本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

教化と教育

2023-02-26 20:24:22 | 十地経

教化(きょうけ)

ということがでてきます

これは教導化益

(きょうどうけやく)

ということで、

教えを説いて衆生を導き

めぐみを与える、

ということです。

 

「どういう世界の

どういう衆生を、

どういう道によって、

どういう乗(じょう)に

置くかと、こういうことが、

これによってこれに

答えることによって、

衆生を成就するってことが

あるんです。

つまりこれは広くいえば、

教育ですね。

 

こんな大きな問題があった

んですね。

やっぱりこれは教育と

いわずに教化というんです

けど、これは

教化というのは

根本的には教育なんです。

やっぱり教化という根底に

教育ということが成り立つと

思うんです。

色んな能力を引き出す

というのが教育ですね。

いうならば学校教育ですが、

今はいわゆる人間教育ですね。

 

人間を完成するという。

そういうものは

教育といわずに教化と

言われていますが。

というのは、

それは子供を大人にする教育

じゃないからです。

人間を失っとる者をして

人間を回復せしめるから、

教化。

子供を大人にするという教育

じゃないんだ。

 

人間を完成すると、

本来の人間に完成すると。

根本的教育ですね。

それをやっぱり

教化という字を使うわけです

 

何等の衆生を利益するのかと

菩薩は修行して。

衆生利益の修行です。

つまり一切衆生を成就する

という方法を通して

自分も成就しようと、

こういうのが菩薩です。

 

こんなこというと、

何のことか分からんけど、

公生活、私生活というのなら

公生活をもって私生活年とる

と、こういうわけや。

公生活をもって私生活と

すると。

一切衆生を成就する方法を

もって自己を成就すると、

こういうのがまあ菩薩道です

 

まあいうたら、

こういうのが非常に面白い

と思うんです。

楽屋裏を持たんというのです

私室を持たんと。

これはなかなか容易でない。

口で言えば何でもない話

ですけどね。

 

公私ってことは、

絶えず混乱するものでしてね

社会生活が非常に困難だ

というのは、

そういうところにあるんです

公私の区別があるけど、

また公私を混乱する。

 

公私の区別がありつつ、

しかも公をもって私となすと

これはなかなか

容易でないんですね。」

 

お寺では特にそうですが

公私混同ということが

大きな問題です

特に注意が必要です。

 

三浦先生も

こういう話しがあって

でしょうか

校長室を持たれなかった

事務所の一角に校長の机が

あったのです。

「みずすまし」という

あだ名がついたほど

机に座ることなく

こまめにあちこち動いて

雑用をこなしておられた

ようです。

 

お寺の運営についても

厳しく公私混同を

注意されましたものです。

廃れるのも発展するのも

公と個人の分水嶺が

混乱してくるからです。

 

安田先生も常に

教育ということが頭にあって

宗教の実践は教育だと

いうことを仰っていました。

教化、教育ということも

大切な問題です。

 

 

 

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世界内存在

2023-02-24 21:24:04 | 十地経

『十地経』で、

今読んでいるところが

「無量」ということと

「無功用」(むくゆう)と

いうことが出てきています

それで無量ということで

「何等の衆生」と

無量に修行しようと、

衆生ということが無量

なんです

そして

「衆生はどこに住している

か」

ということが出て来ます。

 

「衆生はあるけど

どこに住しているかという。

どっかにおるものでしょう。

つまり境遇というものです。

今日では、有名な、

ハイデッガーの存在論

なんかでも人間存在という、

現実存在というものを

考えるのに

世界内存在といって、

In‐der-Welt‐sein

といいますね。

世界内存在と、その世界です

衆生の問題が次に

今度は世界という問題に

移ってくる。」

 

世界という言葉も

ワールドという方が

最近は通じるかもしれません

ディズニーの

「小さな世界」という歌が

有名です

また、サッチモの

「何と素晴らしい世界」

というヒットソングも

あります。

 

しかし、

広辞苑を引いてみても

世界という言葉の

一番初めの説明は

仏教語と有ります

それによると

「衆生が住む時間・空間。

”世”は過去・現在・未来の

三世、

“界”は東西南北上下を指す。」

とあります

 

仏教辞典では

もう少し詳しく

「ローカ・ダートゥ、

壊れるべき場所の意。

時間的には生滅変化の

移り変わりがあり、

空間的には方位などの

限定がある場所の意味で、

衆生が住んでいる場所。」

とあります。

更にもっと詳しく述べて

あるのですが、

 

漢和辞典では

「世」というのは

三十ということから出てきた

字で、

それから一代という意味も

出てきたようです

昔は30年が一世代だった

のではないでしょうか。

 

「世界においてあるもの、

In‐der-Welt‐sein と

こういうように

世界内存在ですね。

世界においてあるもの、

それが衆生なんです。

どっかにおいてあるもの

なんです。

 

まあこういうところに

社会ということの

基礎があるんです。

歴史とか。

これは、

世というのが時であるなら

界はやっぱり空間という

ようなものです。

世が歴史であるなら、

界の方は社会なんだ。

歴史的社会的に、

おいてあるもんだ。

 

そういう限定をもってですね

歴史的社会的限定において

あるものといえば

それは衆生ですね。

やっぱり

どうしても衆生という問題を

無量の衆生という問題を

考えてくると、

どうしてもそこに

世界ということが出てくる」

 

と続くのですが

「世界」ということも

仏教語ということも

驚きですが

時と場所を以て生きている

それを衆生と

厳密な意味があるのですが

それをワールドと、

いや、ワールドを世界と

訳したのはどういう意味合い

でしょうか

 

ワン・ワールドと

それは神のもとに一つの世界

というのでしょう

ところが仏教では

それぞれが一つの世界を

持っている、という意味では

世界ということも

西洋の神がいる考えとは

少し違うように思います

 

それぞれの世界を持っている

のですから

それを一つにしようと

するところに無理があり

問題も起きてきて

火種の下となっている

ような気がするのですが…

 

 

 

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京都駅・石の博物館

2023-02-21 20:35:19 | 住職の活動日記

京都駅を通るすべての人が

その傍を通っているのですが

誰もの気がつかないのでは

ないでしょうか

 

そういう私も

このことを聞くまでは

全く気がつかなかったのです

 

 

駅の北側にある大きな柱

この柱に埋め込んである

小さな石の見本群

世界各地から集められた

石があるのです

 

 

これはギリシャからの石

 

 

色とりどり

ところ変われば採れる石も

姿も模様も変わって

くるものです

 

 

向こうには京都タワーが

見るのですが

まあそういう位置関係です

 

 

こちらの一群は

フィンランドから来たもの

 

 

この一群は

お釈迦さまのふるさと

インドから来たものです

 

 

こういう珍しい模様の石は

イランから来たもの

 

 

こちらはウクライナから

来た石もあります

 

もちろん日本で採れた石も

たくさん展示されています

そういう思いであらためて

この京都駅ビルを

眺めてみると

実にたくさんの石が使われて

いるのです

 

 

こういう壁面にも

色々の違った石がふんだんに

使われています

 

 

この張ってある技術も

大したものです

石を張るのはなかなか難しい

ものです

 

こうやって見てみると

この駅ビル自身が石の博物館

のようでもあるようです

 

説明には

「京都駅北側6箇所の

あずまやに集められた石は

288種類、

表記してあります

主な産出国は35カ国です。

実際に、

この建物に貼られている石材

は73種類です。

石の名称は、学名でなく

石材名です。

石材名は、いろいろに名づけ

られていますが、

ここに示してありますのは

その1例にすぎません。」

と出ています。

 

こういう視点で京都駅ビルを

眺めてみると

また面白い発見があるかも

しれませんね。

 

 

 

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無窓忌・安田先生ご命日

2023-02-19 20:15:27 | 十地経

1982年2月19日

先生はご逝去されました

82歳でした

法名は「相応院釈理深」です

そのご命日を「無窓忌」と

いうのです

なかなか意味慎重な内容で

「無窓」というのは

正しくは分からないのです

 

ライプニッツの

「モナドには窓がない」

という言葉も一つのヒント

なのです

講義の中に

「予定調和」ということも

何か鍵になる言葉のようで

 

「ライプニッツという人が

ありまして、

ハーモニーという概念が、

大事な根本概念に

なっていますが、

調和ということがね、

予定調和ということがね。

まあ、それには、

色々と問題を含んでいるん

ですが、

仏教の、今いったような

存在の秩序ということを

考えると、

予定調和ということも、

非常に純粋に生きてくる

んじゃないかと思うんです。」

 

ライプニッツという人

ドイツの数学者で哲学者

そして神学者です

微積分学の形成者。

モナド論ないし予定調和の説

によって、

哲学上・神学上の対立的見解の

調停を試みた。

と辞書には出て来ます。

 

また、ネット上には

世界の秩序は神があらかじめ

定めた結果だとする説。

宇宙は互いに独立したモナド

からなり、

宇宙が統一的な秩序状態に

あるのは、

神によってモナド間に

調和関係が生じるように

あらかじめ定められている

からであるという説。

 

というよなことを

見ていましたがこれといって

核心に迫るものがありません

もっと読み込んでいけば

またどこかに

ヒントになる言葉が

見つかるかもしれません。

 

先生の「理深」という

お名前も語っておられる

ところがありました

 

「ぼくが僧籍に入ったとき、

名前をつけんならん。

ぼくは人間の名前で

いちばんいいのは一茶とか

ああいう俳人の名だと

思っていた。

そんなしゃれた名前を考えて

曽我さんのところへ

相談に行ったんや。

そしたら曽我さんは、

そんなもんには賛成せんわね

洒落気というものを

ちゃんと見てしまっている。

そのとき、

ぼくは自分の学問で唯識の

『解深密経』ゲジンミッキョウ

というのがあったからね、

「解深」と言ったら、

これだけはいいと

取り上げたね。

そして、

解深ではあるけれども

理深くということで、

「理深」リジン

ということにしたんですわ。

量深リョウジン(曽我量深)

よりいいわね(爆笑)。

”安田君の名前の方が

よくなったね”

と曽我さんは

言われて…(爆笑)。

名前だけはいいんです。」

 

先生は1900年(明治33年)

兵庫県美方郡に生まれ

キリスト教関係の幼稚園

それから16歳の頃には

禅宗で受戒され

19歳の頃

金子大栄著『仏教概論』に

感動され、大谷大学で

学び始められました。

 

先生は一生の間

これという職に就くことなく

生涯、学生として過ごされ

ましたが、

ただ一度だけ

昭和36年61歳の時

大谷大学の非常勤講師

昭和41年66歳の時には

大学を退職されています。

 

そこ頃、私も在籍し

先生が緑の色のダブルの

背広で校内を歩いている

姿を拝見しました。

 

何回も無窓忌について

書いているのですが

これといって確証になる

ことは分かりません。

こういう秘密の鍵みたいな

言葉も調べがいのある

残されたものにとっても

勉強すべき課題のようです。

 

 

 

 

 

 

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無量自然は仏の世界

2023-02-18 21:05:21 | 十地経

自然、仏教では「じねん」と

読みます

「無量と自然」

第七地では大切な問題です

自然ということは

無功用(むくゆう)という

言葉でも出て来ます

 

「むくゆう」「うくゆう」

面白い響きを持った言葉で

興味をもった言葉です

漢字では「無功用」「有功用」

と書きます

普通には「こうよう」と

読んでしまいますが

仏教読みでは「くゆう」と

なります

 

