本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

コロナ退散護摩祈願

2020-02-29 14:44:03 | 住職の活動日記

こういうこともあってでしょう

前もってお申込みに来る方も

多くいらっしゃったようで

当日の参拝は少ない中での

お参りとなりました。

 

護摩を焚いていると

ふと気になる

護摩木がありました

10才の小学生の祈願が

「早くコロナウィルスが

 治りますように

 早く薬ができますように」

というものでした

この一本で私の心にも俄然

火が付き、護摩修法にも

熱が入って来たのです

 

が、

こういうところにまで

子どもさんの心にも

大きな影を落としている

ように思います

 

今この時期

一斉に封じ込めようという

作戦なのでしょうか

病院に行っても

できるだけ早く帰るように

また不必要なお見舞いは

避けてくださいと

 

 

病院にしてもとても神経質に

なっているようです

それは当然のことでしょう

 

しかし、

今日の護摩法要は

力がこもっていました

住職の声も本堂いっぱいに

響き渡り、

祈願の太鼓の音も

災いをはねのけるようにと

力のこもったものでした。

 

魔除けの力があるという桃

その花もお供えされていて

 

 

皆さんのお気持ちも

お不動さまに届いたことと

思います。

 

お寺でも自粛ということで

来月のお彼岸や護摩法要は

当院のみにて勤める

という方向になりそうです。

 

何とか一日も早い終息を

祈るばかりです。

 

 

 

 

 

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本蔵院の草花たち

2020-02-28 09:46:20 | 住職の活動日記

やはり空港内も人が少ない

検査場も待つことなくスムース

けど

機内はそこそこ8割ほどの満席

 

 

舞妓さんの姿も見える

どこかへご出張?なのかな

 

この寒い時期

草花は少ないのですが

 

 

その中でも本蔵院の草花は

ひっそりと咲いています

ヒイラギの花です

 

 

小さいながら可愛く美しい

また、

本堂前には桃の花のお供え

 

 

あでやかな存在感を示しています

そういえばもうすぐ「桃の節句」

ひな祭りです

 

 

桃は魔除けにも使われる花

それで、鬼門の瓦にも

見かけることがあります

また中華料理店に

桃の名がつくのも

そういうことなのでしょう

 

御所の中にも

梅園の隣には桃の園があります

 

ご信徒の方のお供えのようで

 

 

お不動様の前にもお供えされ

今日のお護摩は

この桃の花を眺めながらの

お勤めになります

 

 

また、樒(しきみ)の花も

咲いています

葉の下に隠れて気づきにくい

のですが

 

 

よく見ると白い小さな花を

つけています

護摩の時にも使われる樒

行の時も花といえば樒を指します

樒で柄香炉にもするし

修法の時も樒の葉を使い

私たちはよく使うものです

 

そういえば

 

 

モミジも葉を膨らませえています

着々と春の準備が整っています

 

 

アジサイも可愛い初々しい

葉を出しました

 

 

ユキヤナギもそうです

今まで枯れていた枝から

いのちが噴出しています

 

 

今日のお不動さま

コロナの影響でみなさん

控えておられるかもしれませんが

お参りだけはしっかり勤めたいと

思っております。

 

 

 

 

 

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東方守護のカミ・毘沙門天

2020-02-26 21:22:14 | 住職の活動日記

奈良の国立博物館では

「毘沙門天」だけを集めた

珍しい展示会が開かれています

 

 

まあ、圧倒されたのは

やはり、

東寺の「兜跋毘沙門天」です

 (とばつびしゃもんてん)

久しぶりのお姿

やはり美しいしバランスもよい

腰のひねり具合は

どの毘沙門さんよりもいいですね

 

 

奈良公園を抜けて博物館へ

 

 

ちょうどチケットには

東寺の毘沙門天が使われています

もとは羅城門にあって

平安京を守護されていた

という毘沙門天です

それからいろいろのお姿の

毘沙門天が作られたようです

 

 

 

毘沙門天は多聞天ともいいます

ヴァイ・シュラバナを

音写して毘沙門・訳して多聞

ヴァイは多いシュルは聞くという

ことで、

インド読みか日本語読みかの

違いということです

これが四天王になると多聞天で

毘沙門天とは言わないようです

持国天・増長天・広目天・多聞天

覚え方は

「地蔵さん買うた」と

じ(持国)・ぞ(増長)さん

こう(広目)・た(多聞)と

昔からこのように覚えたようです

 

同時に

「お水取り」の展示も

やっています

 

 

これがあの有名な松明

真上から見たところ

ここが燃えて火の粉を

まき散らしながら

階段を駆け上がり

欄干から火の粉を降らせます

この火の粉にあたると

一年無事に過ごせるということで

こぞって火の粉の下に行かれる

のがお水取りの行事です

 

 

下から見ると根付きの竹

 

 

間近で見ると結構な大きさ

これを担がれるのですから

担ぐ人は真冬にもかかわらず

着物をからげ腕まくりして

まるで

夏の装いで担いで行かれます

 

 

外に出ると

馬酔木の花が美しい色で

咲いています

普通は白をよく見かけるのですが

こういうピンクは

 

 

珍しいのではないでしょうか

 

コロナウイルスの影響は

いろいろな所に出ています

ちょうど、お茶を頂いていると

喫茶店の方が、博物館も

明日から休館とのこと

それで明日の仕入れを

断っておられました

 

 

シカさんも観光客も少なく

鹿せんべいをもらえず

寂しそう

ここも食糧難のようです

 

 

人を見てはやってくる小鹿

せんべいを売る人もいなくて

お腹を空かせているのか

それともあきらめて

 

 

 

ひだまりで日向ぼっこの

小鹿たち

 

 

動くのもしんどそうな

お年寄りの鹿

まあ、いろいろなところに

影響が出ています

 

なんとか、もっときちんとした

対応をお願いしたいところです

でないと大変なことになりそうな

予感がします。

 

 

 

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憶念不忘

2020-02-25 21:15:48 | 十地経

「見て敬い聞いて忘れず」

この一文が『十地経講義』第1巻

最初の講義出てきます

私にとっては身が引き締まる

言葉です

というのは、

聞いた先から忘れていくので

わすれちゃいかん!と

自分に言い聞かすのですが

年のせいではないのですが

ボーッと生きてる

(チコチャンに叱られますが)

私には聞いたことが

なかなか身に付きません。

 

「憶念」ということは

仏道修行でとても大切なことです

ですから

三十七道品の修行の中にも

四如意足(しにょいそく)に

念如意足

五力(ごりき)には

(悪を破るのに力があるから)

念力(憶念力)という形で

出てきますし、

七覚支(しちかくし)

(さとりの智慧を助けるから覚支

 といいます)

の最初に、念覚支と

心を明らかにして憶(オモ)い

とどめて忘れない

それから、八聖道の中にも

第七番目が正念です

正見という目的を常に心に留めて

忘れない。

 

このように

一回言えばそれでいいように

思うのですが

いろいろな場面で

繰り返し繰り返し

「念」ということを

お釈迦さまは述べておられます。

 

この念ということも

ただ心に思い浮かべるという

想像のようなものでなく

仏道の中にあって

仏を憶念するのだと

 

ということを反対にとれば

それほど「人間は忘れる」と

いうことなんでしょう

お釈迦さまでも一回言って

その事を弟子が忘れなかったら

もう言われなかったのでしょう

しかし、

人は忘れるもんだ、

ということを押さえて

修行の中のいたるところに

念ということを配して

おられるように思います。

 

安田先生も講義のなかで

ひとつのたとえとして、

「あんたはほんとうに

 さとりましたか

 といった場合

 そうだと、

 なかなかいえんでしょう

 まあさとったわけではないけど

 その方向にちょっと

 やってみます

というようなことになるでしょう

 なんぼ厚かましい人間でも

 わしはさとったと

 いえんでしょう

 そうかといて全然さとらんと

 いうのも何か具合が悪い

 だから、いまさとりつつある

 とか、

 つまり準備中とかね

 そうしかいえんでしょう」

 

と、そのようなことを言って

おられますが

この言葉も何かしら

心に残っていて

その話しておられた場面を

思い出す言葉なのです。

 

聞いたことをすべて心に留め

それが頭の中できちんと整理

されていれば

それこそすぐにでもさとった

ということになるのでしょうが

なかなかそうはいかないところが

悲しいところです

とくに

情報社会といわれる昨今

必要でない情報であふれて

それに振り回されているのが

現実のようです

 

昔の方が

ざるは上げてしまうから

水は全部出ていく

ざるを水につけておけば

出ていくことはない

といわれています

修行もこれだけやったからと

水から上げてしまうので

やった修行も全部出ていく

のでしょう

 

