本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自己とは何ぞや

2023-09-29 20:26:35 | 十地経

自己、やはり自分というのが

人間にとって一番の問題です

お釈迦さまも、また祖師方

にとっても最重要課題だった

のです

 

仏教は無我ということを

説くのですが

どうしても自分という

おれが俺がという

自分というのもを立てて

しまいます

 

しかし、ふと気になり

自分探しの旅とかに

出かけたくなります

やはり、若い人にとっても

何となく気になるのは

自分ということでしょう

 

ここのところを

講義では

「信仰を獲るということは

一つの自己発見なんだ。

それまでは

自己がなかったんや。

だから自己、

自己というけど、

自己とは何ぞやと問うて

みると、

自己はないんです。

我執があるだけだ。

自分の思いを自己だと

思うているだけに話だ。

 

自己にはならせんのです。

それが苦しんでいるんだ、

あらゆることの縁に

合うことによって。

つまり、

それが理知です。

自分の理知を自分だと

しとるわけです。

 

一番自分に親切なものだと

しとるんだが、

それが無明です。

自分を傷めているものを、

一番、自分の見方だと

思っているんですから。

自分を苦しめているものが、

であるにもかかわらず、

それが一番自分だと

思っているんですから、

離さんわね。 ええ。

自分の意見だけは。

 

それほど惚れこんでいるんだ

それは実は、

自分の敵なんだけど

分からん。

そういうものがあるからして、

みんな苦しむんです。

それが破れると。

 

破れたところに

本当の自己が生まれてくる。

先言った

心身脱落、脱落身心です。

それを信念というのです。

それを見道という。

 

見道が成立する時、

それがつまり初歓喜地に

住したということになる。

大地ができたんだ。

見道で見出したものが、

見出されたものが、

見道によって見出された

一つの体験というか、

認識が、

見出したものの地になる

わけです。

 

もう世間には住せないんだ。

その時に生まれた自分、

自分を破って生まれたものが

自分の大地になるんですから

世間に住しないんです。

 

それ、容易なことじゃあない

ようですけども、

あの偶然に得たようだけど

得てみれば、

それは奇跡じゃないんだ。

それは一大阿僧祇を

経過しとるんだ。

つまりそれだけ

宗教心というものが

成熟してきたんです。」

 

見道を見出すということも

大事なことなんですが

このことは

どうか分かりませんが、

三浦先生がふと漏らされた

言葉があります

この話聞かなければよかった

一旦聞いてしまうと

もう元の自分には戻れない

本当の話を聞けば

昔の

ええ加減な自分に戻れない、

 

何気なく聞いていたのですが

やはり

教えを聞くということは

自分を変えていくのです

昔の自分には戻れない

誤魔化しのきかない

自分に変わっていくのです

 

教えを聞くということは

そういう厳しいものなのだと

その時は感じていたのです。

 

自分自分と思っているのは

理知の自分であって

それが自分の我執となり

自分を苦しめている

ある面からは

そういう本当のことを

知ってしまうと

我執は破れてもまた、別な

もとの

誤魔化して生きていた

世界に帰れないという

寂しいような面も

あるようです。

 

と思うのですが

見道どころか迷いの

真っただ中にいる自分には

この方が

いいのかもしれません。

 

迷いを楽しんでいる

そういう自分があるようです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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出会いは啐啄同時・感応道交

2023-09-28 19:30:00 | 十地経

出会いは不思議なもので

こんにちわ、さようなら

と、それで終わる人もいます

反対に、一目の出会いが

その人を一生左右するような

出会いもあります。

 

三浦先生に出会ったのは

ただ、兄がいるということで

宝菩提院に遊びに行った

そこで三浦先生と出会った

その出会いが私の人生の

方向が決まったのです

 

なぜだろう

三浦先生は外にいる縁にしか

すぎないのですが

私の中に何か知らないけど

求めている因というものが

あったのでしょう

 

いくら三浦先生は立派なっ人

だから話を聞きなさいと

いわれても、通じない人には

どんな立派な人の話でも

分からないのでしょう

 

講義では、

善知識の出会いということが

これは他人があの人は善知識

ですよといわれても

その人にとって求めている

ものが違えば善知識には

ならないということが

続いています。

 

「内から生み出すけれど、

しかしながら、あの、外に、

の、縁を待って、

偶然の縁を待って、それが

善知識になるんであって、

内からあるものあら

初めから善知識はあるんです

 

初めからあるもんなら

出会いはないんだ。

内から生むけどもやっぱり

外を待って内から。

 

ちょうど、

鶏の卵を親が育て、

温めるときにですね、

もう卵を抱いた親がですね、

もうだいぶん卵が温まったと

まあ … 中の黄身から

黄身か白身か知らんけど、

ひよこが成長して出てきて、

そして

今これから卵を割って

出ようとする時にですね、

それが純熟というんです、

それで、純粋に成熟したんだ

 

その時、カチッと嘴でもって

卵を割ってやるんだ。

で、割ってやる時と、

名告りを上げる時が同時だと

打つ時と飛び出す時は同時だ

 

それがつまり感応道交や。

直感や、一つの。

時間を、時計で計った

わけではないんだ。

そういうようなのが

出会いなんだ。

うーむ。

内から出てくるんだけど、

やっぱり外からつつかれる

ことを待って、出会うんだ。」

 

啐啄同時(そったくどうじ)

ということをいいます

師と弟子との出会いという

ことをいうのですが

「啐」は

鶏の卵がかえる時、

殻の中で雛がつつく音、

「啄」は母親が殻を外から

つつき破るということ。と

そういうことを言うのです

 

それは別な表現を取れば

感応道交

(かんのうどうきょう)

感に応じて道に交わる

よく意味も分からず

この言葉にはとても感動した

言葉なんです

仏と人という

こともありますが

師と弟子との出会い

それがピタッと一致する

そういうことがなければ

ものごとは動かないし

そういう出会いによって

すべての物事は動き始める

ように思います。

 

 

 

 

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善知識(ぜんぢしき)

2023-09-27 20:48:42 | 十地経

善知識に対して悪知識

ということもありますが

善知識、短くは善友、善親友

ともいいます

有名なのは

華厳経に出てくる

善財童子の求道の旅

五十三の善知識に遇い

道を完成するという物語が

あります

どのような姿のものでも

仏道に導くものであれば

それは善知識です。

 

講義では

「信仰というもの、

信仰体験というものは

無限のものであって、

これだけのものだと

決まったもんじゃないです

から、

信を獲るということは、

計画して得るということは

ないんです。

 

だから、学校を卒業する

ように信を得る

というわけにはいかないんです

優等生必ずしも信心決定

というわけでもないんだ。

それから劣等生でも信を得る

ことがあるんです。

 

そういうように

人間の思うようにならんなら

やめとこというわけには

いかんのです。

だから、

信を得るということも

偶然といっていいわけです。

たまたま偶然。

なんかそこに、

その時に、偶然だけど、

その時に一番大事なのは

やっぱり友達ということ

だと思うんです。

 

友達といっても

友人という意味でなく、

師も含んでいるんです。

師友でしょうね、

それを仏教の言葉で

善知識というんです。

善き知識と。

これは学問の教師という

意味じゃあない。

人生の指導者という意味です

 

それは友達もあるし、

また師だけではないんです

けども、それは、

これがその善知識だと

いうことは、外から決める

わけにはいかない。

 

学徳兼備というようなことを

いってみたところで、

やっぱり善知識というものは

何か知らんけど、

今日でいう

出会いというような

もんであってね、

出会いですよ、邂逅や、

一つのね。

 

予定していることは

許さんのです。

もうまったく、ある意味から

いえば、偶然に。

まあ、

子供から教えられる場合も

あるし、

親から教えられる場合もある

何から教えられるか分からん

 

時によると、何か、

庭掃除をしておって、

カチンと庭掃除の石が

竹箒に当たって、

廓然として大悟したと

いうことが伝えられている

禅僧の場合に。

そうすれば竹が善知識です。

 

本を読んでいるときに、

必ずしもそうじゃないんだ。

竹が、掃除する時にカチッと

当たって。

そんなもん、

牡丹餅のように待っとる

わけにはいかん。

普段から絶えず

もうなんというか、

全身を賭して求道しとるから

そういう偶然が光ってくる。

何も持たずに待っていて、

棚から牡丹餅を受ける

ようにしては出てこんです。

 

ニュートンでもそうです。

リンゴが落ちるのを見て

悟りを開いたというけど、

普段から虎視眈々としてですね

自然というものを

探求しとったが故に、

たまたまそういうことが

でてくるのであって。

 

そういうことからいえば

やっぱりその、

外から来るもんじゃなくて、

内から出とるといえるんです

内から生むものなんです。

善知識というのは、

善知識に出会った人にあるん

であって、

善知識に出会わん人に、

これが善知識だ、

よく聞いてみといってみた

ところで、

善知識にならんのです。」

 

出会いはたまたまかも

しれませんが

求めていたものは

自分の中にあったとすると

その偶然の出会いが

必然の出会いになるように

思うのです。

 

 

 

 

 

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数数修習(さくさくしゅうしゅう)

2023-09-26 20:58:17 | 十地経

「数数修習」この言葉、

言葉の響きもさることながら

その内容も身に沁みるものです

たぶん、

本蔵院の住職も若かりし頃

この言葉を聞き

自分の指針として

また、自分の歩みを象徴する

ものとして

本蔵院の機関誌を

「数数修習」と

命名されたのでしょう

 

「方便智殊勝の行を

反復すると、こういう意味。

数修(さくしゅう)と

よくいいますね。

修道、ええ、数習すると。

数数修習するというんです。

数数修習、しばしば修習する

と、それで、

この意味で修道って

いうんです。

この修道は見道に対して

修道といういんですが。

見道に対して修道。

 

大体いうと、十地の、

『十地経』の経文は、

初歓喜地から法雲地(十地)

まで修道を明らかに

しとるんですけど、

しかしその初歓喜地の中に

見道も含んどるんです。

見道は一念なんだ。

(一念、ここでは一度)

見道は一念によって、

凡夫を超えて菩薩に位づけ

られると。

 

その見道というものによって

見道と、更に

外から修道を加えるんじゃ

ないですね。

見道というものをしばしば、

見道を何べんも繰り返して

修習するという。

 

得たものを、

得た見道を何遍も繰り返して

修習するというので、

それを修道という意味なんだ。

見道の上に更に外から

加えてくるというんじゃない

んです。

 

見道というのは何か、

立場を見出すことなんです。

ある一つの立場、

これまた更に容易なことじゃ

ないんだ。

だから、

見道を確立するために、

三大阿僧祇の一大阿僧祇と

いうものによって

初めて見道に住すると

いわれているんです。」

 

数数、ということも

漢和辞典にも出ています

スウ、という読み方もあり

たびたび、という意味で、

経典には

「甚深の法義を、数数、

聴聞して間断なし」

とか色々出てきます。

 

スポーツでもそうですが

基本を繰り返し繰り返し

練習する

そうでないと新しいものは

生まれないようです

 

それから

見道・修道ということが

出てきますが

三道といって

見道・修道・無学道という

ことがあります

見道は

初めて真理の教えを見た

それが歓喜なのです

ここが、凡夫と聖者の境で

初めて迷いを超えた

それが歓喜、初歓喜地

ということです

 

歓喜があって

初めて一歩がでるのです

それから繰り返し行うことを

修道です

分かったから一回でいい

というのではなく

その分かったことを繰り返す

 

無学道というのがありますが

これはもはや

学ぶものが無くなった

すべて学び尽くした

ということです

普通使う「無学」とは

まったく正反対の言葉です

 

しかし、見道に住するのに

一大阿僧祇もかかると

まあ計り知れないほどの

時間です

人間の一代や二代で完成する

というものではない

と、経典には書いてあります

 

やはり、無限の修道

それこそ「数数修習」という

修行が何よりも肝心です

子や孫それにひ孫

さらにその先まで続くような

修行の歴史が

人類の歴史でしょう

それほど重いものをもって

生きているというのが

私たちのあり方のようです。

 

 

 

 

 

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四大不調につき

2023-09-25 20:26:09 | 住職の活動日記

地・水・火・風の四大が

調和をもって働いていれば

健康なのです

つまり「ととのっている」

ということです

「ととのう」

サウナの世界でそういうこと

をいうようですが

つまり「調う」っていると

いうことです

何か一つでも調わないと

病気ということです

 

ジムで慣れてきたので

ちょっと頑張ったのです

やはり年寄りの冷や水

やりすぎたせいか

腰を痛めてしまいました

最初はジワ~とした違和感

次第に痛みが出てきて

とどめは孫を抱っこしたのが

激痛が走り

なかなか治りません

 

そういう時に

風邪をひいてしまい熱が出て

持病のぜんそくの発作まで

出てきたのです

意外な関係です

腰と咳、

咳するたびに激痛が腰に

走ります

こんなにところにも

繋がっているのかと驚きです

 

以前、信者のお婆さんが

くしゃみや咳するときは

かがみ腰でお尻をささえ

「くしゅん」と小さく

くしゃみをする

思いっきりやると腰にきて

ぎっくり腰になる

咳も同じようにお尻をもって

咳をする

 

そんな話を思い出して

今頃になって

やっと納得する次第です

昔から

「風邪は万病のもと」と

いわれていますが

まさにその通りだと思います

風邪といっても

ないがしろにできない

今までとは違うということを

思い知ります

 

四大は四大種ともいわれます

「地」というのは固さ

人間でいえば骨でしょう

 

「水」は湿・しめりけです

それは血液とかリンパ液

またその他人間の大部分は

水で出来ています

 

「火」は熱、あつさ

仏教の言葉では煖ナン

身体の中でもえたぎる熱量

 

そして「風」は

動きということです

 

地水火の三つがあって

風という動きが出てくる

 

このどの一つの

はたらきがわるくなると

四大不調ということです

調和くずれるという

それが病気です

 

今までは風邪ぐらいと

元気にまかせすぐ治ったり

したものですが

この不調はすぐには治らない

年を取るということの実感が

身に沁みてきます

 

私が先が見えたかと思いきや

今度は家内の方が四大不調

まあ順番こ、ということで

なんとか助かりますが

まあ、そういうことで

 

切符も取って準備万端

ということだったのですが

九月の大祭は参座できなく

なってしまいました

四大不調につき護摩焚けない

という次第です。

 

 

 

 

 

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十波羅蜜

2023-09-24 15:13:48 | 十地経

お彼岸、朝夕の風に

夏とは違った風を感じます

ちょうど、十地経講義が

波羅蜜、それも十波羅蜜が

出てきました

普通には六波羅蜜ですが

布施・持戒・忍辱・精進・

禅定・智慧の六つです

 

波羅蜜・パーラミターの

音写です

到彼岸とか度と訳します

「度」というのはサンズイが

略された、

元は渡ということです

 

十地経では古い表現ですが

こういうような形で出てきます

 

「この菩薩仏道を求める時に

所修の善根、捨して、

一切衆生に与う」

一切衆生に施与すると。

これ檀波羅蜜。

檀はダーナですから布施です

それから

「能く一切の煩悩の熱を

滅す。これ尸羅波羅蜜」

尸羅・シーラは戒の音写です

 

「慈悲を首と為して、

能く一切衆生を忍ずる

これを羼提波羅蜜」

羼提センダイ、この字も

めったに使わない字ですが

やはり音写した文字です

普通は忍辱波羅蜜という。

 

それから

「うたた勝れたる善根を

求むるに、心に厭足なし、

これ毘利耶波羅蜜なり。」

これ精進です

この毘利耶・ビリヤも音写です

 

それから

「所修の諸行、心馳散せず、

常に一切智智に向かう。

これ禅波羅蜜。」

 

それからして

「諸法の自性不生なることを

現忍す」と。

これは、前にあった忍は

堪え忍ぶという意味ですけど

この場合は、

あの言偏のある認と同じ

意味で、

諸法の自性は不生である

ことを認可することです。

認可、決定するという意味です

これ般若波羅蜜、ですから

智慧ですね。

 

話しは余談ですが

東寺の朝参りのことを

昔は「ごはんさん」と

呼んでいました。

たまに、朝御飯が出ると

勘違いして来られる方も

いらっしゃいましたが

 

この「ごはん」ということも

多分漢字で書けば

「御判」でしょう、それに

「さん」を付けて

「ごはんさん」と

つまりお参りに来られた方の

信仰を認可しましたよ

ということで

お舎利さんを頭に頂いた

のだと思います。

こういうことも

信仰を認可するということで

大きな確信に

なったのでしょう。

 

それから

「能く無量の智門を起こす」

これが方便波羅蜜です。

そして

「上上の勝智を期す、

これ願波羅蜜」

 

「一切外道の邪論及び

諸の魔衆も菩薩の道を

沮壊ソエすることあたわず、

これ力波羅蜜」

最後が

「如実に一切の法相を

観知す、これ智波羅蜜」

 

とこいう形で出来るのですが

やはり見かけな言葉が多く

出てくるので

頭にすーっと入りませんが

こういう言葉を

見るのも面白いと思います。

 

 

 

 

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聞く耳をもつ

2023-09-22 20:54:39 | 十地経

これもずいぶん昔の話ですが

年なのでしょうか

最近は

昔のことをよく思い出します

夕べのご飯はというと

ふと思い出せないものです

 

若い頃、

安田先生を中心に

訓覇信雄(くるべしんゆう)

それに三浦先生、

その中に私もいたのです

多分三浦先生について行った

のでしょう

紹介がてら、三浦先生が

「この子も大谷大学ですよ」

すると、訓覇さん

「教授は誰や」

「舟橋先生です」

「ああ、あいつは重箱の隅を

爪楊枝で突っつく様な奴や」

まあ、それで私の紹介は

終わったのですが、

 

そのあと、何かの講義の折

私も舟橋先生の所にはよく

かよいました、

なかなか感動する話で

足を運んだものです、と

(この舟橋先生は私の習った

舟橋先生の父で舟橋水哉です

倶舎論の大家です)

 

あの席では知らん顔して

おられて、

何かの折にフォローする

ように話さたように

勝手に思っていました。

 

当然、その席というのも

方や大谷派の宗務総長

こちらは東寺・洛南高校の

校長の三浦先生

一番の課題は

今問題になっている

教団論でしょう

ですから、私の話に時間を

割くわけにはいきません。

 

本願寺にしろ東寺にしろ

どっちもどっちや

課題は同じではないか

むしろ、問題がないことの

方がもっと

危険な状態じゃないか、と

そういうような話が

続いたのです

 

中心問題は

教団論、僧伽の問題です

仏・法・僧の三宝でも

仏と法は大切で

僧は付け足しではないかと

思うかもしれないが

仏・法を実践するのは

僧(サンガ)ではないか

だから、僧伽という

教団が一番大切なのだ、と

そういうことが

中心課題だったように

思います

 

どちらも重大な責任を

背負っておられるお二人

その方が首を垂れて

真剣に安田先生の話に

耳を傾けておられる

一介の聞法者として

 

ですから

安田先生から何かいい話

ためになる話を聞こう

というのではないのです

自分にとって一番痛い話

自分の我執、固執を

打ち破ってくれるはなしに

耳を傾けておられるのです

 

心地好い話ではないのです

自分にとって一番都合の悪い

話しを聞きに来られた

こういう肩書のある人には

周りの人は

都合のいい話しかしません

損得勘定の話です

 

自分を切ってくれるような

話しが本当の話です

痛い、と思えるような

そういう話しに耳を傾ける

それが本当の聞法でしょう

何か本当の聞法者の姿を

見たような思いでした

 

というようなことを

夢の中で思い出したのです

というのも

その先日

何か気にかかり

訓覇さんのお寺をネットで

調べていたからでしょう

妙なものを思い出すものです

 

あまり公に書けない話も

たくさんあったのですが

ここまでにします。

 

 

 

 

 

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仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)

2023-09-20 21:00:07 | 十地経

今読んでいるとこに

メモがあったのです。

 

「朝起きて顔を洗う

ということが仏行なんだ。

仏になる行じゃないんだ、

仏を実現しとる行なんだ。

仏になった行なんだ。

 

別にそれは

さとりを得る手段という

もんじゃない、目的なんだ。

仏になりたいと

そんな妄想を起こしちゃ

駄目だと。

 

本当の仏というのは

行仏なんだと、

行としてある。

仏が行ぜられとる

ということが

本当の仏なんだと。」

 

多分、道元禅師の言葉に

行住坐臥すべてが仏だと

仏としての行だと

行うこと自体が仏だと

そういうことからだと

思います。

講義では

『行道仏教学』という

釘宮武雄さんの本を紹介して

おられました。

 

それからもう一つ

「絶対の真理が

絶対の真理になるために、

不完全な人間が必要なんです

こういうところにですね

人間を機として

真理は展開するんだ。

 

こういうところに

人間のかたじけなさ

というものがある。

人間が尊重せんならんと

人間の尊厳性ということを

いいましょ。

人間というものが尊厳だと

いうことはそこにあるんだ。

こういうようなことでね、

なんか障りというものが

大事だと。」

 

私たちは障りがあると

いうことを嫌うようですが

そうではなく

障りがあることが

真理のはたらく場所だと

そうでなかったら

真理のはたらきようがない

そういう不完全な人間

けど、真理のはたらく場所を

もっている人間だからこそ

そこが人間の尊厳性という

なかなか考えさせられる

問題です。

 

 

 

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業道自然(ごうどうじねん)

2023-09-18 19:42:30 | 十地経

自然(じねん)ということも

辞書ではどのように定義

しているか見てみましょう

 

「さとりの世界が

有無のはからい(分別)を

こえはなれて空であり、

真理そのもの(真如)として

それ自身独立自存し、

無為自然といい、

或は善悪の行為によって

因果の法則どおりに結果を

生ずることを業道自然

という。」

 

ちょっと難しいですが

このように厳密に書いています

では講義は、

 

「自然といったことはね、

非常に大事な概念だと

思っています。

まあ、一番広い業道自然

ということですね。

『業』ということは、

今いった煩悩、煩悩もあり、

また業もあり、

また、

業によって苦悩する世界

というものが

出ているわけでしょう。

 

こういうようなものが

現実の世界。

まあ、業で代表しているん

ですけど、

現実の世界というものは。

しかし、

煩悩によって、

迷っていろいろ、苦しんで

いるという。

 

けど迷って苦しんでおる

ということは迷いじゃない。

まあそれは因縁の法則や。

これが不思議なこと。

迷って苦しんでいることも

迷いなら

何もないことになる。

妄想起こして苦しんでいる

ことは妄想じゃないんだ。

 

はっきりした

真理に支えられているんです

それは、妄想と喧嘩している

真理じゃないんだ。

妄想を包んどる真理や。

存在の真理というものは、

そういうもんです。

 

だから、業道自然といって、

業道も、業の因果の世界

もまた自然だと。

ええ加減に考えたことじゃ

あない。

煩悩を起こすということも、

そう考えているんじゃない、

考えを超えとるんだ、

我々が煩悩を起こしてくる

ということは。

 

煩悩を起こせば、

すぐそれによって業が自然に

作るまいと思っても、

作られていく。

作られれば、

それによって作ったものから

縛られる。

自然の法則ですわ。

 

我々が、この煩悩や業で

悩んでいるということも

ですね、

成り立たせるものが

自然なんだ。」

 

というように出てきます

この個所も思い出すのは

煩悩は自分で起こして

自分で苦しんでいると

思っているのですが、

自分が起こした煩悩なら

自分で止められるはずです

また、反対に

今すぐこの場で煩悩を

起こして見よと言われても

起こせるものではありません

 

自分の思いを超えて

起こってくる

そこに業道自然という

ことがあると思うのです。

 

また、迷いだらけで

煩悩も108では足りません

ということも聞きます。

では、

どのような煩悩がありますか

と聞くと、せめて

五つも答えられないでしょう

 

しかし、

煩悩が分かるということは

その煩悩を煩悩と知る

正しい教がが自分の中に

あるはずです。

 

目的地へ行こうと

地図を広げて

見て歩むのですが

道を間違えたかどうかは

正しい地図があるからです

だから、

間違いが分かるということは

大きな問題で

ある面では

さとりという世界が

近づいてきているとも

いえるのではないでしょうか

 

迷っている時は

何が何だか分からなくて

迷っていることも

分からないし

まして正しい方向に

歩んでいるともいえない

そういうことを

真っ暗な闇の世界と

いっているのでしょう。

そこで、

方向も分からず

行き当たりばったり

うろうろしているというのが

私たちのありようです。

 

ですから、

自分の過ちが分かる

ということは

本当は素晴らしいことの

ように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

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無限にはたらくところの無

2023-09-15 20:53:57 | 十地経

仏教はというとよく

「無」ということを

いうようですが、

無、むー、と

無心という言葉もありますが

何もない、

ということではなく

無だから何ものにもなる

ことができるとも

いえるようです

 

「仏教では、自然というのは

自然の浄土というのが

あるように、

法性というような

もんだろうと思うですがね。

法性。

無為の法性や。

その無為というけど、

 

それは

何もないというのではなく、

無限に生産点ですね。

生産するところの用です。

用のない性じゃあないんだ。

無限にはたらくところの

無です。」

 

こういう言葉は

実践から出てくる言葉です。

頭で考えたら

無というのは何もないと

いうことですが

ほんとに無とならなければ

何事もできない

ということがあります。

 

話しは違いますが

松下幸之助という人

まあ商売人ですが

小さな算盤は弾かない

算盤を外したところに

本当に大きなものを得た

ということを

聞いたことがあります

 

普通は損か得かの

小さなそろばんをはじいて

儲けた損したと

一喜一憂しているのです

そういう算盤を外したところ

に大きな算盤を弾くことが

できた。

 

そこにはそう思って

というより

無になったからこそ

無限の算盤がはじけた

とも言えるのでは

話しは違いましたが

何か似たものを感じるのです

 

さらに講義は

「仏教でも、

空ということは何かではない

ということは何であるか

というと、

何ものでもあり得る

ということだ。

何かでないということは、

何ものでもあり得ると。

 

色即是空というのは

空即是色と、

こうすぐくるわけですから。

色即是空という空は

何ものでもない。

だからもう、

何ものでもあると、

こういう具合に出てくる。

 

あの、空も空にとどまれば

それも、

空もまた空だと、

こういう具合に空空という

こともいいますわね。」

 

人間は妙な癖があって

何でも固定化したがる癖が

あるようです。

あるけども見ない

でも感じることはできる

そういう心を大切にしてきた

のですが

 

最近は特にあるといえば

目に見えるものとしてある

目に見えないものはないと

そういう考え方が

横行しているようです

「目にはさやかに見えねども

風の音にぞ

おどろかされぬる」

というような微妙な心は

感じ取りにくいようです。

 

何でも固定化してみる考えを

否定したのが「空」という

ことでしょう

その固定してみる考え

それをさらに執着して見る

そういう心は普通の心では

否定できないのです

それで「空」という考え方

をもってきたのでしょう。

 

無ということも

虚無的になるのではなく

無ということが本当に分かれば

それは何ものをも生産する力

となるのでしょう

逆説的には

無とうい立場に立たなければ

何ごとも生み出さない

ということです。

ですから

「無限にはたらくところの

無ですね」

ということが

出てくると思います。

だから非常に実践的な言葉

のように感じました。

 

 

 

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