今日の 『 熊本日日新聞 新生面 』 の欄に
「 無分別は仏教用語で ~ 」 というくだりがあり、
『 恵楓園 』 の現状が述べられていたのですが、
ちょうど、勉強しているとこが 『 無分別智 』 ということでしたので、
そして、 『 恵楓園 』 は当初からのご縁もあり、
気がかりに読みました。
「 分別智 」 分別する智慧
これは、水の成分は 『 H2O 』 常温では液体
沸騰すれば気体、零度以下になれば固体
などなど知っていくのも、分別していく智慧です。
このこともとても大事なことです。
しかし、これだけでは、水そのもの、の素晴らしさ働きはわかりません。
「 無分別智 」 分別を越えた智慧です。
ただ 「 無分別 」 といってしまうと、
お酒に酔ったのと同じになってしまいます。
無分別の智慧ということが大事です。
運動した後に飲む、水の味
それは 「 なんともいえないほど美味しい 」
そういう知り方を 「 無分別智 」 ( 少し簡単ですが )
といってもいいと思います。
そのものになって知る。
以前、 『 司馬遼太郎 』 さんが
『 空海の風景 』 という本をかかれました。
なぜ、 「 風景 」 とされたのですか ?
「 いくら勉強しても、空海そのものは知ることが出来ない。
空海の周りをうろうろしてるだけです。 」
と謙遜して、おっしゃっていました。
「 空海と同じ 『 行 』 ( 修行 ) をすれば
空海の気持がわかるかもしれない。」
修行できる私たちをとても羨ましく思っておられました。
( 修行しても何も感じることは出来なかったのですが )
『 無分別智 』 という概念は
キリスト教では 『 愛 』 ということにも通じると思います。
また、仏教でも 『 空 』 とか 『 如 』 と関連してくる
言葉でもあるのです。
新聞にケチつけるわけではありませんが、
ただ、 『 無分別 』 と 『 無分別智 』 は違うということ
仏教でいう 『 無分別 』 は 『 智 』 がつくのです。
仏教は一言でいうと 『 智が根底にある教 』 とうことです。
「 無分別は仏教用語で ~ 」 というくだりがあり、
『 恵楓園 』 の現状が述べられていたのですが、
ちょうど、勉強しているとこが 『 無分別智 』 ということでしたので、
そして、 『 恵楓園 』 は当初からのご縁もあり、
気がかりに読みました。
「 分別智 」 分別する智慧
これは、水の成分は 『 H2O 』 常温では液体
沸騰すれば気体、零度以下になれば固体
などなど知っていくのも、分別していく智慧です。
このこともとても大事なことです。
しかし、これだけでは、水そのもの、の素晴らしさ働きはわかりません。
「 無分別智 」 分別を越えた智慧です。
ただ 「 無分別 」 といってしまうと、
お酒に酔ったのと同じになってしまいます。
無分別の智慧ということが大事です。
運動した後に飲む、水の味
それは 「 なんともいえないほど美味しい 」
そういう知り方を 「 無分別智 」 ( 少し簡単ですが )
といってもいいと思います。
そのものになって知る。
以前、 『 司馬遼太郎 』 さんが
『 空海の風景 』 という本をかかれました。
なぜ、 「 風景 」 とされたのですか ?
「 いくら勉強しても、空海そのものは知ることが出来ない。
空海の周りをうろうろしてるだけです。 」
と謙遜して、おっしゃっていました。
「 空海と同じ 『 行 』 ( 修行 ) をすれば
空海の気持がわかるかもしれない。」
修行できる私たちをとても羨ましく思っておられました。
( 修行しても何も感じることは出来なかったのですが )
『 無分別智 』 という概念は
キリスト教では 『 愛 』 ということにも通じると思います。
また、仏教でも 『 空 』 とか 『 如 』 と関連してくる
言葉でもあるのです。
新聞にケチつけるわけではありませんが、
ただ、 『 無分別 』 と 『 無分別智 』 は違うということ
仏教でいう 『 無分別 』 は 『 智 』 がつくのです。
仏教は一言でいうと 『 智が根底にある教 』 とうことです。