修行の中に浸かりづめでおれば

出ていくことはないのでしょうが

仏道のなかで寝食を共にする

寝るのも、食べるのも、遊ぶのも

すべてが仏道に適っていれば

それこそ、

憶念不忘ということになる

のでしょうが

そういかないところが

かなしいことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヨガ・ヨーガ・瑜伽・瑜伽唯識

2020-02-24 20:35:01 | 住職の活動日記

最近は「ヨガ」も若い女性に

人気のようで、

美容とか健康に良いという

ことなんでしょう。

このヨガということも以前から

気になっていたのですが

体操のようなヨガと

心理学のような唯識と

同じということです。

 

YOGAもインドの言葉では

EとOは長母音なので

正式にはヨーガとなるのでしょう

この言葉が漢字に翻訳されると

瑜伽(ゆが)となります

YOGAは結合するという動詞yujから

派生した名詞で結びつく、結合する

というのが原意です

そこから意訳して「相応」と

いうように言っています

 

身と心が結合する

結合した心身から起こる智慧が

真理と結合する

そういわれると

身を整え、心を整え

そういう状態になって真理にふれる

といわれると

ヨガと唯識がつながってくる

ような感じもします

 

弘法大師も

「三密瑜伽」ということを

盛んにいっておられます

ですから、仏教においても

「瑜伽」ということは

大切な問題なのです

ただ単なる体を動かす

というだけでなく

その初めに調息(ちょうそく)と

いう息を整える

お釈迦さまも「入出息念」と

呼吸ということをとても大切に

しておられます

心を整えるにはまず息を整える

ということになるのです

 

インドで見るヨガのように

無理なアクロバティックな

身体を動かすことではなく

まずは息を整える

そのために体と呼吸を合わせて

動かすというのは大事です

それにより自然に呼吸も深くなり

心も整い

精神集中することも出来てきます

 

安田先生も講義のなかで

瞑想とかヨーガということは

インドの伝統で仏教だけでなく

外道もヨーガを取り入れたと、

しかし、

ヨーガによる三昧が目的ではなく

そこから生じる智慧を得る

ことが目的なのです

けど、

三昧がなければ智慧を生み出す

地盤さえも出来ない

ヨーガは智慧じゃないけど

智慧を生み出す地盤になる

と仰っています。

 

ヨーガ・瑜伽ということも

なかなか深い意味を持っていて

『瑜伽論』という経典には

瑜伽には、

信と欲と精進と方便とがあると

説かれています

信じること、欲すること、

精進すること、方便(修行)する

ことの四つが瑜伽であると、

ですから、

静かに坐って止観を修める

だけではなく、

それも含めて

「真理・真実を求める生活全体」

が瑜伽であると

説かれているようです。

 

ヨガをやり心も落ち着いて

気持ちも優しくなった

というだけでなく

そこから、

本当のことを求めていく

求道が始まる

ヨガによってそういう素地が

できたということで

三昧に入った心で経典という

ものは読めるのではないかと

思います。

 

安田先生の「十地経講義」も

分からなかったのですが

今思うと

講義という場でもって

聞いている私たちを三昧の世界に

導いてくれたように思います

ですから

『十地経講義』という本は

人前で話す前に読むと

不思議と落ち着き

いいアイデアも浮かんでくる

その講義の内容を

話す訳ではないのですが

ふと、聞いたことを思い出すとか

思わぬご利益があるのです。

 

今のヨガはスタジオ系というか

若い女性のインストラクターで

周りは皆女性、その中に

おじいさま二人という

まあ結構な環境ですが

わき目もふらず集中して

行っています。

 

 

 

 

 

 

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笑顔が一番!!

2020-02-23 21:16:36 | 漢字

この「笑う」という字は

見ているだけでわらっている

形に見えるものです

しかし、元の字は竹冠ではなく

草冠の誤りということです

薊(あざみ)の名でもあります

その間違ったことから

口に格好をつけてしなをつける

そこから、わらうという

意味が生まれたということです。

調べてみないと分からない

ことばかりです。

 

先日、テレビの「サワコの朝」で

ゲストは松岡修造さん

最後に「笑い」ということを

辛くても苦しくても

無理にでもいいから笑顔をつくる

口角を上げて笑顔をつくる

 

家内とケンカした後でも

布団に入って無理にでも

口角を上げて笑顔にする

すると、気持ちまで変わってきて

口角を上げていることもあって

口の周りも疲れてきて

よく眠れるということです。

 

勝手に思うのですが

笑いにも、微笑むというのと

声を出して大笑いをする

英語ではスマイルと

ラフ(laugh)がこれに

あたるのではと思うのですが

 

仏さまもすました顔や

忿怒といって怖い顔の

仏さまもいらっしゃいますが

普段見ることのできない

お顔に「暴悪大笑面」という

顔があります

十一面観音さまの真後ろの顔

です、

十一面観音は

頭に十面の顔をのせ

その頂にある顔が「仏頂面」

本当は頂にあるお顔ですから

一番いいお顔なのですが

普通に使う時には

ぶっちょうづら、といって

ふくれっつらという

反対の意味になるようです

 

その暴悪大笑面ですが

誰も見えないところで

大笑いしている顔なのです

暴悪というのですから

人びとの悪までも笑い飛ばす

というのでしょうか

お観音さまといっても

優しい顔だけでなく

こういうお顔も持っておられます

 

それから、

「拈華微笑」(ねんげみしょう)

という言葉もお経に出てきます

お釈迦さまが拈華し迦葉が微笑んだ

ということですが、

霊鷲山(りょうじゅせん)で

お釈迦さまが座に登り

梵天王から受けられた蓮華を

拈(ひね)り黙っておられた

大衆はその意味を領解することが

できなかったが

ただ摩訶迦葉だけは破顔微笑した

というのです

この時、お釈迦さまの教えが

摩訶迦葉にすべて伝わったという

故事があります。

 

この時に「微笑」ほほえむ

ということが出てきます

この時の笑いはスマイルの

笑いでしょう。

こういうたとえも面白いものです

言葉でもって丁寧に語る

ということもありますが

修行も積んでくると

言葉を介せずとも

その意とするところは伝わる

ここが「微妙」という

ことなのでしょう。

 

笑いということも

いろいろあると思いますが

最近の笑いは

馬鹿笑いするのですが

声高々に笑うのも

何かむなしいものを感じます

本当のことが分かった

そうかと頷いた!

そういう時に出る「微笑」という

笑いも大事な笑いでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ばいきんまん」

2020-02-22 21:07:18 | 漢字

アンパンマンもさることながら

以外に子供たちに人気なのが

「ばいきんまん」です。

なかなか面白いキャラクターで

いつも、

アンパンマンと敵対しています。

 

自分を犠牲にして他人を助ける

アンパンマン

それも素晴らしいことですが

やなせたかしさんの思いには

善だけではいけない

人間の心には悪も潜んでいる

その悪ということが

人の深みでもでてくるし

物語としても

面白いものになってくる

ということのようです。

 

ということで、

ばいきん、ということは

よく使うのですが

いざ、漢字で書いてみると

なかなか普段に書く文字では

ありません

 

黴菌、の「黴」という字は

黒部の中に出て来る文字です

難しい字で、

  と

こういう文字になります

かび、という意味のようです。

また、

梅毒という意味もあります。

 

花街だった祇園

今の甲部歌舞練場のあたり

かつて定期的に京都の娼婦が

梅毒検査を行い

罹患時には隔離される

「駆黴院」(くばいいん)が

あったそうです。

京都も美しい雅な要素が

今はもてはやされますが

それは大正以降のことで

それまでは歓楽という一面と

娼妓たちの悲痛な祈りがある

町だったのです。

 

アンパンマンとばいきんまん

やなせさんもいい所に目を付けた

憧れのヒーローだけでなく

悪の権化のばいきんまんも

登場させて物語を展開させる

そこに面白さが倍増してきます。

 

人間も、

煩悩があればこそ人生が面白く

なってくるようです

反対に見れば

煩悩のない人生なんて

味気のないつまらないものに

なるでしょう。

しかし、

かといって煩悩を野放しにする

わけにはいきません。

 

このこともよく考えてみると

面白いもので

煩悩が分かるということは

素晴らしいことです

それは、

仏という光が見えた

ということです

 

何気なく生きていると

何が煩悩やら分かりません

好き勝手に生きて何が悪い

したいことをして何が悪い

当たり前のことではないかと

なってきます

 

しかし、

そこに目的というか

やるべきことを見出した時

今までしていた

好き勝手にしていたことが

邪魔になってくるのです

そこで初めて

それは自分を悩ます煩悩であった

と思い知らされるのです。

 

