本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

養花天(ようかてん)

2022-03-29 19:03:50 | フラワー

花曇り、三寒四温、

草木にとっては

この寒さ暖かさ曇ったりが

成長の手助けになる

「養花天」

こういう花を育てる

気候ということで

この名前があるようです

 

 

今まさに満開をすぎ

少し散り始めですが

正に見頃です

 

 

桜花爛漫ですね

鳥たちの声も聞こえてきます

 

 

花の下で酔うように

一人花見を楽しみました

 

 

色々な角度から眺め

花の姿を楽しみ

 

 

桜木を手折りてみれど

花は無し

春こそ春の命なりけれ

 

という歌がぴったりの

様子です

 

 

ちょっとした公園ですが

誰もいなく独り占めの花見

なんとも贅沢

 

 

ほんの僅か

5分ほどの時間ですが

やっと今年の桜が見れて

なによりでした。

 

 

 

 

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愛、一面には執着・一面には痛む、という意味

2022-03-25 19:06:52 | 十地経

「愛」ということは

仏教では煩悩の一つとして

愛着するというような

我がものとして愛する

渇いた者が水を求めて

止まないように

強く求める心であるから

渇愛ともいわれます。

 

三愛ということがあって

欲愛ー性欲、情欲です

有愛ーこれは生存欲

非有愛、これは生存を否定

しようとする欲望

こういう愛もあります。

また、

欲愛と法愛という

こともいいます

ここでいう欲愛とは

妻子や身近なものを愛する

という貪欲です。

それから、

一切衆生を慈愛する慈悲心

という法愛です。

 

「愛というものは非常に

不思議な意味がある。

愛というものが

一面には執着の意味がある

けど一面には痛むという

意味もある。

愛情というものは何か

というと、

一面には感情というような

意味もある。

けれども一面に痛むという

ことは感情でなく智慧だ。

 

悲というのは

ただかわいいという

ことじゃない。

一つの認識なのだ。

かわいいというようなことを

いっとるのは

かえって煩悩じゃないか。

悲も着も二つの概念は

今日の言葉で言えば

リーベ(Liebe)でしょう。

 

衆生を愛するという場合でも

親子の愛情とか

異性間の愛情もリーベという

言葉で表される。

けどそれは着だ。

だけど、そうでなく

そこに痛むという意味がある

着というのは個人的なもの

ですけど、

リーベといえば

人類的なものだ。

生けるものが生けるものに

対する関係がある。

それは痛みです。

非常に静かなものです。」

 

こういう「愛」という問題

についても述べておられ

その愛が悲という問題

慈悲の悲ですけど、

 

「悲というのは

普通は、かなしむ、という

意味でなく、あわれむ、

という意味だと、

そんなことよく聞かされ

とるんですけども、

だけどそれは日本語で

言っとるんじゃないか。

 

悲はやはり、

あわれむ、という意味ばかり

ではなく、

かなしむ、という意味もある

智慧の悲しみやね。

智慧が悲しむんです。

智慧が悲しむのを

あわれむ、とこう言っても

いい。

 

智が初めて人間を、

智でなければ

不幸な人間は哀れめるが

幸福な人間は哀れめないでしょ

智は不幸なものを哀れむ

ばかりか

幸福なものも哀れむ。

常ならぬものだ。

一瞬の後には消えていく

ものだ。

有限なるものです。

 

不幸なものだけが

有限じゃない。

幸福であっても有限だ。

そういう有限なものに対する

一つの痛みというもの、

非常に静かである

けれども深いんです。

 

愛情でも浅ければ浅いほど

派手なものだ。

アイ・ラブ・ユーという

ようなものは一番派手だ。

静かなる愛情、

そういうものが悲なんです。

その静けさは智だからです。」

 

このページもなかなか

面白いものです。

 

 

 

 

 

 

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女が少ないと書いて「ミョウ」

2022-03-24 20:04:31 | 十地経

「妙」ということも

サットsat の訳で薩と書き

不可思議、という意味

絶対でくらべるもののない

ことをいいます。

またこの字は「たえ」と読み

よく女性の名前に使われます

また戒名でも女性の時は

よくこの字を使うのです。

 

「だけど、この普通、

妙ということが安っぽく

取られるのは奇妙なことや

という意味の妙にするから

ですね。

それで安っぽい。

つまり、非合理的なこったと

こういうような意味で

妙という字が安く考えられる

薬なんかに妙薬ありと、

風邪の妙薬という具合に。

頓服なんか、

それで使うんですけど、

妙という字はそれで使わせん

というわけにいかんでしょう

言葉は自由ですから。

だけど非常に深い思想内容を

もっとるんです

妙という字は。」

 

鈴木大拙も仏法というものを

妙という一字に尽くす。

と、あるように本当に

大切な言葉なのです。

 

また、妙というのは

不可思議と訳しますのも

面白いのです。

ふしぎちゃんという言葉も

最近では使われるようですが

 

不可思議というのは

ことばでいうことも

心で思いはかることも

できないこと、とあります

それで、お経の中に

世界と衆生と龍と仏土境界

とを不可思議とする。

また、別の経典では

業と龍と禅と仏の四種境界

を不可思議としています。

どの経典にも龍が入っている

のは不思議なことですが

龍は一滴の水で大雨を降らす

そういうところから

入っているようです。

 

それで、

「西田先生の言葉ですけど

『働くものから見るものへ』

これはベーメの言葉ですけど

先生の本の中に、

その本の序文が書いてある。

東洋的なるもの、

それは西洋の論理は非常に

優れているけれども、

ただ西洋に反駮するという

意味でない。

 

あの、東洋には論理は

なかったかも知らんけども、

その論理という、

何もなかった

というものではない。

非常に東洋には東洋の

深い思想の伝統がある。

それをなんか一つの哲学的に 

その論理というものによって

それをはっきりしてみたい。

こういうのが私の哲学の役目             

だと。

 

こういうことを

言っておられる。

その東洋的なるもの

ということを、

どういうように西田先生は

言っておられるかというと

働くものなくして働く、

見るものなくして見ると。

これは東洋的なんですね。

非常に深いものがある。」

 

そういうことを

西田先生は妙という一字で

表されたのでしょう。

 

「見るものなくして見、

働くものなくして働く

というのが妙ということ。」

そこから

「生まれたるものから

生むものへ」とか

「つくられたるものから

つくるものへ」というような

創作の論理というものが

出てくる。」

 

とこういうように続きます

考えれば

「妙」ということも

簡単そうでも

とても深い内容をもった

ことなのです。

 

 

 

 

 

 

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『仏教の大意』鈴木大拙

2022-03-23 19:37:00 | 十地経

講義の中でも

鈴木大拙さんのことも

よく出てきます。

「この、妙という字を

非常に大事にしている人が

鈴木大拙や。

鈴木大拙は一番この妙という

もう仏法というものを

妙の一字に尽くすという。

ええ、妙心寺の妙です。」

 

鈴木大拙(1870~1966)

明治3年生まれ、昭和41年没

安田先生が(1900~1982)

ですから30歳ほど年上です

この明治のころは

いろいろな思想界の人が

生まれておられます。

 

哲学、芸術、理性、科学

というような言葉を訳された

西周(にしあまね)は

1929(文政12)~1987

(明治30)の人です

井上哲次郎(1856~1944)

安政2年~昭和19年

は形而上学、範疇という

言葉を訳された人

また、西南戦争が1877年

いろいろ動乱もあり

思想界も大変革の時代です。

 

この『仏教の大意』は

昭和21年に昭和天皇に講演

されたものを更に詳しく

本にされたものです。

『The Essence of Buddhism』

と、英訳もされました

鈴木先生は英語も堪能で

この本が西洋に

仏教というものを伝えるのに

大きな役目を果たしています。

 

ちょうど大学の時

英語の授業の教科書が

『The Essence of Buddhism』

でした。

これがとても難しく

日本語でも読んだことが

なかったので

全くちんぷんかんぷんでした。

その一つに

「one is all  all is one」

がありました。

一が全部で全部が一

どういうこと?

 

そのような折

やはり安田先生の講義を

聴聞しておられた明光先生

英語の先生で

毎夜、部屋を訪ねて

この本の訳を学んだのです

その時、感じたのは

明光先生という方

職人さんのような方で

英語の訳仕方が実に

素晴らしいものでした

 

one is all  all is one

を一即一切 一切即一

という具合です。

いま読み直してみても

やはり独特な言葉の

使い方があって

安田先生の難しさとは

また別物です

 

よくぞ

天皇陛下もご理解された

ものだと驚きます

やはり、昔の方は

こういう難しい文章に

慣れ親しんでおられた

のでしょう。

 

「普通われらの生活で

気のつかぬことがあります、

それはわれらの世界は

一つでなくて、

二つの世界だということです

そうしてこの二つが

そのままに一つだと

いうことです。

二つの世界の一つは

感性と知性の世界、

今一つは霊性の世界です。

 

これら二つの世界の

存在に気のついた人でも、

実在の世界は

感性と知性の世界で、

今一つの霊性的世界は

非実在で、観念的で、

空想の世界で、

詩人や理想家やまたいわゆる

霊性偏重主義者の頭の中に

あるだけのものだと

きめつけているのです。

 

しかし

宗教的立場から見ますと、

この霊性的世界ほど

実在性をもったものは

ないのです。

それは感性的世界のに

比すべくもないのです。」

 

と、こういうように

始ります。

 

ちょうど熊本への行きし帰り

読み始めても、歯が立たない

まずは慣れ親しむのも

大事ではないかと

めくりながら、響く言葉を

探しながら

行きつ戻りつしながら

そうすると

表現は違うが

十地経の講義と重なる

文言があることに

何となく気がつきます。

 

思うのは

最近ほど優しい心地好い

言葉にあふれている

こういう難解な文章を

噛み砕く力が欠けている

ように思うのです

理解しよう分かろうとせず

読書百篇ではないですが

繰り返し読み砕くには

絶好の書ではないかと

思います。

 

今は便利で簡単な機械も

あるのですが

読み砕きながら考える

そういうことも大事なように

思います。

 

 

 

 

 

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解脱の耳をすまして仏法を聞く

2022-03-18 20:03:05 | 十地経

ちょうど、解脱ということが

出てきて、

この「解」という字を

何回も書いていると

不思議に思うのは

というのは何かしら物騒な

角を書いて刀を書いて

その下に牛を書く

やはり字の成り立ちも

刀で牛を解体することが

字の成り立ちのようです

そこから、

ひもとく、もつれをとく

そして思想的な

ときあかす、さとる

という意味まで出てきます

 

仏教では「解脱」(げだつ)

と読みます

漢文的には(かいだつ)と

読み、ときはなつ、ゆるす

という意味です。

 

ビモークシャという語を

解脱と翻訳したのです

煩悩に縛られていることから

解放され迷いの苦を脱する

こと、とあります。

また、

耳で仏法を聞いて解脱する

ところから

「解脱の耳をすまして

  仏法を聞く」

といわれています。

 

「煩悩を解脱する

ということはね、

煩悩というものと

関係をなくするという意味で

煩悩を解脱したといっても

煩悩がなくなった

ということでないんであって

関係がなくなった

ということ。

煩悩そのものが世界から

消えたという意味ではない。

どこから来たか分からん、

煩悩は。

不思議なもんやね、これは。

 

我々は今、腹が立つ。

いつでも腹が立ちっぱなしに

立っとりゃせん。

なんか縁が触れると

カッと起こってくる。

どこから起こってきたか

分からん。

不思議なもんや。

これは因縁や。

起こそうと思って

起こしたんでない。

自由にはなりゃせん。

 

だからして

私は腹が立ってたまらん

という。

じゃその腹立ってたまらん

煩悩を取ってやる。

出してみい。

腹立ててみいというと

立ちやせん。

立てまいと思っても

立ってくるし、

立てといわれても

立ってこん。

そういうように

思いの自由にならない。

煩悩ぐらい、

自分の中の腹の虫ぐらい

始末できんという、

不思議なもんや。

 

煩悩そのものが

消えてしまうという

ものでない。

あるかも知らんけど、

自分というものと

相応せんということだ。

 

大体

煩悩というものがあるない

ということをいうべき

もんでない。

大体世界にあるない

というものは一つもない。

縁によって相応する。

打てば響くもの。

 

煩悩があるという

意味じゃない。

煩悩が相応するという

言い方をするんです。

煩悩と相応せん

という言い方をします。

デリケートな言い方や。

 

あの……

その煩悩と関係を断った場合

まずこう一つ、

そういうはたらきをするのが

智慧だけです。

智慧以外のものは

その煩悩との関係を

遮断することはできない。

 

