本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

終い不動・納めの不動

2022-12-29 17:40:38 | 住職の活動日記

今年もいろいろあり

コロナ禍ということもあり

お参りできなかったり

また、私自身も体調を崩したり

最後のお不動様にお参り

出来たことは何よりでした

 

 

 

仮本堂の慧日堂も

お正月の準備が出来ています

 

 

門松の姿が目を引きます

 

中に入ると

 

 

金魚たちも元気です

池にいる頃は

この時期は命がけの日々

なんです

というのも

アオサギたちがやって来て

格好の餌食になったのです

この水槽に入れて頂き

また、暖かくもあり

皆幸せそうな顔をしています

 

 

お護摩の準備も出来ています

護摩木も多そう

 

 

やはり、焚き出すと

汗が溢れ出すほどの

熱量です

 

 

最後ということもあり

新発意になられた

明幸さんも紗十和さんも

参座されました

 

穏やかな日

 

 

ノアちゃんはいい場所を

見つけて日なたぼっこ

ノラちゃんだったのですが

職員に可愛がられて

顔つきも変わってきました

環境によるものです

環境がいいと

いのちも幸せそのものです

 

 

この草むらの凹み具合は

ノアちゃんのベッドの

跡形です

自分の居場所のあり方が

居心地の良さを感じます

 

そういう雰囲気を感じつつ

今日は慌ただしく日帰りの

行程です

 

 

 

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如来蔵「如来において在るもの」

2022-12-19 20:25:05 | 十地経

如来蔵という言葉があります

「蔵」という字も大事な

言葉で、

蔵という意味は

容器、穀倉、籠、

暗記されたものということで

お経も最初は

口伝えに暗唱されたもの

ということでしょう

仏教のすべての経典を

収めたものを「大蔵経」と

いいます

具体的には「三蔵」と

いいますが、詳しくは

経蔵・律蔵・論蔵という

のです。

それを略して経・律・論

といいます

この三つの蔵を修めた人を

三蔵法師といいます

玄奘三蔵が有名ですが

他にも三蔵と呼ばれる方は

いらっしゃいます

 

如来の蔵

如来を蔵している、という

ことですが、

講義では

 

「自分というものは、

仏教の立場からいうと、

如来をもっとるんです。

如来の行をもっとる、

本来はね。

 

だから、

私はどんなものであるか

というっことは、

私の判断では決まらんのです

 

それを決めてしまうところに

何か知らん、

非常に越権ということが

あるんですよ。

私は偉い者だという言い方は

まだ、

そう偉くないんだ

という具合に、

反省することができるけど、

 

私はあかん者だというのは、

もっと悪い判断なんだ。

わしは駄目だ者だという

ことがですね、

それは冒涜に近いですわわ。

自己冒涜というような

ものです。

 

そういうふうに、

自分を決めてしまう

ことがですね。

実は、

人間には、人間の分別では、

分別できないような、

大きな何かをもっとるんです

それを如来蔵というんです。

あるいは、仏性というような。

 

「如来において在るもの」

 

というんです。

何か、それが

一番いい言葉のようです。

 

ハイデッガーの言葉ですが

世界ない存在という。

世の中に生きている、

世の中においてあるもの

という意味が

人間なんですわね、

現実の人間と。

 

ところが、仏教では、

如来においてあるもの。

人間が如来をもっとる

といいうのは、

まあ、

人間の側からいうんだけど、

本来的な構造は、

 

そうじゃなしに、

如来において人間があるんだ

と。

人間が如来をもっとる

というんじゃない。

人間はかえって

如来を隠しているものだ。

隠れとるんじゃないと、

如来は。

人間の方が隠しとるんだと、

忘れとるんだと。

 

かえって、

人間は忘れても

如来は人間をもっとるんだ。

こういう構造ですね。」

 

如来において人間がある。

如来が人間をもっとる。

人間が如来をもっとる

というんじゃない。

こういう文が続くのですが

なかなか、微妙な表現です

また、厳密な表現です

ここのところを取り違えると

大きな間違いを

犯してしまいます。

 

このことは引き続き

出て来ますの

注意深く読んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

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未熟だという障り

2022-12-18 20:53:25 | 十地経

書きながら

思い出したのですが

それも苦い思い出です

修行もきつく、また責任も

重くのしかかり

ついに、悲鳴を上げて

「どうか、自分なんか

捨ててくださいと

もう駄目です」

根を上げてしまったのです

 

