本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉

2006-12-25 23:36:20 | 住職の活動日記
 先週は、「念ずれば花開く」仏教詩人 坂村真民さんが
12月11日亡くなられました。
 以前よりこの方の詩は愛読していましたので、
真民先生の死を痛み
 
 「いじけるな あるがままに 
   おのれの道を 素直に 一途に歩け」

 にしました。
 蓮華院誕生寺さんで「念ずれば花開く」の記念碑の除幕式があったとき
真民先生と一緒に記念写真を撮らせて頂いたのを思い出します。

 今週は今年最後の今週の言葉になりました。
雑誌の中のマハトマ・ガンジーの言葉が目にとまりましたので
この言葉に決めました。

 「明日死ぬつもりで 生きなさい
   永遠に生きるつもりで 学びなさい」

 むかし、ガンジーが日本に来た時、
日本人を見て、「胃袋と生殖器が歩いている」といったそうです。
厳しい言葉ですね。
 しかし、今のテレビは胃袋と生殖器に関するものが大半のようです
グルメと……
 ローマ帝国は「パンとサーカス」で滅んだといわれてます。
今の時代に当てはめると、「グルメとお笑い」ということでしょうか。
そういわれてみると、今のテレビはグルメとお笑いしかないようです。

 今週の言葉も非常に意味のある言葉だと思います。
繰り返し読んで、考えてみる。含蓄がある。
 明日死ぬというと 普通は「どうせ死ぬんだ」とやけくそに成るでしょう
どうせ が、いかんですね。だから死ぬまで修行というのでしょう。
永遠に学ぼうという心構えですよね。
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その後の子猫

2006-12-21 22:57:34 | 住職の活動日記
 今、一番古株の『アヤチャン』が膝のうえで甘えています。
そのわけは、居間のほうは銀太と新参者の子猫が占領してるからです。
何匹でも飼いたいのですが、猫同志はなかなか仲良くなりません。
猫は本来孤高のハンターなのでしょうか。
子猫は銀太についてやって来ただけのことはあって、とても仲良くなりました。
日が経つにつれて寝るのも一緒、ご飯も同じ皿のご飯を一緒に食べます。
銀太にとっては動くおもちゃが来た感覚なのでしょうか。
なんか本気でかんだり、捕まえたりと、仲裁に入るのが大変です。
 いつもの場所をこのお二人さんが暴れまわってますので、
古株のアヤチャンとマロチャンは居場所を探すのに大変なようです。
寝る時が一番幸せのようで、アヤチャンは私の横で上手にシーツを
枕にして、マロは足もとが定位置にしています。
 早く、この4匹の距離が縮まるのを願っております。
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子猫がやってきた

2006-12-19 23:53:57 | 住職の活動日記
 18日の朝、小雨降る寒い朝、どうも子猫の声がするような…
外に出ててみるがみあたらない。気のせいか?
どうも気になり、となりの墓のあたりを見に行く、
半年前までは同じ境遇の『銀太』が一緒についてきた
 やっぱりいた、銀太の姿を見ると、ちょろちょろとでて来た。
銀太と同じトラ模様。ちっちゃな子猫。目やにが出ている、
クシュンクシュンして、鼻水も出ている様子。どうも風邪をひいてる。
捕まえようとするが、怖がって逃げていく。
この雨の中、なんとかしないと、死んでしまうかもしれない。
 銀太が気に入ったらしく、銀太の後をついてまわり、姿が見えないと
すごい声でなく。ここはいったん銀太君に任せて、私たちは引き上げる事に、
案の定、銀太について、ヨチヨチお寺の中へはいってきた。
 捕獲成功。鼻水で顔はクチャクチャ、鼻声か泣き声もすごい、
一応かごに入れて、寒くないように毛布をかけて、
 夜、病院に連れて行くまでの辛抱。
今日、18日は「お観音さん」の日で、私は大変忙しい日なのです。
朝は「めくら観音」と呼ばれている、日本最後のあだ討ちがあり、その供養のために
建てられたお観音さんに町内の方々とお参り。
 1時からは菩提樹苑の永代供養墓、島崎観音の毎月のお参り、
(今年最後の月ということもあって大勢の方々のお参りがあり)
4時からはお寺の全体会議。
7時過ぎ、やっと子猫を「竜之介動物病院」へ
たくさんの方々が待っておられる、(夕ご飯食べてくればよかった)
空腹は少し我慢してここは子猫が一番と順番を待つ。
「また飼いますか」と院長先生、「はい、一応」(また一人増える)
3ヶ月のメス、名前はまだ決まってないが、
カルテには「蔵本 トラ」と書いてあった。
家族みんなで相談して、立派な名前を考えるからね、それまでは
トラでいてください。
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岐路に立つ

2006-12-15 23:20:00 | 住職の活動日記
 生きていく時、大なり小なり岐路にたたされる時が必ずあります。
先日、あるご夫人がご相談にお見えになりました。
そのとき、ふと師匠の言葉を思い出しました。
 もう20数年前になるでしょうか、
その時、私の悩んでいる姿を見て、その場にあったメモ用紙に
走り書きされたものを頂きました。

 『人生の困難は免疫を得る為のワクチンのようなもので、
  逞しい人生は只、苦難を恐れているだけでは不可能であり、
  それには進んで苦難というワクチンで
  心の免疫をつけねばならぬ
  
  明日のことは思い患うな…明日のことは明日自身が思い患うであろう。
  一日の苦労は、その一日だけで充分である。(聖書マタイ伝)

  本当は自己の最善を尽くしてみると、しみじみと人間はそれ以上のことは
  何もできない事がわかり、文字どおり、やれるだけやって
  後は明日に任せようという気持ちになる。捨てゼリフではなく、
  成るように成るのである
  明日のことをくよくよ思い患うより、今日の自己の最善をつくして
  ことに当たるべきである。道は自ずからひらかれる
   明日は明日の風が吹く
    妄想に患う勿れ 心の安らぎが 何よりである
  ショウペンハウエルは
   (人間は兎角不平不満と退屈の間をウロウロうろつきがちだ)
  と述べているがなかなか味のある言葉である。
  例えば、地位も金もなければ欲しいのであろうが、 
  さて 実際手にしてみれば、それほどのものではないのではなかろうか。
  なるほど、持たなかった人が、そういうものを得れば一時は嬉しかろうが、
  こういう満足は長続きせず、すぐまた飽きて、次にまた
  持たざるものに対して新しい欲望が起きるのである。
  たしかに人間はただ外的なものにあこがれている限りでは、
  兎に角、不満と退屈の間をうろつき廻るように成るのであろうが、
  それだけでは人生はあまりにも味がなさすぎる。
  文化を解する人間である以上は何かそこに精神的なものが欲しい
 
   労働の仕事を得たる嬉しさに
        坐りて大地を拝みたる日よ  』

 このご夫人にその話をして、このメモをコピーしてお渡しいたしました。
しばらくして、すべてがすっきり片付きました。本当に肩の荷が下りました。
とお礼にお見えになりました。  
 本当に自分の最善を尽くしてみると、それ以上のことは何もできない事が
わかり、他と比べ合う心もなくなり、素直に明日に任せようという気持ちになるものです。
このボロボロになった師匠からのメモ用紙は私の宝物です。 
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今週の言葉

2006-12-12 23:48:51 | 住職の活動日記
 『仏にはなれないが 仏になろう』
 今週の言葉は先日聞法会で虎頭先生よりお聞きした、
この言葉にしました。
 不思議な言葉です。仏にはなれない、しかし 仏になろう、というのです。
矛盾した言葉でもあります。
 本当の事は、矛盾してることが同時に成り立つ。そういうことではないでしょうか。
事実は理論立ててその通りにあるのではないのです。
「絶対矛盾の自己同一」ということを言われた哲学者もおられました。
仏教でも、
 十善戒ということが、先ず最初に出てきます。
その第一が『不殺生戒』です。生き物の命を取ってはならない。
人間が生きるということは、他の命の犠牲のうえに成り立っています。
他の命を頂けなければ生きていけない、食べなかったら
自分が死ぬ、自分を殺生することになる。
食べれば他を殺生、食べなければ自分を殺生
 だから仏教的には生きるということは
大きな矛盾の上に成り立っているのです。
 仏にはなれない、ふつうは『どうせ』がつくのです。
どうせ仏になれないのだから、…
べつに、そう無理しなくても  
仏になれないが
 仏になろう   という方向性これが大事です。
仏のほうを向いた方向づけられた人を『菩薩』(ぼさつ)といいます。
 仏になろう、という方向が大事ではないでしょうか。
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聞法会(もんぽうかい)

2006-12-09 15:18:10 | 住職の活動日記
 7日8日と聞法会がありました。
毎月不定期ですが、会を開いております。
京都より虎頭先生にご足労いただいております。
虎頭先生とは京都にいる時から、ずっとお世話になっている先生です。
 12月8日は「成道会」(じょうどえ)といいまして、
お釈迦さまが悟りを開かれた大事な日にあたります。

 聞法、法を聞くということが人間にとって一番大事なことですが
なかなか自分を無にして、人の話を聞くということは難しい事です。
修行の第一歩は「声聞」(しょうもん)という位で
まず、聴くということから始まります。
いろいろ修行はありますが、やはり「聴く」という修行が
一番難しいと思います。
 今回も、今日は聞法会というものの、朝から法務に追われ
頭が切り替わらないのです。「ああ、今日の聞法会どうなるやら」
と思いつつも、聞き出すと時のたつのも忘れ集中する事が出来ました。
 「わからない」けど「わかる」
 もし、自分にわかるような話であれば、たかがしれてる、
自分にわからん話だからこそ、「広くて・深い」話だと思います。
今の世の中、あまりにもわかることだけを求めてる気がします。
自分の手におえない、そんな話が大事ではないでしょうか。
解るから聴く、わからんから聴かん、それは自分のそろばん(打算)
解る解らんを超えて、「聴く」その場に身を置く
それが大事だと思う。
 昔の方は「仏法は毛穴からはいる」と言われてます。
ほんものの話に触れる…わかるわからんは二の次でいい
 今わが家では、家族だけのささやかな聞法会です。
虎頭先生には申し訳ないような、私達だけでお聞きするのは
もったいないような、しかし
 今の私には何ものにもかえがたい最高の時間です。
 
 またその後の、人生を語りつつ飲むお酒も最高に美味しいものです。
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今週の言葉

2006-12-04 12:22:37 | 住職の活動日記
 「苦労して得たものは 身について離れない」

 「身」ということに注目しました。
苦労ということも、経験ですから、そして辛いこと悲しいことも
こころが感じるわけですから、苦労の経験はこころというか
意識に蓄積されていくわけです。
 正確には、「苦労して得たものは 心について離れない」 でしょう。
「身」ということを言うのは仏教の考え方ではないでしょうか。
最近世間では、やけに「こころ」という言葉もてはやされます、
「こころのふれあい」「こころ大切に」などなど、一応「こころ」と
つけておけば、なんかその雰囲気が出るような…
 しかし仏教は「身」ということを言うのですね。
心は嘘つくし、ごまかしもします。身・からだの方が正直なんだと。
身の意識、ということもいいます。そこに身をおく、現にそこにいることを
大事にするのです。
 変な喩えですが「坊主憎けりゃ 袈裟まで憎い」といでしょう。
憎いのは坊主だけでいいのですが、
着ている袈裟までが憎いというのですね。
それもこころの仕業なんです。こころが勝手に思い込むのです。
 嫌いな人と一緒にいるのもいや、そして嫌と思いだしたら
その人とおんなじ空気を吸うのもいやとエスカレートしてくるでしょう。
「身」は好きだろうが嫌だろうが同じように空気を吸っているのです。
ここに「身」と「心」という微妙な問題があります。
 いくらこころでトレーニングを考えても
実際行わなかったなんにもなりません。
やってみると心で考えてた事と
事実が違っていることがはっきりしてきます。
修行も身に染みこまさせていくということです。
心に染み込んでいくことを身につくというのでしょう。
こわいのは、良いことも悪いことも繰り返しやっていると
それが心に染み込んでいき身についていくと
取り返しのつかないことになってしまいます。
 嘘をつく、その時は無事切り抜けられます。
しかし嘘が身についていくと、繰り返ししているうちに
しまいにはその人の人生そのもが嘘の人生だったとなりかねません。
 なにげない身の行いが実は自分の人生を作り上げていってる
という側面を持っていることを気をつけなければなりません。
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おやじ改造中

2006-12-04 00:11:28 | 住職の活動日記
 以前「ちょい悪おやじ」風にひげを伸ばしてみました。
しかし、妻の目には「ただのショボクレ親父ネ」と見えていたようです。
軽くあしらわれてしまいました。
よくよく鏡を見ると、確かに。
 妻の勧めもあり、一念発起。
今、済生会病院のメディカルフィットネスセンターへ
通い始めました。時間が取れずあまり真面目には出来ませんが、
写真のとおり素敵な健康運動指導士のおかげで頑張っております。
とてもフットワークもよく、丁寧に教えていただいてます。
(右の方が 澤田 絢さん 左の方が 小美沙さんです。)

 元気な老後を過ごすためにも、これからもご指導よろしくお願いします。

「私は他の人のために働く時が 最も幸せで 最高の時なのです」
            ワンガリー・マータイ
の言葉のような、人生を送るためにも元気でいたいと念じてます。
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パンジーを植える

2006-12-02 18:44:11 | 住職の活動日記
 9時より本荘校区9町内の方々とパンジーを植えました。
熊本市の「花いっぱい運動」の一環で市より200株頂きました。
産業道路のケヤキの下に植えてあります。
地域医療センターより熊本駅に向かって、
東光石油さんの前より竜之介動物病院さんの前あたり前です。
(この区間が本荘9町内になります)
 これから花を咲かせていくと思いますので、
通りすがりに見てください。
 「よく咲いたね」とお声をかけていただければ、
パンジーさんも喜んでくれると思います。
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生きる力を育てる

2006-12-01 01:19:56 | 住職の活動日記
 「生きる力を育てる教育」ということが
最近よく言われています。
 なんかひっかかるのです。おかしいような気がしませんか。
すべての生き物は自ずから、生きる力は持っています。
そこまで教育しなければいけないのか?
 檀家さんのお宅で、そこの息子さんは仕事でよく外国へ
いかれるそうで、「どうですか」と尋ねたら。
「むこうの方は皆必死に生きておられますよ、
日本に帰ってくると、みなのんびりしてる気がします。」
 
 仏教では、人間とは「苦なるものであり、不浄なものであり、
無常なものである」と定義しています。

 現代の一番の間違いは、自分にとって都合の悪いものは
見ないように隠してしまったことではないでしょうか。
 つまり、すべてのもに訪れる、老、病、死という
嫌なものは、極力見ないように、すこしでも忘れておれるように、
と当然のことをとうざけてきた結果ではないかと思います。

 ペットのお寺を建立しました。ペットの死ということの方が
「死」ということを身近に感じてもらえるからなのです。
人間の死の方が身近ではなくなってきています。
 そこでは子どもさんも、立派な大人の方も、号泣されます。
かわいかったペットの死、生あるものは必ず死んでいくという
現実を受け入れざるをえません。
 そのときに生きるということの貴重さを
身をもって体験されるわけです。
 死があるからこそ、生きることが輝くのです。

 だから、生きることの教育より
死ぬことの教育(死への準備教育)ということのが必要に思います。
養老猛先生の「死の壁」という本も一読の価値があります。
 死を前にしたき、人ははじめて真面目になります。
死を忘れた生ということはありえません。
死を抜きにして、生きる力育てるということは
何か欠けているような気がします。
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