体が大切で

この十地経の講義が

洛南高校を作り上げて行った

といっても過言ではないと思います。

 

はかの会座では

私の話を聞いて実践したのは

三浦君ただ一人と

おっしゃっておられたようです。

聞くだけ聞いて

他で薄めて売っているだろうと

昔からいいことは

言い尽くされている

聞いたことに頷いたら

一つでも実践してほしいとは

奥様の晩年のお言葉でした。

 

36年も経って

夢の中とはいえ

先生とお会いできたことは

不思議といえば不思議です

また有り難いことでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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本蔵院の初不動

2018-01-28 21:16:51 | 住職の活動日記

昨日と打って変わって

ぐずついたお天気

にもかかわらず

日曜日ということもあって

大勢の方のお参りです。

 

 

門幕も張られ準備万端

今週の言葉は

 

 

 

先先代の晋亮法印の言葉

なかなか味のある言葉です。

 

修行大師様の周りにある

石仏群

 

 

今回はお不動さまたちです

 

 

なかなか年季の入ったお姿

 

 

小ぶりのちょっとかわいい

お不動さまもいらっしゃいます

 

 

こちらは珍しい馬頭観音さま

でしょうか?

頭の上にかすかながら馬の姿を

見ることができます。

本堂へ入ると

 

 

百万遍のお数珠繰りの大きな念珠

黒光りしている玉は

昔からのものです

新しい玉は新しくつけ加えたもの

願い事やご先祖供養の文字が

彫られています。

昔は毎月21日にお数珠繰りがありました

大きな球が来ると

うやうやしく持ち上げて

その玉に一礼して願い事を

祈りました。

 

 

護摩壇の仏器も美しく

磨き上げられています。

 

 

お不動さまにお供えする御香

丸香や塗香、薬種それに護摩と

色々な種類があります。

 

 

正月・五月・九月は大祭

お参りの方々は願いを込めた

朱の護摩木をお一人ずつ

護摩の中へお供えします

その時にお加持していただく

錫杖です。

 

 

初不動には本蔵院伝来の

「宝船」

宝船が家の中へ入って来るように

玄関の壁に貼ります。

そして、最近は

「金運招来」の御利益もある

ということのようです。

 

大勢の方々のお参り

有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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九州も凍てついている!

2018-01-27 14:53:49 | 住職の活動日記

日本国中寒気団が居座っています。

毎日凍てつく日

途中のサービスエリアの花も

 

 

霜が降りて

本当に寒そう!

 

 

必死に耐えているようにも

見えてきます

 

 

日の温かさが欲しい!!

もうすぐ日も照り出します

 

 

真っ赤な太陽が昇り出します

でも気温は

 

 

午前8時でマイナス3度を

指しています。

 

 

葉も触ると破れておれそうです。

九州といっても厳しい寒さです。

 

お寺の池も

 

 

大きな氷柱が出来

面白い造形美を作っています。

 

 

庭の土も凍てついて霜柱が

出来ています

子どもの頃には霜柱を踏むと

靴の裏に土が付いて、

学校には入るときには

霜柱を落とす竹を半分に割った

ものがあって

土を削り取るように落とした

思い出があります。

 

 

しかし、

よくしたもので梅の木には

小さなつぼみが膨らみ始めています

 

 

この梅の木も弱ってきて

中の芯の部分は腐って

今は皮一枚で命をつないでいます

それでも、

今年は例年に比べ花も多いようです

 

 

アジサイも新芽を出しています

 

凍てつく中、

着々と春の準備をしている

命もあるのです。

 

明日は「初不動」

厳しい寒さは身を引き締めて

しっかりお護摩に臨めそうです。

 

 

 

 

 

 

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菩薩摩訶薩

2018-01-25 21:13:21 | 十地経

「菩薩摩訶薩」

よく出て来る言葉です。

菩薩(ボーディサットバ)

ボーディは目覚めるということ

サットバは衆生ということですから

目覚めた衆生ということです。

摩訶薩(マハーサットバ)

