本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

新しい命を授かりました!!

2015-11-30 22:43:33 | 住職の活動日記

夕方、7時32分

無事に産声を上げたようです。

 

昨日とは打って変わって

雲一つない秋空が広がりました。

 

朝9時には病院へ、

診察によると今日中の出産

とのこと、

そのまま入院、

昼間は病室で上の子と一緒に

母親のもとで

周りを遊びまわって、

楽しく過ごしていたのですが、

父親も来て

夕ご飯を食べ

さて引き離す段になると

「おかあしゃん、おかあしゃん」

と泣き出す始末、

それも異常なほどの泣き声

でも無理矢理に車に乗せ

    …

子どもでも覚悟を決めたのでしょう。

ばあばあと好きなテレビ見て

リンゴジュースを飲んで、

機嫌も直り

ばあばあと楽しそうにお風呂に入り、

一緒に寝てしまいました。

でも、

小さな声で、

「おかあしゃん」

とつぶやいていたそうです。

 

村上和雄先生の話によると、

一つの受精卵から

十月十日の間に

3兆個から4兆個のみごとな

赤ちゃんになるそうです。

あの38週の間に38億年の

生命のドラマを再現しながら

赤ちゃんになっていくのです。

おなかのなかで

爬虫類から魚類等のプロセスを経て

1億年の期間を1週間で突破する

ということです。

そういうことから考えると、

赤ちゃんは地球生命からいえば

38億歳、

宇宙年齢はなんと

150億歳ということです。

 

私たちがひとり生まれてきた

ということは、

その背景には考えられない位の

命の歴史を背負っている

ということです。

38億年の歴史は私一人に

集約されているといっても

いいと思います。

 

お釈迦さまの誕生は

全生物全世界が感動して

讃えたと経典には書いてあります。

これはお釈迦様ひとりに限らず

私達一人ひとりに

言えることだと思います。

 

なかなか感じませんが、

ひとりが誕生したということは

38億年の歴史という

その使命と責任が託されているのです。

暖かく厳しく見守っていかなければ、

と思っています。

 

 

 

 

 

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本蔵院の小さな秋

2015-11-28 10:16:25 | 住職の活動日記

一昨日から熊本も急に

冷え込んできたそうです。

今日のお不動さまもはっきりしない天気

どんよりと曇り空、

 

庭の片隅には

 

    

 

カニ葉サボテンが花開いて

殺風景な庭に一際輝いて、

 

   

 

美しい花をつけ、

元気いっぱいの姿です。

 

この時期は山茶花も

 

   

 

美しい時です。

山茶花と書いてさざんか、

文字通りに読めば「ざんさか」です。

このような読み方が

数少ないけどあるようです。

 

   

 

次々と蕾をつけ、

しばらくは目を楽しませてくれます。

 

    

 

本蔵院の紅葉はまだまだの様子、

この寒さで色づき始めるかもしれません。

 

   

 

山茶花とよく似ていますが、

こちらは「椿」、木偏に春、

春を呼ぶ木というようです。

 

また、今日11月28日は

先々代の本蔵院中興第2世晋亮法印

五十回忌回忌です。

私から見れば祖父、

よくけんかもしました、

そして私の仏道を歩む原点になった

その方でもあります。

この方に問いかけたことがいまだに

問題となって、

私にとって一生の課題をいただいた

そういう方でもあります。

 

心して、今日の護摩法要を

勤めなければなりません。

 

護摩法要は1時より勤めます。

 

 

 

 

 

   

 

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伊藤若冲と錦小路

2015-11-26 15:49:08 | 住職の活動日記

来年は伊藤若冲生誕300年

今年は錦市場ができて400年、

 

   

 

通りを歩くと、

若冲の絵が次々と掛けられています。

 

京都の町中も不思議な光景で

紅葉を求めての観光客やら、

スーパーに入ると

クリスマスの長靴のお菓子、

そして早々と

来年の鏡餅も並んでいます。

紅葉とクリスマスと鏡餅が

同居というなんとも不思議な

空気が漂っています。

 

なにかしら、

人の歩く姿にも

どことなく、忙しなさを感じます。

 

姉・三・六角・蛸・錦・四・綾、

と北から通りが続きますが、

錦小路は蛸薬師通りと

四条通の間にある通りです。

伊藤若冲も錦市場の青物問屋に

生まれ、この地を活躍の場と

していたようです。

 

   

 

伊藤若冲の絵は驚くほど精密で

写実的な絵を描いています。

 

この四条界隈は文人画家与謝蕪村

室町綾小路に晩年を過ごし、

四条麩屋町には丸山応挙が

画室を構えていました。

 

