本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

第七地の面目

2024-04-30 19:59:01 | 十地経

『十地経』が実践の経典と

いわれるのは

自分の中に大きな難関を

見出しそれを超えていく

という道程だからです。

その難関に当たるところが

第七地です。

 

「七地の面目ということは

どういうことかというと、

十地の中にあって、

それ以前と以後を分ける

中間ですね。

十地の経説というのもが

非常に意味の深いのは、

はじめ、

ここから出たらずっと

十まで行く

というのじゃないです。

梯子段じゃない。

 

何かそこに大きな難関ね

が、横たわっている。

それで越えていく。

行けないのじゃない。

しかし

引き返したら、

さっき言ったように

死ぬること。

帰るも死ぬるというん

だから。

 

死ぬということは

つまりいてみれば堕落する

ということです。

止めるということ。

つまり転退です。

元の通りに帰ること。

つまり死んだわけです。

 

そこでずっと

自然に行くというわけ

じゃないです。

やっぱりそこには、

自分を超えるというか、

自分を破るという点がある

んだと思うんです。

十地というものにおける

転換点、

七地は転換点だという

意義を明らかにする。」

 

そういうことで

経典では

『経に曰く、爾の時、

解脱月菩薩、金剛蔵菩薩に

問うて言く』

と、前にも出てきました

つまり先月と同じ所ですが

今月の内容はまた違った

形で進んで行きます。

 

そこで助菩提分法という

ことが出てきます。

菩提を助ける分法と

読んでいたのですが

この分はわけるではなく

もととなる、因という

意味になります。

菩提のもととなる、また

菩提の因となる法という

菩提を成就する法

ということになります。

 

「菩提ということは

仏です、菩提を完成する

ところの、

人間を菩提に運ぶところの

道が十地なんです。

だからして、

その菩提という一つの要求、

菩提心という一つの、

まあ、一つの宗教的要求

ですね。

 

地とか白道というのは

何かというと、

宗教的理性という概念じゃ

ないでしょうか。

宗教的理性です。

 

えらい飛び離れたように

聞こえるかも知れんけど、

理性というのが一つの、

何か、このー、

理性的価値というものを

生産する能力ですね。

 

だから、理性といっても

いいですね。

ただ世の中に幸福に過ごす

とか便利だとか、

ということじゃないことを

理性というんです。

 

真理を真理として愛する

とか、そういうのも

一つの文化的理性だけど

宗教も一つの理性だ。

宗教というものが、

宗教という世界を生産する

能力があるだろう、

人間の中に。

 

それは偶然にもらった

というものじゃない

だろう。

宗教というものは、

やっぱり宗教を生産する、

宗教という世界を生み出す

ような能力を

人間が持っている、

という人間の確信だろう。

 

だからそれを

一つの理性といって

いいんじゃないか。

それで道とか地とか

いうのは理性というものを

象徴する言葉じゃないか。」

 

菩提というような宗教語を

理性という哲学用語で

話していかれるところは

興味深いところですし、

仏教的な言葉で

一杯になっている頭には

新鮮に響いてくるものです

 

 

 

 

 

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自分の却下の声を聞く

2024-04-28 20:40:05 | 十地経

啓示の声、

ということがあります。

キリスト教で使う言葉の

ようですが、黙示とも、

黙示録ということもある

ように、神からの言葉

でしょう。

 

面白いことで、

分からんから信ずる

というのがキリスト教に

あります。

分かるから信ずるのでなく

分からんから信じる。

ということがあります。

 

「分からんから信ずる。

理性では分からん、

だから信ずると。

それは仏教の立場から

考えると、

それはどうなるかというと

それは魔力の声じゃない、

何か分からんものの声を

聞いたんじゃない。

 

そうかといって、

声を聞かずにただ直線に

行ったんじゃない。

それから破って、

何かわけの分からん声を

聞いて、

つまり天 … … 、

天上の声を聞いたんじゃ

ない。

 

大地の声を聞いたと、

こういわなけりゃならん

じゃないかね。

アザーというと、

天上の声になる、他の声と

 

自分の … 、

自分の脚下の声ですね。

踏んでいる大地の声を、

に触れたということが

今の転機ということになる

 

転換点です、仏教では。

仏教ではその転換点を

どう解釈するかというような

やっぱり、

仏教的な一つの道があるん

じゃないですかね。

 

それは啓示の声とか、

神秘的な声とかという

ことにはならんのです。

神秘的な声じゃなく、

自覚だと。

仏教の、

仏教的というのは自覚的に

それを明らかにする、

声でも。

 

自覚的じゃないと

神秘的になってしまう

のではないかと思います。

そうすると、

あの、他の声を聞いたと、

二尊というからいかにも

他のようだけど、 

他の声を聞いたらですね

それはやっぱり

何じゃないでしょうかね。

たとえ神の声であっても、

それは、

神の奴隷じゃないか。」

 

と、このように出てきます

ここが難しいところで

他の声を聞いたと言えば

その方が簡単のような

気がしますが、

分からんでも、

神の声を聞いたと

だからそのように信じると

 

仏教では「転換点」と

いうことを、

自分が決断して自分の方向

変えていくという時に

そういう自覚として

声を聞いたという表現を

とるのです。

 

面白いのは

「天の声」というと

啓示になるし、しかし、

「大地の声」というと

自分の脚下の声ですから

足が地についているから

自覚的ということに

なるのでしょう。

 

自覚ということが

自分を明らかにしていく

ということです。

さらに、覚他ということも

いいます

他も明らかにしていく

ということで、

 

他に任せるという方が

楽なような気がします

自分で自覚するというと

すべては自分の問題に

なってくるのです。

 

こういう話しが

問題になってくるのは

第七地というところが

大きな転換点で

方向転換を迫ってくる

という地だからです。

そのまま、直線的に

ところてんのように

押し出されるのではなく

自分の変換を迫ってくる

という大事な地だからです

そういう意味で

この講義全体が第七地に

費やされていることが

面白いところです。

 

 

 

 

 

 

 

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自己の声を聞く

2024-04-27 20:32:03 | 十地経

行くも死、帰るも死、

止まるも死、

であれば、

死ぬのなら、

殺されて死ぬまいと。

 

「進もうとした道で

死のうと、

こう決断するんだ。

決断したときに初めて、

その人間はそこで、

そのー、声を聞いたと、

 

行けという声と、

きたれという声を聞いた。

自分の歩む道の声を聞いた

つまり、

自分の歩む道が、

自分が生きておる間、

自分より狭かったんだけど

自分の歩む道に立って

みたら、その道の方が

大きいんだ。」

 

本当は深い意味なのですが

簡単なところでは

誰しも経験があるとおもう

のです。

当院の宗良さん

在家から出家されました

いろいろ問題もあり

彼にとってはやはり

行くも死、まして帰れない

止まることもできない

窮まって選び取った道が

出家という道です

 

ところがいざ

心を決めてみると

傍から見ても

人相が違ってくる

凛とした表情に見えます

 

彼なりに、

声を聞いたのでしょう

よし、出家して

坊さんの道を歩もうと

周りの励ましもあり

仏の、来たれという

声を聞いたのでしょう。

 

まあ、大なり小なり

人が心を決めるという

ことは、何かしら

自分を超えた、

かといって、

他の声ではなく、

自分の声を聞くという

経験があるはずです

それがなければ

ものごとは成り立たない

ように思います。

 

講義は続けて

「行けという二尊の言葉、

二尊ですね。

行けという釈迦仏の言葉と

来れという阿弥陀仏の声と

二つ聞いたというわけです

声というのは、

生きた声です。

 

これも面白い言葉ですね、

声という表現も。

声なき声と西田先生が

いわれるけど、

それは生きとる声なき声を

聞いたというわけです。

 

そのときに、

これは何かというと、

これは僕がいいたいのは、

これはアザー(other)。

他、人間以外の他者の声

というんじゃないだろう。

そうすると

これはキリスト教に

なってしまう。

そうするとそれは他律だ。

他律じゃないだろうと

思いますね。

 

これは自律の声や。

この声に触れて自立する。

自分を破ることによって、

自分が独立するんだ。

そういうような、

自己よりももっと深い

自己ですね。

 

自己の声を聞くというのは

それなんだ。」

 

このことも難しい

というか誤解しやすい

ことなんです。

声を聞くというと

どうしても他の者の声

ということになってしまう

ようです

自分の中にある

深い自分の声というもの

 

