本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お寺のハタラキ

2023-05-30 21:00:37 | 十地経

お釈迦さまが亡くなられて

(涅槃に入られて)

荼毘(ダビ・火葬)に

付されます

その時取り仕切ったのは

お弟子の方々ではなく

在家の信者の人によって

行われたのです

そして遺骨(仏舎利)は

八つの部族に分配されます。

 

ですから当時の弟子たちは

葬儀をするということはなく

もっぱら、自覚の道

本当の自分を探し求める

という修行に

勤しんでいました。

 

こういうことを講義では

 

「仏陀の遺骨を拝むとか

葬式するとかということは

今では坊さんお仕事に

なっているけど、

昔は、それは俗人のやること

なんだ。

坊さんが葬式したら

それは破戒になるんです。

面白いね

世の中が変わると

こんだけ変わってくるものか

知らんと思って。」

 

何故坊さんが葬式するのか

他の本では「死」について

 

「(死という)人の嫌うもの

を最後まで見ていく。

これが仏教である。

葬式や墓に深い縁があるのは

こういう理由がある。

ただ、

死を葬式や墓で済ませたから

仏教は堕落した。

 

途中で止まってしまった。

もっと深く追求しなければ

ならない。

死ということが

生の問題であろう。

 

生は死に終わるのではない。

死から生がはじまる。

我々はいつか

死ぬのではない。

いつでも死ぬという

死を裏にして生きている。

それが無常である。

 

ある時間がたてば、

やがて死んでいくのではない

有ること自身が

有るがごとくではない。

つまり

仏教ははじめから

存在の問題から

出発している。」

 

このような本当の問題が

あると思うのですが、

今の、

菩提樹苑・沙羅の苑の

職員の方々

深い内容は知らないかも

しれませんが

真剣に取り組んでおられる

ように見受けられます

人の死、ペットの死

死という一番考えたくない

見たくない

そういうことに

向き合わざるを得ないのです

しかしながら

そういう方々と

一緒になっておられる

 

今の言葉で言えば

「寄り添う」という

共に、悲しさ、寂しさと

一緒になるという

四摂の法の「同事」と

いうことになるのでしょうか

 

ある面からいうと

死という人間にとって一番

厳粛な事実

そこから生の問題を

見直していく

そういうことが実存という

ことになるのでしょう

 

しかし

今一番宗教が誤解されている

という時代でもあります

ここのお寺は何のご利益が

ありますかと

まあ、リヤクと読むだけはに

何かしら元の意味合いが

残っているようですが

ギブ・アンド・テイクが

宗教ではないのです

 

死ということを真剣に考える

そこに

生きるという本当の意味を

見出してくるヒントが

あるように思うのです

 

以前は喪に服するのも

1年間とか

そういうように死という

ことに対して敬虔な気持ちで

接していた

今では、できるだけ簡素に

ということで葬儀自体も

簡単になってきました

そこに

生、生きるということが

疎かになってきている

ように思います

なにも、葬儀を派手にやれ

というのではなく

死ということに対する

重大なことだと受け止める

そういうところに

命への深い関心が

生まれてくるように

思うのです。

 

お釈迦さまの頃は

弟子たちは葬式はしなかった

けど、「死」ということは

真剣に

取り組んでこられたはずです

そういう

死ということの重大さを

形という表現を取れば

葬儀というような

儀式になってきたのでしょう

 

今ふと思ったのは

僧侶という方々よりも

在家の女性の方々の方が

そういう場に立たされ

真剣に考えられている

ようにも思います。

 

お寺は新しくなった

そのハタラキとは

考えなければならない

その時が

迫ってきているようです。

 

 

 

 

 

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HONZOUING

2023-05-29 19:16:26 | 住職の活動日記

あっという間に瓦が葺かれて

います

 

 

先月の28日

皆揃って棟上げができました

 

 

なかなか素晴らしい光景です

ふと思い出すのは

最初の本蔵院がこの地に

建立されたのが昭和3年

その時の写真が残っていて

その様子が同じように

大工の棟梁をはじめ

僧侶の方々全員で写真に

おさまっています

 

 

今回も揃っての写真です

この様子から一月

工事は着実に進み

瓦を葺きあげるという

 

 

工事の進捗状況に驚きます

 

寺というのは

その当時の最先端の技術で

作られるものでしょう

その当時のお寺というのは

屋根は緑釉瓦で葺かれ

柱は朱で塗られ、壁は白

という具合に見るも鮮やかな

威容を誇っていたのでしょう

 

令和の本蔵院は

ハイブリッドというか

RCで出来た、部屋になる

大きな箱、その上に屋根が乗る

そういう作りです

 

 

棟になる大きな柱も

集成材という

 

 

12枚もの板を圧着し

その大きな柱を曲げていく

それで屋根の反りを出すのです

こういう技術も

最先端のものでしょう

木でありながら強度を出す

地震に遭ったので

それに対する思いもあっての

ことのようです

 

そういうことで

本堂内部は大空間ができる

音の反響もいいようで

素晴らしいお経の響きが

広がるようです

 

まさに、本蔵院がINGです

建物を作ったからそれで

終わりというのではなく

ここから新たな本蔵院の

始まりです

本蔵院という箱ものではなく

本蔵院がこれから歩みを

続けて欲しいという思いで

HONZOUING

というようにしたのです

 

これから

本蔵院・菩提樹苑・沙羅の苑

とそろい踏みで

歩み続けていくことを

願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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老化と進化と深化

2023-05-26 20:31:03 | 住職の活動日記

咲き誇っていたアマリリス

盛りを過ぎて

やや葉も萎みかけています

 

 

南向きなのでしょう

普通は4輪十文字に開く

のですが

4輪とも南に向かって

花を広げています

 

 

ふと、思うのですが

成長、進化とかありますが

いつの時点で

老化が始まるのでしょうか

科学の世界では

エイジングといいますが

老化というのは

細胞が生まれたときから

始っているそうです

 

気持ちだけは老化しない

いつまでも昔の若かりし頃の

自分のままでいる

しかし、

出かけるのは病院通い

あちこち不具合が出てきます

何でだろう??

それが老化です!!

 

なにかしら、前に向かって

前進、前進と

声かけしますが

以前、檀家の方

「前を向いたらあの世しか

ありません」

という答えが返ってきます

いくら

人生百年時代といっても

早々元気でおれる期間は

まじかに迫っています

 

あとは、残された道は

「深化」しかありません

自分の人生を振り返り

その人生を深めていく

それが唯一できることの

ように思います

 

「深心妙行」

よく安田先生が色紙に

書いておられた言葉です

「深いところに立って

 自由にはたらく」

ということです

さとりの世界を表現した

言葉です

 

しかしながら

私たちの日々の生活は

浅い心ですぐ腹を立て

落ち込んだり調子に乗ったり

と見るもの聞くものに

振り回される毎日です

 

 

今年は初めてですが

次の蕾が出てきております

本当に

「ご苦労さま、こんにちは」

ということです

こんな見事な花を咲かせ

ご苦労さまでした

とお礼を言っていたのですが

それに応えるように

また次の花を伸ばしている

 

生まれて成長して

見事に花を結び

花は萎み始め

更にまた新たな蕾を

膨らませている

 

この小さな鉢のなかで

成長と老化と繰り返している

ただボウーっと見るのでなく

花の不思議を思い

その命のハタラキの凄さに

驚きしみじみと眺める

 

思い出していくと

恥ずかしくなるような

失敗ばかり

そういうことも

忘れ去るのでなく

一つ一つ思い出し

恥ずかしいと思い直すのも

今までの自分のことの

深化なのかもしれません

 

いくらエイジングに

逆らってみても

着実に老化の道を

日々歩んでいるのです

そういうことは

心の奥に置いて忘れず

しかしそれだけに

囚われてしまうと

日々の動きが取れません

老化と向き合っていく

本当に大変で残酷なような

不安なような

難しい時なのですね。

 

 

 

 

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運命が使命となる

2023-05-24 21:12:18 | 十地経

阿頼耶識ということが

出てきます

このことも常に出てくる

大切な問題です

アウトラインだけを

阿頼耶(あらや)というのは

âlaya アーラヤの音写で

蔵クラという意味があります

 

人間のいろいろな意識を

それは行った行為の心を

良いも悪いもすべて蓄える

蔵ゾウしていくという

そういうことで

蔵という名がついた

また、

そういう一面と

人間が色々な可能性を

蔵している

ということも

この意識の一面です

 

人間の意識は

眼・耳・鼻・舌・身・意

という六識とい意識と

その次に

末那識(まなしき)

と第七番目の意識があり

この意識は

自他差別心ともいわれ

常に他人と比べる意識です

ある面では

この意識が一番厄介な

ものなのです

 

それで、阿頼耶識は

第八番目の意識ですから

第八識ともいわれます

 

それで講義では

「本能の背負う責任が

阿頼耶識である。

実存とは無我の主体である。

あらゆるものは

如来が責任を持ってくださる

本当の責任の主体を

理性を超えたものに見出した。

 

理性の負う責任は自我である

阿頼耶識が分からぬから

自我の思いを起こす。

阿頼耶識が分かれば、

自我主体でなくなるのである

 

社会的倫理的理性的責任

というところに立てば、

責任地獄、

自殺しかない。

六識が業をつくる。

その業の責任を

阿頼耶識が背負うのである。

末那識は負わない。

 

宿業を受けて生まれ、

宿業を果たして死んでいく

のである。

宿業に応えて生まれ

させられてきたのである。

それが実存である。

間違えて生まれてきたのでは

ない。

業、運命を離れずに

道を実現し、果たさなければ

ならない。

 

自分は我の強い人間で、

結核や火事がないと

眼が覚めん。

人の世話になりたくない自分

頭を下げたくない自分、

頑張りが解けぬ。

 

臨終の最後まで

どんな目に会うか分からん。

自分の業が、

どれほどの業かは

臨終まで分からぬ。

予定できぬ。

その業を果たすまで死なない

業を果たして死ぬ。

それが人間の使命という

ものであると思う。

運命が使命となる。」

 

この講義を聞いて

先生でもそうなのかと

思い知ります

またあるとき

一日として安き日はなかった

ということを

仰っておられました

やはり、

求道という道に立てば

呑気な話ではないのでしょう

 

知人の死に際して

枕もとで

そっと

ご苦労さまでした

と語りかけておられました

 

そういうことを思っても

人間業を果たすまでは

死ねないのでしょう

ですから

その死は本当に

ご苦労さま、

ということです。

 

運命といってしまえば

それまでですが

その運命に

それは自分の使命であると

受け止めるところに

その運命が生き生きとした

自分の人生になってくる

ようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、あたえられた境遇は自分が求めたもの

2023-05-23 20:59:16 | 十地経

この言葉もずっと心に

残っている言葉なんです

最初聞いた時には

なかなか受け入れることは

できませんでした

今のこのような境遇

絶対に

自分が求めたものでないと

思い続けていたのです

 

この講義では直接は

この言葉は出てきませんが

まさに同じことを言っている

のではないかと

「今あたえられた境遇は

自分が求めたものである」

思えるのです

 

講義は

「行者というところに立つと

倫理的責任はないが、

宿業的、実存的責任という

ことがある。

理性的責任でなく、

本能の受ける責任である。

 

阿呆な親を考え、

批判することはできる。

しかし、

阿呆な親は賢くもなれないし

自分も賢くなるわけでない。

そういう親を持ったのは

親の責任でない。

自分の責任である。

宿業である。

縁である。

どんな阿呆な親でも、

それを

我が親とせねばならぬ。

 

因縁・事実は自分のもの。

自分が求めた。

 

どこから火が出たか。

そちらから火は出た

というのは科学。

その通りですと言わず、

いやそうではないというのが

人間。

引き受けられぬと

自ら苦しむ。

 

焼かれたとか、焼いた

というのは理屈ではないか、

解釈ではないか。

焼いたんでも、

焼かれたんでもない。

事実は焼けたんである。

宿業である。

腹の立てようがない。」

 

この話は先生もよく

話されます、よほど

堪えられたのでしょう

先生のお寺が火事にあわれた

大切な本がたくさん焼けた

また大事にされていた

資料も焼けてしまった

何とも悔しい思いを

されたのでしょう。

 

それで、

焼かれたのでも、

焼いたのでもない、

事実は焼けたんである。

この言葉が出るまでに

何度もこの話をされました。

またその時

活躍した松浦さんの話も

されていました

講義の中ではめったに

人の名前は出ないのですが

三浦先生とこの松浦さん

だけが登場します

力持ちだった松浦さん

じっと講義を聞くのは

苦手だったらしいですが

この活躍に先生も大変

感心しておられたのです。

 

引き受けられぬと苦しむ

と出てきますが

自分のことを引き受ける

このことができない

バタバタともがき苦しむ

解決が出ない

そこに引き受けるという

そうでなければ

どうにもならない

 

講義は続けて

「ともにこれ凡夫という自覚

そこに安らぎがないか。

安らぎがあるところに

真理にかなっているという

ことがあるんではないか。

理屈をつけることが多い。

そこには無理がある。

 

休まらんのは

無明の夢を見ている自分に

言い聞かせようとする

からである。

心が休まるというのが、

真理だという証明である。」

 

なかなか

自分の業を引き受ける

ということが

私たちにとっての大きな課題

のようです。

 

 

 

 

 

 

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有限の身において無限を行ずる者

2023-05-22 21:04:14 | 十地経

私たちが一番悩むのは

煩悩というより

我執だと思うのです

何でも自分のものとして

それに執し離そうとしない

つまらん自分の考えにも

固執するのです

さとったといっても

それに固執し

人を見下したりと

煩悩というより固執が

人間を苦しめるのでしょう

 

講義では

「宗教だけが人間の

我執の深さを

知らせるのである。

人間解放ということは

なかなかということである。

人間がいかに深く生きるか

それが人間の健康という

ことである。

悩みがないのが

健康ということではない。

いかに深く悩むか、

それが人間の健康である。」

 

悩むということと

困るということは違うのです

普通悩むといっていますが

たいていは困っている

「悩むと困る」

よく吟味しないと混乱して

しまうようです。

 

講義は続きます

 

「菩薩とは行者であり、

実存的人間である。

存在者というよりもっと

深いのは行者というあり方

である。

それはとどまる者でなく、

歩む者、

行く者ということである。

 

有限の身において

無限を行ずる者。

永遠を有限において行ずる。

そこに休息はありえない。

法の世界は永遠である。

しかし人生は短い。

法は不生不滅である。

人間は生じ滅する者である。

 

我々が時においてある

ということは、

それは何のためかというと、

人間が法の機となるという。

永遠を証明するために

時間というものがある。

 

法を証するために時間がある

空費するためでなく、

法の機となるために

短い人生が与えられている

のである。

時を超えた道を時において

行ずるのが道である。

法を行じている者、

それが最も

正しい人間の在り方である。

 

正覚や八正道の正とは

「ただしく」と共に

「まさしく」である。

人間が人間として

最もあるべきようにある。

あるようにある

ということである。

 

人間が人間らしさを

言い当てたのが行者的あり方

である。

人間が人間である

ということを言い当てた

というような意味である。

その道に触れれば、

道に会えば、

初めて死ぬることが

できるのであろう。」

 

到達点ではなく

到達点へ至る道をみつけた

そのことが大切で

私たちの思い違いは

結果だけでなく

結果へいたる道中、道を

見つけたと言うことが

大事なのでしょう。

 

それで

「行者」ということが

よく出てきます

道を行ずる者ということです

念仏行者とか

真言行者ということが

あります。

 

辞書を見ると

「仏道に入って修行する人

のことで、行人(ギョウニン)

ともいう。」

それから

「山伏・修験者の通称」

ともあります。

行者というと普通には

山伏さんを思い浮かべますが

ここでは

大きく仏道を修行する人

ということです

それが本当の人間の在り方

ということです

 

それで、

同じ意味で「生活者」という

言葉でも

よく仰っておられました。

足を地につけて

どっこい生きているもの

そういう泥臭さをもった

生活者ということも

何かしら

ぴったりくるようにも

思います。

 

そのことが

もっと厳密に言うと

「有限の身において

無限を行ずる者」、と

いうことでしょう。

 

 

 

 

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生死巌頭に立つ

2023-05-21 21:00:07 | 十地経

仏教というのは

普通でいう宗教とは

少し違うような気もする

何か対象になるものを

信仰するという

まあ、

そういう形もとるのですが

絶対的な神という存在を

信仰するという形とは

違うようです

 

自覚という宗教という

自分が自分で自分を知る

ということですけど

そのために修行ということが

必要になってくるのですが

自覚ということの修行です

 

修行ということも

到達点(さとり)に向かって

いくのですが

到達点に着いて

それで

一段落というのではなく

何か修行という坂道を登り

到達点はフラットな

安楽な所と思うのですが

どうも、

そうではないようです

 

講義では

「人間が人間を超えていく

のが人間の本質ということ

である。

無限に脱皮していく者、

永遠に停滞しないという

ことが人間の本質である。

停滞とは楽無作行。

それが七地に入るのを

妨げる。」

 

「楽無作行対治」

(らくむさぎょうたいじ)

ということが七地で

出てきます

よく出てくる言葉で

特に先生が取り上げられる

課題です

無作の行を楽しむ心を

対治するというのです

一服する心を対治する

というのでしょう

一段落すると一服したい

ものですが

修行となるとその心が

一番のさわりです

 

三浦先生からはよく

「一服なんかいらない

死ぬ時が一服するときや」

と、檄が飛びました

やはりそこに

「生死巌頭に立つ」

という常に死に立って

生きるということでしょう

さらに講義は

 

「人間が眠るところを

もたん。

安住する場所をもたん。

無住処涅槃である。

(むじゅうしょねはん)

人生は腰掛けであると知る。

生死巌頭に立たせるのが

道ということである。

 

道は途中、

到達点ではない。

その道を求め、道に住し、

道を伝えるという

人間観である。

解脱的人間観という

ところに菩薩とか、

仏ということが

分かるのである。」

 

「無住処涅槃」

ということもよく出てくる

言葉です

安んずるところを持たん

かといって不安でもない

その時その時にその場に

安んじていく

というのでしょう。

 

このことは大きな問題です

さとりとかいう安全圏に

逃げ込んでしまう

そういう根性を否定する

のでしょう

さとりという到達点である

けれども、それは道中である

道の途中である

そういうことを知るのが

肝要です

ですから、

道を求め、見出し、道に住し

ということが、さとり

ということかもしれません

 

道ということは

やはり道中です

目的地というより

その目的地に向かう途中

そういう意識が大事でしょう

たどり着いたという意識が

人間を曇らせてきます

意識が濁ってくるのです

 

道の途中にいて

歩み続けている

そういう意識が人間としての

本当のあり方のようです。

 

 

 

 

 

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大般若経を『転読』するということ

2023-05-20 21:28:05 | 住職の活動日記

なかなか面白い話でした

ここのところ

京都アスニーでは

色々の講座が開かれています

昨日も

「秀吉の妻・北政所、おねね」

という題で

ドラマでしか知らない

こういう人物が古文書により

新たなというか正確な人物像

が見えてきます。

 

今日の講座ですが

こういう専門的と思える題

少ないのではと

思っていたのですが

さすが京都たくさんの人が

拝聴されています

 

大般若経は詳しくは

大般若波羅蜜多経といいます

玄奘三蔵が翻訳したので

有名です

その量は六百巻もありますが

それをわずか3年10ヶ月で

翻訳しています

漢訳が完了するのは663年

最初に大般若会が修されたのは

神亀元年正月17日

(宮中に僧六百人を招き災異を

 を除くために読誦した)

とあります。

 

今ではこの大般若経も

折れ本になっていますが

最初の頃は巻子(巻物)です

それを一人が一巻を読むという

一日で終わらなかったことも

あるようです

それが11世紀ごろには

折れ本になり、今の経巻の

ようになっています

 

転読という語は

巻物の経巻を転がしながら

読んだところから

この言葉が生まれたようです

 

そこで転読作法の所ですが

先ズ諸衆入堂着座

次ニ導師登礼盤 …

と続くのですが

なにせ文化財の先生ですから

作法次第に堪能でない

思わず、こうですよ

といいたかったのですが

もうその立場に非ずです

 

でも面白いことに

こういう巻子による法要が

意外な所で残っています

お寺の宗派も色々ですが

一つの村落の宗教行事として

村というか町をあげての

神社も一緒になっての行事

として残っています

 

巻物ですから

お坊さんが広げて読むと

その後から檀家の方が

せっせと巻き戻しをしていく

というように

もうその村の人総出で

この行事が残っています

その途中で

檀家の方が住職から一巻を

受け取りそれを神社に供えに

行くという

 

お参りが終わると

村の境界の所にお札を立てて

廻るという

別な所では

そのお札が「虫おくり」に

なったり

この風習も、虫送りという

そういう虫を退治するという

のではなく、「おくり」

という表現も仏教的な香りが

するのです

 

もともとは宮中行事として

執り行われたものが

「大般若経会」という功徳が

全国的に広まって

それがその地その地の慣習と

結びついて

それぞれに発展してきた

それがもう宗教行事を超えて

民俗行事として

伝えられているということは

とても興味深いものでした

 

やはり文化財保護課の先生

福持昌之という方ですから

こういうことも

宗教行事ではなく

民俗行事として

伝えられていく

そこに残していく意味がある

ということです

 

宗教行事としての仏ではなく

五重塔も舎利塔ではなく

非常に重要な建造物として

本尊ではなく歴史的な

工芸品として見るという

そういう形でしか見ない

という先生にしても

ジレンマがあるようです

 

という先生も

この道に入ったのも

ふと訪れた薬師寺で

ご本尊のお見ぬぐいの手伝い

それが縁となって

今だに30年も続けておられる

ということです

 

物として見るのもさびしいし

かといって

あまりにもありがたいものと

みるのもどうかと

難しい問題です

本当は物の中に魂を見る

そこに本当の姿が

見えるのでしょう

仏師の方も

「木の中に仏を見た

私はそれを彫りだしただけ」

といっておられます

 

でも大般若の以外というか

昔の形を見れたのは

とてもよかったと思います。

 

 

 

 

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沙門(しゃもん)

2023-05-19 20:26:46 | 十地経

仏教者の姿勢のようにも

「沙門」

弘法大師も「沙門空海」と

名乗っておられます

また、「沙門良寛」という

書の肩書にみえます

ですから、

私も望むらくは

「沙門律良」というように

お位牌には書いて欲しいと

お坊さんにはやたらと

なになに大とか中とか小と

僧正というような

付きますが、そんなのは

必要ないのではないかと

 

沙門という言葉も音写で

もとはシュラマナというのが

語源のようです

意味も広くあり

勤労・功労・勤懇・浄志など

面白いのは息悪という

これは悪を息(ヤメ)る

修道という訳もあり

これが一番いいようです。

 

でも、出家者の総称で

剃髪し悪を息(ヤメ)め、

心身を整え善を勤める修道者

ということです。

 

講義では

 

「仏教では沙門という。

沙門はヴァンデルング、

遍歴者である。」

 

とまずでてきます

安田先生はよく

ヴァンデルングということを

言っておられます

逍遥学派と古代ギリシャでは

思索するということは

歩きながらということです

 

仏教では「遊行」ゆぎょう)

というようにいいます

お釈迦さまも安居に向けて

歩きながら村々を訪れ

祇園精舎に着いてそこで

安居に入られたのです

 

勝手な考えですが

巡礼とか遍路というのは

そういう遊行ということが

もとになっているのでは

ないでしょうか

今では車で回りただ御朱印

集めのようになっていますが

本来はその道中が

思索の道場であり三昧だった

のでしょう。

 

さらに講義は

 

「二乗は家なきところを

もって住居となす。

家は人間を維持するもの

ではない。

人間はまず第一に家から

解放されねばならない。

人間の解放はまず家を出る

ところから始まる

というのである。

家を捨てれば二乗になる。

家に住すれば凡夫になる。

家を出るのは逃避する

ためではない。

 

家に住して家を超えるのが

菩薩である。

家から解脱するために

家に住する、

それが菩薩である。」

 

となかなか難しい問題です

今では当たり前のように

お坊さんも結婚します

そしてマイホームを構えます

それに何の疑問も持たない

のですが、

先生の言葉を借りれば

「家から解脱するために

 家に住すると」

全く矛盾する言葉ですが

今となっては何となく

分かるような気がします

 

以前中国へ行った時

通訳の方が

「日本のお坊さんは結婚

出来ていいですね」と、

その時の反論が

「でも、結婚することも

大変ですよ!」

というと、

「中国の女性も強い !

結婚するのも大変ですよ」

と、妙なところで

気が合ったのですが

 

ある面では、結婚生活は

在家の修行ということも

いえるようです。

そういうところから

一歩出れるかが修行の

しどころですね。

家を超えるという

家に住し家を超える

逃避するのでなく

そういう大きな問題を

含んでいるのが結婚生活と

いうことではないでしょうか

 

で、沙門ということも

いろいろあって

勝道沙門という、

お釈迦さまのような人

示道沙門(じどうしゃもん)

道を説いて指し示す

舎利弗シャリホツのような人

命道沙門という

命は生活という意味ですから

道によって生きる人

つまり阿難のような人です

それから

私にぴったりな沙門

汚道オドウ沙門

道を汚すという沙門です

偽善者ということでしょう

 

なかなかお経は見逃さない

私のようなええ加減な人も

ちゃんと押さえているのです

お経に感服。

 

 

 

 じどう

 

 

 

 

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アマリリス開花次第

2023-05-18 21:46:03 | フラワー

次第に

大きく膨らみ始めました

5月16日

 

 

あれからにょっきり

四つの花を出しました

それが夕方になると

 

 

別れてきて

それぞれの咲く位置を

定めているようです

 

 

下から見上げて見ると

このような様子です

気になって観察です

 

5月17日

 

 

いよいよ四方に

開きだしています

 

 

何ともえげつないほどの

深紅の色をしています

それが夕方には

やや開き始め

 

 

口をつぼんだような

そんな形にも見えます

 

5月18日

本日二つが開花です

 

 

この暑さで一気に開くかと

思ったのですが

アマリリスにも準備があって

 

 

まずは二輪ですね

後の二輪は明日のようです

 

 

いつも思うのですが

それほどの

手入れもしないのに

こうやって立派な花を咲かす

本当にご苦労さまです

 

花の力に感謝!!

 

 

 

 

 

 

 

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