本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

時が存在(朝には朝の存在がある)

2023-11-30 18:09:01 | 十地経

時ということが続きますが

難しいのは

三大阿僧祇の修行という

途方もない時間が

かかるという

しかし、

それも精神的には

一念であるというような

ことが出ていました。

 

面白い話があって

一休さんと蓮如上人のこと

なんですが

お互いに仏法について

語り合うことのできる

間柄だったのです。

 

一休さんがこういう問いを

歌にして発します

 

「極楽は十万億土と

  説くならば

足腰立たぬ婆は行けまじ」

 

極楽浄土は十万億土と

いうのですから遥かに遠い

足腰立たないお婆さんには

行けないのではないかと

すると

すかさず蓮如上人が

こう返します

 

「極楽は十万億土と

  説くなれど

 近道すれば南無の一声」

 

十万億土というのですが

南無という心があれば

一瞬にして着きますよ

というのです。

なかなか面白い、

ここにも平常時の時間と

時計の時間の問題が

あるように思います

 

百年生きても

道に会わなければ

生きたといえるのだろうか

たとえ、

朝に道を聞いて死んでも

道に触れたなら

後悔はないのではないかと

ということがあります。

 

講義では

「念という字が注意される

のは、

非常に大事なことです。

その一念の外に我々の

存在はないんだ。

時が存在だと。

朝の時に朝の存在がある

んだ、こういうわけです。

 

それはあの世界が…

一念一念に動いているのは

私の意識であって、

この外の世界はもう

意識を超えていつでも

続いておるんだと

いうようなことは、

それは考えた話だ。

抽象概念だ。

 

念を超えて、

一念を超えて、

そういう世界を考えるのは

それを自然界という。

動かん世界やね。

どういったら

いいでしょうか。

 

物質というようなものは

そういう動かぬ…、

物質を転がしたら、

ずうーっと転んで行く

あれは惰性というでしょう

惰性というようなことが

物質じゃないか。

 

置いたら置いたままになる

動かしゃ、

動かすままになる。

惰性やね。

惰性というものが

物の持っとる

時間じゃないか。

つまり死んだ時間じゃないか

そういうものの上に

世界を立てるから動かぬ。

 

生きた世界は

いつでも動いている、

流動していると、

こういうことじゃないかと

思いますね。」

 

先日もそうですが

鴨川の畔から比叡山を眺め

私が死んだ後も

この景色はそのままだろう

と考えるのが

死んだ時間です。

私が死んだらこの世界も

なくなるという

そういうことが

生きた時間です。

 

なんか、

考えずらいかも

しれませんが

仏教の特に唯識では

こういうことをいいます

東京に行くのではない

東京が来ると

こういうのです。

 

こういう問題

また出てきます。

 

 

 

 

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朝に道を聞けば夕べに死んでも可なり

2023-11-29 20:21:32 | 十地経

味ということでしたが

今日のテレビでは

お香の表現も五味という

ことで表すようです

甘い、苦い、酸っぱい、

鹹というような、

あの有名な蘭奢待ランジャタイ、

織田信長も切り取った

という、

蘭の中には東という字が、

奢の中には大という字が

待の中には寺という字が

隠されています

つまり、東大寺と

この蘭奢待は五味が調和

してるという

優れた香りということです

 

また、味は

法味という言葉もあり

法の味をあじわうという

聞法という聞くという

こともいいますが

法を味わうという

この言葉もいいですね

ただ聞くだけでなく

聞いた教えを味わうという

 

浄土での食事は教えだと

いいます

教えを聞いて喜ぶことが

最高の味ということです

ですから、

味わうということが

非常にいいですね。

 

この

「朝に道を聞けば

夕べに死すとも可なり」

という、

何か、鋭いものを

突き付けられる

迫ってくるような言葉です

 

講義は、

「生きとるという意味がね

やっぱりその日常時間に

あるのじゃないでしょうか

たとえてみたら、

『朝に道を聞いて、

夕に死んでも可なり』

という。

瞬間の命ですね。

それでもそこに、

その、

道を聞く、道に触れる、

道味、道の味ですね、

そういうものを知ったら

 

それはもう、

永遠に生きたという

意味だと。

朝死んでも、夕死んでも、

後悔はないと。

そういうような意味を

持ってるんです、

平常時には。

 

どの時間をとってみても

朝だけ

『朝に道を聞いて』て、

夕に聞いたら駄目だという

のじゃないんです。

どの時間をとってみても、

そういう味を持っとる。

公開されてるんです。

 

けど誰も、

味の方では自分を隠さずに

公開しているけれど、

それを味わう人間は

一人もおらん。

外のことばかり考えている

 

そのような意味があって、

平常時の持っとる何か

味ですね。

それも良い味もあるけど

悪い味もあるんじゃ

ないかと思うです。ええ。

 

『あーあ、わが一生は

失敗だったと』

というようなときの味だ。

何とも言えん味がある

だろう、そこに。

だからして、

道よりももっと

味がその念念に

あるのじゃないかね。

 

そういうことを…

時間というものはなかなか

面倒なものだ。」

 

ついつい明日に

延ばしに延ばしている

問題は

差し迫っているのですが

何だか空しく過ごしている

昔、よく

「空過者」(くうかしゃ)

と言われたものです

空しく過ごしてしまう

という意味で、

 

ですから、

教えを聞くということは

呑気な話ではなく

差し迫っていることの

再確認ということでしょう

でないと

ついつい後回しにして

何が一番大切なのか

忘れてしまいがちです

ですから、

そこに聞法の大切さが

あるように思います。

 

分かっていたつもりが

本当は

何も分かってなかった

ということの

再確認です。

 

時間の問題は

まだまだ続くのです。

 

 

 

 

 

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醍醐味(だいごみ)

2023-11-28 19:28:16 | 十地経

醍醐味、

この味という字も普通には

本当の面白さ

というような意味で

使っているようです。

お寺の名前に醍醐寺という

ものもあります

このお寺の名前から

醍醐天皇という名を

頂かれた天皇もおられます

 

今はグルメ時代で

味というものがうるさい

ようですが

はたして本当の味という

ことが分かっているので

しょうか

 

仏教では「味」ミ

ということでとても厳密に

しるしています

その中には五味とか六味

また八味という

分け方もあります

 

以前講義の中で

「人の味覚というものは

一代や二代で作られた

ものではない

何代にもわたって作られた

ものだと」

ということを

話されていました。

 

講義は時間ということで

話しが続いていたのですが

少しだけ

「味」ということについて

述べておられます。

 

「仏教では醍醐味という。

醍醐味というのは

食べたことないもんだから

大した味だと

思っていたけど、

なーに今から思えば

チーズなんかのことや。

そういうもんだったらしい

その醍醐というような味。

やはり味という意味が…

 

一味というのは

何かというとね、

真如のことなんです。

一味蘊(いちみうん)

ということがあって、

真如ね。

真如法性の。

 

つまり存在の味なんです。

非常に深い意味がある。

生きとるということの

味なんだ。

ちょっと言えんね、

それは。

感謝する、

有難いというよな意味も、

一度言ってみてくれと

いったところで、

さあ言えんでしょう。

 

形がないから、ええ。

形があるなら、

何か貰ったから有難い

とか、

成功したから嬉しいと

いうけど、

形がないのだから。

 

けど、

形のない味の方が、

最高の味なんだ。

貰った味というのは

だいぶん安物や。」

 

ここでは、

生きているという味、

存在の味

こういう表現の「味」

ということが出てきます。

人生を味わうという

こともあります。

ただ食べものの味

だけではなく味わうという

そういう味もあります。

 

醍醐ということも

仏の教えを順に説いた

ものに五段階あるという

それを乳を精製していく

順序になぞらえたもので

乳(にゅう)

酪(らく)

生酥(しょうそ)

熟酥(じゅくそ)

醍醐(だいご)

五味といったものです。

 

今でも牛乳から

ヨーグルトになり

チーズになっていく

その間にも色々の形が

あるようですが

そういうものに

喩えたのでしょう。

 

また味についても

倶舎論クシャロンという経に

醋(さく、酢・酸ともいい

  すいこと)

鹹(かん、しおからい)

苦(にがい)

淡(あわい)

という六味をあげています

 

今では甘くて柔らかいもの

が美味しさの中心に

なっているようですが

昔の人は科学もない時代に

よくもこのような味を

分析したものだと

感心します。

 

私たちも次第に

本当の味というものを

忘れていくような

気がするのですが、

 

 

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時計的時間と平常時の時間

2023-11-27 18:57:32 | 十地経

私たちの毎日は

寸分の狂いもない時間の中

で暮らしています

以前はネジ巻き時計で

毎朝テレビやラジオの時報

で時間を合わせるという

生活でした

今は一秒の狂いもなく

テレビは始まり

秒単位でCMが入るという

新幹線も何事もない限り

時計の時間通りに来て

出発していきます

 

それが当たり前の生活です

それが時計的時間と

いうのです

そのような中、

『平常心是道』

へいじょうしんこれどう

という言葉があります

「日常に起こす

はからいのない

心が即ちそのまま

さとりに他ならない」

という意味です

 

趙州従諗

(ジョウシュウジュウシン)

という中国の禅の僧侶です

禅宗の基礎を築いたような

方です

この人が18歳の時

「平常時是道」

という言葉で大吾したと

そういう言葉です。

 

似た言葉に

道という言葉に迷う事勿れ

 朝夕己が為す業と知れ

があります

 

講義では

「日常。日常的時間と

あるいは平常とかね、

仏教の言葉では平常とね。

平常時。

『平常心是道』

とこういいます。

平常時というものが

これは二十四時間、

それは何の上に立てるか

というと、

念の上に立てるんです。

 

で、行く時も一念、

来たる時も一念と。

一念から見れば、

念が念に連続している。

瞬間が瞬間に連続している

朝が昼に連続していない

昼が夜に連続してるんじゃ

ない。

朝は朝、昼は昼、夜は夜だ

皆独立しとる。

念の上に立ったんだから。

 

大体時間というものは

非常に面倒な問題なんです

時というようなものはね、

我々は時計がある。

時計的時間。

これはこの平常時の時と、

時計の時とは

違うんじゃないかと思う。

これは当たり前に思って

いるけどね。

 

この時計的時間という

もので計った世界を

自然界というのじゃないか

と思う。

これは昔から

あることではない、

近代人が発見した世界や。

まったく対象化された物質

の時間だね。

死んだ時間や、

こう時計で計るのはね。

 

これは何時何分という

ものが要素になって、

無限に分析できるし、

その集合として、

つまり数量的時間ね、

計算できる、

こういう計算できる時間

というもので計られた世界

が自然界。

物質の世界。

死んだ、

物の世界というものが、

人間が見出したのだ、

近代人が。

 

そういう、

偉大といえば偉大なんだ。

けど、

その自分の作った、

死んだ世界を見出した、

その死んだ世界によって

殺されてしまうんだ。

これが現代。

 

作った自然によって、

持っとった自然が

失われていくんです。

 

このように、

時計的時間というような

ものは、これはまた別に

考えなきゃならんのじゃ

ないでしょうかね。

時計的時間というものを

見いだしてきたのが近代人

中世にも古代にもない

時間だ。

これは日常的時間とは

違うね。

時計的時間が

自然科学的時間だと

いうなら、

日常的時間は

我々の生活の時間です。

 

つまり、

ご飯を食べる時間、

朝起きて何々する時間

というような。

時計の時間にはそういう

内容はない。

起きる時間も死ぬる、

眠る時間も同じことだ。

平均化するんだ、

全部をね。

これの方は話がまた

違うのじゃないかと思う」

 

と、あるのですが

まだまだ、時間の問題は

続いていくのです。

「朝に道を聞いて、

夕に死んでも可なり」

というような時間も

次には出てきます。

 

 

 

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三大阿僧祇の修行(さんだいあそうぎ)

2023-11-25 18:37:04 | 十地経

時間の問題は難しく

読みながら難儀して

いるのです。

何気なく使う「世界」と

いう言葉も仏教語で、

 

「世」というのは

三世(さんぜ)という

過去・現在・未来の三世

ですから、時間です

生滅しながら変化していく

という、うつりかわり

それが三世にわたっている

「界」は

空間的に限定がある場所

私たちが住んでいる所

ということです

 

インドの人は時間的にも

空間的にも

私たちには考えられない

ほどの感覚を

持っておられるようです

0(ゼロ)の発見もインド

です

そのことが数としてよりも

無という、また空という

思想に発展していきます

 

今読んでいるところでは

一念とか一刹那という

一番短い時間の単位が出て

今度は阿僧祇アソウギという

一番長い単位が

出てきたのです

それも三大阿僧祇と、

 

一、十、百千万と数えて

十進法で

その52乗が阿僧祇

ゼロが52付くわけです

とれだけ、といいたく

なりますが

 

その三大阿僧祇の修行

というのですから

私たちがちょっとやる

百日の修行とか

長くても三年の修行など

修行をやったなどと

言えないものです。

 

「三大阿僧祇の修行と

いうんです、菩薩道を。

十地に入るまでが

一大阿僧祇、

十地に入ってから七地

までが二代阿僧祇、

七地以上十地までが

第三阿僧祇というので、

三大阿僧祇の修行という

ことが

経典に言われている。」

 

と、このようにでてきます

さらに

 

「時というものを押さえて

言えばですね、

念念相続するのであって、

ひとおもい、ひとおもい

の外に時間はない。

一念の外に時間はない。

 

一念の上に

現在とか過去を立てるんだ

現実というと、

一念といったら現在だ。

現在の一念が現在に続いて

くるわけです。

この一念という現在は

二念にわたらんという。

 

こういうような時間ですね

…… 人生というものも

世界というのも、

一生というのも、

一念の外にないんだと、

こんなことがある。

 

だから三大阿僧祇という

けど、

それ一刹那の外に

そういうのがあるわけじゃ

ないと。

『三大阿僧祇、摂一刹那』

という言葉が、

無著ムチャク菩薩の

『摂大乗論』ショウダイジョウロン

の中に出てくる。

無著の摂大乗論の中に

菩薩十地を取り扱って

いるんです。

 

『三大阿僧祇、摂在』

摂(オサ)まるですね。

『摂在一刹那』と

こういってある。

法蔵菩薩の

五劫思惟(ゴコウシユイ)と

いうようなこと言って

みたところで、

一念だ、

信の一念の内面や。

内面的時間や、

こういうような

劫(コウ)だの念だのと

いうのは。

 

普通の朝9時とか、

まあその、何時といった

時というのは、

その朝昼晩とか、

行住坐臥とかいうような、

そういう時は、を、

その念の上に立てる

のでしょうけど… 。」

 

このあと出てきますが

時計的時間と平常時の時間

という

時計で流れていく時間

平常時という時間

クロノスとカイロスと

時間と関係あるような

気がするのですが、

 

まだまだ時間の問題が

続いていくのです。

 

 

 

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一念・相念・念念

2023-11-23 20:20:13 | 十地経

「念」ということが続けて

出てきます

第一節が

道を起こす時一念も

心に捨てないと、

道を捨てない、

行住坐臥さらに寝ている時

一時も捨てない、と

 

第二説が

常にかくのごとき

相念を離れず、と

信が勝れているという

ことをいっています

 

第三説が

菩薩、念念の中において

具足する。

何を具足するかといえば

菩薩十波羅蜜を具足すと

経典では

「念念の中において

大悲を以て首と為して

一切仏法を修習し、

皆如来智に廻向するが故

であると」

 

一念、相念、念念と

念ということが中心です

 

講義では

「念というのは非常に

大事な字で、

時間に関係するんですけど

何時何分おいうような時間

時間がいわれますが、

仏教ではですね、

二六時中ということが

ここで表してある。

 

四威儀に住するというのが

『来る時、去る時、

住する時、臥する時、

乃至睡夢においても』

というのは、

これは二十四時間でしょう。

二十四時という時間、

これは生活時間や。

 

時の単位というようなもの

が念ということに

なるんじゃないですかね。

『一念一刹那も』という。

一刹那というんですね、

一念のことを。

まあ厳密にいうと、

一念と一刹那はちょっと

違うんですけどね。

 

とにかく、

念にしても一刹那にしても

一番短い時間を表すんです

一念一刹那。

だから一刹那ということで

時間のモーメントという

ものを表すんですけど、

一番短い時間を、

 

時間の単位を表すんだけど

だから

一念というのは一刹那を

表すともいえるけど、

まあそれでいいんだろう

 

けど、

しかし一年という時はね、

『ひとおもい』

というような意味で、

やっぱり

事業が完成する

というような意味が

一念にあるんじゃないかと

思うですね。

事業、あることが

そこで完了するという。

 

『あっと思う間』

ということじゃなしにね。

『なるほど』

というのはこれは、

一つのね、

『あっと思う間』

というのは、これは、

一刹那でしょう。

『なるほどそうだ』

とこういったときには、

はや何刹那か経っとるね。

 

やっぱりそこに、

何刹那か経って一つの、

完結するんだ。

その完結する場合に

一念というんですね。

 

だから時というものは

実際、

時というものを

押さえて言えばですね、

念念相続するのであって

ですね、

ひとおもい、ひとおもい

の外に時間はない。

一念の外に時間はない。」

 

過去現在未来というけど

今の中に

過去からの連続があり

現在の中に

未来を内包している。

その一瞬の中に、

過去現在未来が進行してい

るとも言えるわけです

ですから

ひとおもい、ひとおもい

一念の連続が相続している

それが時間という

ことなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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一念(いちねん)と刹那(せつな)

2023-11-22 20:09:29 | 十地経

「一念」も「刹那」

も時間の単位です

それも短い時間の単位

長い時間の単位は

「劫」(こう)というのが

あります

一里四方(立方体)の石に

百年に一度天女が舞い降り

踊りを踊るという

その石が擦り減って

無くなったのを一劫と

いうのです。

まあ

インドの人はこういう

長い単位の時間を

考えるものです。

 

その反対が一念と刹那

念という字は時間の単位

だけでなく、

憶念不忘の念、

深く心に刻んで忘れない

それから、念仏、念力

という意味もあります。

 

刹那とはクシャナという

言葉の音写で

念頃(ネンギョウ・一つの心を

  起こす間)と訳します

倶舎論(クシャロン)という

お経から紐解いていくと

今の時間でいうと

一刹那は「0.013秒」

ということです。

 

そこから

一念ということを見ると

いろいろ説があって

一念は一刹那とか60刹那

また90刹那ともいい、

或は一弾指(イッタンジ)の

60分の1、

または400分の1を一念

というようです。

 

これから、講義では

時間の問題が出てきます

時間の問題は哲学でも

宗教でもとても大切なこと

なんです。

お釈迦さまも

いつ出家して、

いつ成道して、

いつ涅槃に入られたと

時ということが

示されています。

 

それから、

時間は心によって作られる

ともいいます

楽しい時間はあっという間

に過ぎ去ってしまい

仕事とか講義を聞く時間は

とても長く感じるものです

時計の時間は

同じなのですが

感じる時間は違ってきます

 

講義では

「去る時また起こし、

住する時また起こし、

坐する時また起こし、

臥する時また起こし、

乃至睡眠皆よく道を

起こす。と

道の心を起こすと。

一念も心に捨てんと、

 

菩薩が道心を起こす時

一念もその道の心を

捨てない、と

こういうのです。」

 

と出てきます。

一念も捨てないというのは

思い続ける、

寝ても覚めても忘れない

行住坐臥そしてまた

寝ている時も道心を

忘れないというのです。

 

そこから、

時間ということの話が

展開していきます。

 

 

 

 

 

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自分(じぶん)・勝進分(しょうしんぶん)

2023-11-21 20:32:47 | 十地経

「自分」という

仏教語があるのですね

ということも驚きですが

私という自分ではなく

「自の分」ということです

といっても分かりませんが

ある一つのものの本質的な

ものを「自分」といい、

また、

ある一つの行が達せられた

のを「自分」といいます。

 

「勝進分」は

勝って進むというのでなく

仏教の場合は

「勝」はすぐれたという

意味になります。

一つの行が完成し

更に進んで他の勝れた行に

進んで行くことを勝進分と

いうようにいいます。

 

講義では

「この自分、

これを自分といいましてね

それから勝進分と、

この二つね。

だからして、

一、二、三、四とあるけど

第一というのが、

その自分というのは

そのものですね。

双行分の中の一番

やっぱり主になるもの、

これが第一、

双行分の双行ということを

述べてあるのが

第一なんです。

双行そのものですね。

双行というものによって

それが展開してくると。

後は、

二、三、四というのは

展開です。」

 

ここでいうのは

双行分で

双行というのが「自分」

第二の信勝、

第三の能作大義、

第四の菩提分差別、

ということが「勝進分」

ということです。

 

一応、ここに出てくる

双行分の構造です。

中心課題の自分があって

そのことが展開してくる

勝進分があるという

ことです。

 

「自分」、「勝進分」

ということですが、

見てみると

例えば、一つの行

布施波羅蜜が達成されると

そのことが自分で

次の行に進んでいく

戒波羅蜜に進んで行くのを

勝進分というように

 

自分、勝進分ということが

回転するように進んでいく

行のあり方を表している

ものなのでしょう

こういうことがないと

行ということも

円を描くように進んでいく

ことがなくなるようです。

 

講義の話は短いのですが

「自分」・「勝進分」

という

双行分の構造という点で

知っておくことが大事だと

思いましたので。

 

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双行(そうぎょう)・双運

2023-11-20 20:19:34 | 十地経

講義も新しく始まり

といっても、

よく見ていると先月と

同じところのようにも

見えます

そう繰り返しながら

講義は展開するのですが

 

「双行分。

これはまあ今いった、

まさしく七地、

第七菩薩地そのものを

語っているところですね。

しかし見てみると

経文は非常に簡単です。

 

経文を世親は四節に

分けている。

初めはこの二行双無間、

次は信勝、

それから能作大義、

それから菩提分差別。

こういう四節に分けて

います。」

 

という七地の内容を

説明されています。

それで、気になって

双行ということを

自分なりに考えたのです

 

「双」ということ

この字は古くは「雙」と

書いていました

二羽の鳥(隹)と手(又)

からできた字です。

一つがいの鳥のえもの

ということで、

一つがいの意味。

それで一そろいという

意味になった。

 

二つで一つ、一対という

屏風も一双という場合は

二つあるのです

たとえば、

六枚仕立ての場合

六曲一双と

六曲の屏風が二つある

ということです。

 

ですから、

双というのは止観双行と

いうように

止と観の二つが

二つでありながら一つと

それで無間と、間がない

止が成り立つと同時に

観も成り立つという

ことです。

 

たとえば

仏弟子のなかで

目連は止(禅定)の第一

舎利弗は観(智慧)第一で

二人合わせて

「第一の双」と

いわれています。

 

双行ということは

双運(そううん)とも謂れ

運ぶという字があるように

二つが同時に働くことを

止観双運といいます。

 

二つの行という双行より

二つが同時に働く

ということで、双運と

いった方が分かりいいかも

しれまん。

 

止観ということを

智慧と観という

動と静というような

ふうにもいいますが

先月の講義では

括弧に入れると

色々関心事はあるのですが

それらを一応括弧に入れる

そういうことを「止」と

すると

ものそのものが

語ってくれる。

自分の考えを抜きにすれば

物自体が語ると

 

そういうように具体的に

話されたのが

先月の講義でした。

そういうことが引き続き

転回していかれる

と思います。

同じことでありながら

違った言葉で表現されて

いくのが面白いところです

 

 

 

 

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京都市植物園の秋

2023-11-19 20:15:38 | 住職の活動日記

久しぶりに植物園へ

秋らしく冷え込んできた

今日の秋晴れ

 

 

植物園のイチョウ

まだまだ紅葉が進んでない

様子

 

 

近づいて見ると

ところどころ

黄色に色付いています

色づき具合の様子を見に

ということで

人出が多いようです

でも、まだまだという

ところです

 

 

バラ園の薔薇たちも

終わりがけですが

まだ残っている

微かながら香りが

漂っています

 

 

この頃は

日の落ちるのが早く

日の力なさを感じます

 

 

以前は頂いた薔薇や

買ってきたものもあって

我が家も薔薇に

囲まれていたのです

 

せっかく、

ここまで来たので

足を延ばし賀茂川へ

 

 

鴨川から望む大文字の山

少し木々がなくなっている

ところが大文字の所

いつもここから眺めていた

ということです

 

 

目を左のやると

比叡のお山

やはり賀茂川沿いは

何とも良い景色です

天気も良くそぞろ歩きには

もってこいの場所です

 

 

ちょうどお腹もすいてきた

通りすがりの店へ

うどんそばがメインの

ようですが

メニューを見ると

カレー丼なるものが

カレーライスでもないのか

と思いつつ注文すると

 

 

丼とあってスプーンはない

出汁でカレーを溶き

細切りの肉と葱が入って

漬物と赤だし

というところはいかにも

丼物です

 

味もしっかりしていて

なるほど、カレー丼か

ということで舌鼓を

打ちました

 

 

やはり町のもみじも

紅葉というより

すでに枯れかかっている

様子です

今年は美しい紅葉は

望めないかもしれませんね

 

 

 

 

 

 

 

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