しかし、

その時は意味も分からず

ただ、きつく叱られました。

ちょうど

講義で出てきたところに

その答えがあったようです

 

「未熟だという意味の

障りなんです。

未熟だという意味は、

足らんのじゃない。

何かそこに

努力が足らんように

思っているけど、

足らんのじゃない。

 

何かやはり、

そこに本来の行というものを

妨げる妨げが

あるんじゃないかと。

 

我々は、

どんな力を持っているか

ということは、

自分で決めるわけにいかない

私はあきません

というようなことは、

越権なんですわ。

私は駄目だということは、

どこにそんな判断を

下す権利があるかね。

それがもうはや、

すでに間違いなんだ。

 

それは、

自分が自分を

所有しているから。

つまり、自分というものは

仏教の立場からいうと、

如来をもっとるんですわ。

如来の行をもっとる、

本来はね。

 

ただ、それを妨げいて、

出せれんのです。

だから、

私はどんなものであるか

ということは、

私の判断では決まらんのです

それを

決めてしまうというところに

何か知らん、

非常に越権ということが

あるんです。

 

私は偉い者だという言い方は

まだ、

そう偉くないんだと

いう具合に、反省することが

できるけど、

私はあかん者だというのは

もっと悪い判断なんだ。

 

わしは駄目な者だという

ことがですね、

それは冒涜に近いですわ。

自己冒涜というような

ものです。

そういうふうに、

自分を決めてしまう

ことがですね。

 

実は、人間には、

人間の分別では、

分別できないような、

大きな何かをもっとる。

それを如来蔵というんです。

あるいは、

仏性というような。

『如来において在るもの』

というんです。

何か、それが一番いい言葉の

ようですね。」

 

と、出ているのです。

なるほど、

ちょっと辛くなると

すぐ逃げ出したくなる。

そういう根性なんですね。

やはりそういうことが

自分を冒涜しているというか

本当の自分が分からない

ということです

師匠はそういう根性を

見逃さなった

今更ながら、そういう根性を

見抜いてくださった

師匠に感謝です。

 

でも、ちょっとやそっとでは

治らないようです。

 

 

 

 

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在るがままで尊し

2022-12-17 20:46:04 | 住職の活動日記

先日の散歩で見つけた

東本願寺の堀に住している

アオサギ君です

 

 

ちょうどうまい具合に

「在るがままで尊し」という

看板の前に陣取っている

 

 

たまたまでしょうが

やはりこのサギ君も

自分の存在を表現している

ようにも見えます

サギはサギのままで

尊いのです

 

その前の細長い堀

堀には魚がいるのでしょう

そこにいる魚が

サギ君にとっては何よりの

ご馳走なのです

どちらの命も尊いのです

 

 

 

烏丸通に沿ってこういう

標語が立てられています

今日の散歩で目に付きました

ちょうどのこの日

 

 

阿弥陀堂門が開いていました

普段は閉まっています

でもとても立派な門です

 

 

扉の金具といい

菊と五七桐の紋も

眩しいくらい輝いています

 

 

屋根も檜皮葺も新調され

まさに重厚な造りです

 

 

この柿木もう葉もすっかり

落ちて柿の実だけが

彩がある風情で

目にとまったのです

多分渋柿でしょう

カラスも敬遠しているようで

残されたままです

 

「渋柿の渋そのままの

   甘さかな」

という歌を思い出します

 

ちょうど、十地経講義で

「アニマル」という

ことが出て来ました

普通には動物という意味です

ところが

「動物には違いないけど

霊魂をもった動物だと」

という一文が出て来ます

 

調べてみると

アニマルという言葉の

原義には「息をするもの」

というから

「生きているもの」という

意味があります

仏教でいう、

「衆生」ということは

生きとし生けるもの

ということで

アニマルという言葉も

そういう内容を

もっているのでしょう 

 

先ほどのサギ君も

堀の中の魚も

それを見ている私も

すべてアニマルなのです

それぞれが

「在るがままで尊い」

ということなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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トライアル・アンド・エラー

2022-12-16 20:02:32 | 十地経

トライアル・アンド・エラー

trial and error

「試行錯誤」といいます

私も勘違いしていたのは

トライアルをトライtryと

思っていたのです

トライアルには裁判という

意味があります

そして試みるとか試験という

意味もあるのです

試して失敗してと

それを繰り返し本当のものを

見つけ出すというのが

試行錯誤ということです

そのことを

『十地経』の中では

障りと対治ということで

表現されています

 

「方便智の行によって、

般若に対する愛着を対治して

いったんですけど、

治ということは障りに対して

障りがあるから、

それを対治するというんです

だから、

障りというものと、

それを対治するするものとが

「障」と「治」とが

組み合わさって十地の展開を

与えているのです。

 

こういうことが

非常に大事なんですね。

障りというものは、

何か妨げている、

妨げているもうやめてしまえ

というのではない。

妨げによって

妨げを超えていく。

困らずにすーっと

いけるものなら、

なんでもないですね。

 

けど、

困ってやめてしまうのも

これも駄目なんじゃないかね

やっぱり、

困ることを縁として、

それを克服していくと。

こういうところに

ものが発展したり、

成長したりするという

ことがあるのであって、

障りというものを

恐れずに、むしろ、

障りを縁として、

それを越えていくと。

 

あれも極めて

プラグマティッシュな考え

ですけど、

試行錯誤法ということを

よくいいましょ。

トライアル・アンド・エラー

という。

エラーという失敗を縁として

サクセスという、成功ですね

トライアルということは、

やるということ。

何かやる。

やれば必ず失敗する。

 

しかしながら、

その失敗ということを

縁として成功するんですわ。

初めから成功したいんなら、

何もやらんに限るんです。

初めから成功しています。

 

だからして、

何かやれば必ず失敗する。

けど、失敗を恐れるなら、

初めからやらん方がいい。

そういうわけでですね、

人生の智慧といった

ものでしょう、ああいうものが。

あれは、きわめて

プラグマティッシュな、

アメリカ的な考え方ですけど

 

あそこにあるものは、

アメリカばかりではなしに、

もっと広い、

人生の智慧といったような

ものがあるんじゃないかと

思う。」

 

真剣に生きたら

必ず「障り」というものが

出てくるはずです

それでそれを「対治」する

乗り越えていく

ということがあります

十地の十という段階も

障りを見出し、

それを対治するということの

繰り返しです

 

そこが、

トライアル・アンド・エラー

ということで

説明されています

これが難関ということで

私たちの愛着を執着を

対治していくのです。

面白いことに

智慧に愛着した心は

かえって世間の知恵が

対治していくといことは

面白いところです。

 

 

 

 

 

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「穢を捨て浄を欣う」

2022-12-15 21:00:34 | 十地経

「『穢(エ)を捨て

浄(ジョウ)を欣(ネガ)う』

というのが、

道を求める動機なんです。

これでいい

ということではない。

これじゃいかん

というのが

『穢を捨て浄を欣う』

という意味です。

これではいかんというのが

ですね。

 

何かそこに、

これが私じゃあない、

もっと、

もう一人の私がおるはずだ

というようなわけです。

何か、長い間の習慣で、

これまでやってきた自分を

唯一の自分だと固執しとる

けれども、

しかし、もっと

本当の自分というものが

あるはずだ。

こんな小さいことに

引っかかっとるような自分が

本当の自分じゃないと、

もっと

大きな自分があるはずだと、

こうなりましょう。」

 

厭離穢土・欣求浄土

エンリエド・ゴングジョウド

ということがあります

苦しい穢土を厭い離れ

浄土を願い求めると

戦国武将の徳川家康の

旗印がこの文句です

この苦しい世界を離れ

皆が楽しめる国にするのだ

という思いが込められて

いるのでしょう。

 

ここでは、穢を捨て浄を欣う

という言葉です

ねがうという字も

願うという字もありますが

常套句として「欣」という字が

使われます

詳しいことは分かりませんが

欣喜雀躍という

おどり喜ぶということですが

欣という字はよろこぶ

という意味ですが、

欣求となると喜び求める

という意味になります。

 

「これじゃいかん。」と

もっと

本当の自分があるはずだと

こういう気持ちは常々

あるのですが

その本当の自分を求める

方法が分からず

ウロウロしているのが

私たちの状態です。

 

しかし、本当の自分

本当のことが知りたい

ということが

道を求める根本的な動機です

そこから自分をみて見ると

 

「惑・業・苦」

ということがあります

惑い患う、その根本は

無明という本当のことが

分からない

それで、惑ワクという 

迷い惑いことが根底にあり

その迷った心で

業という行いをする

それが意識として心に残り

苦として蓄積されていく

 

その蓄積された心で

その迷った心で次の業を

作って、それが心に残る

という繰り返しによって

自分という固執した自分が

作り上げられていく 

という悪循環が繰り返され

更なる迷った

自分を作っている 

というのが

今の自分のようです   

 

講義では

「求道心を起こしてみたけど                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

その求道心とうものを

完成するための行信やね。

行信ということを

やかましくいわれるのは

そういう意味なんです。

ところが、

そこに『行に迷い信に惑う』

という。

迷い惑う。

 

その行というものによって

自分を対治しようと思うと、

その対治する行よりも

対治される障りの方が

大きいのです。

泥沼に入ったようなものだ。

もう入る途中で

やめてしまおうか

というようなもの。

こういう苦難がある。

 

けどそこに、

自分を翻して新しい行信

というものを見出してくる

場所なんです。

苦労があるところこそ、

苦労を越える道を

見出すところなんです。」

 

というように

続いていくのですが、

なかなか自分に当てはめると

難しいことなんです、が

そこに十地という意味が

あるように思うのです

そういうように

講義は続いていくのです。

 

 

 

 

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いかに迷っても仏の中に迷っている

2022-12-14 20:44:16 | 十地経

先生の話は真剣に受け取れば

とても厳しいものです

それでこういう声があった

のです

 

「『まあそう言われますけど

まあそう言われても理屈は

そうですけど、どうも』

とかいって逃げて。

『あんたきついこという』

というようなことを言う。

そういうことですが、

時間がきましたから

ここまでにしときますけど」 

 

というように、

先生の話は突然終わります

が、そう言われて、なお

話しが続くのですが

そこからが濃縮されたような

話しで締めくくられます

 

「こういう話しが本当に

利益があるんだ、ええ。

そんなところへ仏さんなんか

が出たら、

なお迷わせるんだ。

そういうところへ

仏さん出したら困るんだ。

 

内観ですね。

実は我々が内観する

ということがもう

仏様の中にある証拠なんです

我々がいかに迷っていても

仏の中に迷っているんです。

 

つらいけど話でも逃げずに

その教えというものを

聞いてみようというのでしょう

あなた方でも。

それはもう

仏道の中にあなた方も

おられる証拠なんだ。

 

仏道を悟った人だけが

仏道におるんじゃないです。

迷っていてもおるんです。

仏道はみんなが

もっているんですわ、

迷っとる人も悟った人も。

それを信仰というんです。

わしは信心があるとか、

そんなことはいらん。

信心がない人も

仏道の中におるんです。

それが人生の核心なんです。

 

僕のいう信仰は、

そういう信仰なら

みんな持てると思おうね。

わしだけはもう

信仰を得ている、

お前らはまだ迷っていると、

そういう信仰はもう

いらんと思う。

そういう党派的なね。

 

迷っているとか

迷っておらんとか、

自覚したとかせんとか、

そういうことを超えて

全部が仏道におるんです。

そういう宿業や。

 

そういうところにみんなが

分かった人も分からん人も

一緒に手をつないで

いけるんです。

分かった人だけなら

手をつなぎようは

ないじゃないか。

自慢するだけじゃないか。

 

自慢するということは

いらんのですよ、

感謝することがいる。

悲観するということは

いらんのですわ、

悲しむだけでいいんです。

自分を反省してですね。

卑下したり、

恐れ入ったりする必要は

ないんですわ、

悲しむということは。

 

恐れ入るのは

人間を拘束するんだ、

迷いだ。

悲しみはもう、

目覚めた人のものだ。

威張るのは、これは迷いだ。

喜ぶのは、

これは目覚めた人です。

道を得た人はそれを喜び、

得ない者はそれを悲しんで

求めていくと。

大道ですわ。

平等だわね。

 

そのために我々は

生きているんですわ。

あなた方、

いろんな仕事を

しておられるけど、

そんなことは

夢の中の仕事みたいな

もんですわね。

うまくいったとか、

いかなんだとか

いったところで、

月給もろたところで、

もらわんところで、

それは実は

当てになるもんじゃないです

しかし

道に触れたということだけは

永遠不滅ですわ。

それさえ

はっきりすればですね、

一生どんな損失で失敗しても

さらに後悔はないわね。

そういう点に触れられる

ことが一番大事ですね。」

 

というところで終わります。

なんだか

普通いう、起承転結というか

段々本題に近づき

本題に触れて次第に

終わっていく

というのではなく

初めも終わりも全部が

本題のような話です

この部分も聞いていて

ホッとするような気になる

ところで心に残った話です。

 

 

 

 

 

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妄想に苦しんでいるのが人生

2022-12-13 19:53:36 | 十地経

「だから全部が妄想です。

妄想に悩んどるんです。

もし妄想でないならですね、

悩みというものは

ないずだと思うんです。

え。

苦しみはあるかも知らん

ですよ。

苦しみとか … 、

悲しみはある、

悲しみといったら、

まあ悲しみはある。

だけど苦しみはないと

思うね。

 

妄想を破った人に

悲しみがあるんです。

深い悲しみをもって見る

ということは、

妄想の夢から覚めた人にある

夢を見ている連中は

悲しみはせん、困っとるだけ

 

煩悩という字が

それを示しているわね。

煩い悩むんです。

平凡な言葉で言えば、

困ることや。

悲しんでおりはせんです。

 

それはみんな

全部我々が夢の中で作った

幻影というものにですね、

自分から作ったものに

自分が脅かされ、

もっといえば

脅かすものなくして

脅えとるんですわ。

我々は脅かすものを考えて

あれだから脅かすという具合

に考えている。

 

例えていえば、

これは例えですよ。

あいつはひどい、

わしに恥をかかせた、

あいつは憎い奴だというけど

そのあいつというのは

何だといいうと、

昨日の経験、

居りはせんそこに、

記憶だわね。

自分の記憶に

自分が腹を立てている。

 

あいつがひどい目をこかした

時、それは

昨日の話じゃないかね。

済んどるじゃないか。

まだ生きているのは

記憶が生きているんだ。

記憶というのは

自分の心でしょう。

 

自分の心に

自分が腹を立てているんじゃ

ないか。

妄想じゃないか、それなら。

それは一例です。

具体的な例をあげなければ

話が分からんから。

 

ところが人間というものは、

自分に来たときだけ

妄想ではないと思っている。

人の場合は妄想だと、

こういう具合に思うんです。

 

そういうようなもので、

人生というものは妄想だ、

妄想に苦しんでいる

というのが人生だ。

そういう出発点から

出発するところに、

道を要求するんです。

 

人生が妄想でないなら

道なんか要求せんです。

真理を要求したり、

美しさを要求したりする

だけの話でしょう。

また儲けを要求したり、

幸福を要求したり、

そんなもんですわ。

 

人生が自分の妄想によって

悩んどるというもので

ないなら、

宗教はいらんのです。

人生が私が苦しみ悩んで、

妄想に苦しんでおらんもの

なら

宗教は無用なものなんだ。

私が苦しみ悩んでいるのは

とにかく人ではないでしょう。

 

まあたとえ

人が苦しめたとしても、

苦しんでいるのは自分だけや

自分の問題でしょう。

たとえ

人が苦しめたというけど、

その人も自分の考えたもん

だけれども、

まそれは一応許しても

苦しんでいるのは

自分だけじゃないか、話は。」

 

ここの部分はとても思い出す

昔の苦しいことが思い出される

ところです

今思うと先生は

苦しんでいる事実を

丁寧に解きほぐし

話されているようです

「例えていえば、」

2度も繰り返して

例えといわれますけど

事実なんです

そして、この苦しみに

負けるな、のり越えて行け

という激励のようにも

思えるところなんです。

 

 

 

 

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我々は解釈された現実に生きている

2022-12-12 20:59:56 | 十地経

真言宗の中興の祖といわれる

覚鑁(かくばん)上人が

お書きになった

『密厳院懺悔発露文』

(みつごんいんさんげ

 ほつろのもん)

の書き出しも

「我等懺悔す 

無始よりこのかた

妄想に纏われて衆罪を造る」

という文句で始まります

 

この「妄想」モウゾウ

ということが迷いの始まりで

講義ではこの妄想について

繰り返し出て来ます

 

「我々は病気している、

その病気はどういう

病気かというと、

妄想から病気しているんだ。

無明の酒に酔うて妄想から…

これは大事なことです。

我々は正しい世界に

生きているんじゃないです。

 

人間というものは

現実に生きている、

 

現実に生きているなどと

人間の言うことは

当てにならんのであって、

人間というものは

はや解釈しているんです。

 

我々は解釈された現実の中に

生きているんだ。

損とか利益とか事業とか

正しいとか正しくないとか、

全部それが一つの

人間の解釈したものなんです

 

本当の事実の中には

善も悪もないんですわ。

そして、あの、

そういう悪がなくても

善があり、

善がなくても悪がある

というように決めるんです、

実体的にね。

 

そして責任でも無責任でも

みんなそういう具合に

人間というものの世界が

そこにできあがるんだ。

そういうように

つまり善悪をそこに実体化

するんです。

善悪という言葉に

迷うんです。

絶対化してですね、

そしてそこに

ひとつの実体を作るんだ。

 

そして

その作った実体に

人間は支配されるんだ。

それで苦しむんです。

自分の作った、

 

自分の作ったものによって

自分が脅かされとるんです。

息のできんほど

脅かされている。

それは何も

人が脅かしているんじゃ

ないんですわ。

あいつが悪いから

わしはひどい目にあっている

と、そうじゃない。

あいつというものを

作っているんだ。」

 

実は私もずいぶん

悩まされました

今でも時々夢にでてくる

ほどなんです。

いろいろあって

どうしても悪いあいつを

作り出して

その自分がつくったあいつに

悩まされる

そのあいつというのは

今ここにいないのに

記憶の中に出てくる

その記憶に腹を立てている

 

このページも

講義でも聞いたのに

ふと出てくる

ずいぶん心の奥にまで

浸透したもんです

言われてみると

おかしなもので

自分の記憶に自分で

腹を立てている

 

こういうことが

妄想ということでしょう

迷いの根本です

人間というものは

本当のことが分からない

分からなかったら

そのままでいいのですが

 

次に間違いを起こすのは

本当のことが分からないと

本当でないものを

本当のこととして

それに固執してしまう

 

という構造が

迷いの構造で根本です

「妄想に纏われて

 衆罪を造る」

とありますが

この妄想から人間は

迷うしまた罪を造る

テレビ新聞をにぎわす事件も

この妄想が始まりです

 

この妄想ということが

ずっと続いていきます。

 

 

 

 

 

 

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教化という出会い

2022-12-11 20:33:54 | 十地経

やはり人生において

誰と出会うか

出会いということが

その人の人生を大きく

左右するものです

そういう出会いもあれば

出会いということにおいて

教育、医療という

あらゆる分野においても

この出会いがなければ

成り立たないものです。

 

「教化(きょうけ)でも

教育でもいいんですけど、

先言った

出会いということでもですね

教師と弟子、

教師と生徒との出会い

ということですね、

先言った出会いという概念も

教育学の上に概念に拡大

されてくる意味が

今日あるんです。

 

教育という方面でも、

それから今度はもっと

広く言えば、

ただ子供の教育じゃない、

精神を病んだ、精神医学です

そういう場合に

やっぱり出会いという。

 

やっぱり医者、病人をですね

ただ生物として取り扱って

いるというのじゃなしに

ですね。

そういうときにはもう

汝じゃないわね。

患者は客体になっとる。

そうじゃない。

主体としてだ。

医療関係も人間と人間との

関係や。

治す治されるという形式を

通して人間と人間との出会い

がそこに行われる。

 

生徒を教えると教えられる

という関係において

人と人が出会うんだ。

教師も人であり、

生徒も人である。

同じく同等の権利ですね、

絶対の尊厳性ですわ。

 

生徒が教師の道具でもないし

それからまた

教師は生徒が雇ったものじゃ

ない、道具でない。

独立した存在者ですね。

けどそれを、

独立した人と人との関係を、

教え教えられる

というかたちで、において、

そういう事業において

一つの出会いが

そこに成り立ってくる。

そういうところに

だからして、

出会いということもある。」

 

やはり安田先生も

聞いておられる方々が

洛南高校の先生方ということ

もあって

常に教育ということと

宗教ということが

課題だったようです。

「宗教と教育じゃないんだ

宗教教育なんだ」

ということも常々語って

おられました。

 

こういう話しを聞かれた

先生方も常に生徒を

一人の独立した人間として

接しておられたようです

それは、言葉使いにしても

上下関係ではなく

対等という関係の言葉使い

をされていたようです

 

私にとっても

三浦先生との出会いが

私の人生を決定づけた

ように思います

そういうように

多くの生徒の方々も

その出会いによって

人生の方向付けが

決まった方も大勢

おられるようです。

 

 

 

 

 

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