本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏法は無我にて候う

2018-12-11 21:31:12 | 住職の活動日記

仏教では無我ということが

一つの根本教理になっています。

が、

私たちは俺が俺がと我(が)

という主張が絶えません。

 

では、一体、我(が)とは

何なんでしょうか

なぜ、

俺がということをいうのでしょう。

辞書には、「我とは」

永遠に変わらない(常)

独立的に自存し(一)

中心的な所有主(主)

支配的能力がある(宰)

とあります。

いつまでも変わらないで、

自分は一人で存在し

自分が世界の中心であって

この世は自分の為にある

と思っているのが

「我」ということなのでしょう。

 

では、仏教でいう無我とは

私たちはいろいろな要素が

仮に結び合っていて

別に実体的な生命の主体はない

というのが、

むつかしい言葉になりますが

人無我(にんむが)

ということです。

私がいるということは

たくさんの条件が重なり

結び合ってという

両親がいて、色々の環境のなかで

食べ物もあり友もいて

生きるということを考えて見ても

何がなくても生きられない

ということがわかってきます。

 

よくよく考えれば

そうなんですが、

ついつい、自分の我を出して

自己主張をして

人と争ってしまいます。

 

本当のことがわからないと

本当でないものを本当としてしまう

ということがあります。

無明ということがあります。

人間の根底には

この無明というものがあって

すべてのことはわからない

という心です。

 

しかし、

子供の成長を見ていると

何もわからないのに

いつの間にか自分の主張が

始まっているのです。

人間は無知ということを

そのままにしておくと

いつの間にか勝手に

自分の都合のいいものを

絶対だと思い込んでしまうのです

 

鉄は熱いうちに打て

ではないですが、

幼いうちに是と非とを

生活のなかで教え込まないと

大変な勘違いをしてしまう

人間になっていきます。

 

我の芽を摘んでいく

そこが教育だと思うのですが

難しい問題です。

無我ということを言うのは

我のない腑抜けたような人に

なれというのではなく

本当の自分、自己を見出せ

ということなのです。

 

無明という、

わからないということが

それだけでは終わらなくて

次々と

いろいろの煩悩を生み出してく

その大本になるという

ことになるのです。

 

ですから、

大きくなってから

煩悩の構造を学んでも

理屈は分かるけど

それを自分の事として

直していくというのは

至難の業になってきます。

そこに修行の大変さがある

ということです。

 

「自分は自分の業に泣く」

ということがあります。

分かっているけどやめられない

そこに、無限の修行があります

しかし、

考え直してみると

そういう場を持てた

修行できる場を持つことが出来た

ということは

大変有難いことです。

 

もぞもぞ生きていると

何が修行やら

修行すら始まらないで

終わってしまうことも多々あります

 

無我ということも

人無我・法無我という

二無我ということをいいます

人も法も無我である

ここに仏教の立場があるのですが

自分に照らしながら

一歩一歩読み取っていくしか

ないように思っています。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする