「 怒り新党 」 有吉さんマツコさんの番組ではないですが、
「 怒り 」 ということも根本の煩悩の一つです。
「 唯識 」 ( ゆいしき ) というお経の中では、
その心の構造を精密に分析しています。
「 怒り 」 お経では 「 瞋 」 という字で出てきます。
その 「 瞋 」 ( しん ) を分析して、
忿 ( ふん )
恨 ( こん )
悩 ( のう )
害 ( がい )
嫉 ( しつ )
の五つに分けています。
忿 ・ 恨 ・ 悩 この三つは
『 瞋 』 の発展していく段階です。
まず、 「 忿 」
これは、何でもないことにムカッとする。
この忿は割合に軽い怒りです。
都合の悪いものにムカッとした、というだけの程度です。
この忿が少し成長すると、 「 恨 」
「 忿 」 が起こってもこれを忘れてしまえばいいのですが、
忘れずに心の中に残ってしまった場合、
「 恨 」 という心に成長します。
心に留めていつまでもうらむ、ということです。
「 悩 」 心に残った記憶を追体験していくということです。
まざまざと思い出して、そうしていよいよ燃え上がっていく、
思い出しただけでも胸をかきむしられる。
そのように、最初はなんでもない 「 ムカッとした 」
忿 」 ということが、心に残り 「 恨 」 となり、
それを思い出してはまた腹を立てていく、
これは、 「 あいつは憎いやつ ! 」 と、
恨んでも、もうそこには憎いやつはいないので、
ただ記憶に対して腹を立てている、
ということが事実です。
事実はそうなのかもしれませんが、
現実問題としてなかなか受け入れがたいものです。
「 クッソ !! 」 と思うことは、
いい面では励みというか、元気をつけてくれる
ことにもなります。
あいつだけには負けたくない !
それが、発展していくと
相手を叩き潰そうとしてきます。
それが 「 害 」 という煩悩です。
これは、一面 「 忿 」 ということの完成形です。
胸をかきむしられるというのが 「 悩 」 で、
いても立ってもおられないという心が 「 害 」 ということになります。
だから、この心は相手を憐れむという心がなくなって、
平気で人を傷つけ悩ます、ということになるのです。
怒りの別な一面で、最後に 「 嫉 」 という心があります。
面白いというか、妙な煩悩で、本当は自分と関係がない
けれども腹が立ってくる、ということがあります。
表立ってはそうは感じないのですが、
隠れたところで、人間は自分の名誉や利益に命がけになるものです。
だから、人が栄え、また他人がいい目を見ているのが
辛抱できない、ということがあります。
私の財布の金が減ったということではない、
他人の財布に余計に金が入った、
それが辛抱できない、腹が立つ、という煩悩です。
「 賀辞 ( がじ ) には必ず愁声 ( しゅうせい ) あり。
弔辞には必ず歓声あり 」
という、お経の文句があります。
人間の心は複雑怪奇で、心の中で思っていることと
反対のことを平気で言うし、
自分には関係のないことでも腹を立てたりします。
お釈迦さまはそういう微妙な人間の真理も見逃さなかったのでしょう。
そういう、微かな心に起こってくる煩悩を
じっと見つめた結果が108という煩悩になったのだと思います。
自分では普段は感じることの出来ない、
ささいな心の動きを発見したというのは
仏教の凄いところだと思います。
ここでは、 「 怒り 」 ということの
ほんの一面しか言えてませんが、
今度は 「 貪り 」 ということも
分析していくとまた、面白いものがわかってきます。
自分がわからない、 「 無知 」 「 我痴 」 といいます。
これが元になって、 「 瞋 」 という怒りの心を生み出し、
「 貪 」 という貪りの心を起こしていくのです。
これが、いろいろ絡み合って発展していくと
108という煩悩になってくるのです。
こういう自分の真の姿を見つめないと、
本当のことはわからないと思います。
お釈迦さまの 『 大工を見つけた 』 という表現は
人間をだめにしていく、心の姿の構造を
発見したということでしょう。
「 こころこそ こころまよわすこころなれ
こころにこころこころゆるすな 」