いつでもね、

自分の意志を超えて

起こってくる。

ええ、なんぼそこで

頑張ってみたところで、

人間の頑張るというぐらいの

主観的努力では、

起こらんようにさせる

わけにはいかんのです。

ええ。

人間の立場に、

つまり分別の立場に

立っている限り

起こりうるんです。

 

それを拒むことはできない

その時

拒むことができるものは

智慧なんです。

ええ。

煩悩自身を知る

ということが、

ただ煩悩から解放されると」

 

テレビに出ていた

あるタレントの方が

「知るということは

本当に難しいことです」

と仰っておられましたが

やはり、

知るということが

単純に知るといいますが

本当に知れば

解放されるのです

知るといっても

自分の都合に合わせて

解釈しているだけで

煩悩を知るということは

至難の業なのです。

 

それには教えを聞く

ということしかないのです

それによって

煩悩の闇の一角が崩れる

ほんの一筋の明かりが見える

そのことが大事なように

思います。

 

 

 

 

 

 

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観梅から惜梅へ

2022-03-17 19:41:21 | フラワー

咲き始めから六分咲きを

「探梅」(たんばい)

見頃、満開を

「観梅」(かんばい)

散り始めを

「惜梅」(せきばい)

といようです。

 

城南宮の梅も今が見ごろ

一面香で包まれています

庭園に入るとまず

椿の花が待ち受けています

椿の種類も多く

約60種の花があります

 

 

目にとまった淡いピンク

椿とは思えぬ姿

名前は「酒中花」

ほんのりお酒に酔ったような

そこからの名前でしょうか

 

 

緑の苔の上に落ちた椿も

風情があります

 

 

こういう百合椿という

花もあるのですね

 

 

庭園はしだれ梅の林です

花びらが落ちて

一面ピンク色の絨毯です

 

 

空の青さと相まって

何とも美しい

 

 

こちらは白梅

とうぜん一面の白色です

 

 

降ってくるような梅の花

梅と桜と桃の違い

梅は枝に直についている

桜と桃は花びらの違い

桃はギザギザ

桜は先が分かれている

 

 

桃色と白の取り合わせ

 

 

百人一首にも梅の歌は

一首見つけられます

紀貫之の歌です

 

「人はいさ 心も知らず

ふるさとは 花ぞ昔の

香に匂いける」

 

という梅という名は使わず

かおりということで

表現しています

 

 

ここの主役は鳩さんです

多くのカメラマンの放列が

並んでいます

椿の落ちた花とピンクの梅

それに鳩です

動じることなく

鳩は悠々と歩きまわって

います

 

 

桜の花もいいのですが

寒さの中凛と咲く梅の花

こちらの方が好きですね

 

 

苔と

不思議な模様の根の張り方

それにところどころにある

赤の椿

何でも絵になるようです

 

 

「城南宮」

鳥羽伏見の戦いの始まった

場所でもあり

古くは熊野詣の出発点

ここで精進潔斎して

ここより南下して

熊野の地へと出発したのです

また平安京の守りという

神社でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

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東本願寺御影堂門

2022-03-16 18:37:13 | 住職の活動日記

「京の冬の旅」

も終わりに近づき、

今年は初公開の東本願寺

御影堂門(ごえいどうもん)

への参拝です

 

 

日本一高い木造の楼門

とあってその姿は

驚くべき大きさです

門をくぐって入ると

 

 

門の上から通る人を

見下ろして

まるで睨みつけている

その眼力は鋭い

 

足元は唐獅子牡丹の金物で

 

 

締めています

上には龍、下には獅子

なかには

 

 

お休み中の獅子さんもいます

急な階段をよじ登り

楼門の上へ上がっていきます

 

楼門の上には

お釈迦さまと右に弥勒菩薩

左に阿難尊者と

普通にいう三尊の形ではなく

真宗の経典による

配置ということです

未来の仏の弥勒菩薩

最後までお釈迦様と共にした

阿難尊者(多聞第一)

この方がいなかったら

お経は出来ませんでした

 

やはり門の四方にも

龍さまがお守りされています

 

 

下から見上げる龍さまの鱗

その作りも立派

ひげには金が施してあり

 

 

門の中にもさらには四方にも

龍さまがいらして

仏法を守護しておられる

のでしょう

 

 

こういう角度で市内を見渡し

めったに見れない光景です

 

 

このように間近で

額を見ることは出来ません

額のところどころの

ハートマークは

猪目イノメといって魔よけの

意味があります

 

 

この格子窓の金具にも

 

 

こういうように

猪目の模様が施されています

 

 

階段はあまりにも急なので

写真撮影は禁止なのですが

どなたも

いらっしゃらなかったので

目の前に迫ってくる

本願寺さんの模様が

あまりにも見事な

作りだったので

納めさせていただきました

 

上から失礼かと思いましたが

 

 

親鸞聖人をお祀りする御影堂

を撮らさせていただきました

御影堂も

お東さんでは「ごえいどう」

東寺では「みえどう」と

同じ字でも読み方が

違っています。

 

京の冬の旅も他にも

大徳寺の大光院では

狩野探幽の「雲龍画」も

智積院の障壁画も

初公開のようですが

コロナ禍ということもあり

全部を見ることは

出来ませんでした。

 

 

 

 

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自分の作ったものが自分を感動させる

2022-03-15 19:46:01 | 十地経

早速ですが、講義で、

 

「左甚五郎がね、

美人の彫刻を作って

ずうっと見ている絵がある。

感心している絵が。

人形作りね。

あの絵は、

つまり自分の作った

人形の方が生きているんだ。

自分の作った人形に

驚かされているんだ。

 

つまり作られたものが

作ってくるんだ。

私の作ったもんだと

いうようなことを

いっている間は、

まだその作品は完全でない。

 

自分の作ったものが、

自分から独立して、

逆に自分というものを

感動させるんです。

そうでしょう。

そういう時、その作品は、

これは初めて創作になる。

作者から独立するんだ。

 

逆に作者を生んでくる。

そういうようなところに

荘厳ショウゴンとかね、

そういう意味がある。

もっとも純なるものが象徴。

製作というものの

真髄を表した言葉が

荘厳というものじゃないか」

 

あるとき、

三浦先生が自分の話した

テープを聞いておられ

うん、うん、

と頷いておられるのです

何も自分の話が素晴らしい

と、自画自賛しておられる

のではなく、

自分の言葉を客観的に

聞き直しておられるのです

 

誰でもそうでしょうが

自分の言葉を一番最初に

聞いているのは自分の耳です

自分の発した言葉を

一番に聞いている。

 

安田先生も

ある対談集が出ました

そのとき、

「対談という形を

とっているがほとんど私が

話したのです」

と仰ってました。

これは講義の中でよく

「ええ」とか「うん」という

言葉が入ります

これは自分の言葉に

自分で納得し頷かれ

その自分で驚いた言葉が

また

次の言葉を生み出してくる

そういうもので

対談という形をとるが

自分が自分との対話している

というものでしょう。

 

対話、対談といっても

自分の主義主張を戦わせる

のではなく

講義の第一巻の初めに

「見て敬い聞いて忘れず」

という言葉が出てきます。

この、敬い聞くということが

大事で、

ここに敬い聞くところに

本当の言葉を聞くという

そこに自分との対話が始る

それが聞法ということでは

ないかと思うのです。

 

左甚五郎でも

わしのは立派やろうと

自慢して眺めているのでは

ないのです

自分の作ったものに

自分が驚いている

 

仏師の方でもそうでしょう

木の中から仏を彫りだし

出てきた仏に

自分自身が驚かされる

思わず手を合わしてしまう

そういう

自分が作ったものであるけど

それは自分自身を超えている

作品はもはや

自分のものではなく

自分が敬うような存在に

なってくる。

そういうことなのでしょう。

 

話し外れますが

相談にお見えになった

お年を召した方が

同じ話を繰り返される

のですが

その話は聞きました

というのではなく

敬い聞いていると

その方も話が展開して

ご自身でも驚かれるような

言葉がとびだしてくる

ということがあります。

 

ここでも講義で

「象徴」「荘厳」という

ことが出てきますが

色々な角度から

この言葉を説明されています

何となく分かるような

はっきりとは分からない

そのようなことなのです。

 

 

 

 

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ピカソの絵は煩悩を表している

2022-03-14 20:21:03 | 十地経

安田先生はよく講義の中で

芸術について、

また美学ということについて

も語られました。

その見方も卓見で

いろいろ理屈は抜きに

いいものはいい、と

いつもお出しする抹茶茶碗

とても好みのものです

「これはいいね!」

どこの焼きかは知りませんが

というと、

「そんなことはどうでも

いいじゃないか、

いいものはいいと

それだけでいいでしょう」

という具合です。

 