マハーは大きいという

大きな、大いなる衆生

ということになります。

 

マハー(大きい)ということは

よく使われます。

いつも読んでいる『理趣経』にも

「大楽金剛不空真実三摩耶経」

という文句で始まります。

そして最後のところでは

「善哉善哉大薩埵 善哉善哉大安楽

善哉善哉摩訶衍 善哉善哉大智慧」

というように大という字が

たくさん出てきます。

摩訶衍(まかえん)というのは

マハーヤーナの音写で大乗ということ

 

大ということは比較して

小に対して大というのではなく

比較を超えている

比較できないという意味で

大という表現をとっています。

 

菩薩とはどういう人か

『十地経講義』の中では

 

道に立った人、道を見出した人

そういうところに

大きいというような

意味が出て来る

人間というものは何であるか

といえば、

人間を超えてゆくもの

人間というものは人間自身を

超えてゆくということが

人間の本質なんだ

止まることができぬ

それが人間の本質だ

そうするとそこに人間の上に

道が現れるでしょう

腰を落ち着けない

無限に自分を破っていく

そういうのが人間の本質だと。

そういう人を大きい人

というのじゃないかと思いますね。

 

さとったからといって

腰を落ち着けない

歩み続けるところにさとりがある

というように

人間の本質を求めて生きる人を

大いなる人、摩訶薩(まかさつ)

というのでしょう。

 

自分の個人的関心(エゴ)が破れ

他という(一切衆生)のことが

気にかかり、

共にという心が生まれてくる

そこに初めてエゴが破れたという

喜び(初歓喜地)が生まれてくる

という構造です。

今まで、

自分しかなかった、

ということから

他ということの発見

人が見えてくる

その喜びが初歓喜地

 

そこから、

「十地」というのですから

次々と問題が起こってくる

それを克服して越えていく

初めて「そうだ!」と

頷くのですが

歩み出してもすぐに問題が生じます

そこから、

問題を解決し歩み続け

また次の問題が起こってきます

経典では

「対治」という言葉でいっています

 

それは

次々と深く人間の心を解明して

いくということです

自分というのは自分が考えている

くらいの

そんな小さなものではないのです

どこまでも掘り下げて行ける

それが行ということでしょう。

これで「よし!」という終りがない

ということを

「菩薩摩訶薩」

というのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大人のお子様ランチ!?

2018-01-25 14:46:09 | 住職の活動日記

「大人のお子様ランチ」

なんとも興味をそそられるメニュー

伏見の地は秀吉の頃の

都ということもあり、

新しいものと古いものが

うまく調和している町です。

 

 

ランチのお店

「洋食屋コートレット」

煉瓦造りのお洒落な雰囲気

 

 

とても人気のお店らしく

外にも待っている人がいます

 

 

お向かいさんはというと

昔から続いている和菓子店

こういう感じで店が点在しています

 

一歩中に入ると

 

 

白の胡蝶蘭を中心に

コデマリ、グロリオサが

豪華に活けられています。

 

 

こういうお店にしては

(失礼かもしれませんが)

豪華な花です

この花があるだけで

お店の雰囲気が一転するものです。

 

 

お待ちかねの

「大人のお子様ランチ」

旗があればお子様ランチかな?

でもどれ一つとっても味は

しっかりしています

 

天使のエビフライ

  (ニューカレドニア産)

ハンバーグ、ヒレカツ、

カニクリームコロッケ

 

ボリュームたっぷりです

最近インスタバエとかでしょう

盛んにカメラを向けておられます

お隣の方を覗くと

「男のハンバーグ」とかで

ハンバーグの上に玉ねぎのフライ

三段に積みあげられています。

 

御主人、フランスで修業、

全国料理コンクールで

フランス大使夫人特別賞を受賞

と、腕も一流

また次回、

他の料理も頂いてみようと

楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

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ラナンキュラス

2018-01-24 20:59:53 | フラワー

黄色のラナンキュラス

 

 

日本名、金鳳花

金の鳳の花と書きます

そのように艶やかな姿です

 

 

題としては「Sの曲線」

というのです

紫色の花がS字を描いている

フラワーアレンジでは

こういう曲線や直線を表現する

というこのようです

またこの世界では師範とかではなく

技能士という資格のようです

 

 

やはりこの黄色のラナンキュラスが

存在感を示しています

 

黄色という色も

衣の色もそうですし

また長寿を表すとも言われ

金運も開けるとか??

 

そういえば、

寺に掲げる仏旗のなかにも

黄色は使われます

それは仏さまの身体をあらわします

その意味は金剛、

何ものにも壊されない菩提心を

表現しています。

赤は仏さまの血液で精進を

表しています。

白は仏さまの歯で清浄を

表しているのです。

 

 

この花を楽しみつつ

この花の花言葉は

「とても魅力的」「光輝を放つ」

ということです

何時までたっても魅力的でいたいし

年とともにいぶし銀のような

輝きを放ちたいものですが??

 

 

角度を変えて見たりして

週一に活けられる花に

癒され元気をもらています。

 

 

 

 

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大いなる愚かさ

2018-01-23 19:47:50 | 十地経

「馬鹿」ということも

どうも仏教から出ているような

馬と鹿と書いてバカ

よく見ると人を馬鹿にしている

ようにも思えます。

しかし、

経典の中では見たことがありません

気になって調べてみると

サンスクリットの「バカ」という

言葉の音写で

馬・鹿というのは当て字だと、

 

パーリー語ではmoha(モーハ)

サンスクリットではmogha

この言葉が語源のようです。

 

mohaという項目を見てみると

stupidity(愚かさ、愚鈍)

delusion(間違った信念)

infatuation(のぼせあがり)

というような意味が出てきます。

 

仏教辞典にもない所をみると

その意味を知りつつ

あえて訳さずに隠語として

仲間内で使っていたようです。

ところが、

おろかでも「愚」となると

大愚良寛ということもあります

大いなる愚かさという

 

物事を成すには

ある意味愚かにならなければ

出来ないことがあります。

儲かるならやろう!

儲からなければやめとこう!

という算盤をはじいていたのでは

何もできません。

出来る、出来ないを超えて

やるときにはやるという

覚悟がなければ何事も成すことは

出来ないでしょう。

 

三浦先生のご生涯を見ていても

ある意味、大愚俊良といえると

思うのです。

洛南高校再建ということも

理屈で考えたら出来るわけ

ありません。

出来るできないを越えて

やむにやまれず

せずにはおれなかった

ということでしょう。

 

ある先生が

身を捨てて浮かぶ瀬もあれ

ということもありますが

そうではなく

身を捨てずに何ができますか

とおっしゃいました。

その言葉を深く受け止め

悩みながらの実践だったようです

 

そのようなことを

「十地経講義」のなかでは

 

仏道というものが到達し得る

見込みがあるというわけでもない

見込みがないならやめとこうと

そんな馬鹿な話はない

見込みがあるならやるけれども

見込みがないからやめとこう

というようなものじゃないですね

なければ一層やらんならん

というようなものです。

 

とあります。

賢さだけが強調される現代ですが

愚かさということも

大切ではないかと思います。

それも大いなる愚かさ

自分の算盤を外すような愚かさ

大愚良寛

愚禿釈親鸞

愚かということを

名乗れるということは

しっかりと自分自身ということを

見つめることができたからでしょう

 

大いなる、ということはマハー

愚かということはモハー

maha・moha

一文字違いでこんなに違うとは

面白いようで

意味深げのようですね。

 

 

 

 

 

 

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知っているようで知らない鳥羽伏見の戦い

2018-01-22 20:38:34 | 住職の活動日記

昨日、伏見区の総合庁舎で

若林正弘氏による講演があり、

ちょうど、

鳥羽伏見の戦いがあって150年

という節目の年でもあり

講演会と朗読会と盛りだくさん

の企画です。

 

 

この橋が「小枝橋」

ここが鳥羽伏見の戦いの始まりと

いわれて、こういう場面が

取り上げられますが、

事実は、この小枝橋より放たれた

大砲の砲撃が始まりということです

 

 

「伏見京町通りの戦いと新撰組」

町の名主を務めていた河内屋と

近江屋の看板が見えます。

大砲と銃を装備した新撰組

洋装の新撰組副隊長土方歳三が

突撃命令を出しています。

それに対し、

畳を盾の代わりに使う薩摩軍

河内屋の向こう側には会津藩と

長州軍との戦闘も見えます。

 

 

「魚三楼と西郷隆盛」

大きな鍋の前で薩摩兵士に

雑炊を差し出す子供を背負った町人

それを受け取り食べる兵士

その横で立ったまま

おにぎりを頬張っている西郷隆盛

下には炎上する伏見の町が

描かれています。

 

講演では

「魚三楼」(うおさぶろう)の

ご主人の話もあり、

 

 

町は焼けてしまったのに

この店はそのままの姿を留めている

そしてこの格子には

 

 

その時の弾跡が

生々しく残っています。

 

 

魚三楼ももとは讃岐の魚屋

瀬戸内海から淀川を上がり

新鮮な魚を届けたのが始まり

都には新鮮な魚は入らなかった

西京漬けとかが発達したのは

魚を味噌につけて運んだのが

始まりのようです。

この伏見の地は

その当時最大の港町、

要衝の地ということで

秀吉以来栄えたのです。

 

伏見の地は一大市街戦が行われ

南半分は焼け野原になりました。

 

幕府の大政奉還の奏上

朝廷の王政復古の令

朝廷が下した将軍慶喜の辞官、

納地(一切の官職と幕府領の返上)

このことにより

幕府軍は京へ攻め上がった、

これを迎え撃つのが新政府軍

その場所が鳥羽伏見ということです。

 

150年前の出来事を経験した人は

今は現存していない

しかし、当時15歳だった人は

75年後の1943年に90歳

そしてその当時15歳だった人は

今現在90歳

その人たちからは祖父母から

断片的ではあるが

その戦いの模様を聞いている

ということで

ずいぶん昔の出来事のようでも

ありますが、

150年という2代前の話

ほんの少し前の話なのですね。

 

お話を聞いていると

そういう場所が今だ残っていて

そして暮らしているという

歴史の中にいるという凄さ

とても身近な出来事として

とらえられているという

思いをいたしました。

 

 

 

 

 

 

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人間が迷うと世界が狂う

2018-01-21 20:11:55 | 住職の活動日記

「人身受け難し、今すでに受く。

 仏法聞き難し、今すでに聞く。

 この身今生において度せずんば

 さらにいずれの生においてか

 この身を度せん」

 

と、開経偈は始まります。

人身受け難し、

人の生を受けることは大変なこと

経典では一文ですが、

インドの方では丁寧に具体的に

述べています。

牛に生れなくてよかった、

馬に、羊に、猫に、犬にと

ずっと羅列して、

いかに人間に生れることの難しさ

を説いています。

 

仏法聞き難し、

ということでも

お釈迦さまの後に生れてよかった

お釈迦さまの前に生れたら

教えを聞くことができない、と

そして、

教えを聞ける境遇に生れたことを

言っています。

「度」ということは

サンズイを付けて「渡」という字です

いただいた命は

必ずこの代において

この迷いの世界を渡って

仏の世界へ渡って行こうという

誓いの言葉です。

 

生れてしまうと

当たり前になってしまうのですが

人として生まれることの

ただごとではないということを

重大に受け止めているのです。

 

そこには無数の縁によって

私たちは生まれてきています。

数代前のご先祖さまが一人欠けても

そのご縁はつながらなくて

今の私たちは生まれてはいません。

 

無数の縁によって生じる

ということを知る

それを智慧といいます。

自分は一人ではないのだ

無数の縁のつながりの中に

生れてきたのだ。

 

