本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

いよいよ二足歩行

2023-07-28 20:44:00 | 住職の活動日記

door to door

なんとも便利な生活でした

が、

明日からはいよいよ

本来の姿に戻って

二足歩行の生活です

 

車があるということは

好きな所へ好きな時間に

出発できて行くことができる

便利なようで

好き勝手というものも

いいようで悪い面もあります

 

今日も何だかだと

ほぼ一万歩歩きました

ここのところ歩くことが多く

おかげで良い面も

あるようです

 

お釈迦さまも

遊行といって

お説教には歩いて行かれ

それも必ず安居といって

雨期の時には

祇園精舎とかに留まり

ということのようでした

 

遊行という言葉も面白く

遊びに行くといって

いますが

僧侶というのは本来

仕事はしないのです

仕事を捨てて修行の道に

入ったのですから

でも、

職業欄には「僧侶」と

区分としてはサービス業

ということのようです

 

仕事となると

対価を求めるということ

になります

遊びはそうではなく

何か、そのものになる

という

なかなか遊べないのです

人間は

遊びながらも仕事が

気になるものです

 

ある時

お釈迦さまが

布施をお願いされました

するとそこにいた農夫が

人に乞うだけでなく

あなたも田畑を耕したら

どうか、と

するとお釈迦さまは

私は自分の中の畑を耕す

のだと、答えられた

というのです

 

第一義諦ということがあって

まず第一に考えなければ

いけないことなんです

それを二の次にして生きている

というのが私たちの姿ですが

 

他のことは色々分かっても

肝心の自分の事は分からない

というのが

私たちの姿です

仕事を捨ててでも

まず一番先に考えなければ

いけないことをする

というのが本来の出家者の

あり方です

 

お釈迦さまも

釈迦族の王子を捨てて

出家されたのには

そこに意味があります

 

安田先生もよく

バンデルングということを

仰っています

歩くことが思考すること

逍遥学派といって

歩きながら考える

京都には

西田幾多郎が散策された

哲学の道

というものがあります

思索ということは

散策することと同じです

 

といっても

現在の私のいる場所は

人通りも多く

思索なんかして歩けません

人にぶつからないように

回りに気を配りながら歩か

なければいけません

 

哲学の道も

今は一つの観光名所

思索なんかするところでは

ないのです

 

でも、忙中閑あり

ということもあります

雑踏の中にこそ思索する

ことがあるのかもしれません

 

安田先生も

学校というもの今では

よく景色のいい郊外に

移るが

あれでは勉強できんでしょう

と言っておられました

弘法大師の作られた

綜芸種智院大学が

町の中に作られたのには

そういう意味があるかも

しれません

 

これからは

人間の原点に返り

二足歩行で思索に励む ?

仕方なく歩かなければ

いけない状況になってきた

ということです。

 

 

 

 

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自然・天然・自然(じねん)

2023-07-27 20:33:37 | 十地経

自然という言葉も

幅広い意味をもった言葉で

また、同じような言葉に

天然という言葉もあります

「天然もの」「天然の鯛」

など、この場合は

自然とは使いません

最近では「天然」というと

また別の意味もあるようです

 

自然という

英語では nature と

山とか川とか木々など

そういうことも指しますが

また自然は神が造った

賜りものということで

自然というと神を指すことも

あるようです

 

ところが、仏教では

自然とかいて「じねん」と

読みます

そして仏教ではとても大切な

言葉になります

 

講義の続きですが

無量種と無功用ということが

でてきて、

 

「無量種が無功用を

展開してくる。」とありました

それで、

「自然(じねん)という

概念が非常に大事な概念です

無量種がいかにして可能で

あるかというと、

自然という立場に立って

可能だと。

 

そうすると

無功用ということは

自然ということです。

無功用が自然という言葉で

表されとると。

これは非常に大事な概念です

自然という言葉は。

 

自然という言葉が、

これが東洋でもね、

僕は一番古い概念だろうと

思うんです、

思想というものについて。

 

自然ということがこれは

存在ということをこのごろ

やかましくいうんですが、

存在というものの

根元的な一つのあり方です。

 

何かがあるんじゃない、

あること自身というものの

あり方がですね、

自然じゃないかと思うです。

 

自ずから然ある(しかある)

 

というのがですね、

そのあるということの

根元的なあり方じゃないか

と思うんです。

だからそこに何か

西洋思想と東洋思想の間に、

やっぱり違ってくるものが

あるんじゃないかと。

 

僕は分からんけど、

西洋思想は広いですから。

そういう、

自然を克服する

というところに、どうもその、

観念論というか

理想主義というものの根本、

それは

プラトニスムス(platonismus)

ですね。

自然を克服してくると。

こういうヨーロッパの、

そこにヨーロッパの精神と

いうものの強みもあるけど、

自然を克服していくという。

 

歴史ということでも

文化でもみんな

自然を克服すると。

その場合の自然は

カオスというもんですわ、

初めの方は。

 

けど、

東洋の自然というものは

どういうでしょうかね、

自然というものは。

自然というものは人間が

克服するもんじゃない、

人間を生産するもんじゃ

ないかね。

自然の展開なんだ、

人間というものはね。」

 

まだまだ、自然ということは

続くのですが

シゼンにしろジネンにしろ

広辞苑でも見てみても

非常に深い内容を持った

言葉でもあり

考えさせられる言葉でも

あるようです。

 

何ごとも障りなくできる

という無功用ということも

自然なればこそのように

思います。

 

platonismus というのは

辞書にはありませんが

似た言葉で

platonisch という言葉が

あり、

プラトン的つまり

神秘的、非感覚的、非現実的

という意味になります。

 

 

 

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六根と「AI」

2023-07-26 20:16:23 | 住職の活動日記

歯科医院の椅子に座り

椅子が倒れ、顔にタオルが

かけられる

口の部分だけが開いている

痛くもないのですが

手足の指先に力が入る

眼が塞がれているせいか

ふと考える

 

毎月通う病院は

六根の治療ではないかと

眼根(げんこん)

耳根(にこん)

鼻根(びこん)

舌根(ぜっこん)

身根(しんこん)

意根(いこん)

 

今日は口ですから

まあ舌根の治療でしょうか

二月に一回は眼科へ

白内障と緑内障の検査

なんとか、半分ほどの

進行具合ということです

 

月に一回は耳鼻咽喉科へ

鼻に細いカメラを入れて

中の様子を見て

耳鼻咽喉科ですから

耳もあるのですが

今のところ何とか大丈夫

というところです

 

身根というと

病院でいえば皮膚科でしょう

ちょっと前までは

亀みたい、といわれ

シミを取りに通っていました

 

意根は精神科でしょうか

後期高齢者講習というとで

認知症の検査

いやなものです

 

最近気になったのが

「AI」の技術が進み

アバターといいますか

その人の顔写真から

そっくりのアバターを創り

言葉も同じように話す

 

今日もニュースで

映画の街でストライキが

行われていました

そのスターが出演しなくても

アバターを作り演じさせる

というと

俳優さんの職が奪われる

ということです

 

このアバターは

色々の情報を入力しておくと

それ相応の返事をしてくれる

まるでその人のように

 

六根でいえば

見たり聞いたり話したり

あるところまでは

意識らしきものもできる

というように

 

時代はそういうところまで

きているようです

しかし

思うに「身根」というか

皮膚感覚というよな

仏教では

「仏法は毛穴から入る」

ともいいます

 

お説教がはじまると

途端に居眠りを始める

お婆さん寝ちゃダメじゃ

ないか、と注意すると

お婆さん曰く

「心配いらん

仏法は毛穴から入るじゃ」

ということです

 

私たちも考えてみると

生まれてきた環境

というものが育ててきた

といえるのではないかと

 

毛穴から入るでは

ないですけど

自然と毛穴から沁み込んで

きた歴史が

私という人物を作りあげて

きたように思うのです

 

眼耳鼻舌ということは

「AI 」の技術が進んで

可能になって

くる日が来るかも

しれませんが

「身」という

毛穴から入るという

この感覚だけは

絶対に出来ないように

思うのです

 

まあ、科学の方からいえば

そんなものは必要ない

のかもしれません

逆にそういう感覚

皮膚感覚というものは

邪魔になるのかもしれません

 

しかし、

「AI」が進み

単純作業はロボットが

やってくれるような時代に

なるのかもしれません、が

そうやって空いた時間は

どうするのでしょうか??

 

今周りを見渡すと

みなスマホに夢中です

時間が空けば空くほど

増々スマホをいじる

時間だけが増えていくのかも

しれません

 

「AI」に振り回されない

ためにも

その場に身を運んで

私たちの皮膚感覚、

毛穴の感覚を大切にする

必要があるようです

 

場の力を受け止めるような

そういう力を身につけないと

「AI」に使われる

日がまじかに迫っている

ように感じました

 

口を開けて治療も進み

痛くもなく無事に終わり

一安心

妙なことを考えていました。

 

 

 

 

 

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無量種・無功用

2023-07-24 19:45:17 | 十地経

無量種・無功用(むくゆう)

この言葉は『十地経』でも

『華厳経』でもよく出てくる

言葉です

講義の中でも

無功用(むくゆう)と

言葉の響きが、なんとも

耳に残っているものです

 

面白いことに

『広辞苑』にも「無功用」

という項目があるのには

驚きました

「功用」(くゆう)

というのは、身口意の動作

ということで

自然(じねん)のままに

行えるようになるのを

「無功用」と

 

修行でも稽古でも

身に付くというか

一生懸命やっている

というのはまだ有功用で

もう、一生懸命という

そういう気持ちがなくなって

行えるようになるのを

無功用というのでしょう

 

『十地経』でいうと

七地までを有功用といい

八地以降を無功用といいます

 

講義では

「無量種ということが

いかにして可能であるかと

いえばですね、

(あらゆる方法を尽くして

ということが無量種です)

あらゆる方法を尽くして

ということを

分別でやろうとすれば、

それはできんでしょう。

 

無量種であることが

真にできるのは無功用だから

です。

自然(じねん)だからです。

 

無量種というようなことは

努力でやるわけにいかんです、

努力で。

無量種というのは

あらゆる方法を尽くして

というようなことを

努力でやるというような

ことは間に合わんです。

 

無量種ということが

もう自然に展開する。」

 

やっとというか

繰り返し読んでいるうちに

無量種、無功用ということが

何となくぼんやりと

分かってくるような

無量種というのは

あらゆる方法ということで

 

人間が精一杯やると

いったところで

人間の努力では間に合わん

だからといって

何もしないというと

なおさら出来ない

努力を積み重ねるうちに

努力のいらない世界を

見出してくるのでしょう

 

テレビでもよく見る

職人さんの技

どなたも

「まだまだ」だと仰る

しかし、やっていることは

神業に近いような技

だから

無功用というのでしょう

 

何かをなすには

ありとあらゆる手を尽くす

そこが無量種

「綜芸種智院」の「種」も

ありとあらゆる技術と智慧

ということでしょう

 

そういうことが完成するには

無功用という

自然(じねん)ということが

ありますが

まあ「自分が」という

自分が作るといったら

それは無功用ではなく

有功用ということで

我執というのもが対治されて

いない、

よくいう

「無になって」

というようなことが

無功用ということで

それで初めて

ありとあらゆる方法が

見出されてくる

 

そういうことを講義では

「無量種ということが

もう自然(じねん)に

無功用を展開する。」

といっています

 

無量種・無功用

やはり何度も聞き直さないと

分からないようです

しかし、

これで分かった

ということでもないのです。

 

 

 

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鈴木大拙館

2023-07-23 21:20:49 | 住職の活動日記

鈴木大拙という

日本の仏教といものを

海外に広めた

ということでは

言い尽くせないものが

あります

普通の展示館と違って

どちらかというと

来た人に考えさせる

問題を与えるような

場所のような気がします

 