だから、今の四条通りとは

また違った趣をしていたことでしょう。

錦小路も以前とは全く

様子が変わってきました。

昔は、といってもほんの数十年前

豊富な食材が軒を連ね

それぞれ専門の店があったのです。

ところが、

 

   

 

 

時代とともに、様変わり

今はお土産店が入って来て、

お客さんも観光客主体に

なって来ています。

そんな中でも、工夫を凝らし

昔の伝統を続けておられる

店もところどころあります。

 

   

 

奈良漬の表示にも

英語、中国語が並んで

書いてあります。

 

以前は12月ともなると

正月用品が並びはじめ

その店の掛け声も元気なもので

とても活気がありました。

 

面白いことに、

錦小路も平安時代は「糞小路」??

とも呼ばれたことがあるようです。

最初は「具足小路」(ぐそくこうじ)

が訛ったとか、

それで、勅命で

四条通の一つ下の通り綾小路

に対して、綾錦というように

錦小路となったといわれています。

 

しかし、平安京造営から

1200年の長きにわたって

都の中心であり続けたことは

世界的にも珍しいそうです。

 

若冲、応挙、蕪村たちが活躍した

そんな時代に思いをはせて

四条界隈を歩いてみるのも

また面白いものがあるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

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三妊婦巨腹会談!!

2015-11-25 19:57:08 | 住職の活動日記

御陰様で三人の子供に

次々と子供を授かり、

来年にかけては孫6人という状況、

たまたまですが、

大きなおなかを抱えた妊婦さんが

一同に会しました。

後で思えば、

大きなお腹を写真に収めておけば

と、めったにないことですので、

妊婦(にんぷ)、英語で

Nymph(ニンフ)といえば

妖精ですが、

まあ、お腹に妖精を宿している

から、三人の妖精かもしれません?

 

しかし、

母親にとっては受難の日々です。

つわりで苦しみ、

お腹が大きくなるにつれ

いろいろの苦しさも出てきます。

 

お釈迦さまが説かれた

「仏説 父母恩重経」には

1.懐胎守護の恩

   (かいたいしゅごのおん)

  まず子供が宿ると、母親は

  十ヶ月の間血肉を分けて、

  自分の身体が重病に

  かかったようである。

2.臨産受苦の恩

  (りんさんじゅくのおん))

  月満ち時が来ると、

  陣痛が起こり、体中痛んで、

  胃が関節がバラバラになる

  ような気がして、

  精神も乱れ、

  命を失うこともある。

3.生子忘憂の恩

  (しょうしぼうゆのおん)

  それがおさまって平静になると

  ちょうど生き返ったような気がし

  子が産声を出すの聞くと

  自分も生まれ出たように感ずる。

4.乳哺養育の恩

  (にゅうほよういくのおん)

  初めて子を産んだ時は、

  母の顔が花のように麗しかった

  子を養うこと数年すると

  やつれてくる。

5.廻乾就湿の恩

  (かいかんじっしつのおん)

  氷のような霜の夜にも、

  氷のような雪の夜明けにも、

  乾いたところを子に回し

  濡れたところに母は寝る。

6.洗濯不浄の恩

  (せんたくふじょうのおん)

  子供が自分の懐に大便をし、

  着物を小便で汚しても、

  自ら洗濯して汚れを

  いとうことはない。

7.嚥苦吐甘の恩

  (えんくとかんのおん) 

  食物を口に含んで、

  これを子供の口に入れてやる時は

  苦いものは自分が食べ

  甘いものは口から出して

  子供に与える。

8.為造悪業の恩

  (いぞうあくごうのおん)

  子供のために、

  やむをえないことがあれば、

  自ら悪業を作って、

  悪道に落ちることに甘んずる。

9.遠行憶念の恩

  (おんぎょうおくねんのおん)

  子供が遠くへ行くと、

  帰ってその顔を見るまでは、

  外出しても、家にあっても、

  子供を思い、

  寝ても覚めても、案じている。

10.究竟憐愍の恩

   (くっきょうれんみんのおん)

  自分が生きている間は

  子供の身代わりになろうと

  思い、死んだ後も、

  この身を守ろうと願うのである。

 

恩とは因(もと)を知る心

と書きます。

私たちが今、ここにいることは

果です。

今の私たち以外はすべて

その因です。

私たちもそうですが

新たに生まれてくる子供たちも

どうか、物事の因を知る心を

忘れずに持ってほしいと

願うばかりです。

 

そのようなことを秘めて

三人の妖精たちは

大きなお腹で集まって

いろいろ話されたことと思います。

 

男のJIJIとしては

何もできませんが

ただただ、無事な安産を

願うしかありません。

 

 

 

 

  

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ねめまわす !?

2015-11-24 20:22:54 | 漢字

「ねめまわす」 これか何かの誤植では??

と思って調べてみると、

やはりこういう言葉があるのですね。

 

最近知らないことも多く出てきて

また勉強することも

多くなってきました。

 

以前、ある古老から

「年とともに始めて経験する

ことが多くなった!」

と聞いたことがあります。

年とともにあらゆることを知り

それなりに経験も積んで、

知らないことは段々

少なくなっていくものかと

 

やはり古老の言っていることは

正しかった。

身体一つとっても、

以前は何事もなくやれたことが

バランスを崩したり、

それによって初めて経験する

ことが少しずつ

増えてくるように思います。

 

「ねめまわす」ですが、

にらみまわす。

にらみながら見まわす。

という意味です。

漢字で書くと

「睨め回す」となります。

『睨』 ゲイ。と読み。

にらむ。という意味です。

ふとこの字を見て思い出したのは、

「弘法大師の書は端倪すべからず」

という一文です。

弘法大師の字は自由自在で

いろいろな書体も見事に

書きこなしておられます。

その書を評して、

『端倪』(たんげい)という

言葉を使われたのでしょう。

この場合の「倪」は人偏です。

「倪」も「睨」も同じような意味も

あるのですが、

「倪」はゲイと読み、

おさなご、という意味から、

きわ(際)とか、はし(端)という

意味も出てきたようです。

『端倪』(たんげい)

はいとぐち、は田の境、

田の終わる所。ということから、

1.事の本末始終。

2.きわ。はし。

3.おしはかる。

というような意味が出てきたようです。

だから、

弘法大師の書は端倪すべからず

とは、測り知ることができない

ほど、素晴らしい書である。

というような意味です。

 

「ねめまわす」?

「なめまわす」

「な」と「ね」の一字違いですが

意味は全く違うという、

コトバも一字違いでおもしろいものです。

そういえば、

世の中はすむと濁るの違いにて

はけにけがあり、はげにけがなし

とか、

四四は十六、じじは六十

というのもあったような、

ちょっと失礼なコトバもあったようです。

 

まあ、コトバは一字ちがうだけで

全く違った意味になってきます。

十善戒の諌めの中にも

十の戒律のうち四つが言葉に関する

戒です。

それほど言葉の重要性を

言っているのでしょう。

真言宗も真の言葉と書きます。

人を傷つけもするし

また人にやさしさも与えます。

嘘を言ってはいけない、

とありますが、

では、なんでも本当のことを

言えばいいかといえば、

人を傷つける言葉は言ってはならない

ということです。

 

コトバは大切に使いましょう!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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醍醐寺秋の風景

2015-11-23 10:37:33 | 住職の活動日記

穏やかな天気、

漫ろ醍醐寺へ出かける。

 

   

 

門の前には立派な立札

平成27年11月23日

「三宝院開創900年大法要」

が立っています。

 

この大法要に本蔵院の住職も

出仕されるということです。

真言宗でも特に立派な法要で

特別の行事の時にしか執なわない

曼荼羅供養の法要だそうです。

 

   

 

この奥が三宝院です。

醍醐寺の中の一つの塔頭ということで

900年前ちょうど白河法皇が院政を

執り行っておられたころで、

そのころは真言宗も隆盛を極めたようです。

だから、

この三宝院も真言宗の大きな流れを

受け継いできています。

ここの管長様になられると

醍醐寺としては座主という肩書で

三宝院としては門跡という

そして醍醐派としては管長と

三つの役職を兼ねておられます。

 

  

 

三宝院入り口の隣の門は

勅使門、

めずらしいのは

秀吉に縁が深いということもあって

菊の御紋より秀吉の五七の桐が

真中にでんと構えています。

 

  

 

塀越しの紅葉を楽しみながら、

まだもう少しかな??

  

   

 

全山真っ赤というわけではありません。

秀吉の「醍醐の桜」は有名ですが

本当は秋の紅葉も楽しむつもりで

立派なもみじも植えられているのです。

しかし、残念なことに秀吉は

この紅葉は見ることなく亡くなっています。

 

今回は、

 

   

 

この無心にドングリを拾う

お二人ずれ、

まあ、たくさんのドングリを拾い

このお二人のペースで

 

 

    

 

茶屋でソフトクリームを食べ

なんとか、醍醐寺の秋を満喫

 

   

 

松の木は冬支度

菰が巻かれ、

春にはこの菰に集まった

松の虫が退治されます。

 

   

 