しかし、ややもすると

一人で何でもできると

自分は誰の世話にもならず

一人で生きるのだと豪語して

はばかりません。

 

それが高じてくると

〇〇ファーストとか自分が一番

我が国が一番とか言いだし

自分さえよければいいということが

まかり通ってしまいます。

 

しずかによく考えて見ると

人も物も何一つとってみても

私一人で存在するなんてことは

ありえないのです。

他のお陰によって

私たちは生きることができる。

その究極の境地は

「忘己利他」

(己を忘れ他のために尽くすは

慈悲の極みなり)

ということです。

 

他ということを忘れた時

人は狂ってきます。

こういうことがあります。

「一人即一切命、一切命即一人」

生命40億年の全史は私一人に集約

されている、ということです。

人間は他の命を

食べることはあっても

食べられることはありません。

あらゆる命を集めて自分としている

自分一人に

あらゆる命を託されている

といってもいいでしょう。

 

ですから、

私たちが迷い

自分さえよければいいという

考えになると、

全生物が巻き添えを食う

ということになります。

すべての命を荷っているという

責任と自覚が、

謙虚に自信を持って歩む

私たちのあり方があるように

思います。

 

 

 

 

 

 

 

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永遠回帰・永劫回帰

2018-01-20 20:21:37 | 十地経

十地経の講義で、このところ

「永遠回帰」

ということが出てきます。

ニーチェの言葉なのですが

私はニーチェは読んだことがなく

詳しくは分かりません。

 

ただ、

修行の道程は永遠である

しかし、

私たちの身は有限である

普通に考えると

長い小僧時代どこまでこの修行

が続くのか、

草刈り高校の便所掃除、ご飯の支度

衣着ることには程遠く

ひたすら下座行と、

耐えられないと思うこともしばしば

しかし、

まだまだやるべきことは無限にある

身は限りがある

どこまでやったらいいのか??

そうい思いが出てきます。

 

永遠に回帰するのだと、

元に戻っていく

今ごろになってやっと

繰り返すことの大事さが

解るのですが

その頃は

衣着てお経読むのは立派で

掃除するのは誰でもやる

下働きと思っていたのです。

 

読んでいくと

「十地経講義」の中に

こういうこともでてきます。

 

「人間が仏になるということは

なんであるか、というと

それは

その他のものに

なっていくのではない。

根元に帰っていく

本来の自分に、

そのとき

本来の自己に帰るためには

本来の自己でない自己というものが

そこになければならん。

それは過失、欠点です。

『十地経』という経典は

そういう運動が繰り返されている。」

 

ということなのです。

修行という道程も直線的ではなく

ただ修行するのでもなく

自分の過失、間違いが見つかる

その対治が修行なのです。

それは

もうこれでいいということはない

一つの過失を対治すれば

また新たな問題が起ってくる。

 

そういうことからすると

永遠回帰ということも

修行の道程ということにおいては

繰り返し繰り返し

永遠に本来の自分に帰っていく

ということになるのではないかと

思うのです。

 

耐えがたい修行ではなく

本来の自分に戻るためには

何回も繰り返す

そして明るく取り組める修行

ということになるようです。

 

でも、

なかなかその当時は思えない

ものなのです。

 

そしてまた、

自分が何を求めているかも

大きな要素です。

立派な美しい衣が着たい!

という人には辛い修行でしょう

本当の人とは何か、が問題

という人にとっては

自分の過失が見つかるということは

また新しい修行にチャレンジしよう

という意欲につながってくるのです

 

「願わくば

  我に七難八苦を与えたまえ」

と三日月に祈った山中鹿介の逸話は

有名ですが、

尼子家再興のためにはどんな苦労も

厭わない

あえて、

喜んで七難八苦を引き受けよう

という覚悟が生まれたのでしょう。

 

目的がはっきりしていれば

苦労は苦労でなくなり

喜びにも変っていくものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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