 

静かな森の中に

凛とした

四角のコンクリート造り

が建っています

 

 

右手に庭を見ながら

左側の通路から入ります

なかは撮影禁止ですが

展示物といっても

さほどありません

 

 

ただこういう空間と

目の前には

 

 

静かな池が広がり

時折

ぼこんと泡が吹きだし

その波紋が広がっていきます

その波の広がりを見るだけで

妙に心が落ち着くものです

 

まして畳敷きの椅子の座り

眼を閉じれば

無限の空間が広がって

いくようです

 

 

上を見上げると

RCの打ちっ放しの壁

天井には明り取りの窓

 

 

そこから水面を眺め

鳥の鳴き声を聞く

こういう一つの禅の世界を

表現しているのでしょう

 

回りを見渡すと

やはり外国の方が多い

鈴木大拙の禅の世界に

浸りたいとい思いでしょう

 

 

石の壁があり

そこに広がるみなもが

静かな水面に動きを与える

何もないのに

何かがある

 

 

実に面白い空間です

時間が許すなら

何時間でもボーッと

しておれる

 

面白い建物を作ったものです

 

「このまま」とは、

一見易しい言葉であるが、

生きる上での指針として

捉えるならば

決してそうではない。

勝手気ままでも、

子供のようになることでも

なく、

「ただいま・ここもと」

において、

ある体験・鍛錬を経て

なるものであると、

大拙は言う。

 

というような言葉のカードが

置いてあります

 

 

そのまま、というように

落ち葉が水の中で

円を描いている

行儀よく並んで廻っている

これさえも

そういう禅の世界を

表してるような

 

「焚くほどに

風が持てくる落ち葉かな」

という歌があります

「自然法爾」

(じねんほうに)

という題です

東寺で落ち葉がすごくて

やけになって掃き掃除を

していた時に

師匠が教えてくれた歌です

 

そのようなことを

思い出しながら

なんのこともない

廻る落ち葉の動きに

眼を取られていました。

 

 

 

 

 

 

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一切衆生

2023-07-20 19:10:14 | 十地経

一切衆生という

ありとあらゆる

生きとし生けるもの

ということを指すのですが

そこでは

自分は偉いもんだ

特別なもんだということも

許さんし

また、自分はあかん

駄目なもんだという

卑下することも許さん

そこに本当の平等という

世界があるのでしょう。

 

講義では

「一切衆生というものが、

一切衆生を一人一人が

代表しとると、

とともにまた自分も

一切衆生の一人だと。

 

自分が一切衆生の一人である

とともにまた

一切衆生を代表しとると。

一人一人が一切衆生だと。

こういうようなところに

やっぱり大乗というものが

あるんじゃないか。

 

声聞や縁覚というような

ことは、

後から

大乗が出てくるんじゃなく、

大乗というのが

一番基礎なんでしょう。

声聞・縁覚を通して

もっとその深い根元に

目覚めていくんです、

大乗は。

声聞・縁覚は

まだこれは学生ですわね。

 

学生といいうもの、

学生とか教師とかありますね

学生も人間ですし、

教師も人間でしょう。

人間というものを

学生と教師という形で

実現しとるんだ。

 

だから

学生や教師よりも先だって

人間がある。

人間精神というものが

大事なんだ。

大乗という方が基盤じゃ

ないか。

 

そこにやぱっり

教育というようなことに

なるというと、

法は一つですけど、

人間は無量無数ですから、

 

そこに一切智よりも一切種智

というものが必要に

なってくる。

だからそこで

無量種というようなことが

でてくる。

いろんなやり方で

というような。

 

あらゆる手を尽くして

ということが

教育になるんじゃないか。

一つの型にあてはめずに

人間のために型があるんで

あって、

型のために人間がある

わけじゃないです。

人間に合わせて

型というものを

生かしていかんならん。

型のために人間をはめ込んで

いくというのでは、

これは教育の逆でしょう。

だから

あらゆる方法を尽くして

というような意味が

あるんじゃないかと

思うですね。」

 

一切衆生という

その他大勢という

意味じゃなしに

自分が衆生を代表している

し、また

自分も一切衆生の一人

であると、

そういう責任感というものが

一切衆生という言葉のなかに

含んでいるように

思うのです。

 

それから、

一切智と一切種智と

弘法大師の作られた学校が

綜芸種智院という大学です

この綜芸種智ということが

一切種智ということと

同じ意味だと思います

ありとあらゆる種(方法)

手を尽くして教育する

 

綜芸種智院大学

最初聞いた時はなんとも長い

名前で意味も考えなかった

のですが

こうやってみてみると

綜芸種智院というなかに

弘法大師の思いが詰まって

いるように思うのです

 

「あらゆる手を尽くす」

綜芸種智です、一切智です

人を育てるということは

そういう意味があるのでしょう

千手観音という仏さま

千の手、ありとあらゆる

手を尽くす

ということが込められて

いるようです。

 

 

 

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負けて勝つ

2023-07-19 18:52:30 | 十地経

子供の頃、それもたぶん

小学校に行く前だったと

思うのですが、

祖父の膝の上に抱かれ

「負けるが勝ち」

ということを聞かされた

のです

意味も分からず

負けた方がいいのかな

というような感じで

安田先生の言葉を借りれば

精神がやせ細った

ことになったのです

それで、へなちょこに

なってしまったのですが

本当の意味は

もっと違った事だったのです

 

「我々の考えというものが

いかに小さいものであるかと

いうことが分かります。

世界とか人生とか

というものを我々は知った

ように思っとるけど、

世界とか人生というものは

決まったものはないんです。

 

決まったということは

ないんです、

人生というものは。

もっといえば、

結論というものはないです

人生には。

 

これが悪いんだとか、

失敗したとか、

成功したとか、

そういうことはないので、

失敗したということは

結論じゃない、

それは縁なんだ。

 

失敗したということを

縁として更に、

それを機縁として

内面化していくんだ。

それを超えていくんです。

 

仕方なしに

もう負けていくんじゃ

ないんでしょ。

負けたということを縁として

さらに、

負けて勝っていくわけです。

 

負けたことを縁として

勝つ道に立っていくんです。

仏教というものは

やっぱり絶対に

負けることのない道だと

思うんです。

 

負けることを嫌わん

のやから。

負けるといったら、

負けたとか勝つとか

いうことを結論にする人生は

狭いものです。

八方ふさがりです。

 

何でも僕は

イデオロギーというもので

人間を縛らない

ということが、

ここから出てこないと

あかんじゃないかね。

何でも型にして

人生に結論を加えてしまう。

それは小賢しい計らい

というもんじゃないか、

存在に対して。

 

人生は決まらんもんだ

ということを教えるのが

縁起の真理です。

第六地ね。

第六現前地というものは

人生は決まらんもんだと。

 

AがあればAを縁として

Bがあるんだ。

Aがあるが故にBがあるんだ

AがなければBはないんだ。

こういうのが

縁起の真理です。

AがなくてもBがあるとか、

BがなくてもAがある

というのは、

それは決めるから

そうなるんですよ。

 

自分というものでも

世界でも

流動的なものでしょう。

だからして、

そういうように

あらゆるものを縁として、

精神は無限に展開している

というのがですね、

それが精神生活という

ものじゃないかと

思うんですね。」

 

負けて勝つということも

やはり深い意味が

あるのです

ただ負けるのではなく

それを縁として

自分を深めていく

仏教は絶対に負けない

というのですから

ただ負けてしまって

やせ細っているような

心ではないのです

 

勝った負けたと

いうことを結論にしない

分からないけど

そういう言葉に触れるだけで

心が軽くなるものです。

 

 

 

 

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一切衆生悉有仏性

2023-07-18 21:11:15 | 十地経

一切衆生悉有仏性

(いっさいしゅじょう

 しつうぶっしょう)

生きとし生けるすべての人に

仏性、仏の精神が宿っている

ということです

 

これがもっと広がると

草木国土悉皆成仏

ということもあります

人だけではなく

心がないといわれている

草や木、はたまた国土も

仏になるという言葉も

あります

 

こういうことも

他人事ではなく

自分のこととして

受け止めると、やはり

安田先生の言葉になると

思います

 

「悉有(しつう)という

ようなことをいいますが、

それは共発(ぐうほつ)

という意味でもいいし、

共でもいいし、

同でもいいし、

また悉といってもいい。

一切衆生というものに

ことごとくもっとるような

精神ですね、

大乗というものは。

 

そういうものが大乗と

いうもんだろうと。

誰も持っとる。

どんな悪党も

どんなつまらん人間も

みなもっとるような法を

大乗というんじゃないかね。

ただ、

その人だけしかない

というようなのは

小乗なんじゃないかね。

 

あの人は頭がいいとか、

何か実行力があるとか、

腹が太いとかいっとるのは

小乗的なんだろうと思います

そうでないと、

どんなつまらん人間もですね

 

わしは駄目だということを

いわせんものが大乗ですね

わしは駄目だ、

わしだけもう駄目だと、

堪忍してくれと、

こういうようにいわせんし、

しかしまた、

わしだけがあるとも

いわせんのだ。

 

お前ら駄目やろと、

わしだけがあるんだと

いうようなことも、

抜け駆けの功名も許さん

のです。

そうかというてまた、

わしは駄目だということも

許さん。

 

威張ることも許さんし、

同時にまた絶望することも

許さん。

 

わしゃ駄目だ、というような

ことをいってるのは

謙譲のようだけど、

我執を捨てんから、

わしは駄目だと

いうことを言う。

 

また、我執があるからして、

わしだけやっとるんだと、

こうなるんですから。

そのようなものを

破るところにですね、

初めて静かなですね、

そういうところに初めて、

謙譲であっても

しかもお互いにいたわり、

人を叱りつけんというんだ。

お互いに

いたわっていくと。」

 

というようにありますが

仏性があるということは

いつかは仏になる

可能性があるということ

ですが、

呑気には構えておれない

のです。

 

そこには

自分はもう駄目だと

いわせない

ということがあります

このことは

修行時代分からなかった

ことがあります

きつくて、もう止めたいと

言った時に

なぐさめどころか

とてもきつく叱られた

ことがあります

そのこと自体が

分からなかった、

なぜだろうと

止めたいというのなら

止めさせてくれれば

いいものを

と思っていたのですが

 

自分だけが仏性があるという

自惚れも許さんし

反対に自分は駄目だと

といことも許さない

そこに

「悉有」ということの

厳しさがあるように

思うのです。

 

 

 

 

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自分を感動させる言葉に耳を傾ける

2023-07-16 21:18:13 | 十地経

教えを聞く、

そういう縁によって

自分の中にあったものが

目覚めてくるという

そういうことが

「開発」(かいほつ)だと

いうことだったのです

その続きで、

 

「それだから、

自発自展だから他に

教えられる必要はないという

意味ではないんであって、

自発自展するから他に

教えられるということの

意味ができてくるんです。」

 

自発自展という

この言葉はあまり見かけ

ないのですが

教えを聞き自分で発起して

その教えが自分のなかで

展開していくという

そういう意味だと思います

 

「自発自展のままが

先生にたまわったんです。

教えられるということと

自発性ということは

これは矛盾せんでしょう。

他に教えられる

ということを縁として、

自分みずからが

目覚めていくんです。

 

だから、

他に教えられるということが

声聞なんだ。

自分みずからが目覚める

というのが独覚なんだ。

他を縁として

自分に目覚めてくると。

こんな構造が … 。

 

他からね、

こういう具合になるでしょう

他からの言葉を絶えず

繰り返しておるんです。

 

まあ、文章書いてみると

よう分かりますが、

自分の書いていることは

妄想みたいなもんなんだ。

引いた言葉の方が

光ってしまう。

だからそういう言葉を

何遍も、

こう繰り返すと。

 

むしろ

自分の意見なんか捨てて

自分を感動させる言葉

というものに耳を傾けていく

何遍も。

そうするというと

他の言葉が自分の言葉に

なるんです。

 

他の言葉を何遍も、

こう、

繰り返し反復する間にですね

それが自然に

自分の言葉になるんです。

自分の言葉になるというと

自分の言葉で自分が、

聞くのも自分だし、

言うのも自分だ。

 

自分が自分に言い聞かせるし

自分が自分から教えられる

それが自己教育というもんだ

それは独覚なんです。

 

他の言葉を自分が

聞いとったんだけど、

その言葉を

反復していくというと、

今度は他の言葉が

自分の言葉になる。

 

すると

自分の言葉を自分が聞くんだ

自分が自分に教えられてくる

とうことになる。

そうすると独覚でしょう。

こういう構造がね、

まあ非常に大事な … 。」

 

やはり感動した言葉に

耳を傾け

それを何遍も繰り返す、

そういうことが

聞法ということのように

思います。

 

 

 

 

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さとりも自覚なんだ

2023-07-15 20:59:15 | 十地経

人間を中心に見ると

下には六道輪廻といって

地獄餓鬼畜生と

その人間が仏を目指すと

声聞・縁覚・菩薩・仏

というようにあるのです

そのなかでも

「声聞」(しょうもん)

という位

声を聞く、と

自覚といっても

やはり道に触れた人の声を

聞くということから

はじまります

 

ですから、声聞という立場

非常に好きなところです

さとるとか何とかよりも

声を聞く

これが人間としても

一番大事な立場のようにも

思います

 

安田先生も

「こう年は取ったけど

立場は学生だと、

年とった学生です」

と仰っておられましたが

学生ということが

声聞です。

 

講義は

「仏教では、何といいますか

自覚ということは、

これは自発(じほつ)という

自発性ということが、

他から強制されんと、

それはね。

 

だから信仰でもやっぱり、

キリスト教の信仰と

仏教の信仰と違うのはね、

キリスト教の信仰はですね

命令されるですわ。

これを信ぜよと、

こういうふうに、

他から命令される。

だから信仰という。

仰ぐという字をつける。

 

仏教ではそういうことを

いわんです。

信でもいいし、

やっぱり禅宗なんか証ね、

信でも証でも、

これはみな一つの自覚

という意味をもつんですね。

信ずるといっても、

何か分からずに信ずる

ということはない。

信心の自覚なんです。

さとりも自覚なんだ。

信も証も自覚的という意味

ですね。

 

自覚というのもこれは、

今いったように、

発得(ほっとく)と

いうでしょう、

発得、真理の発得とかね、

あるいはね、発起とかね。

あるいは開発(かいほつ)

とか、

発起とかいうこというんです

 

開くんです。

起きてくると。

発という字はただ

生ずるという意味じゃない、

飛び出すという意味でしょう

発というのは、

開発してくるというのは。

 

何か閉ざされていたものが

埋もれとったものがね、

見直されてくるんだ。

それからして、

抑えられとっても、

そこから起こってくる、

破って。

 

他から

そうさせられるんじゃない、

自分みずから起こってくる。

名のってくる。

真理が自分に名のってくる

というんだ。

そういうときに、

発起とかね、

開発とかいうものが。」

 

「他に依るんじゃない、

自分に依っとるわけです。

ただ、他を縁とする。

他を縁として自分が展開

していくわけです。

 

教えというものはこれは、

縁なんだ。

教えられることは

縁なんだ。

教えられるという、

教師によって

教えられるということは

縁なんだ。

 

それを縁として、

自分の中にあったものが

そこで目覚めてくるんです、

開発するんです。」

 

何かしら今日のところは

とても感動的というか

自帰依、自燈明ということが

明かにしてあるように

感じます。

 

 

 

 

 

 

 

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