般若心経に、

「一切顚倒」という

文句があります

一切、すべては顚倒である

顚倒、さかさまである、と

師匠から、

おまえのやることなすこと

すべてが間違ている

さかさまなんだ、

と、叱咤されたことがあります

ちょっとくらいは間違っていて

そこを直せばいいのでは

少しは良いところもあるのでは

と思っていたのですが

そうではなく

すべてが間違っている

一切顚倒なんだ

この言葉には

ちょっとショックでしたが

 

今思うと

なるほどそうであったかと

思い当たることだらけです

人間はだれしも

仏の眼から見れば

さかさまになって歩いている

ということなのです

 

そういうことを思うと

アンパンマンにばいきんまん

両方持ち合わせているのが

人間です

これは死ぬまでの戦いのようです

 

ふと、黴菌という文字が気になり

調べてみると

おもしろことがあるものです。

 

 

 

 

 

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ご近所の草花たち

2020-02-21 20:31:50 | 住職の活動日記

ここ最近気温の乱高下

春の陽気だったり、

初雪が降ったりと

気温の変化が激しい

 

草花には眠りを覚ます

よい刺激かもしれません

 

 

ほんの20cm四方位の隙間に

ほんとに小さい花が咲いています

 

 

頭の先に角を出したような花

調べてみると

「ホトケノザ」に似ている

春の七草のホトケノザとは違う

ようです

 

 

これは「ヒメツルソバ」?かな

金平糖のような花を出す

 

 

明治のころに導入されたものが

野生化したということです

結構繁殖力もあり

年中咲いているようです

 

 

この花も小さいので群生していたら

存在感があるのですが

こうやって一二本ですと

見落としがちです

 

 

ニホンスイセンも元気に

咲いていたのですが

先日の春一番のような風で

すっかりお辞儀してしまいました

 

 

もう、上がらぬ頭です

自己否定の極致ですね!

 

 

蝋梅も見かけます

散歩道にちょっと邪魔なのか

切り込まれて低い所に

花開いています

 

 

そして、ひときわ元気なのが

「オニノゲシ」です

この草も明治時代に

ヨーロッパからやって来た

帰化植物です

名前のように「オニ」というから

力強いという意味も

あるのでしょう

ちょっとした隙間に根を下ろします

 

 

しかし、咲いた場所によっては

無残にも踏みにじられています

けど、そんな程度では

負けてはいません

 

 

復活してまた花を咲かせるでしょう

 

 

これが種なのか花の芽なのか

また、ここから伸びて

花を咲かせます

 

 

そして、次には

もう種を飛ばす

準備ができています

というとおもしろもので

その下には

 

 

タンポポも花を咲かせ

種を大きく膨らませています

 

何気ない雑草といわれる

ものかもしれませんが

じっと目を凝らしてみると

実に美しくもあり

たくましさも感じるし

その生命力には感服です

 

我が家のちょっとした隙間

 

 

水を遣りながら草をどけると

 

 

虫さんが陰に隠れて

冬眠中のようです

もうすぐ動き出すのかも??

 

 

その横にはピンカミノールの花

一輪顔を出しています

 

有名な立派な花だけではなく

野に咲く花に目をやり

名前を調べて

また、身近に感じて

愛おしくなり

見て回るのも楽しいものです。

 

 

 

 

 

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「間」・ま・MA

2020-02-20 17:58:05 | 住職の活動日記

面白いお店でランチ

その名も「間」という

 

 

こういうお洒落な名刺

丸は空を表し、

その下に間という字をデザイン

空間を表現したということです

 

 

古民家を和食の店に

 

 

こういう樋一つとっても

作りの確かさがうかがえます

 

間という字も面白く

仏と地獄の間にいるのが人間

人が悩み苦しみ生活するのが世間

その苦しみの世界から出るのが

出世間、つまり出世です

出世するということも

今では別の意味で使いますが

人と人との間も難しく

その間がとれないと

間抜けになってしまいます

 

間という字も古くは閒と書き

もんがまえの中が月になります

門の隙間から月の光が差し込む

そういう様子をあらわした字でも

あるようです

読み方も、カンとかケン

訓読みが、あいだとか、ま

となり熟語も幅広い内容を

もっています

 

ということを思いつつ

中へ入ると

 

 

立派な箪笥のカウンターがあり

出てくる料理も

 

 

なかなかいい器に入った

美味しい料理が出てきます

 

 

舌鼓を打ちながら

話にも花が咲き

最後の締めには

 

 

精進のカレーライス

デザートは豆腐で作ったプリン

これも絶品!!

 

壁には

 

 

多分このお家で使われていた

障子や欄間、ついたてなど

上手に飾ってあります

 

そして

この店の奥には蔵があり

この土蔵を古本店に改造

二階はレコードやCDの販売

マイルスデビスの10枚組CD

何と1500円、安い、と

全部買い占めました。

 

「間」という字

仏教用語としても出てきます

無間地獄の間、間がない

つまり、苦しみの休む時がない

という地獄です

反対に「無間道」ムケンドウと

いえば、

煩悩を断じて真理を体得する

段階として

加行道・無間道・解脱道・勝進道

という四つの道があります

この場合の無間というのは

煩悩を断ずるのにへだたりや

さまたげが無いことを言います

 

まあ、「間」という字も

おもしろく

この店も面白く美味しく

何とも幸せな時間でした。

 

 

 

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安田先生ご命日「無窓忌」

2020-02-19 20:26:32 | 十地経

2月19日は「無窓忌」むそうき

安田先生の御命日です

お参りに出かけたのですが

生憎門は閉ざされていて

コロナウイルスということも

あって集まりもなかった

のかもしれません

 

家に帰り、

本棚を整理していると

安田先生の講義録を発見

 

 

最初の頃はカセットテープもなく

オープンリールのテープで録音

それを文字に書き写し

ガリ版で切って謄写版で印刷し

皆さんに配っておられました

それが

 

 

タイプ印刷となり

今読んでいる活字の印刷と

なってきました

 

安田先生も自ら本を出版されない

ということで

聞いた方が文字に表し

伝えてきたのです

以前、

教えを聞いた方が集まり

先生の全集を出そうという計画が

持ち上がり

その旨を先生に伝えに行った所

先生から厳しく

そんなものは出す必要がない

と断られたのです

皆が困っている中

三浦先生が、

お釈迦さまの教えは

感動した弟子たちが作った

ということですよね

とお尋ねになると

それはそういうことですよ

と、おっしゃたということです

皆が、

ではどうしたらいいのか

と相談していると

三浦先生が

皆さんは先生の話に

感動しなかったのですか

感動したのであれば作れば

いいのですよ

ということになって

安田先生の全集が作るという

方向で動き出したのです。

 

古い話では、

玄奘三蔵もあれだけたくさんの

経典を翻訳されたのに

ご自身の作は一つもないのです

安田先生もそういうこともあってか

講義はされたけど

一冊の本も書かれなかった

あるのは聞いた人たちが

テープから本にされたのです

 

このことも大変な作業で

いま、『十地経講義』を

書き写していますが

そうやってみて初めて

言葉を文字にすることの

大変さが分かってきます

ずっと聞き続けていて初めて

出来ることなのです

先生の言葉の癖もあるし

間合いもある

同じような発音でも漢字にすると

違った漢字になり

あらためて言葉を文字にすること

の大変さを思い知ります。

 

ガリ刷りのたまたま開いたページ

そのなかにも

「永劫というようなことはね

 その行が終わるのは人類の

 終わる時に終わるんだ

 本願がいつ終わるかといえば

 人類が最後の一人まで

 成仏するまで本願は終わること

 ができない

 そういう精神を表しとるんだ

 人間に問いがある限り

 本願は答えていくと」

 

というようにでてきます

つまり、私たちの行というものは

終わりがないということです

学校の場合、教科書ですから

一応のことを学んだら

卒業ということはあるのですが

私たちの修行となると

終わりがないということです

ある面からいえば

さとりということも

終わりのない修行を修していく

そういうことを知るのでしょう

 

しかし、

安田先生の全集には

『十地経講義』は

含まれていません

これもおもしろいことですが

全集を作られる時

すごいご苦労があって

先生の話ことばを

やはり世間に出すということで

文章体に直されたのです

それはそれで

価値のあることですが

『十地経講義』には

あの、その… という

先生の息づかいが伝わってくる

他にはない貴重な

本ではないかと思います

これには多くの方のご苦労が

あるのですが

ひとえに聞き続けてこらえた

虎頭先生のご尽力の賜物と

思っております。

 

私にとりましては

この『十地経講義』が

何よりの宝物であり

人生を豊かにしてくれた本

でもあります。

 

 

 

 

 

 

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