ある面では「さとり」とは

自分が自分で自分に頷く

ということだともいいます

誰が何と言おうとも

自分はこれでいいんだと

頑張るのでもなく

静かに、

自分が自分で頷く

 

講義の中でも

よく先生は、「ええ」とか

「うん」、という言葉を

使われておられます

これは、自分の言葉に

自分が頷いて、また

次の言葉を発せられて

おられるようです。

 

自分の言葉を一番最初に

聞いているのは

自分ですから、

自分の言葉にまず自分が

頷くという

そういう形で説法が

おこなわれるようです。

 

そういう形で、

深い自己というものを

感じ取れるようです。

 

 

 

 

 

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不安で遊んでいる、本当に遊べない

2024-04-26 20:04:19 | 十地経

行くも死、帰るも死、

止まるも死という状況

絶対絶命の状態ですが

ではどうするか

逃げるんです。

逃避するんです。

それは何かという

 

「逃避。それもあるね。

酒もあるし、異性もあるし

そこらもあるけど、

そんなものすぐに醒める。

学問の道もあるし、

教養もあるしさ、

そんなところでいちいち

避けてみるけど、

学問というようなことを

問題を出してきても、

程度が知れている。

 

逃げたという意識はある。

そういうところに

やっぱり文化という

ものの弱さね、

結局何か、思想とか

文化とか芸術とかいって

みたところで

逃げておるんじゃないか。

 

実際いうと、

文化は楽しみ遊べるけど、

よう遊ばんのや。

人間というのは遊んでいる

ようだけど、

実は不安で遊んでいるんだ

それはごまかしとるだけだ

遊んでいるものは

一人もおらん。

パチンコなんかというのも

みなそうだ。

それで遊ぶこともできん」

 

遊ぶということも

考えるとなかなか難しく

遊んでいるようでも

真から遊んでいない

ただ現状を逃避している

ということです

もうすぐ連休ですが

ただただ動きまわり

疲れ果てて帰ってくる

ということのようです。

 

三浦先生と弟子連中と

旅行をしました

先生はただ景色を見て

ご飯食べたら部屋でじっと

その時に呼ばれるのが

決まって私でした

他の人たちはいろいろ

出歩くのですが

部屋でまた難しい話(?)

今思えば、

人生を語るのですが…

 

今となってはそのことが

一番すばらしかった

ように思うのです

場所も変われば、

気持ちも変わり、

いつもとは違う話が出て、

語り合うのも一味

違ってくるようです。

旅に出るということは

そういう楽しみもある

ようです。

 

遊ぶということも

お釈迦さまの旅を遊行と

いいます

遊行(ゆぎょう)にでて

行った先で出会った人と

語り合う、

今でいう遊びとは違って

深い意味があります

 

また、

こういう喩もあります。

らくだと、ライオンと子供の

話しです

人生を(修行の段階を)

三つに分けて

第一段階をラクダと

柔順ということを表します

何ごとも素直に聞き

口答えすることなく

行じていく

 

次がライオンで

勇猛心を表します

一つの決断です

修行も諄々とやっていく

うちにいよいよ

逃げられなくなり決断を

迫られます

その時の勇猛心を

ライオンと表現するのです

 

最後は子供のように

園林遊戯(おんりゆげ)

といって

子供が林の中で

無邪気に遊ぶ

そういう姿をいいます

仕事とか遊びという

区別もなく

すべてが遊びだと。

 

こういうこと考えると

遊びも、お金を使う

ということも

仏さましかできない

ように思うのです

お金でも私たちが使うと

お金に矛が二つ付き

銭になってしまいます

人も傷つけ自分も傷つく

ということに

なりかねないようです。

 

遊ぶにしても

今の現状から一時でも

逃げてしばし楽な世界を

味わいたいという

ことでしょう。

 

そのものになりきる

ということが

本当の遊びのようです。

 

遊べば現実の生活が

気になるし

仕事している時には

休日に何して遊ぼうかと

今いる現状と思いとが

バラバラの状態です。

ですから本当に遊べない

現状から逃げるか

しばし、酔うて忘れるか

 

そういうところを

「実は不安で遊んでいる」

といわれたのです。

 

 

 

 

 

 

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絶体絶命の状況なんですが

2024-04-24 20:45:41 | 十地経

こういう喩話があります

王様に罰せられるのを恐れ

逃げた、怒った王様は

酔った象で追いかけた。

やっとの思いで

丘の上にある古い井戸を

見つけて、

井戸の途中にある草に

つかまって難を逃れた。

しかし、よく見ると

井戸の底には悪龍が毒を

吐いている。

さらにその傍には

五匹の毒蛇が危害を

加えようとしている。

さらに悪いことに

掴まった草を二匹の鼠が

その草をかじっている。

その時、

頭の上の木から蜜が滴り

落ちてくる

しばし、その美味しさに

酔っている。

 

こういう物語なんですが

他人事ではなく

まさに私たちのいる状態を

表しているのです。

 

同じような話で

先程の二河白道の譬喩も

そういうことを

表現しているのです。

絶体絶命の状態ながら

躊躇している、

というのが私たちの

あり方なんです。

 

「自分を固執する意識、

それが躊躇するんです。

自分が自分だという、

自分を離したくないという

心が躊躇する。

 

真理に任せたら

任せた心は脅えないですけ

ど、任せん心が脅えるわけ

です。

そういうような気持ちを

二河白道、二河の中に

細い道が貫いているという

形で表している。

 

白道があるんだから、

信じているだけど、

そこに自分が立てない。

絶えず、

水と火との間に動揺して

いる。

どうにもならんところは

居れないところなんです

 

自分の命は限られている

んですから、

時間とか、

そういうものがつまり、

群賊悪獣として象徴されて

いる。

そこでさあ、

帰るも死する。

群賊悪獣に食われるから。

行くも水火の二河で死なん

ならん。

それじゃそこに

止まっているかというと

止まっておれんところに

きている。

止まれるわけがないから、

帰るも死するし、

行くも死するし、

止まるも死すると、

こういうんです。

 

そこまでなかなか

色々やってみるです、

手を尽くすんだ。

東西に行けんなら、

南北に行けんかと

避けるんです。

逃避や。

酒もあるし、

異性もあるしさ。

そういうこともあるけど

そんなものはすぐに

醒めてしまうですね。」

 

何かしら

同じ話のようですが

置かれている

私たちの存在は

絶体絶命という立場に

立たされているのです。

こういう状況なのに

落ちてくる蜜の味に

酔っているという、

いろいろ酔わせるものが

周りにはありますが、

逃げれない状況にきて

いるということです。

 

 

 

 

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躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)

2024-04-23 20:28:30 | 十地経

言葉の響きが面白くて

記憶に残っている言葉です

躊躇逡巡、難しい言葉

あまり使わないようですが

躊躇する、という熟語も

ためらうという意味ですが

躊も躇もどちらも

ためらうという意味です。

また、

とつおいつ、と辞書には

あるのです

この言葉も、取りつ置きつ

が転じたもので、

あれこれと、という意味

あれやこれやと思い迷う、

ということです。

 

行者が西に向かって

火の河、水の河を越えて

行くという話しですが

いざ、自分の問題として

考えてみると

そう簡単にはいかない

のです。

「あれかこれか」という

こともあって躊躇して

しまうのです。

 

「宗教心のないものは

おらんのでしょう。

およそ僕はそう思う。

人間に、お前は駄目だ

ということはないのです。

人間は皆、なんか

宗教心というものが、

宗教心という自覚は

ないのですが、

必ず持っています。

それが弱いのです。

 

宗教心というものを

いろいろなものが

おおっている。

火の河と水の河と

そういうものが支配して

おってですね、

宗教心に立てないのです。

ないんじゃないけど

立てないんです。

 

細い道(白道)と。

なるほど茨の道というが

細い道なんです。

その細い道にですね、

立てないのです。

 

それが躊躇逡巡でしょう。

そこで信仰、求道という

ものは決断がいるのです。

ええ、決断がいる。

 

白い道は嘘だとは、

いうんじゃないんです。

白い道を疑うんじゃない。

確かにそこに本当はある

ですけど。

 

何か宗教に真理、確かに

真理というものを感ずるん

だけど…。

そんな宗教とかあるもんか

とそういうんじゃない。

確かにそれは本当だと

こう思うんだけど、

自分の方に疑いがある。

 

真理を疑うんじゃない。

真理は信じておるんだけど

自分の方を、

自分の方があぶないんです

 

そこを無礙無慮ムゲムリョ

といっています。

その白道を超えるのに

疑いなく

慮(おもんぱか)りなしと

真理に対しては

疑いがない。

しかし、

自分の方に対しては、

慮りがあるでしょう。

慮り。

何かというと躊躇逡巡

というものがある。

 

そこに

その真理が見出して…、

真理が分かった

というだけで信仰が

成り立つなら

苦労はいらんでしょう。

真理は分かった、

しかし、

自分の方に躊躇逡巡が

あるんです。

自分というもの、

自分が信じられんのです。」

 

手を放してごらん

するとすぐ下には大地が

あるよ、心配いらんよ、

とよく言われましたが

なかなか手を離せない

大したものでないけど

何か思っているものを

手放せない

必死につかんでいるのです

何か妙な固執が

あるのですね。

 

そういう形で、

躊躇逡巡していたような

気がします。

今もってウロウロしている

のですが、

一歩踏み出すということは

決断がいるのです

 

友人が洗礼を受けました

その時、

何かしら大きな決断を

感じたのです

これからキリストの教えに

身を投じていくという

そういう決断があって

足を踏み出すような

初々しい心を感じたのです

 

躊躇逡巡している人間が

覚悟を決める

というのですが

何か聞いた時にはまだ

自分が躊躇逡巡という

言葉がぴったりきた

のでしょう

妙に響いたのです。

 

 

 

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『あれか、これか』

2024-04-22 19:55:45 | 十地経

キルケゴールの有名な本に

『あれか、これか』という

題の本があります

美的実存、倫理的実存

最後に宗教的実存

という三つのあり方の中で

最終的には宗教的在り方

というので、あれかこれか

という題なのでしょう。

 

私たちも身近な所では

あれかこれか、と迫られる

問題に出くわすものです

いずれかに決断しなければ

なりません。

 

『十地経』では第七地が

そういう迫ってくる問題を

孕んでいるところです。

難関がある、大きな転回点

があるのです

そのままところてんの様に

押し出されるという具合

にも行かないし、

かといってここで止めます

という具合にもいかない

そこに大きな転回していく

地が七地のようです。

 

「キルケゴールがやっぱり

段階ということをいって

ますね、人生の段階と。

一番下が美的立場、

美的段階ですね。

それから倫理的段階、

それから宗教的段階と

いうような、三つに、

人生の航路というものを

分けております。

 

それでキルケゴールは

「あれか、これか」という

ことを、有名な本で、

あの言葉をいっています。

「あれか、これか」という。

それはやっぱり、

一つの転回点というものは

いろいろな考え方が

あるんじゃないかと

思います。

「あれか、これか」という

ことも一つの転回点という

ような意味ですね。

 

ちょうどキルケゴールに

あたる人を我々の側に、

仏教の側に求めると、

善道大師という人がいる。

二河譬喩(にがひゆ)

というものを作っています

 

そこに中間という字を

使っています。

中間の白道。

何か東の世界と西の世界と

の、そこに河がある、

中間に。

その河の中に白道が

貫いているんです。

これは宗教心の譬喩

なんです。

 

そのときに… 東の方から

出発した行者がずっと

西の方に行くとですね、

そこで河にぶつかると。

そのときにそのー、

なんですね、空曠クウコウか

(むなしい)、まあ孤独

ですね。

孤独の荒野をさまよって

いく。

 

そういう意味で非常に

意味が深いですよ、

この譬喩自身が。

人間は求道すると孤独に

なるんです。

まあ人間というのは

そういう意味で大事

なんです。

孤独な目に合う、

いっぺん遭遇するという

ことが宗教問題なんです」

 

二河白道という感動的な

たとえ話があります。

煩悩にまみれた人間に、

清浄な心が生じたという

譬喩なんです。

群賊悪獣に追われた人が

西に向かって逃げて行くと

水と火の河の中間に

細い白道に出会った。

 

進むも退くもどちらも

死を免れないことを知って

絶体絶命になったときに

東岸からは

「心を決めて白道を行け」

とすすめられ、

西岸からは

「一心に正念してただちに

来れ」という声を聞いた。

 

彼は疑わずに白道を渡って

西岸に至り

幸福を受けたという。

 

そういう喩話です。

本当に私たちが真剣に求道

という立場に立った時には

こういう決断を迫られる

まあ、余裕があり

まだ差し迫らないときには

ウロウロするものです。

 

いよいよ、時間もなくなり

一体生まれた意味は

何なのか、と問われた時

アンパンマンの歌では

「何のために生まれて

何をして生きるのか

答えられないなんて嫌だ」

という歌詞があります。

 

そういうことを

二河白道という喩話は

表現していると思います。

 

 

 

 

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口伝・(ロイ)

2024-04-21 21:00:07 | 十地経

六角堂の池坊会館に

入る横の壁面に

 

 

こういうモニュメントは

「池坊専応自伝」といわれる

「大巻伝」(おおまきでん)

といわれる巻物を石に彫り

モニュメントとしたもの

です。

説明書きには

「池坊専応口伝」

16世紀中頃、

池坊家の祖先、池坊専応が

弟子に授けた花伝書で

「瓶に美しい花を挿すこと」

と、池坊が伝える

「よろしき面影をもと

とする」いけばなの違いを

説いています。

とあります。

 

やはり、こういう

花の世界でも口伝という

ことが教えを伝えていく

方法のようです。

紙に書き写し伝えたら

正確でいいのではと

思うのですが

手ほどきをして口で伝える

ことが肝心です。

 

勉強会の折、

話す内容を文章にして

渡すのです

ですからそれを読めば

内容は分かるのです。

勉強会といっても

一緒にそれを読んで

いきます。

その文章を渡せばそれで

いいのですが

一緒に読みながら聞き

自分も目で読んでいく

 

欠席した人は

その文章を下さい、

ということでそれを読めば

それで済むのですが

しかし、

貰ったといっても

なかなか読めないものです

なにか 一緒に読む

というところに意味がある

ようです。

 

お釈迦さまも

話の内容を書き留めては

いけない、

と注意されています。

耳から聞く

全身を耳にして聞きなさい

とは、師匠の言葉です

また、

仏法は毛穴から入る

ともいわれます。

 

本当に聞いたことは

感動して、そのことは

心に残るものです。

その残ったことを大切に、

大事にして実行する

そのことが本当に聞く

ということなのです。

 

面白いことに

お参りする作法の経本には

ところどころ「ロイ」と

書いた部分があります

ここのところが

「口伝」ということで

伝の「云」を略しています

 

このところは師匠から

口伝えに習うところです

まあ、もったいぶっている

ところもありますが

誤解を生まないためにも

直々に師匠から習う

何かしら、そういうところに

教えを受け継いでいくという

意味があるようです

 

ですから、

本当に大切なことは

文字に書くよりも

口から口へと伝える

ということです

 

日本の伝統文化もそうで

師匠から弟子へ

形を教え

それをやらせてみて

口でなおし、正しく伝える

口で伝える、口伝

というところに

ものごとは正しく伝わる

ようです。

 

やっても見ない人に

いくら口で伝えても

それは理解できないでしょう

やってみると

どうしても分からない

ところが出てきます

そういう時に師匠から

こうやるんですよと

口で伝える時

初めて正しく伝わると

思うのです。

 

やはり、口伝という

ちょっと秘なるものも

あるのですが

それは口伝が出来るまで

達していないと

誤解を招くということ

なのでしょう。

 

この説明書きには

川端康成がノーベル賞を

受賞した時

その記念講演で

この花伝書を引用して

いけばなが小さい瓶上に

大きい自然を象徴する

ものであること

「野山水辺を

のづからなる姿」を

花の心として、破れた器

枯れた枝にも”花”があり

そこに花による悟の種

があるー

と書いてあります。

 

 

 

 

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資糧ということ

2024-04-20 18:33:35 | 十地経

先生の講義も

たぶん、自明の理というか

皆が知っているような

つもりで話されているよう

な気がします。

でも、勉強不足の私には

一から学び直しというか

 

「資糧位というのは

学問の下働きなんだ。

まだ学問にもなっていない

材料なんだ。」

 

と仰っておられますが

私にはその材料を理解する

のに一苦労なんです。

 

この「資糧位」という

ことも気になり

まだ、この辺りをウロウロ

しているという状態です。

 

普通にはしりょうというと

この「資料」が出てきます

しかし、漢和辞典には

資糧=資金と食料。

   旅費と食物。

というように出ています。

何とも仏教の言葉とは

縁もゆかりもないような

資金と食料という意味

現実的な生活の根幹を

なす言葉なんです。

 

「資」という意味も

やはり、資金とか資本と

いうように、

たから、もとで、と

そのような意味です。

 

「糧」もあまり使わない

と思っていたら、

兵糧攻め、という言葉が

よく聞く言葉です

労働するために食べる物

という意味がもとです。

 

そういう現実的な言葉が

仏教の言葉として資糧と

いうように使われる

さとりに向かう元手になる

ものという、

仏教用語には観念的という

よりも身近な必需品という

そういう言葉を用いるのは

多いようです。

 

それで、資糧ということは

経典ではどのように出て

来るのかというと

 

福徳資糧、

これには布施と戒律があり

布施を施し、戒律を守る

ということは

まず第一の修行の一歩です

 

智徳資糧、

やはり六波羅蜜の最後は

智慧です

布施と戒と智慧が根本の

修行です

 

ほかの経典には

先世資糧、

これは過去の世に勤めた

善ということで

自分自身が今ある

というのは自分一人の力

ではなく多くのご先祖様の

紡いでこられた賜物

ということでしょう。

 

「現法資糧」

これは今の世でおさめた善

自分自身で出来る努力

以我功徳力イガクドクリキ

という言葉もありますが

自分自身の一歩一歩の

功徳の賜物ということです

 

本蔵院の本堂も新しく再建

されましたが、

この先世資糧、現法資糧

ということを見ていますと

まさにこの二つのことが

具わったということです。

 

先生は、

「材料に止まっている」

と、あるのですが

その材料を集めること

が、

なかなか進まないのですが

また面白いところでも

あるのです。

「日が暮れてしまう」

とも仰いますが

流していくよりも

納得するようにやった方が

自分にはいいようです。

 

 

 

 

 

 

 

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資糧位(しりょうい)

2024-04-18 20:18:58 | 十地経

「本を読むというのは

学問じゃない。

学問の下働きなんだ。

それを仏教では資糧位と

いいます。」

 

ということが

出てきたのですが、

「資糧位」というのは

「位」があって

これに五つあるのですが

五位(ごい)といいます。

 

その資糧ということは

必需品とか準備という意味

同じような言葉に

「資生」という

言葉があります。

「資生堂」のもとになった

言葉のようです

仏教では(しせい)とは

読まず、(ししょう)と、

意味も「助けること」

「生活を支えること」

ということです。

 

人々の生活を豊かにする

助けとなるものという

そういう願いを込めて

名付けられたのでしょう。

 

仏教では

さとりに向かうもとでと

なるものということで

「資糧」といいます。

これが資糧位となると

修行の道程の一つで

最初の段階です。

 

その修行の段階が

「五位」といって

その最初が「資糧位」

次が加行位・けぎょうい

通逹位・つうだつい

修習位・しゅうじゅうい

究竟位・くきょうい

と続きます。

 

私たちに馴染みの深いのは

「加行位」です

最初にやる修行が

「四度加行」しどけぎょう 

度は「渡」ですから

四つの渡っていく修行の

方法ということでしょう

しかし、

この修行が終わると

「灌頂」かんじょう

ということがあって

その後の、

通逹・修習・究竟という

修行はやらなくなって

います。

この後は

個人個人で極めなさい

ということでしょうか。

 

通逹というのは

普通にもその道に通じる

というか、逹するという

智慧を得て真理の世界を

体得する、

ということでしょう。

 

修習は、

数数修習

(さくさくしゅうしゅう)

という言葉もあるように

得たことをさらに

繰り返し繰り返し習得

していくということです

 

そして

究竟位、究極に達する

つまり、仏の世界に達して

いくということです。

 

なかなか達することが

困難なのですが、

道としては道理にかなった

方法が設けられているます

このことは

『十地経』の十地とも

関係しているようです。

 

 

 

 

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