本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

浄土という心境を開く

2023-01-31 21:39:33 | 十地経

早速講義ですが、

 

「それから、第二番目は

何かというと、

『無量の世界網』という。

網という字はアミですか、

網という比喩はどうも

よくわからんですね。

これはま、

どれだけの衆生かというと、

誰を救うのかというような

誰も救うんだという意味

ですね。

 

衆生というけど、

誰を救うんだと、who

という。

そしたらwhereという

ことがありましょ。

どこにおるんかと、衆生がね

衆生というのは、

空中に浮いているもの

じゃない。

衆生というのは、

さっきも言ったように、

世界における存在なんです。

世界における存在が

衆生ですね。

世界網というのです。

衆生を救おうとすれば、

衆生の世界の理解が

なければならない。

 

ここは、そういう世界網

という、

世界の問題がでている。

その世界の問題は、

広くいえば、環境問題です。

それは

『無量の世界網に入り、

諸仏無量の清浄国土に入る』

と。

その国土は、浄土ですね。

国土の問題はそこから

出とるんです。

世界は穢土ですし、

衆生の住んでる世界は

穢土ですし、それに応える

仏の世界は国土で、浄仏国土

です。浄土です。

 

浄土というようなものでも

遠い問題じゃないんです。

この現実の世界というものの

祈りなんだ、衆生の。

祈りを起こしているのは

衆生の要求です。

 

だから、

衆生の要求からいえば、

往生浄土というんです。

応える方からいえば、

荘厳浄土というんです。

 

荘厳浄土から往生浄土が

起きたんじゃない。

往生浄土から荘厳浄土が

起きたんです。

浄土があるから

往きたいんじゃない。

往きたいという要求に

応えて浄土が荘厳される。

 

『求めよ、

さらば与えられん』

という言葉が、福音書に

あるが、

打つのは衆生ですし、

響くのは如来なんです。

 

衆生という、

現実の手でもってですね、

存在を打つんです。

それに対して、

存在が響き返ってくるのが

仏です。仏荘厳でしょう。

 

だから、

どこということがここに

出ている。

我々の環境の中に、

何か一つ、

どうも逃げだしたいような

環境の中にですね、

悠々と安んぜられるような

心境を見出してくるんです。

 

心が開いてくると、

昨日まで厭うておった穢土の

環境が、

浄土という心境に変わって

くるんです。

心境を開くんだ。

 

自殺でもしたいという、

逃げだしたいという世界が、

満足して、悠々と生きられる

心境を開いてくるんです。

 

この環境の別のところで、

その心境を開くんじゃない。

どうにもならん環境に、

どうする必要もない

心境を開いてくるんです。

 

そういう近接の問題やね、

浄土というものはもね。」

 

 

 

 

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京都の雪はまだまだ溶けません

2023-01-26 08:15:59 | 住職の活動日記

今朝も東山からお天道様が

顔を出しました

 

 

でも家々の屋根は雪がまだ

溶けない状況です

幹線道路の雪は解けたものの

路地に入るとまだ

アイスバーン状態

それで、昨日の

靴にはめるアイゼンは

とても役に立ちました

足元がおぼつかない状態では

がしっと踏ん張ってくれる

のは頼もしい限りです

 

 

比叡のお山も真っ白です

今日も最高気温は3度ほど

冷凍庫の中ですね

 

 

気を付けないといけないのが

玄関前の廊下

よく見ると溶けた雪が

凍っています

あのアイゼンのピックが

こういうところで役に立つ

のです。

 

でも、美しい朝日も出て

穏やかな日になることを

願います。

明日は熊本、

新幹線順調に動きますように

 

 

 

 

 

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果分不可説・因分可説

2023-01-25 18:19:00 | 十地経

果分不可説(カブンフカセツ)

因分可説(インブンカセツ)

ということが出て来ます

 

果の分は説くことができない

ということですが

果というのは、

結果ということで

人間の最終の結果

つまり仏を指します

仏は

教えを説くことが出来ない

ということです

 

それに対し

因分可説というのは

因の分ですから

仏に成る前

菩薩の位を指します

分というのは位といっても

いいのです

仏の位、菩薩の位と

それを、仏の分、菩薩の分

というように言うのです

 

よくお寺には

三尊の形というのがあって

たとえば、

阿弥陀如来の場合は

両脇に

観音菩薩と勢至菩薩が

おられます

釈迦如来の場合は

文殊菩薩と普賢菩薩です

 

阿弥陀如来のはたらきを

あらわすのは

観音さまと勢至菩薩です

このように

阿弥陀如来の教えは説くのは

観音・勢至の両菩薩です

 

それで、講義では

 

「仏本願力という言葉は

『十地経』でも最初に出とる

これはなにも、

仏本願力というけれど、

仏は黙っている。

絶対沈黙しとるんです。

法身は沈黙しとるんだ。

 

つまり、果分は不可説です。

果分は説くことができない。

語るのは、因分が説く。

菩薩において語られる。

菩薩という世界で如来は

語られるものになるわけです

如来を語られるものに

するには、

菩薩の位が必要なんです。

体として語られるんです。

如来そのものは、

沈黙が面目なんだ。

 

法身が説法したら、

かえって意味がなくなると

思うんです。

如来は言わん。

言わん如来を菩薩が語る。

そこで初めて、

立体的になる。

菩薩の世界はいつでも

背後に如来の、

いわゆる不可分の世界

というものを

 

背景としてもつということが

非常に大事なことです。

不可分の世界というものを

背景としてもつ。

その背景を

前面にあらわしてくるときに

『無量寿経』になる。

『十地経』は、

背景は背景として、

ちゃんと控えてある。

『十地経』は、菩薩経です。

菩薩道の経典です。」

 

というように出てくる

のですが、

ふと思うと

私たちがお説教をするとき

ご本尊に尻を向けて

話すように思っていたのです

が、この話を聞いてみると

ご本尊を背景として

住職が語るのでしょう

なにか、

そういう意味があるように

思います。

 

また、分というのは

仏のさとりの一部分という

意味があるようです

唯識に出てくる

「満分清浄者」の

「満」は仏であり

「分」は菩薩です

分には分斎(ブンザイ)と

いう意味があって

分位、くらい、という

ことになります。

 

この果分不可説・因分可説

という問題もなかなか

面白い問題です。

今の社会でいえば

社長は果で、社員は因と

考えてみても

面白いのじゃないでしょうか

そこが混乱すると

色々問題も出て来るようです

 

 

 

 

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京都も大雪!

2023-01-24 20:44:35 | 住職の活動日記

夕方から降り出した雪

次第に降り方も激しくなり

 

 

夜になっても降りやまず

 

 

五条通りは大渋滞です

東行き、

東山のトンネルを抜けて

山科へ、そして大津と

国道1号線です

 

 

多分、東山のトンネルが

通行止めに

なっているのでしょう

 

こちらでは

スタッドレスタイヤを

履いている車は少なく

また雪にもなれていないので

少しの雪でも

大変です

 

明日は出かける

用事もあるのです

以前買ったスパイクを

やおら取り出して

 

 

靴の装着してみました

年とってからは

滑っても元に戻るバランス

感覚がなくなっているので

ちょっとした滑るのも

気を付けなければ

転ばぬ先の杖です

 

まあ、明日は雪が止んで

いることを望みますが

予報では

気温も今日よりも下がる

という予報です。

不要不急は家にいた方が

いいのですが

どうしてもの用事

仕方ありません。

 

お互い気をつけて

動きましょう。

 

10時ごろになると

渋滞は解消したようです

が、

深々と降り積もっています

 

 

 

約11センチほど積もった

ようです

 

 

明日が心配です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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存在の秩序(他を侵さず・他に侵されん)

2023-01-23 20:46:34 | 十地経

一、ONEということも

難しい問題で、

「世界は一つ」という

歌もありますが

その世界の中心は誰か

ということで、

世界は混乱しているようにも

思うのですが、

 

ちょうど講義では、

 

「キリスト教の教学という

ものは、

人間という存在の外に

もう一つの神という存在を

考える。

人間は有限な存在だし、

神は絶対的な存在だと、他者

絶対というけれど、

人間に対したら相対になる

わけですからね、

実際いうと。

 

だが、相対であるけれども、

手が届かんと。

こういう考え方が、

他者という考え方なんです。

他の存在や。

無限というけど他の存在や。

 

そういう点からいうと

この頃やかましくいわれる

ブーバーなんかの存在論でも

やっぱり、

キリスト教の、

ユダヤ教という考え方、

ああいう伝統がある。

 

しかし、仏教では、

唯一の実在というものを

認めると、

他の絶対者を認めるというと

人間は奴隷になるより

仕方がない。

どうも、

キリスト教の信仰では

人間は奴隷になる。

僕はマルキシズムが出るのも

そのキリスト教の持っている

奴隷に対する反発、

プロテストじゃないかね。

アンチクリストというような

ことをいうのもですね、

ニーチェの。

キルケゴールなんかも

みんなそういうプロテスト

から出てくると思うですね。

 

その点、

仏教はそうじゃないんだ。

絶対が一つということは

ありはせんのであってですね

相対のままが絶対だと。

無限の相対者が、

一々が皆絶対だと。

相対の向こうに絶対が

あるんではない。

 

相対の一々が皆絶対なんだ。

絶対は無数にあると。

例えば、

そういう意味で阿頼耶識と

いうことを考えてみなさい、

唯識学で。

阿頼耶識は、唯一の阿頼耶識

というのはありゃせんです。

無量無数の阿頼耶識なんだ。

 

そんなら、

混乱せんかというと、

一つの世界なんだ。

そこは予定調和されとる

わけだ。

面白いんや、

そういうとこが。

 

つまり、

一々の絶対を統一する

絶対はないんです。

そういうものを考えると、

頭が重くなってしまう。

みな奴隷になってしまう。

 

一々が皆、事事物々が皆、

独立しているのです。

その独立者を統一する

独立者はないんです。

すべてのものは皆、

他を侵さず、

また他に侵されん。

それが、

存在の秩序なんです。」

 

どのような人でも

不可侵というか

侵すべからざる存在なのです

そういうことが平等という

ことになると思うのです。

「一」ということも

何気なく使いますが

大きな問題を含んでいると

思うのです。

 

 

 

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紅葉葉鈴懸の木(もみじばすずかけ)

2023-01-21 20:48:39 | 住職の活動日記

五条通の鴨川の近くに

小さな公園があります

 

 

葉が落ちてその幹と枝が

面白い造形美を

創り出しています

 

 

この肌からすると

プラタナスの木です

日本名が紅葉葉鈴懸の木

気になったのは「鈴懸」と

言葉です

あの、「勧進帳」でいう

「旅の衣は鈴懸の~」

という文句なんです

 

 

木の下にはその説明が

やはり、

山伏の鈴懸の衣から

きているのです

 

よく、木を見上げて見ると

 

 

この木の実は丸いボンボンの

ような形です

これが鈴懸衣の袈裟の

丸い梵天に似ているところが

名前の由来のようです

 

 

隣の有名な料亭に向かって

伸びている木の肌は

生きてきた歴史を感じます

 

 

また公園には柘榴の木もあり

実は採られずじまいで

そのままの姿で枯れ掛けて

いるようです

 

この公園は五条大橋のたもと

にあるので、

もとの五条大橋の礎石が

何気なく置かれています

 

 

彫られている文字を見ると

 

 

天正十年の文字が見えます

この年は明智光秀が

織田信長を討った年です

何とも年代物

 

 

今の五条大橋はRCで出来ています

しかし、擬宝珠はその当時の

面影を残しています

 

 

鴨川にはカモメたちが

群がっています

エサを持ってきた人が

おられるようで

そのエサを狙って騒いで

いるのです

カラスや鳩やトンビまで

加わり大変な賑わいようです

 

久しぶりに我が家には

 

 

花が活けられました

もとの宇治の教室まで

出かけて活けたのですが

 

 

電車で持って帰る途中

形も少し崩れたようです

が、なにせ

久しぶりのお花に

心が和みます

ベランダに置き窓越しに

眺めているのです。

 

 

 

 

 

 

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境界(きょうかい・きょうがい)

2023-01-18 20:17:14 | 十地経

境界ということも

難しい問題です

家を建てるにしても

境界を決めることから

はじまります

昔はあの木からこの木までが

私の土地という具合に

アバウトだったんですが

今は測量技術も進歩して

きちっとした境界が

出て来ます

国同士でも境界を巡り

戦争が絶えません

勝手に侵攻してここが

我が領土というように

今まさに世界中が

この問題で苦しんでいます。

 

漢和辞典をみて見ると

「境」には、

身分、めぐりあわせ、逆境、

ありさま、状態、

というような意味もあります

「境界」という意味も

因果の理によって

人間が受ける境遇。

というように出ています。

 

仏教の場合は「きょうがい」

と濁って読みまったく意味が

違ってきます

簡単には「境」ともいいます

環境という言葉もあり

心境という精神面をあらわす

言葉もあります

 

単に、境といえば

例えば、目で見られる対象を

境といいます

眼は眼根ゲンコンと言って

見るはたらきです

その見られるものを境と

それは色であり

形あるものでもあります

 

講義では

「境界というとですね、

対象というのとちょっと違う

対象は、向こうにあるものを

対象といいますが、

界ということになると、

我々が、その中にあるのを

界という。

それを世界という。

ちょっと違うでしょ。

 

それが世界であるという

場合と、

それが対象であるという

場合と違う。

世界というのは歴史という

ものが、これが世界になる。

認識対象というような

ものではない。

 

歴史というものは、

我々の対象としてあるのでは

ない。

我々がそこに生まれ、

また、そこに死んでいく世界

やね、歴史という場合は。

我々が、歴史を対象とする

ということが歴史の中にある

 

そういう意味で、

境界ということは、何か、

もっと大きな概念です。

境地というように、

境界とか境地とかね。

精神的世界というような。

そういう、

諸仏の境界、つまり

如来の境界というような

意味が出ている。」

 

というように

境界ということも

仏教では大切な言葉なのです

また、

境界愛という言葉もあり

これは、物に対する執着です

この場合は境という対象物に

対する執着です。

 

また、境界住というと

お釈迦さまが伝道の旅で

留まられる場所を境界住と

いいます

その反対にお釈迦さまの

本拠地のことを依止住エシジュウ

といいます

 

境界ということも

とても幅広い言葉なのです。

 

 

 

 

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丸太町橋

2023-01-14 21:12:15 | 住職の活動日記

御所の南側にある通りが

丸太町通り

その通りを東へ行くと

鴨川に架かる橋が丸太町橋

 

 

この場所は広域避難場所にも

指定されていて

川の両側はきれいに

整備されています

面白いことに橋の下には

 

 

この橋の歴史が展示されて

います

最初の頃は木造の橋

丸太町も名前のように

材木を扱う町だったようです

 

 

大正時代にはかなり整備され

それでも木造です

 

 

その横には時代祭りの記事が

右の写真は一番最初の時代祭り

の様子です

その横のカラー写真は

その様子が絵図になって衣装の

姿が描かれています

 

 

なかなか面白いものです

橋の下というと

なんとも汚らしいところが

多いのですが

この橋の下はちょっとした

展示場です

 

気になったのが

 

 

このお地蔵様のおやしろです

三体あります

三軒地蔵というようですが

そのいわれはわかりません

 

 

川下を望むように

建てられています

覗き込むように見たのですが

お地蔵様のお姿というより

それらしき石のような

塊に見えます

 

京都の町は本当に

お地蔵様を大切にする町です

ビルができても

その一角には

もとあったであろうという

お地蔵様をお祀りするのです

この時さいわいにと

取り外し失くすことは

しないのです

 

ですから、このお地蔵さまも

何某かの因縁があるはずです

 

 

この図は鴨川に架かる橋の

名前です

結構たくさんの

橋が架かっています

 

何気なく通りかかった

丸太町橋ですが

何かしら興味をそそる

ものですね。

 

 

 

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脳過労と三昧

2023-01-13 20:53:08 | 住職の活動日記

「タイパ」という

タイムパフォーマンスと

いうことで

限られた時間をいかに

有効に使うかということで

一度に色々の作業をこなす

つまり、

テレビを見ながら

パソコンを開き倍速で

YouTubeを見ながら

携帯でメールチェックをし

片手に本を読む

という具合です

 

その情報たるや

ものすごい量なのです

それで脳が疲労を起こす

それを超えて過労になって

しまうということです

 

今の一日の情報量は

江戸時代の一年分にあたり

平安時代だと一生分に

当たるということです

 

脳科学からすれば

人間の脳は一つのことを

行うことで手一杯

ということなのですが

テレビ、パソコン、携帯と

あらゆる情報が

脳の中に入ってくる

それで、過労になってしまう

ということです

 

それを治療するには

ボウっとしていることが

一番いいそうですが

現代ではなかなかそれも

叶わないことでしょう

 

それについて

仏教では三昧(さんまい)

ということがあります

普通には、

何とか三昧ということが

よく使われますが

三昧というのはインド語で

samâdhiサマーディの

音写なのです

等持(トウジ)とか定(ジョウ)

と訳されます

等持院というお寺もあります

なかなかいい名前です

 

等持というのは

「等」は等しい、つまり

心のウキウキする心情で

掉擧(ジョウコ)と

反対の惛沈(コンジン)で

この心は沈んで暗くなる

そういう二つの心を離れ

平等で安らかなことが

「等」ということで、

 

「持」は心を一つの対象に

止めるということです

 

「等持」ということは

心を集中して散り乱さない

ということです

人間の心は

見たら見たものに興味が湧き

聞いたら聞いたものが

気になってくる

見たり聞いたりしたものに

心が散り乱される

ということなのです

 

まあ、タイパということも

心がうきうきして

見たり聞いたりしたものに

心が動かされている

ということなのでしょう

 

しかし、

静かに心を落ち着けて

といってもなかなかできない

ものなのです

 

仏教には「三学」といって

戒・定・慧の三つで

戒学・定学・慧学です

いきなり定(三昧)になれ

といってもなれるものでは

ありません

まず、戒ということで

規則正しい生活が根本で

それにより定が生まれる

というのです

 

それで、

座禅とかでは

ただ呼吸に集中する

「一つ、二つ、三つ」と

十まで数えたら、また

最初から数えなおす

そうやって

心を集中させていくのです

 

呼吸ということが大事で

最近はマスク生活で

口呼吸が増えている

ということです

それによって顔の形まで

変わってくるという

恐ろしい事実もあります

 

自分が口呼吸か鼻呼吸か

舌の状態が大切で

舌が歯の下の方について

いれば、それは口呼吸

舌が歯の上に付いていれば

鼻呼吸です

 

座禅の時も

舌を歯の上につける

ということが大事で

これも心を集中させる

方法です

 

まあ、タイパということも

時には

必要なのかもしれませんが

たまには

舌を上の歯につけて

鼻呼吸をして

心を集中させることも

大事ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)

2023-01-12 21:18:45 | 住職の活動日記

伊弉諾の神と邪那美の神が

天沼鉾(あまのぬぼこ)で

こおろこおろとかき鳴らし

引き上げたところ

最初のしずくが落ちた

それがオノコロ島と

いわれています

その後淡路島を生み

四国を生みと、

そういうことが古事記に

書かれています

 

 

その伊弉諾・伊邪那美を

お祀りするのが伊弉諾神宮

です

立派な鳥居をくぐると

広い境内が広がっています

 

 

遅ればせながらの

初詣です

仕事始めということもあって

会社関係の方が見かけられます

 

 

本殿に上がりお祓いを受け

御神楽を拝見しました

なかなかリズミカルな

太鼓と笛の音です

所により色々違いがあります

 

 

夫婦楠という

立派な楠木があります

もとは一つの独立した木

だったのが大きくなるにつれ

根元が一つになったという

御神木です

 

振り返ってみると

 

 

楼門も檜皮葺で

お寺と似たような気がします

 

 

この「さざれ石」は熊本の

鹿本郡産です

他にも色々な所で採れた

さざれ石があります

 

それから高速で南に下り

 

 

海に浮かぶオノコロ島

地名では沼島(ぬしま)と

いいます

 

 

船で10分ほどですが

時間が合わず今回は

諦めます

また次回の楽しみです

 

淡路島も新しい建物や

若い人を引き付ける所もあり

古代の神話も眠るという

面白いところでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

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