簡単には努力する世界が

有功用で、

努力という意識もなくなる

そういう努力が無功用という

ような意味です

 

「これは我々、

何とも思っておらんですけど

必要があるから、

求められる。

求められると何か工夫する、

工夫するとそれが出てくる

こんな不思議なことが

あるでしょうか。

精神の不思議というのは

そういうことです。

打てば響くというのは。

 

その響かんように

しとるところに何か、

障りがあるんだ。

精神が悪いのじゃない、

精神の無限のはたらきを

何か妨げてるものがある。

 

それは非常に横着なこと

でしょう。

やるだけのことを

やらせてもらう

というようなこといって、

あれはいかにも

謙譲のようだけど、

あれはこすいんです。

裸になっとらんです。

何か責められたらその時に

答えるという

弁明を考えとるんや。

だからして、

やれる範疇で、

というようなことは

すでに計算を終えて、

算盤をはじいとる。

そういうものが妨げるん

ですよ、

打てば響くという精神を。

 

だからして、無量種

ということが、

無量って概念がこれが

『華厳経』では、

無尽ってこともあるね、

尽きないと。

無尽蔵というような。

これは精神生活というものを

考えるのに非常に大事な

根本概念です。

 

それからもう一つは

無功用、自然です。自然。

自ずから然るという。

この無尽、無量だけど、

その修行という範囲に

修行を超えた無量自然という

ことが映っとるわけです。

 

自然というのは、

修行を超えとるでしょう。

自然にできるのは

修行じゃない。

しかしそれが

修行を超えた自然が

修行の中に反映している

わけです。

それだから

修行が修行を超えていける

のでしょう。」

 

先日テレビで

車椅子バスケットの

鳥海選手のドキュメントが

ありました

本当に困難を乗り越えられた

のですね

しかし

当の本人にとっては

「できないことが多いから

 楽しい」と、

手の皮むけ、

車椅子で転びながらも

何度も何度も繰り返す

そのことが苦痛ではなく

楽しいと、

こういう努力があっての

最優秀選手に選ばれる

のでしょうが

本人にとってはまだまだと

そういう姿を見たとき

努力無功用行

ということがぴったり

当てはまるように感じました

 

ある面、こういう心境が

「無量自然は仏の世界」

ということなのかも

しれませんね。

 

 

 

 

 

 

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お釈迦さま涅槃会

2023-02-15 20:00:57 | 住職の活動日記

2月15日お釈迦さまは

入定され涅槃に入られました

涅槃(ねはん)という言葉も

それ自体に意味はなく

ニルバーナという言葉を

音写したものです

意味は「吹き消す」という

ことで、

人間の煩悩が吹き消された

ということから生まれた

言葉です。

 

お釈迦さまの最後の旅は

80歳の時

旅立たれました

このとき、老齢の身の

お釈迦さま杖を頼りに

身体に鞭ながらの旅でした

途中、

病気に罹られます

この時は

「留寿行」ルズギョウという

命を長らえる行で

精神力で乗り越えられます。

 

「阿難よ、私も年老いた。

年を取り、総壮年期は過ぎ

晩年に達した。

私ももう齢ヨワイ80になった」

 

と仰っています

この言葉のように

お釈迦さまの年齢は80歳と

わかるのです

 

この年の前年

お弟子の舎利弗(舎利子)と

目連が亡くなられます

このことも精神的に大きく

作用したと思われるのです

お経もすべて

舎利弗に対して説かれた

といってもいいのです

『般若心経』にも

あの短いお経の中に舎利子の

名前が二度も出て来ます

頭も聡明で

お釈迦さまの話を

一番理解した人です。

 

そして、

最後の供養となったのが

鍛冶職人のチュンダが

差し上げた、野ブタの肉とか

野ブタが食べるキノコとか

いろいろ説がありますが

その食事で体を壊され

大変な苦痛だったようです

 

それでも

杖に捉まりながら遊行に

足を進められます

ところが、

もう体力の限界

沐浴した後、川から上がる

力もなくなって

お付きの阿難に

上げてくれと頼まれます

 

やっとの思いで上がられた

お釈迦さまは

あの沙羅の木の下に

床を敷いてくれと

阿難に頼まれます

何時もは坐を組んで座られる

のですが、

この時ばかりは

頭を北に向けて顔を西に向け

足を揃えて休まれます

 

お釈迦さまのうわさを聞き

最後のお弟子となられる

スバッタという方が

教えを乞いに来られます

お釈迦さまの状態を知る

阿難は断ります

 

その様子を聞き付けた

お釈迦さまは

「私の前へ通しなさい」

と仰います

スバッタの質問は

「本当の沙門とは」

ということです

その問いに対して

「スバッタよ。

私は善を求めて出家した。

出家してから50年となった

その間、正しい法と善を求め

50年となった。

これ以外に沙門はいない。」

と答えれました。

 

この言葉を聞いて

スバッタはすぐに出家し

最後のお弟子となったのです

普通は4ヶ月ほど掛るのです

が、それを飛び越えて

特別のお許しで弟子になった

ということです

 

そしていよいよ

お釈迦さまの最後の言葉と

なります

「諸行は無常である

怠りなく勤め励みなさい」

と仰ったのです

すべては無常であるから

好きにやれとは

仰らないで、勤め励め

そして自分の一生を大切に

生きなさい

ということです

 

そして、三昧の世界(定)に

入っていかれます

この様子を見ていたのは

天眼第一と言われた

阿那律アナリツです

天眼でもってお釈迦さまの

心の中を覗けたのです

今、第一禅に入られた

次に第二禅に入られた

次々に禅定を深めていかれ

ついに、非想非非想処という

世界に入っていかれる

そして今まさに

お釈迦さまは入定された

涅槃に入られた

ということを看取って

お釈迦様の死を確認した

のです。

 

それで、

あの大きな金色に光る

お釈迦さまの涅槃像は

阿難尊者が見た

お釈迦さまのお姿なのです

しかし、現実のお姿は

やせ細った体もボロボロの

姿がありのままの姿なの

でしょう。

 

すべてやり尽くした

燃え尽きた

(燃え尽き症候群とは

違います)

為すべきことを成し終えた

ということでしょう。

 

最後の旅を読み直して

いると

お釈迦さまの最後の姿が

あらためて浮かんできます。

 

 

 

 

 

 

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打てば響く

2023-02-13 20:45:04 | 十地経

「十地経講義」の中で

「打てば響く」という言葉

とても強く心に残ったものです

人とのつき合いでも

その人との響き合うものが

なかったら

成り立たないでしょうし、

仕事の面でも

その仕事と響き合うことが

なかったら仕事も出来ない

ものです。

何をするにも

「打てば響く」という

心意気がなかったら

成り立たないのでしょう。

 

しかし、講義では

もっと精神面のことで

苦難なことがあっても

その苦難に応えていく精神力

そういうことが

「打てば響く」という意味で

語られています。

 

そこで、

「無量」ということと

「無功用」(むくゆう)という

二つのことが出て来ます。

 

「それから無功用ってことは

これは何かというと

自然(じねん)というんです

自然である。

つまり、努力というような、

いかに無量であることが

できても、

更にそれを努力で無量にする

というような。

これは、人間の努力に、

努力というもに

期待しとるようでは

この修行は完成しないん

でしょう。

 

無量であって、

かつ自然ですね。

これも非常に大事な概念です

精神生活というものにとって

無量であるということと

自然であるということですね

 

できるだけのことをやる

というのじゃないんです。

必要に応じて無限にやると、

打てば響くというわけです。

臨機応変というのも

みんなそれですわ。

臨機応変です。

 

何かそこへあらかじめ

何か準備してあって、

それでやるというのじゃない

そうしたら

種が尽きるということになる

そうじゃなしに、

打てば響くというんですよ。

 

だから響くのは打ち方に

応ずるわけです。

何か精神というものは、

これだけってことが

いえんものなんです。

打てば響くというような

意味をもたなきゃならない。

 

これは小さいことですけど、

我々は、

障りという字が

あるんですけど、

我々が生活、

生きていく間には、

いろんな過失があるんです。

これは過失がある、

失敗があるってこと、

これを責めるわけには

いかんのじゃないかと

思いますね。

 

過失があったり失敗したり

ですね、

そういうことを

責めるわけにはいかない。

そういうことを責めとったら

生きれる人間は

一人もおらんです。

人間、生きていけば

必ず

失敗というものを起こすと。

しかし人間であるなら

失敗に対する態度があるわけ

でしょう。

 

人間である限り

失敗はあるけれど、

しかしながら

失敗するのも人間であるなら

失敗に対する態度が

そこに生まれてこんならん

ですね。

その失敗に負けたら、

人間でなくなってしまう。

失敗というものをあえて

責めるわけじゃないけど、

失敗を契機として

自己を展開するんです。

そこでへこたれてしまわずに

ですね。

 

だから我々逆にいえばですね

失敗せなんだら、

およそ精神が無限に展開する

ということを知らなかった。

失敗というものがないなら

ですね、

精神は無限のものである、

打てば響くものであると、

そういう精神が

自覚できなかったんだろうと

思いますね。」

 

今読み返してみると

ここは三浦先生に対する

激励のように思います。

この時は非常に苦しい

どうにもならない問題が

のしかかっていたのです。

安田先生は

経典に照らしながら

話をされたようですが

困難を一身に受けられていた

三浦先生には

とてもつらい話だったように

思います。

 

 

 

 

 

 

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京都御苑の梅は??

2023-02-11 20:50:16 | 住職の活動日記

2月に入ると梅もほころび

始めるようです

 

 

京都御苑の梅林も

ちらほら咲き始めています

 

 

まず、

紅梅が咲きだしたようです

 

 

白梅はまだ固いつぼみです

でも、この陽気ですと

来週ごろには満開でしょうか

 

 

梅林の中に杖を突いた老人の

ような姿の桜の木です

御苑ではできる限り

自然な形で木々を見守って

おられるようです

手を加えるにしても

最小限の手を貸し手おられる

 

 

蝋梅は今が見ごろ

近くに行くといい香りが

漂っています

 

 

よく名付けたもので

まさしく蝋細工のような

花びらです

 

 

でもこの雄大な空間は

なんとも気持ちのいいものです

 

 

場所を変えると

向こうには大文字の山が

見えます

多分大文字の時には

入れないのでしょうね

ここからだったら絶好の

場所なんですが

 

 

 

この桜の枝も不思議な造形美

細い枝が天に向かって

力強く伸びています

 

 

よく見るとなんとも複雑な

伸びようです

桜が咲くころには

どんな花をつけるか

楽しみです

 

 

恐竜の足のようにも見える

大きな木の根っこ

 

 

見上げると力強く伸びて

この御苑でなければ

ここまでは

大きくならなかった

ような気がします

 

 

また時間があれば

来週にでも覗いてみたいと

思っています。

 

 

 

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修行というのは自己教育

2023-02-10 21:05:14 | 十地経

節分の時には鬼さん受難の日

でしたが、

本蔵院では

「福は内、鬼も内」

といって豆まきをします

福も鬼ももとは一緒です

人間の都合で良くも悪くも

勝手に決めつけているのです

 

鬼退治という字も

これが煩悩タイジというと

対治と、この字を使うのです

タイジといっても

厳密にはこのように分けて

使い分けします

 

