本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

見道・修道・無学道

2018-12-10 21:26:05 | 十地経

見道 (けんどう)

修道 (しゅうどう)

無学道(むがくどう)

修行のプロセスの段階です

合わせて「三道」(さんどう)と

いいます。

 

『十地経』も修行の段階を

表しているのです。

「初歓喜地」(しょかんぎじ)

最初に法に触れたという

その歓びということです。

そうであったかと、

心から頷けるような

手の舞足の踏むところを知らず

最初に光が見えたという

そういう喜びの状態です。

 

であれば、もうそれでいいのでは

とおもうのですが、

その初歓喜地が「見道」に

あたります。

そこから本当の修行が始まる

ということです。

 

『十地経講義』では、

「初地が完成した時に煩悩まで

なくなったんなら十地というものは

いらんですね。

智慧があるけどもやっぱりそこに

煩悩とか色んなものがあるんで、

雑夾性(ざっきょうせい)ですね。

それだから今度はその雑夾性を

克服して無分別智というものを

完成していくわけです。

仏智まで完成するのです。

 

無分別智(むふんべっち)が

完成したのを如来の正覚と

いうんでしょう。

菩提というんでしょう。

完成していくんですね、雑夾性が。

純化していくわけです。

 

ある意味からいうと

その時に初めて実践ですね、

修行ですか、

本当の意味の実践していく

ということが成り立つんじゃないか

と思うんです。」

 

修行していると

なんでしょうか、ヒラメキ

頷けることに出会うものです

それで、そうだと思って

止めてしまうことも多いのです

本当はそこから

修行が始まるのですが。

 

初地(初歓喜地)を「見道」と

いいます。

第二地からを「修道」といい

何度も何度も繰り返して修練、修習

する位です。

第十地が「無学道」です。

無学というと、世間では

学問知識がないということで

これから学んでいく

ということを表すのですが

ここでは、もう既に学ぶべきものが

ないという位です。

真言宗では、

浄菩提心が初めて生ずる位を

見道というようです。

 

修行してさとりを開くと

いいますが、

具体的には

さとりということがあって

初めて修行が成り立つのです。

 

講義では

「真理を見出さんまでは

修行といえんのじゃないかな、

ただ暗中模索しとるというだけで

智慧を得たということは

修行が無用なんじゃない、

かえって修行ができる場所が

成り立ったと、

いうことにもなるわけです。」

 

なんだか今ごろわかるような

一生懸命やっているようでも

ただウロウロしているだけで

本当の意味の修行はなにも

出来ていなかったように思います。

 

本当のことがわかった

それでいいのではなく

そこからが修行が始まる。

わかったからといって

それで煩悩や苦しみやいろいろな

ことがなくなってしまったのでなく

智慧が生まれても

諸々のこざこざしたものは

いっぱいまだ持っているのです。

 

雑夾性を、まじりっけを

失くしていくという戦い

煩悩対治です。

そこまで人間の心を見抜いて

書かれているこの十地経の

厳密さには驚きます。

 

修行、修行といっても

本当はまだ何も手が付いていない

ような気がします。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする