本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

たんぽぽ魂

2013-03-31 21:18:52 | 住職の活動日記

 踏みにじられても

 食いちぎられても

 死にもしない

 枯れもしない

 その根強さ

 そしてつねに

 太陽に向かって咲く

 その明るさ

 わたしはそれを

 わたしの魂とする

   坂村真民

 

  

 

家の前の歩道橋の足元、

このコンクリートの僅かな隙間に

根を張っています。

 

  

 

隅っこだったので、踏まれずにすんだのでしょうか。

 

  

 

本当にニッコリ笑っているように見えました。

 

 明日は月曜日、たくさんの通勤の方が

この歩道橋を渡って行かれます。

 ちょっとした弾みに踏まれてしまうかもしれません。

 

けど、  花は散り

実を結び、

たくさんの種を飛ばして、

このたんぽぽは死んでいきます。

 

いま  を懸命に生きています。

だから美しい。

 

 また、どこかに自分のいのちを宿して

時期が来たら終わっていきます。

 

 ほんとうに、

「 死は、生命の最高の発明だ 」

ということですね !!

 

 

 

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今週の言葉 4/1~4/7 「 死は、生命の最高の発明だ 」 

2013-03-31 18:43:25 | 今週の言葉

「 死は、生命の

 

  最高の発明だ 」

 

        スティーブ・ジョブズ

 

 彼の言葉を聞いていると、どうも仏教の香がする。

有名な、

 「 ハングリーであれ、愚か者であれ 」  

( Stay hungry 、 Stay foolish )  は、

禅宗の教えで、

 『 愚の如く、魯の如く、よく相続するを

   主中の主と名づく 』

を、訳したものといわれている。

 『 愚 』 も、おろかという意味、

そして、 『 魯 』 も、おろか、という意味です。

よく、お坊さんが自分のことを謙遜して、

「 愚僧 」 といいます。

また、親鸞はご自身のことを 『 愚禿 』 

( おろかなはげあたま ) と、

自分の立場を、一番下におかれています。

「 無知の智 」 とはソクラテスの言葉です。

そして、 『 相続 』  ということを

「 ハングリー 」 と表現されたのでしょう。

そこには求道していく力を感じます。

満腹になれば、落ち着いてしまって、

道を求めるということもなくなってしまいます。

 

 「 死は、生命の最高の発明である 」

 

この言葉を聞いたとき思い出したのは

スティーブン・スピルバーグ監督の 

『 A.I. 』  という映画です。

( Artifical )  人工の  

( Intelligence )  ( 知能 )

という、人型ロボットの物語です。

ロボットに愛情はもてるのかというのが

スピルバーグ監督のテーマだったようです。

 子どものいない夫婦にロボットがやってくる。

( 実は不治の病の子供がいるのです )

その子どものロボットは絶対に裏切らない

愛情を持つようにプログラムされている。

 ところが、不思議にも

本当の子供が快復してその両親の元に返ってくる。

 ということで、ロボットの子どもは捨てられる。

それからいろいろあって、

そのロボットは海に落ちて海の底に沈んでしまう。

 それから、 2000年が経ち  …

人類は滅亡してしまう。

 

 未来の生物が来て、海の底でその子どものロボットを発見する。

大変興味深げにその子どものロボットを調べ、

過去の人類の情報を拾い上げる。

そこで、この子どものロボットの愛情に興味を持ちます。

 「 何か欲しいものはあるか ? 」

未来の生物は尋ねます。

その子どものロボットが未来の生きものに頼みます。

 

 「 もう一度、お母さんに会いたい。」

 

 「 お母さんの情報は何かあるか ? 」 と、

すると、ポケットからお母さんの髪の毛を取り出します。

 「 これだけでは、お母さんを作り出すことは出来ない。

   出来ても、一日だけならなんとかしてあげよう。

   そのかわり、君のいのちも亡くなる。」

このままでいれば、この子どものロボットは

永遠に生き続けることができる。

 お母さんを復元してもらえば、それで君の命も亡くなる。

子どものロボットは迷います。

 

 「 でも、もう一度、お母さんに会いたい ! 」

 

未来の生物は、一日だけのお母さんを作り出します。

子どものロボットはお母さんの胸にだけれて、

お母さんと一緒に一日のいのちを生きるのです。

そして、お母さんと一緒に死んでしまいます。

 

 この映画を見たとき、

「 いのち 」  そして  「 死 」  ということを

考えさせられました。

 

 不思議なことに、この映画はアメリカでは不評で

日本での興行がヒットして収益が出たということです。

 

 「 A.I. 」  意味は 人工知能ということですが、

キーボードでは 「 あ.い. 」 と打ち込みます。

『 愛 』  というメッセージも

込められているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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さよなら MD90 !

2013-03-31 16:55:08 | 住職の活動日記

 昨日の 「 熊本あそ空港 」 朝から

それらしきカメラマンたちがたくさん集まっています。

盛んに手を降ったり、ポーズをとったりと、

こちらからは、何が起きているのかわかりませんが、 ??

ただならぬ様子でした。

 

    

 

 

向こうには 「 787 」 が止まっています。

その復帰を祝うのでしょうか  ???

 

 

 機体が動き出した頃、

熊本空港のキャラクター ??  

垂れ幕を持って、  手を振っています。

 

 

    

 

垂れ幕には 、

 「 さよなら MD90 」  の文字が見えます。

 

 どうも、 JAL の 「 MD90 」  の最後のフライトのようでした。

 

そのときは、

私たちに手を振ってくれているような ?

そんな勘違いで、とても気持ちよく

飛び立ったのですが、

 

 ま~  嬉しい勘違いでした。

 

 

 

 

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CRJ-200

2013-03-30 21:42:34 | 住職の活動日記

 JAL の 「 CRJ-200 」 に乗りました。

カナダ・ボンバルディァ社の飛行機で

ジェット機としてはとても小さい部類だと思います。

 

   

 

座席数も50名、

 

   

 

シートも小さめ、

 

   

 

窓から見る景色も、外の機体がとても大きく見えます。

 

    

 

滑走路も目線とほぼ変わらない、

地面をはいつくばっていく感じです。

向こうには大阪空港が見えます。

 

 でも、とても機敏な動きのように感じますが、 …

あっという間に空へ上っていきました。

 

    

 

大きく旋回して、

池の中に日本列島が浮かんで見えます。

 

 着くころにはあたりも薄暗くなってきて、

 

    

 

珍しく、タラップを降りて、徒歩で滑走路を通り、

出口へと向かいます。

 

   

 

 

小さいながらもその雄姿は頼もしくも見えました。

 

 安全な飛行ありがとうございました。

 

 

 

 

    

 

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フランシスコ新ローマ法王洗足式

2013-03-29 21:03:05 | 住職の活動日記

 新ローマ法王が 「 少年院 」 で洗足式をされたことが、

ニュースで流れていました。

 その儀式を見ていて感動と驚きを覚えます。

少年院の子どもたちに一人ずつ足を洗い、

その足に口づけをされていました。

 「 洗足 」  足を洗う、と書きます。

調べてみると、このことは世界共通なのでしょうか ?

仏教でも 「 足を洗う 」 ということをいいます。

今では 「 足を洗う 」 というとあまりいい意味では使われません。

本来は、お坊さんが托鉢に出て、帰ってきたとき

足を洗い、世俗の汚れも流した、

というところから来ているようです。

 

 お釈迦さまの仏像が出来る前は、

象徴的な、塔とか、 『 仏足石 』 を

お参りしたようです。

そのことにより、無量の罪障を滅する

ということで崇拝されていたようです。

 

 巡礼に行ったとき、金剛杖を持って回るのですが

お宿に着くと、まず 「 金剛杖 」 を洗うのです。

金剛杖が 「 お大師さま 」 であったり、

札所の仏様であるということで、

着いたら一番先に杖を洗います。

 

 私たちもお参りするときは

「 五体投地 」 に三礼をして、

両手に仏さまの御足を頂くのです。

 

 東南アジアの上座部仏教の人たちも

たとえその国の首相であっても、

お坊さまが来たら、ひれ伏して御足を頂かれる

ということを当たり前のようにされておられます。

 

 東井義雄先生は 「 足の裏を拝む 」 と

いって、実践しておられます。

 

 洋の東西を問わず、 『 足 』  ということは

とても大切な意味を持っているようです。

 それにしても、仏さまの御足を頂くというのは

何となくわかるような気がしますが、

ローマ法王というカトリックの最高権威者が

少年院の子どもたちの足を頂かれる、という

そこには今度なられた新ローマ法王の

並々ならぬ平等感があるのでしょう。

「 支援が必要な人々に寄り添う 」

ということを言っておられます。

 

 「 足に口づけをする 」 ということは、

「 あなたのために奉仕します。 」

ということの表現のようです。

 それにより、世界中に人々が仲良く

平和になって欲しいという願いが込められているのでしょう。

 

 トップに立つということは、

そういう支援が必要な人々の立場に立つ

ということを忘れてはならないのでしょう。

 

良寛さんも、

  『 如何なるが苦しきものと問うならば

      人をへだてる こころとこたえよ 』

といっておられます。

 

 

 

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宇多田ヒカル と 「 唯識三十頌 」

2013-03-29 07:43:34 | 住職の活動日記

 昔から、仏教を学ぶにあたっては

『 唯識三年 倶舎八年 』  ( ゆいしき三年 くしゃ8年 )

ということがいわれています。

 「 唯識 」 とは仏教の心理学というか

人間の心の構造を明らかにする学問です。

 すぐに悟りの世界を追求するのではなく、

人間の現実というものを押さえようとしているのです。

人間の迷いの構造を緻密に分析していく、

そのことによって、人間の仏性をとらえようとしたのです。

 「 倶舎 」 ( くしゃ ) という学問は

よくはわかりませんが、

あらゆるものの分析学、存在の分析というような

意味合いを持っています。

 

 先日、 『 宇多田ヒカルさん 』 が

『 唯識三十頌 』 ( ゆいしきさんじゅうじゅ ) の

写経にはまっている、ということを

彼女のブログで知りました。

 三島由紀夫の 『 豊饒の海 』 を読んで

その中に出てくる、 『 唯識三十頌 』 に興味を持って

それから、写経するようになったということです。

 そのこと自体驚きでした。

写経といえば 『 般若心経 』 が一般的ですが、

『 唯識三十頌 』 をされるとは、

恐れ入ります。

 やはり、一流の方は読むもの、見識が鋭く

受け止め方も深いものを感じます。

 

 そういう私、 いまだ 『 唯識三十頌 』 は

読むことはあっても、写経したことはありませんでした。

 

 この短いお経は 「 玄奘三蔵 」 三蔵法師が

心血を注がれたお経で、

表現の仕方が非常に的確で、厳密です。

そして、三十頌しかない簡潔なお経です。

簡潔というのは、本当に厳密だから簡潔になっているということです。

やはり、玄奘三蔵の名訳ということでしょう。

 

 一頌というのは 5文字の4句、20字で成り立っています。

ですから、30頌というのは600文字で出来ているという

お経です。

 人間の迷い、煩悩の構造を600文字で解明した、

ということは、

今でいえばノーベル賞ものでしょう。

 

 ということもあって、パソコン上ではありますが

『 唯識三十頌 』  を写経してみました。

 以下はその全文ですので、

興味のある方はご覧になってください。

 次は、筆で写経をしてみようと思います。

 

 

 

稽首唯識性 満分清浄者

我今釋彼説 利樂諸有情

 

第一

由假説我法 有種種相轉

彼依識所變 此能變唯三

 

第二

謂異熟思量 及了別境識

初阿頼耶識 異熟一切種

 

第三

不可知執受 處了常與觸

作意受想思 相應唯捨受

 

第四

是無覆無記 觸等亦如是

恒轉如暴流 阿羅漢位捨

 

第五

次第二能變 是識名末那

依彼轉縁彼 思量為性相

 

第六

四煩悩常倶 謂我癡我見

竝我慢我愛 及餘觸等倶

 

第七

有覆無記攝 隋所生所繫

阿羅漢滅定 出世道無有

 

第八

次第三能變 差別有六種

了境為性相 善不善倶相

 

第九

此心所遍行 別境善煩悩

隋煩悩不定 皆三受相應

 

第十

初遍行觸等 次別境謂欲

勝解念定慧 所縁事不同

 

十一

善謂信慚愧 無貪等三根

勤安不放逸 行捨及不害

 

十二

煩悩謂貪瞋 癡慢疑悪見

隋煩悩謂忿 恨覆悩嫉慳

 

十三

誑謟與害憍 無慚及無愧

掉舉與惛沈 不信幷懈怠

 

十四

放逸及失念 散亂不正知

不定謂悔眠 尋伺二各二

 

十五

依止根本識 五識隋縁現

或倶或不倶 如濤波依水

 

十六

意識常現起 除生無想天

及無心二定 睡眠與悶絶

 

十七

是諸識轉變 分別所分別

由此彼皆無 故一切唯識

 

十八

由一切種識 如是如是變

以展轉力故 彼彼分別生

 

十九

由諸業習氣 二取習氣倶

前異熟既盡 復生餘異熟

 

二十

由彼彼遍計 遍計種種物

此遍計所執 自性無所有

 

二十一

依他起自性 分別縁所生

圓成實於彼 常遠離前性

 

二十二

故此與依他 非異非不異

如無常等性 非不見此彼

 

二十三

即依此三性 立彼三無性

故佛密意説 一切法無性

 

二十四

初即相無性 次無自然性

後由遠離前 所執我法性

 

二十五

此諸法勝義 亦即是真如

常如其性故 即唯識實性

 

二十六

乃至未起識 求住唯識性

於二取隋眠 猶未能伏滅

 

二十七

現前立少物 謂是唯識性

以有所得故 非實住唯識

 

二十八

若時於所縁 智都無所得

爾時住唯識 離二取相故

 

二十九

無得不思議 是出世間智

捨二麤重故 便證得轉依

 

三十

此即無漏界 不思議善常

安樂解脱身 大牟尼名法

 

 

 

  

 

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「 不動護摩 」

2013-03-28 18:17:47 | 住職の活動日記

 3月となると、護摩の修法は

全身汗まみれになります。

 これからは、汗との戦いです。

でも、暑い時の護摩の方が気持ちもスッキリします。

夏になると、仏具も衣も熱さで触れなくなるほどです。

 

    

 

護摩の炉です。

この炉の中に護摩木を組み、火を燃やして

五穀、お洗米、蘇油といってごま油を

お供えします。

 

   

 

こういう、「 樒 」 ( しきみ ) もつかいます。

この樒に乗って、仏さまがお見えになるのです。

また、樒は香りもよく、火に入れると、

パチパチと音を立てて、勢いよく燃え上がり

香りもとてもいい香りがします。

 

    

 

「 護摩杓 」 ( ごましゃく ) といって、

この真鍮で出来た大小二本のスプーンのようなもので、

五穀とかお洗米をお不動さまにお供えします。

ところが、この杓でごま油も使うので、

結構汚れがきつくなってきます。

 

 有り難いことに、『 お不動さま 』 とはずっとご縁があって、

お不動さまの元で生まれ、 ( 私だけが病院ではなくお寺で生まれたのです )

東寺の御影堂では10年にわたり、

秘仏の不動明王の前で毎日護摩を焚かさせていただきました。

熊本に帰ってからも、毎月ではありますが

こうやって、護摩のお勤めを勤めることができるのは

本当に有り難いことです。

 

  それから、やはり 『 不動 』 という言葉が気になって、

最近では、こんな言葉に出会いました。

 

 「 われ仏眼をもって一切衆生を見るに

   貪欲恚痴なる諸煩悩中、

   如来智、如来眼、如来身あり、

   結跏趺坐厳然として不動なり。 」

 

『 如来蔵経 』 というお経の中にある文句です。

わからないけど響く言葉です。

 

 

 

 

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「 散るさくら 残るさくらも 散るさくら 」

2013-03-27 21:21:37 | 住職の活動日記

 良寛さんの辞世の句です。

熊本は今朝から小雨です。   

この雨で、もう、  桜も散っていくことでしょう。

 

   

 

朝起きてみると、「 牡丹 」 のつぼみもしっかり膨らみ

露がとてもきれいに光っていました。

 

   

 

昨日の 「 菩提樹苑 」 のさくらです。

ご先祖さまも今日が見納めです。

 

   

 

もう葉も出てきて、葉桜になりつつあります。

 

 たまたま、用事で熊本市役所へ

そこの 上から見下ろす  『 熊本城 』

 

   

 

雨に煙りながらも、最後のさくらを誇っています。

 

 

   

 

 

今年は少し早めでしたが、

見事に咲きました。

 

 でも、今日の雨でほとんど散っていくことでしょう。

 

 「 散るさくら 残るさくらも 散るさくら 」

 

です。 本当に花の命は短い !

 

 親鸞聖人が得度するときに

「 明日にしよう 」  といわれたら、

 

 「 明日ありと 思う心の あださくら 夜半に嵐の吹かぬものかは 」

 

と詠まれて、

得度するのは  「 今でしょう ! 」

といって、明日にはわが身はないかもしれない、

思い立つ心の起こったときが、

その時なのだと、得度されたということを思い出します。

 

 いのちの限り、ひと時を咲いているのです。

 

  ( 明日はわからないからどうでもいいのではないのです。

    明日はわからないからこそ、今を一生懸命生きるのです。)

 

 

 

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人間 怒りの構造

2013-03-26 18:24:56 | 住職の活動日記

 「 怒り新党 」  有吉さんマツコさんの番組ではないですが、

「 怒り 」 ということも根本の煩悩の一つです。

 

 「 唯識 」 ( ゆいしき ) というお経の中では、

その心の構造を精密に分析しています。

 「 怒り 」  お経では 「 瞋 」 という字で出てきます。

その 「 瞋 」 ( しん ) を分析して、

  忿 ( ふん )

  恨 ( こん )

  悩 ( のう )

  害 ( がい )

  嫉 ( しつ )

の五つに分けています。

 忿 ・ 恨 ・ 悩  この三つは

『 瞋 』  の発展していく段階です。

 まず、 「 忿 」

これは、何でもないことにムカッとする。

この忿は割合に軽い怒りです。

都合の悪いものにムカッとした、というだけの程度です。

この忿が少し成長すると、 「 恨 」

「 忿 」 が起こってもこれを忘れてしまえばいいのですが、

忘れずに心の中に残ってしまった場合、

 「 恨 」 という心に成長します。

心に留めていつまでもうらむ、ということです。

「 悩 」 心に残った記憶を追体験していくということです。

まざまざと思い出して、そうしていよいよ燃え上がっていく、

思い出しただけでも胸をかきむしられる。

 そのように、最初はなんでもない 「 ムカッとした 」

忿 」 ということが、心に残り 「 恨 」 となり、

それを思い出してはまた腹を立てていく、

これは、 「 あいつは憎いやつ ! 」 と、

恨んでも、もうそこには憎いやつはいないので、

ただ記憶に対して腹を立てている、

ということが事実です。

 事実はそうなのかもしれませんが、

現実問題としてなかなか受け入れがたいものです。

「 クッソ !! 」 と思うことは、

いい面では励みというか、元気をつけてくれる

ことにもなります。

あいつだけには負けたくない !

 それが、発展していくと

相手を叩き潰そうとしてきます。

それが 「 害 」 という煩悩です。

これは、一面 「 忿 」 ということの完成形です。

胸をかきむしられるというのが 「 悩 」 で、

いても立ってもおられないという心が 「 害 」 ということになります。

だから、この心は相手を憐れむという心がなくなって、

平気で人を傷つけ悩ます、ということになるのです。

怒りの別な一面で、最後に 「 嫉 」 という心があります。

面白いというか、妙な煩悩で、本当は自分と関係がない

けれども腹が立ってくる、ということがあります。

表立ってはそうは感じないのですが、

隠れたところで、人間は自分の名誉や利益に命がけになるものです。

だから、人が栄え、また他人がいい目を見ているのが

辛抱できない、ということがあります。

私の財布の金が減ったということではない、

他人の財布に余計に金が入った、

それが辛抱できない、腹が立つ、という煩悩です。

 

 「 賀辞 ( がじ ) には必ず愁声 ( しゅうせい ) あり。

   弔辞には必ず歓声あり 」

 

という、お経の文句があります。

人間の心は複雑怪奇で、心の中で思っていることと

反対のことを平気で言うし、

自分には関係のないことでも腹を立てたりします。

 

 お釈迦さまはそういう微妙な人間の真理も見逃さなかったのでしょう。

そういう、微かな心に起こってくる煩悩を

じっと見つめた結果が108という煩悩になったのだと思います。

自分では普段は感じることの出来ない、

ささいな心の動きを発見したというのは

仏教の凄いところだと思います。

 

 ここでは、 「 怒り 」  ということの

ほんの一面しか言えてませんが、

今度は 「 貪り 」 ということも

分析していくとまた、面白いものがわかってきます。

 

 自分がわからない、 「 無知 」  「 我痴 」 といいます。

これが元になって、 「 瞋 」  という怒りの心を生み出し、

「 貪 」  という貪りの心を起こしていくのです。

これが、いろいろ絡み合って発展していくと

108という煩悩になってくるのです。

 

 こういう自分の真の姿を見つめないと、

本当のことはわからないと思います。

お釈迦さまの  『 大工を見つけた 』  という表現は

人間をだめにしていく、心の姿の構造を

発見したということでしょう。

 

 「 こころこそ こころまよわすこころなれ

    こころにこころこころゆるすな 」

 

 

 

 

 

 

 

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「 そばの ひ孫と孫は 優しい子かい 納得 」 ?

2013-03-26 09:31:52 | 住職の活動日記

 どういう意味 ??  と、

気になりますが  …  。

 先日の 「 モーニングバード 」 という朝の番組、

「 最近の糖尿病事情 」  という内容でした。

 増えている原因の一つに、食生活による

『 マグネシウム 』  の不足が原因とも言われているそうです。

  370mg が必要なところ、

237mg しか取れていないということです。

 

 そこで、「 マグネシウム 」 の入っている食品が、

 

「 そば・バナナ・のり・ひじき・豆・五穀・豆腐・

抹茶・ゴマ・ワカメ・野菜・さかな・椎茸・イチジク・

昆布・牡蠣・芋・納豆・トウモロコシ・クルミ 」

 

の、20品目です。

この頭文字を取った言葉が、

 

 「 そばのひ孫と孫は優しい子かい 納得 」

 

となるのです。

 

 昨年ごろから、糖尿病の数値を表す

HbA1C ( ヘモグロビンエーワンシ )

が、国際基準となり、 「 0,4 」 引き上げられました。

いままで、 「 4,3~5,8% 」 が適正といわれていたのが

「 5,8% 」 の人が 「 0,4 」 上がると、

「 6,2% 」 となって、糖尿病という診断が下るのです。

 これは治療管理をより精密にするということらしいのですが、

境界線にあった糖尿病の方が

グッと増えてくるのではないかと思います。

 

 食生活が一番ですから、

たまにこの言葉を思い出し、

マグネシウムを増やすことに心がけましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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