十地経では「対治」という

ことが、どの地においても

出てくるのです

講義は

「『彼の障対治』と、

障りをなくするという

精神生活の障害物という

ものをですね、

破っていくと。

それが本当いったら修行と

いうような意味だ。

修行というのは自己教育

ですね。

精神の自己教育という

ものでしょう。

そこには自己を否定していく

というね。

自己を否定することを

通して、

自己を磨いていくわけです。

 

道元禅師の教学ですね。

修ということがあるけど、

修行の修だ。

修ってことがあるけど、

修によってかちとったものは

証という。

悟りだ。

 

けど、そこにですね、

修によって証を得るけど、

証上の修、

つまり証というものによって

修を起こすというね。

それが本当の修でしょう。」

 

普通には、

修行して証(さとり)を得る

といいますが

本当は、

証を得て修行が始まると

こういうのです。

確かに、到達点に向かって

修行するということも

ありますが

到達点が見えたから

修行が始まる

ということがあります。

 

初発心時すでに正覚を成ず、

ということがあります

志を起こしたとき

その心には仏心が宿っている

のだということです

その仏心を頂いて修行する

ですから

俗の心のままでは

修行することはできません。

 

ここでは

対治ということが

六地から七地にいくにも

やはり

障りの対治が出てきます

次々と

障りが出てくるようですが

そうではなく

修行すればするほど

障りというものが

見えてくるのでしょう

 

何もしない人には

障りということはないと

思います

やればやるほど見えてくる

それが自己を磨いていく

ということです。

それから「無量」という

言葉が出てきます

限りがない

ということなのでしょう。

何かしら

修行の永遠性というか

これで終わり

ということではなく

永遠に修行していく

無量という言葉は

何かしらそういうことを

象徴しているように

感じます。

 

 

 

 

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鴨川散歩

2023-02-09 20:07:13 | 住職の活動日記

風はやや冷たいものの

日差しがあると

暖かく感じます

 

 

鴨川の西側川に沿って流れる

細い水路があります

カモの番ツガイでしょうか

ほどよい水もあり

仲良くご飯時のようです

この水路は夏に出される

川床のための涼むための

ものなのです

 

 

気持ちの良い川の空気です

五条から歩き始め

順に橋をくぐっていきます

橋の下には

それぞれに由来する物語が

あるのです

 

 

ちょうど四条大橋の下には

夏に河原で涼む絵があります

 

 

この頃から賑やかだった

ようですね

 

 

歩き疲れた時に

こういうものを見て歩くのも

楽しいものです

 

 

さらに足を進めます

どこまで行くか

当てはありませんが

足と相談しながら

 

 

水路の分岐点、というか

左に流れるのは

どこかのお屋敷に入ってる

のか、高瀬川に入るのか

 

 

ここから水路は落差の激しい

 

 

ところを通り

五条まで流れそこから鴨川に

もどります

 

 

それから

洛中洛外図もあります

よく見ると祇園祭の様子です

その隣に

その絵の説明があり

 

 

今いる地名のお寺

万寿寺もあります

今は

お寺も見つけられませんが

昔は地名があるように

有ったのです

 

丸太町まで歩きそこから

橋を渡って東側へ

 

 

また趣も違って見えてきます

 

 

四条大橋にある唐華菜館

日本で一番古いエレベーター

がある中華料理店

 

 

老舗の料理旅館も

今はお洒落なフランス料理店

になっているようです

 

 

東側は案外細く

自転車とかのすれ違いに

注意が必要です

 

 

色々な歴史を

見てきたであろう鴨川

後白河法皇は

自分の思い通りにならない

一つに鴨川の水を

あげています

今は市民や訪れる人たちの

憩いの場として

また、鳥たちにとって

豊かな漁場として

素晴らしい自然を提供して

います

 

宇治にいるときは背割堤が

散歩コースでしたが

今は鴨川

散歩するには川の辺は

何となく落ち着くものです。

 

 

 

 

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