熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
『十地経講義』のなかで
「仏道に卒業ということはない」
ということが出てきました。
70過ぎてもまだ道半ば
ということを思っていましたが
まだ、
道にさえ入っていないのかも
しれませんが、
しかし、到達点があるというのが
間違いというか
勝手に
思い込んでいるのかもしれません
また、
「留まらないから道になる。
行き着いたと言うことは
ありません。」
という言葉も出てきます。
仏道とかいわれるように
道という言葉も難しいことばで
仏道とか仏法ということも
同じ意味で、
もとの「ダルマ」ということを
法と訳したり道と訳したりと
ですから訳さずにあえて
達磨(ダルマ)とそのまま音写した
ということもあります。
「法」といってしまうと
すぐさま「法律」ということが
頭に浮かび、
そのような規則かと思ってしまう
こともありますが、
難しくは(正しくは)
任持自性(にんじじしょう)と
軌生物解(きしょうもつげ)
という二つの意味を持っています
それ自体の本性を保ち変化しない
軌範となって理解を生ぜしめる
というように意味を持った言葉
ということです。
ですから、普通に使う法律とかの
法ということとは意味が違います
諸法無我というような「法」は
存在を表す言葉です。
幅広い意味合いを持った言葉なので
ダルマとそのまま使うか
あえて、道とか法といったのです。
一つの術が道になる
ということがあります
剣術が剣道になり、
柔術が柔道になり
他にも弓道、茶道など
道とつく言葉は沢山あります
そこには
ただ技術を覚えるのではなく
自分自身を高めるというか
自分自身の修道としての道
そういうことで「道」という
ことが言われるのと思います。
そう考えれば
道に突き当りというか
行き止まりはないはずです
どこまでも続くのが道です。
「昇道無窮極」ショウドウムキュウゴク
ということが経典に出てきます
「道に昇るに極まりなし」、
道に終わりはない、という
ことでしょう。
しかしながら
ウロウロすることが多くて
なかなか道が一つに定まらない
ものです。
道が見つかれば
急ぐ必要はない
歩みさえ止めなければ
歩み続けることが
仏道ということです
これでよし!
ようやくたどり着いた
というのは
堕落したか偽の仏を見た
ということかもしれません。
講義の中では、
「打てば響くといって、
これは響きが、終わった
ということではない。
響きを聞いたものが更に打てば
さらに響いてくる。
終わりがないです。
そういうような円環をえがいて
出ることによって帰る、
帰ることによって出ていく
というような、
円環的人間なんです、
菩薩というのは。」
と出てきます。
歩みさえ出てないのかも
しれませんが
そういう構造が分かっただけでも
ホッとする
「仏道に卒業はない」
という一言です。
不思議とかあの人はふしぎちゃん
ということを耳にしますが
また、摩訶不思議という
摩訶とは大きいという意味です
から摩訶不思議と言ったら
大変不思議ということでしょう
「不思議」・「不可思議」
ということも仏教語で
インドの言葉では
ア・チントヤ a-cintya
とこれまた不思議な発音の
言葉です。
不可思議ですから
思議することが出来ない
人間の思いを超えてはかることが
出来ないということでしょう。
阿弥陀如来のことを
不可思議光如来ともいいます。
また、
数の単位でもあって
恒河沙ゴウガシャとは
ガンジス川の砂の数という単位
その上が阿僧祇アソウギ
10の51乗という数
またその上が那由多ナユタといい
その上が不可思議という数の単位
一番上が無量大数という単位です
経典の中には
不可思議ということを厳密に
記してあります。
世界と衆生と龍と仏土境界と
四つの不思議を言っています
世界というのも仏教語で
衆生が住んでいる場所のことで
仏土というのは仏のいる国土
ということです。
「龍」が入っているのが面白い
ところですが、
まあ、不思議な生き物です
人も世界も
当たり前と言ってしまえば
当たり前ですが
不思議だな、と思って見ると
これも不思議なことです
「世界は不思議の建立である」
ともいわれます
すべては不思議で成り立っている
そういえば
日々の生活にしても
何一つ自分で出来ることはない
ともいえます
空気にしても水にしても
私達は作り出すことは出来ません
しかし
そういう眼、不思議という
目で見ればすべては面白く
興味深いものでもあります。
また、最近では
「ふしぎちゃん」なる言葉も
あるようで、
周りの人からは理解不能というか
孫を見ていても取説が欲しい
という子もいます。
見てみるとこれもまた
面白いことが分かってきます
普通と違う…しゃべり方が違う
基本的には自分中心。
「他人に興味がない」
空気を読まない
純粋?面倒?冗談が通じない
独り言が多い
妖精などが見えるとか?
センスもまた独特なものがある
ふしぎちゃんと呼ばれると喜ぶ
などの特徴があるようです。
言われてみると
一つや二つは当てはまる所が
あるような気もします。
すべてのことを
「不思議だな!」と
見れたら世界も興味深く
面白さも倍増するように
思うのですが?
またぞろ、コロナが増えている
という状況ですが
何かしら不気味なものを感じつつ
新幹線移動も
ずっとマスクを着けたまま
座ると、
テーブルやら手に触れそうな所を
消毒してという具合です。
28日のお不動さまも
前もってお申込みの方も多く
当日は
ソーシャルディスタンスの
距離感で座っていただき
僧侶方もマスク着用の入堂
お経もマスクをつけての読経です
護摩を焚くのにマスクを着けて
という初めての経験
自分の吐く息でも結構暑いのに
外からは護摩の火の熱さで
内も外も篤い状態ですが
こういう時には
致し方ありません。
そして、29日は
半年ぶりの勉強会
この時もお互いマスク着用での
参加ということです
皆さん集まってみると
半年も休んだという気がしません
ずっと続いていたような錯覚に
なります。
三密は避けてということですが
今までとは違って
新しい生活様式
それなりの距離を保っての会
ということですが
何気なく集まって
ワイワイやっていたことが
懐かしくも楽しくもあります。
やはり「三密」は楽しいという
ことがつくづく思い知らされます。
仏教では「身」ということを
大切にしますが
身を運ぶとか
人に代わってもらうことの
出来ないという
代わりがきかないという
身の重さがあります。
今ですとテレワークやら
携帯で済ますとか
便利な機器は沢山あるのですが
やはり、代わりがきかない
自分の身をそこに持って行かない
とできないことがあります
食事にしても
代わりに食べといて
といっても代わりの人は
お腹は膨れますが
たのんだ人は
お腹いっぱいになりません
仏法の話でも
代わりに聞いてきてといっても
聞いた人には理解できても
その資料を後で読んでも
そんなことかぐらいは分かっても
本当の内容は分からないものです
お護摩の法要にも
90を過ぎた方でも
電話で護摩木を頼んだら
一応はそれで事足りるのですが
やはり、本堂まで身を運び
護摩法要に出て住職の話に
耳を傾けないと
身体が頷くということは
ないように思います。
しかし、
コロナの収束が見えない状況で
また、増え続けているという
いまの状態では
出来うる限り三密を避け
ソーシャルディスタンスを取って
これ以上の感染拡大は
食い止めなければなりません。
出来る限りの
あらゆる対策を講じて
両立を成り立たせることを
していかないといけないような
気がしています。
熊本を出る頃は
梅雨が明けたような暑さと
青空が広がっていましたが
福岡に来る頃には曇り
広島では大変な雨だったようで
宇治には大雨警報
だったのですがさいわい
着いた時には
雨も上がっていたようで
事なきを得て無事到着です。
安田先生と茂田井先生の対談に
『不安に立つ』
という著作もありますが、
何かしら、最近とみに感じる
何かに追っかけらているような
気分があります。
兄を亡くしたこともさらに
その感覚を加速させます。
そのうち、そのうちと
思っていたことが
そのうちでは済まされない
時間というものが迫ってます。
『十地経講義』の中でも
宗教問題というのは、
なんか追っかけられる
なんか大きな忘れ物をしている
というような問題なんだ。
あらゆるものが足らんで
なにか不安なのではない。
あっても不安なんだ、
これでいいんだろうか、
というようなひとつの不安です。
こういう気分は日常生活の底ある
底にあるから
時々ふうっと出てくる
ふだんはそれを忘れている
忘れるのではない
もう忘れようとするんだ。
そんなものが出てくると
もう飯も食えん、仕事もできん
もうなるべく抑えようとする
けど抑えようとすればするほど
出てくるんだ
不気味なもんです。
実はそれが、
到達点から見ると
それが人間の一番健康的な
心理なんです
不安というけども、
不安でなければなお危険なんです。
超越的なものが内にあるという
矛盾構造の自覚ですからね、
不安というのは。
このように述べておられます。
先生も何か折に
ふと漏らされておられました
「安き日は一日としてなかった」
と、
ですから、
『不安に立つ』という本も
先生の生き様を表す言葉なのです
死ぬまで求道され続けられた
先生の姿勢です。
今頃になって
慌てふためいているのですが
何かしら大きな不安を背負って
一歩一歩の道しかないようです。
兄らしい亡くなり方でした
苦しいながらも
周りの人にも笑いを振りまいて
最後は安らかだったようです
コロナ禍のことがあり
家族といえども病院へは
見舞いに行くことも出来ず
ただおろおろするばかりでした
病院の先生の計らいで
吾亦紅ワレモコウという
一軒家を看取ることが
出来るように改築して
看護する方が24時間付ききりで
見てくれるという施設です
そこでは家族も一緒に
寝泊まりでき
ゆっくりした時間を過ごすことが
できるという施設です
子猫のあずきちゃんも来ていて
訪ねた時は病人の足元で
寝ていました。
しかし、
痰が絡むのが苦しそうで
病気になったら
この痰との戦いのようです
元気ですと
出すことも出来るのですが
病気になるとそれが出来ない
とても苦しそう
字を見ても「痰」という形は
やまいだれに、火を二つ重ねた
炎という字です
いかにも喉に火が付いたように
苦しい様子を表しています。
突然、看護師の方が
呼ばれます
お父さんの最後の言葉ですよ
「おかあさんありがとう」
「娘の名を呼び、ありがとう」
「先生ありがとう」
そばで、看護師の方が
言葉を書き留めておられます
そして、
目をつむって、息を止めて
「おとうさん」
と呼んだら
パッと目を開けて
ああ、まだ死んでなかった。
そういうことが
何回か続き
娘さんも医療関係に従事していて
慣れた手つきなのでしょう
また冷静に見ておられ
また、
「お父さんのありがとう劇場が
始まったよ」
という具合だったようです。
しかし、
家族を笑いに包みながらも
最後のありがとうで
逝ってしまわれたということです
「ありがとう」
この言葉を最後に皆に言えたら
最高なのですが
あまり言っていると
「またありがとう劇場」
と言われかねません
かといって
最後まで我慢してと思っていると
言えないまま逝ってしまうかも
しれません。
この「ありがとう」を
いうタイミングは
非常に難しいように思います
早すぎてもいけないし
まだまだと思っていると
言えないまま最期を迎える
かもしれないということです。
しかし、
病院で退院することもできず
点滴やら心臓や呼吸を調べる
器具を取り付けて
看護師さんが、
機械の音で
心臓が止まった
あわてて心臓マッサージを
されて亡くなるより
まだしも家族と共に
好きな猫ちゃんとも一緒に
「ありがとう」も言えて
死を迎えることが出来たことは
何よりもよかったと思います。
兄の死を看取り
つくづく考えさせられました
自分の思い描いたように
死を迎えればいいのですが
交通事故もあり
何の病気が出てくるかも
分かりません
突然心臓が止まるかもしれません
何も分からず
気が付いたら
目の前に閻魔様がいらっしゃる
そういう事態もあるようです。
せめて、
周りの方の手を握り
「ありがとう劇場」
が開催されたら最高ですね。
菩薩という言葉も
もう一般の言葉として使われる
のではないでしょうか
道の辻々で子供たちを見守る
地蔵菩薩
三人寄れば文殊の知恵の
文殊菩薩
最も身近な観音さまの
観世音菩薩
と名前だけでもよく聞く仏さま
しかし、
この菩薩という言葉も
自分の問題として考えた時
見直してみる必要があるようです
そして、
自分にとっても解らないこと
でもあります。
菩薩という言葉も略された言葉で
詳しくは菩提薩埵ボダイサッタ
菩提と薩埵という言葉が
合わさってできた言葉です。
菩提というのは訳すと
目覚める・覚とか道ドウという
ことになります
薩埵は有情とか衆生という
ように訳されます
直訳すれば
覚有情カクウジョウ・道有情ドウウジョウ
または道心衆生というように
訳されます。
また、十界ジュッカイという
人間のあり方を表す位に
下から、地獄・餓鬼・畜生
阿修羅・人間・天
(ここまでが迷いの世界)
声聞・縁覚・菩薩・仏
という世界があり
人間が修行して目指すところの
仏の世界の一歩手前が
菩薩という位です。
そういう位置にあるのも
菩薩というあり方です。
『十地経』のなかでは
「覚存」という表現で出てきます
目覚めた存在、覚存者
自分に目覚めるという
ことをもって生きている。
自分が自分に目覚めることを
もって生き方にしている。
ですから、
仏道という目的は
存覚者を成就するということです
講義の中では
厳しい言葉が続くのですが、
「坊主になるのが仏道じゃない
坊主という宗教的職業家になる
のが仏道じゃない。
本山という大きな寺でも
時がくれば倒れることもある
決まってないけど
倒れることもある。
けど仏道が倒れるということは
ないでしょう。
一遍目を覚ました者が眠るという
ことはあり得ません。」
と続いてくるのですが
何かしら
この言葉が自分を掻き立てる
原動力のようなものです
また、自分の方向が決まった
言葉でもあります。
別な話ですが、
冗談みたいに、
自分が死んだときは
坊さんとしての位は必要ない
と住職には伝えているのです
職業としての坊主でありたくない
という自分の主張なのです。
僧都だとか僧正とか言ってしまえば
自分の生き様が否定されるように
感じてしまいます。
菩薩ということから
それてしまいましたが、
『十地経講義』では
仏教の人間像として「菩薩」
ということをあげておられます
菩提を持った人間
それには二つの方向があるのでは
ないかということです
菩提を求めて修行する立場と
これは人間を超えていくという
方向です
それと反対に
微妙な言葉の使い方ですが
人間から超えるのと
人間へ超えるという方向
上には人間を超えていく
下に降っていくという
菩提心というものに目覚めて
初めて人間に方向ができる
すると求めると同時に
迷っている人を導いていく
ということが出てきます。
そういう、菩薩というのは
二つの方向を持っている
たとえば、
指導者といえども
常に求めて止まない人ですし
それは部下を導いていく
という二つの働きをもった
人ということが出来ます。
まあ、
分からないことだらけですが
一つの問題をもって生きる
ということが大切なように
思います。
いつも背割提、あいにくの雨模様
背割提を見下ろすように出来た
展望台に上ってみる
右に宇治川、左に木津川
この中央に伸びる堤が背割提
片道1.4キロ
この先が三川合流地点
ここからは見えませんが
宇治川の右を桂川が流れています
向こうに見える小高い丘が
天王山です
天正10年(1582)6月2日
明智光秀は本能寺で織田信長を
打ちます
そのあと、羽柴秀吉は高松城から
急遽引き返し
この山崎の地で光秀と秀吉が
激突します
多分ここら付近が
戦場の跡地でしょう
宇治川を下ると37キロ大阪です
秀吉が大阪城を築いた後
伏見城との往復には
この宇治川を利用したのです
宇治には広大な巨椋池があって
水が出るたび氾濫を起こし
悩ませていたようです
今でも残る太閤堤はその水を
宇治川に流すように作られた
ものです。
この三つの川が合流する
この地は交通の要衝の地
向かいの山の岩清水八幡は
上から見下ろす重要な要だった
のです
ふと思いをはせると
一休さんも自坊の酬恩庵シュウオンアン
車で行くとちょっと辺鄙な場所
しかし、
川という水路を使うと
たぶん
京都の大徳寺から出て
伏見まで歩いて
そこから船に乗り宇治川を下り
この三川合流の場所まで来て
乗り換えて木津川に入り
そこを上っていくと
自坊の近くまで行くことが
出来ます。
木津川を上ると奈良の方へ
行くことが出来
大阪へ行くにも京都へ
さらに奈良へと
今でいう高速のインターチェンジ
のような役目をしていたのです
その宇治川から淀川になる川には
「くらわんか舟」が
行き交う旅人たちに汁や餅、などを
提供していたということです
器は要返却で、
その器の数で勘定したので
その器を捨てて数を誤魔化す
ということがあったようで
今でも川からその茶碗とかが
出てくるということです。
戦いにおいても重要地点
経済面でも物流の要
そういうところがこの地なのですが
今では桜の名所となっています。
信仰心を得て
その信心もやがて深まり
修行に励んでいくと
それはさとりを開く道になると
思うのですが…
ですから、普通には
信心は得やすくさとりを開くことが
難しいと思っています。
信は易く、さとりは難であると
ところが
安田教学の面白いところは
それとは反対に
信を得ることの方が難中の難
であるといっておられます
さとりも容易くはないが
不可能ではないと。
「信」の反対は「疑」です
疑いを破ってこそ信が開ける
疑いを破らずして
絶対に信は開けないと
ただ信じたからエスカレーターに
乗ったように
やがてさとりが開ける
ということはないのです。
今まで自分が信じていたことが
破れて、自分の固執が破られて
始めて開けてくるのです
妙なもので
自分が確信があるわけでは
ないのですが
今まで生きてきたことに固執して
それを絶対に放そうとしない
それで破るのがなかなか困難
になってきます
本当のことが分からないと
それだけでは済まなくて
本当でないことを本当と
信じ込んでしまう
ということに陥ってきます。
以前、
師匠から注意されたことがあって
(まあいつもですが)
「少し間違っていました」
と言うと
「いや少しだけではない
頭のてっぺんから足の先まで
全部間違っている」
と言われたことがあります
これでも…
まじめにやってきたのだから
少しぐらいは良いところが
あるのではないかと思って
いたのですが、
「般若心経に一切顚倒
とあるようにすべてがさかさま
になって生きている
それがあなたの事実の姿」
と言われた時愕然としました。
当たり前に生きているのですが
仏の目から見たら
私たちは逆立ちして生きている
ということなのでしょう。
もって生まれた煩悩もあるし
生きている間に
身についてきた煩悩もある
そういうことを対治しないと
信ということは開けないのです
そのためには
「聞信」といわれるように
聞くしかない、
聞法といわれるように
修行も
聞という教えを聞き
よく考えるという思シがあり
その聞いたことを実践して
始めて今までの自分の思い込みが
破られていくのでしょう。
疑いが破れなければ
信が開くということはない
これはなかなか難しいことで
それで、信が確立する
ということは難中の難といって
いるのです
さとりよりも信心を得ること
その方が難しい
まあ、分からんけど信じる
という程度の信ではないのです
分からないから信じる
という宗教もあるようですが
信とさとり
こういうところを見直した
ところに
安田教学の妙味があるように
思うのです。
ずっと疑問だったことが
何かしら紐がほどけるように
分かったような気がしました。
少し日常を取り戻したような
また、自分の時間を作り
少しずつ歩み始めねばと…
お葬儀の日に
手洗いに入れてあった蓮の蕾
帰る日には満開に開いていました
兄も蓮の台に成仏したのかも
しれません。
以前、「十戒」という映画で
モーゼがユダヤの民を率いて
海に差し掛かったとき
海が大きく割れて
そこを歩いて渡るという場面が
印象的に残っています
その映画でモーゼが神に出会う
場面があります
「あなたは誰か」と
神に問うところがあります
その時の神の答えが
「Ⅰ am who Ⅰ am」
という答えです。
何ともわからない英語でした
しかし、
外国の人に尋ねると
よくわかるとおっしゃる。
で、その問題もそのままに
眠っていたのですが、
『十地経の講義』でも
安田先生も取り上げておられ
それは「ある」という存在として
先生は
「有って在るもんだ」
というように説明されています
ところが、孫たちの話ですが
英語教育の中で
先生から名を呼ばれると
今までの
思っていたことからすると
「Yes」 と答える
だったのですが、そうではなく
「Ⅰ am」
というそうです。
「私はここにいます」
というようなことなのです。
また、
「who are you?」
と聞かれても
「Ⅰ am who Ⅰ am」
と答えるのが正解
私は他の誰でもない私です
という意味です。
それがキャッチコピーになると
「いつも、どこでも、
私らしい装いで」
Ⅰ am who Ⅰ am
という言葉もあるようです。
いつでもどこでも私は私として
という意味合いでしょう
哲学的言葉かと思っていたら
何と普段に使われる言葉なのだと
初めて知りました。
50年余り疑問だったことが
今頃、解けてきたことは
何ともうれしいことでした。
「ある」ということも
大きな問題で、
キリスト教では神から造られて
「ある」という存在です。
ところが、
仏教ではそうではなく
「依ってあるんだ」というのです
因も依る、縁も依る、というので
有るものは在るもの自身によって
あるというのではないのです。
自分自身を持たない
固定した自己を持たない
依ってあるというのが
仏教のとらえかたです
ですから、無我ということが
出てくるのです
人法二無我というように
人も無我であるし
法も無我であるというのです
世間ということも
世間ということがあるのではなく
依ってある
色々な因縁が集まって「在る」
諸法因縁生といってあります。
分かったようでも
ふと見失うと自分があるのだと
すぐ勘違いしてしまいます
そういうことからすれば
神が造ってあるというのではなく
因縁によってあるという
考え方は仏教の真骨頂でしょう。
今朝はそのことが
少しほどけたようで
何かしらうれしい気持ちでした。
菩薩とい仏様
地蔵菩薩とか観世音菩薩(観音)
という名前の仏様が
いらっしゃいますが
具体的にどういう人かといえば
修道的人間ということに
なると思います。
「修道」道を修める
仏法ということも時代によっては
道というように翻訳します
道を修めつつあるという人
それが菩薩といえると思います。
砂利の中に落ちた槇の木の枯葉
箒で履いてもなかなか取れない
仕方なしに
一枚づつ手で取って拾うしかない
けども
どんなにきれいに拾っても
また次の日には落ちてくる
その繰り返し
ふと思う
修道ということも
それに似ているのではないか
到達点はない
いつもその道程にある
菩薩という人も
到達点に行ってしまうのではなく
その道程にあるというのが
菩薩の姿のように思う。
人の一生も
到達点はない
ある意味からすれば
死ということが
到達点かもしれない
しかし
それは道程であるともいえる
76歳
今でいえば早い死かもしれない
しかし
歩み続けた道程からすると
それはそれで完成している
人生だと思う
早い遅いはなく
歩み続けている人生であれば
それはそれで完成している
のではないかと思う。
心の底から
ご苦労さまでした
という言葉が出てくる。
さとりという到達点はない
さとりという道程があるだけ
歩み続けることが
さとりではないかと思う
一服することではない
人の死ぬことの
大変さを見せてくれた
わが身に引き寄せて
あらためて
のんびりできない
どんなことであろうとも
歩を止めてはいけない
歩き続けなくては
つくづく思い知らされました。