「美学というけど、

もう純なる美学が芸術に

現れている。

芸術美にこそ純なる美

というものが代表しとる。

で、芸術というものは

どうかというと、

これまで美学というもの

習慣があってやね、

どうもなんか

鑑賞ということが

主になるんじゃないかと

思うんです。

 

カントの美学においても

判断力批判というものを

見ても、

鑑賞やね。

美というものは鑑賞される

もの。

非常に観念的だね、解釈が。

芸術学という場合は、

僕は創作と見るんじゃないか

と思う。

芸術品というのは

外から眺めるもんじゃなしに

創るね。

むしろそこには

創ることによって見るんだ、

美をね。

 

頭で

初めから見た美をなんかで

表すんじゃない。

この創るということを

通して見なかったものを

見る。

イデアを見る。

美のイデアを見る。

創るね。

創作活動です。」

 

そこであるとき

ピカソのことを

話されたんです。

「ピカソの絵は

あれは煩悩を表している」

そういわれて見ると

何かしら分かるような

あの誇張された目や鼻

それは人間の煩悩の

ありのままに見た姿なんです

 

しかし、話はそれますが

この「美学」という言葉も

中江兆民の訳語で

もとは審美学と訳されました

フランス語からの訳です

また、「象徴」という言葉も

中江兆民の訳です。

 

この「象徴」という言葉も

講義の中でよく出てきます

が、

この言葉も

よく理解できません。

独特の理解があるようで

ただ、普通いう

シンボルという意味でなく

そこに思想的な意味合いが

出てくるようです。

 

また、嚙みこなしたら

書きたいと思います。

 

 

 

 

 

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「働くものから見るものへ」

2022-03-13 20:10:12 | 十地経

私の兄はお酒が好きで

いつも

楽しそうに飲んでいました

それを見た三浦先生は

とても気にしておられ

会う度に

「人間は精密機械やから

大事にしないと

大切に使えば長持ちする

お酒は控えなさい」

と言っておられました。

丁度のそのことが

頭に浮かんできたのですが

講義の中で

たぶんこのことじゃないかと

思われるところが

出てきました。

 

「働くものから見るものへ」

これはベーメの言葉です。

ベーメの言葉をやっぱり

西田先生は早いんだね。

「働くものから見るものへ」

ベーメの概念です。

だからして

それによってみれば、

芸術作品というものは

働くことによって見るんです

行動を通して見るんです。

 

で、これはなにも

芸術だけの話ではないと

思うですね。

人間が知るというのは、

これは働くことを通して、

創ることを通して

知るもんじゃないかね。

 

たとえていうと、

人間は機械だと、

精密機械だというけど、

それは人間が精密な機械を

作ることによって

かえって自分の生理構造を

自覚するんだ、機械とね。

なら、

人間は精密機械と見たこと

あるかね。

ないでしょう。

心臓の、心臓でも

こういうような色んな

循環系統の構造でもですね、

こういうようなものを

見たものはおりゃせん。

 

人間が

精密な時計というものを

作ることによって、

その行動を通して、

作った行動を通して

作る自分を自覚するんだ。

作らずして知るという

ことはありゃせん。

 

それなら永久に、

百年そんな経験していても、

それは感情で、

感想で済んでしまう。

認識になりゃせん。

やってみるんだ。

運転してみるんだ、何でも。

手を動かして

人間は知るんです。

製作を通して人間は

認識を得るんだ。」

 

というところです。

人間は精密機械だと、

この言葉よく聞きました。

たぶん、ですが、

洛南高校の自動車科は

こういうことがあって

作られたと思います。

なぜ自動車科を作ったか

「機械は嘘をつかない

そのことを通して

嘘をつかない誤魔化しのない

人間を作るのだ」

ということを三浦先生から

聞いたことがあります。

 

意外と、

ものということを通して

人間の内面に迫る

ということは

驚きです。

やはり職人という人が

案外思想をもっておられます

講義に出てくる

ベーメという人も

ドイツの靴づくり職人です。

刀鍛冶の方とか

名人という方は

立派な思想を持って

おられます。

そういう思想なり理念が

ないと物は作れない

ということでしょう。

 

精密機械で出来ている

私たち

大切に大事に

役目が終わるまで

使いましょう。

 

 

 

 

 

 

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