明日の大法要を控えてか、

はたまた連休ということもあり

大勢の参拝者で賑わっていました。

 

 

 

 

 

 

   

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阿頼耶識

2015-11-22 17:04:08 | 住職の活動日記

19年前、

中学生の時、先生から頂いた詩、

気になって調べていたら

このブログに巡り合ったということで

コメントを頂きました。

 

その詩はなにかしら

心に響くものがあったのでしょう。

19年間心のどこかに眠っていたのですね。

ふと思い出された。

 

「忘れたのではない。

今思い出せないだけです。!」

と、ある先生が言い訳がましいことを

言っておられたのを思い出しましたが、

人間の記憶は

忘れたようでも、

心のどかに眠っている。

 

年とともに、

あるのですが

すぐに口を突いて出てこない。

「え~、あの~、あの人~」

といってるうちに、

会話もとんちんかんになり、

「ボケたの~?」

と冷やかされること度々です。

 

阿頼耶識(あらやしき)という

意識が人間のいちばん根底にあります。

阿頼耶識の阿頼耶(アラヤ)には

含蔵識といって、蔵という意味があります。

良いことも悪いことも

自分の意識するしないにかかわらず

したことをちゃんとため込んでいく

そういう意識があるのです。

 

閻魔さまの閻魔帖とは

そういうことを表しているのでしょう。

自分のしたことをひとつ残らず

書きとめている。

そして、亡くなって閻魔さまの前へ行くと

その閻魔帖をもとに

どういうことをしてきたかということが

一目瞭然にわかるということです。

 

そして、阿頼耶識には

もう一つ別のはたらきもあります。

自分がこうやって今いる、ということは

過去からの自分の行いの

積み重ねの結果という一面、

それと、今やっていることは

未来への自分を作る

可能性を秘めている。

それを「一切種」(いっさいしゅ)

といいます。

ありとあらゆる可能性を秘めている

という意味です。

 

「一切種」

種という表現はおもしろい

植物で使う用語が

仏教の心理学の用語になっている。

 

今回コメントを頂いた方も

19年間も先生からの言葉が

種として心の中に根を下ろしていたのです。

思い出されたということは

大切に感じられたからに他なりません。

その言葉の種は「一切種」です。

ありとあらゆる可能性を秘めて

静かに発芽するのを

待っていることでしょう。

 

過去に先生から聞かれたことが

今の自分を作り上げ、

その言葉の種が未来の自分を

作っていく、

阿頼耶識にはそういう

二つの面があるようです。

 

あたたかくたくましく

育ててほしいと

念じています。

 

 

 

 

 

 

 

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キャンドル

2015-11-20 17:39:20 | フラワー

11月も半分過ぎて、

街の中はそろそろクリスマスムード

あちこちでツリーの点灯式が

行われているようです。

 

ということもあってか

今日のお花の題は「キャンドル」と

勝手に付けました。

 

   

 

中心に大きなキャンドル

それを包むように

いろいろの木の枝や花で

飾り付けてあります。

 

 

    

 

キャンドルとこういう赤い紐が

入るだけで、

なんだかクリスマスムードが

漂ってくるものです。

 

   

 

オレンジでしょうか、

スライスしたものをドライにして、

また、

 

   

 

綿の花も白い雪を表現するようで

こういう面白い花材も使うのですね。

まあ、

わが家も一足先のクリスマスの

ような雰囲気が玄関に

醸し出されました。

 

昨日とは打って変わって

 

   

 

見事な秋空です。

連日の雨にうたれて皇帝ダリアも

重そうにこうべをたれています。

花びらも散りはじめ

 

   

 

風にゆすられ、

今日が最後も見納めのようです。

 

 

 

 

 

 

 

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自分探し … !!

2015-11-19 20:45:08 | 住職の活動日記

よく、

「自分探しの旅に出ます!」

ということを聞きます。

はたして、自分というものが

見つかったのでしょうか??

いろいろな方との出会いは

あったでしょう。

そして、その人を通して、

自分といういろいろな面が

見えてきた、

ということはあでしょう。

 

井上陽水さんの歌に、

 

探し物はなんですか?

見つけにくいものですか?

