本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

運命が使命となる

2023-05-24 21:12:18 | 十地経

阿頼耶識ということが

出てきます

このことも常に出てくる

大切な問題です

アウトラインだけを

阿頼耶(あらや)というのは

âlaya アーラヤの音写で

蔵クラという意味があります

 

人間のいろいろな意識を

それは行った行為の心を

良いも悪いもすべて蓄える

蔵ゾウしていくという

そういうことで

蔵という名がついた

また、

そういう一面と

人間が色々な可能性を

蔵している

ということも

この意識の一面です

 

人間の意識は

眼・耳・鼻・舌・身・意

という六識とい意識と

その次に

末那識(まなしき)

と第七番目の意識があり

この意識は

自他差別心ともいわれ

常に他人と比べる意識です

ある面では

この意識が一番厄介な

ものなのです

 

それで、阿頼耶識は

第八番目の意識ですから

第八識ともいわれます

 

それで講義では

「本能の背負う責任が

阿頼耶識である。

実存とは無我の主体である。

あらゆるものは

如来が責任を持ってくださる

本当の責任の主体を

理性を超えたものに見出した。

 

理性の負う責任は自我である

阿頼耶識が分からぬから

自我の思いを起こす。

阿頼耶識が分かれば、

自我主体でなくなるのである

 

社会的倫理的理性的責任

というところに立てば、

責任地獄、

自殺しかない。

六識が業をつくる。

その業の責任を

阿頼耶識が背負うのである。

末那識は負わない。

 

宿業を受けて生まれ、

宿業を果たして死んでいく

のである。

宿業に応えて生まれ

させられてきたのである。

それが実存である。

間違えて生まれてきたのでは

ない。

業、運命を離れずに

道を実現し、果たさなければ

ならない。

 

自分は我の強い人間で、

結核や火事がないと

眼が覚めん。

人の世話になりたくない自分

頭を下げたくない自分、

頑張りが解けぬ。

 

臨終の最後まで

どんな目に会うか分からん。

自分の業が、

どれほどの業かは

臨終まで分からぬ。

予定できぬ。

その業を果たすまで死なない

業を果たして死ぬ。

それが人間の使命という

ものであると思う。

運命が使命となる。」

 

この講義を聞いて

先生でもそうなのかと

思い知ります

またあるとき

一日として安き日はなかった

ということを

仰っておられました

やはり、

求道という道に立てば

呑気な話ではないのでしょう

 

知人の死に際して

枕もとで

そっと

ご苦労さまでした

と語りかけておられました

 

そういうことを思っても

人間業を果たすまでは

死ねないのでしょう

ですから

その死は本当に

ご苦労さま、

ということです。

 

運命といってしまえば

それまでですが

その運命に

それは自分の使命であると

受け止めるところに

その運命が生き生きとした

自分の人生になってくる

ようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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1 コメント

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Unknown (たま)
2023-05-26 12:12:06
唯識まったく素人ですがお勉強になりました
ありがとうございます

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