カバンの中もつくえの中も

探したけれど見つからないのに

    …

夢の中へ行ってみたいと

思いませんか

   …

探すのをやめた時

見つかることもよくある話で

 

というように歌詞にはありますが、

 

仏教の立場では

自分というものを外に

求めるのではなく

内に求めなさい、

ということをいいます。

 

東海道五十三次の物語

善財童子が師を求めて

次々と尋ねていくのですが

最後にたどり着いた師匠が

最初の師であったという

話ですが、

 

陽水さんの歌ではないですが

「探すのをやめた時」

 とあるように、

私たちも右往左往して

何かを求めてさまよいます。

本当のものは何かと、

しかし、

探す所に本当のものはない

といいます。

探すということは外に

目が向いているのです。

ところが、

止めてみたらそこにあった

ということに気がつく、

そうだったのかと、

膝を打つような、

なにかしら満足できる

そういう世界が見つかる。

 

今ある境遇は

自分が求めていたものなのだ

 

ということがあります。

なかなか受け取ることは

できませんでした。

いや、自分はもっと違うことを

求めているのだ、と

心の中では思い続けている。

今ある世界が自分が求めた世界、

なんてことは

絶対に認めることはできませんでした。

 

ウロウロと探し求めるのですが、

心の中は一向にざわつき

落ち着かないのです。

 

矢折れ弾尽きた時、

今ここにある自分を

静かに受け入れた時

わかりませんが

心が落ち着き、

では、この境遇でやっていこう

という、勇気が湧いてきた

という経験があります。

 

なかなか受け入れがたい

今の境遇、 …

 

あちこち見るのではなく

人と比べる必要もない

そういうことが見えた時

今ある自分

今ここで受け止めるしかない

その世界は明るく

満足があると思います。

 

Understand

理解する、ということですが

UNDER 下に

STAND 立つ

ということです。

自分のいる立場を

下に立って見る、と

五体投地ではないですが

高ぶらず、下に下がってみる

本当の自分が理解できるのでは …

とおもうのですが ??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ためつすがめつ

2015-11-18 20:23:22 | 漢字

今朝の京都新聞「凡語」の欄に

『ためつすがめつ眺めても、

この番号がいわば自分の「分身」

だとの実感は沸かない。』

という一文、

この「ためつすがめつ」という語句

初めて接する言葉です。

ためつす・がめつ…??

どこで切るのか、

調べてみると、

「ためつ・すがめつ」と切る

ようで、漢字で書けば、

「矯めつ眇めつ」

となります。

意味は、いろんな方向からよく見る

ということです。

ためつすがめつ見れば見るほど、

という使い方をするようです。

 

矯めつ、

「矯」は矯正というように

本来の意味は

曲がった矢を挟みつけて

まっすぐに直す道具、

ということです。

そこから、ためなおす、という

意味になりました。

ためる。ただす。正しくする。

という使われ方をします。

 

眇めつ、

「眇」はビョウと読み、

すがめ、という意味で、

目が小さいことを意味し、

そこから、

片方の眼を細くしてみる。

という意味合いも出てきたようです。

 

こういう、

使い方はどうかと思いますが、

お釈迦さまが悟りを開かれた時

「自受用法楽」(ジジュユウホウラク)

といって、自分の悟った法を

恰も大切なものを撫でまわすように

矯めつ眇めつ

あちらかも見て、こちらからも

見まわすように

繰り返し、行きつ戻りつしながら

法を楽しまれた。

ということがりますが、

自受用法楽を

法を矯めつ眇めつ楽しまれた

という表現は適切なのでしょうか。

 

反対に悪い使い方とすれば、

人間の興味は尽きぬもので

あちらを見ては面白い

こちらを見ては面白い

というように心が定まらず、

きょろきょろして落ち着かない様を

矯めつ眇めつ見まわし

心が散乱している。

という使い多もできるのでしょうか。

 

まあ、師匠の口癖ですが

「上見れば、あれほし、これほし

ほしだらけ、下みて暮らせ

ほしの気もなし」

と、人と見比べては

あれも欲しい、これも欲しいと、

煩悩ばかりふくらむのですが、

人と比べずに、

自分が今置かれている

所に安住できれば、

それが一番の幸せなのでしょう。

 

たまたま、今日読んでましたら

こういう詩に出会いました。

藤場見美津路さんの詩です。

 

お前はお前で丁度よい

顔も名前も姓も

お前にそれは丁度よい

貧も富も親も子も

息子の嫁もその孫も

それはお前に丁度よい

幸も不幸も喜びも

悲しみさえも丁度よい

歩いたお前の人生は

悪くもなければ良くもない

お前にとって丁度よい

地獄へ行こうと極楽へ行こうと

行ったところが丁度よい

うぬぼれる要もなく

卑下する要もない

上もなければ下もない

死ぬ月日さえも丁度よい

仏さまと二人連れの人生

丁度よくないはずがない

丁度よいのだと聞こえた時

憶念の信が生まれます

 

矯めつ眇めつ

物事よくよく見るのは

大切ですが

あちこちみて人と比べて

自分を見失うのは

大変です !!

 

 

 

 

 

 

 

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