本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏教でいう「愛は智」

2021-07-30 21:07:37 | 十地経

楽という言葉から

この言葉には

ねがうという意味もあり

さらに意欲というような

欲という意味もあり

そこから「愛」という言葉に

展開していきます

 

「哲学の方でも、

我愛・他愛ということがあります

我を愛し、他を愛すると

いうような、

それは必ずしも悪い意味じゃ

ないんでしょうけれども、

哲学の場合は。

しかし、やっぱり愛という限り

何かそこには一つの、

人間がそれによって束縛される

ような。

別に愛というものは、

何か、

悪いという意味じゃないですけど

倫理的な意味の悪という

意味じゃないですけど。

 

愛染アイゼンというてね

まあ、汚染ゼンマという字が

ありますけど、

悪じゃないけど、

汚すもんだというような

愛というものは人間に対して

悪というもんじゃない

だろうけども、

しかし人間を汚すようなね。

染めて汚すというような。

色彩づける。

何か人間的なものにしてしまう

という。

 

私の個人的な感じからみると

神の愛というけど、

神を愛するというのみならず

また神が愛するといいますね。

汝の心を尽くし、誠を尽くして

汝の神と汝の隣人を愛せよ

というような。

キリスト教の根本的な戒律に

なってますけども、

神と人とを愛せよというような

愛するという、

神を愛するという場合もあるし

また、神が愛するという

場合も、両方ありますけども、

仏教からみると、

やっぱり人間くさいんですね。

 

北森嘉蔵という方は

自分の神学を特色づけて、

神の痛みの神学という。

その、痛みというようなことは

仏教にはないというようなことを

いっています。

それはまあ、

仏教を知っていうのかどうか

分からんけどもですね、

だけど、ああいうとこで

個性づけようとしている。

痛みというようなね。

まあ仏教の大悲ですわ。

 

仏教の方では、

本当の意味の愛ということを

表す場合には、

愛という字を使わずに

悲というという字を使うでしょ。

むしろ、悲という字を使う。

 

悲は智慧なんです。

智慧といっても理論的なもの

ばかりが智慧じゃない。

人間というものを痛むという

ようなものも一つの智慧だ。

 

痛むというのも

可愛いというようなことをいって

痛んどるんじゃないです。

まあいってみれば、

無心なんです。

無心なら冷たいじゃないかと

考えるかも知らんけどですね、

それが非常に深い愛なんでしょう

 

知らん顔しとるというんじゃない

この、涙を流したりなんかして

痛んだりなんかしとるのは

かえって人間くさいんです。

それは痛むというけど、

本当の痛みじゃない。

 

やっぱり痛むというところに

人間の魅力があるというのは

人間的なんです。

人間に響くということは、

我々によく分かるということは

それだけ人間的なんです。

我々によくわかる

というんじゃなしに、

我々がなんか知らされる

というような意味ね。

そこに触れて、

未だかつて知らなかったような

私を知らされる

というようなときに、

そういう意味の智なんです、

愛というのは。」

 

それから講義は

智ということについて

話が展開していきます。

 

 

 

 

 

 

 

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楽:欲:愛

2021-07-29 20:20:44 | 十地経

同じ漢字でも仏教では

独特の解釈と読み方をする

場合があります

この「楽」という字ですが

普通にはラクまたはガクと

読みますが

この字に信が付くと「ギョウ」

というように読み

意味もねがう、というか欲と

意味合いも出てきます

ですからお経では

「信楽」と書いて「シンギョウ」

というように読みます

地名ではシガラキと読みますが

 

講義では

第七地の中に五種の相の差別が

ある、ということでその第一が

無作行を楽しむことを対治する

ということが出てきて

その楽しむということについて

 

「無作行を楽しむという意味と

楽う(ねがう)という意味が

あります

楽(らく)という発音と

楽(ぎょう)という発音と

楽(ぎょう)と発音すれば、

楽う(ねがう)といいます

楽(らく)といえば楽しむという

 

信楽欲生

(しんぎょうよくしょう)と

いう具合に、楽という字がある

楽と欲という字は同じことで

欲というのは、

願うことを欲というのであって

 

ここでも

無作の行を楽しむと、

あるいは楽う(願う)と

その楽うということが

一つの過失になるんです

その楽というのはやっぱり、

愛というような意味が

ここにあるんです

仏法を愛楽するという

その愛というのは、

執着するという意味がある

 

仏教の古典では

愛という字は、やっぱり貪愛と

いいまして

煩悩の心理になるわけです。

 

愛という言葉も非常に広い意味で

ただ感性的な意味の、

ばっかりが愛じゃない

やっぱり理性的なものに対しても

愛という字が使われます

Eros というような字もあります

仏教でも Eros というような

場合は法愛といいまして

法に対する愛

恋愛という場合は

人に対する愛もありますが

法に対する愛もある」

 

というように出てきます

それからよく話されていたのは

フィロソフィーという哲学と

訳されますが

この言葉も元は愛智といって

智慧を愛する

ということがフィロソフィーの

本来の意味だ

ということです。

 

また「愛」という言葉が

広い意味を持っているのは

辞書をみて見ると

「愛」という言葉も

サンスクリットの二つの言葉

から出来ているということです

 

一つはトリシュナーの訳で

ものを貪り執着することで、

あたかも渇いた者が水を求めて

止まないように

欲望の満足を強く求める心

ですから渇愛とも訳されます

もう一つはプレーマの訳で

これには汚れた愛と清らかな愛

の二つがあるといいます

汚れた愛は貪で

清らかな愛は信であるといいます

これを欲愛と法愛といいます

この中で法愛は

一切衆生を慈愛する慈悲心

であるといいます

 

こういうようにインドの言葉の

二つの違いを一字で表現した

ところに愛という言葉が

広い内容を含んでいるのでしょう

 

愛別離苦の愛もあれば

愛染明王という仏さまもあり

また、西洋では

LOVE というと最高の価値観

のような意味も持っています

哲学的には

Eros という愛もあれば

agape という神を愛する

ということがあります

 

が、講義では

「どんな神であっても、

愛ということには一つの

着するという意味があるでしょう

真理でも愛着されたら

やっぱり人間的なものになる」

というように述べておららます

 

講義ではここから

さらに「愛」についての話が

展開していくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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以我功徳力・如来加持力・及以法界力

2021-07-28 19:06:01 | 住職の活動日記

連日、オリンピックの応援で

テレビの前に張り付いて

机に座る暇さえありません

日本人選手の活躍は目覚しく

連日の金メダルラッシュ

応援にも手に力がこもります

 

見ていて思うのは

スポーツの種目によって

その鍛えられた体つきが違う

ということです

同じ人間でもこうも違うのかと

驚きます

何もしないぐうだらな体つきとは

まるで違います

 

その応援している時に思ったのは

お経に出てくる

「三力偈」サンリキゲという言葉です

「以我功徳力」イガクドクリキ

「如来加持力」ニョライカジリキ

「及以法界力」ギュウイホウカイリキ

の三つです

この言葉は法要の中では

必ずといっていいほど

唱えられます

 

自分の功徳の力(以我功徳力)

練習に励み努力してきた

自分の功徳の力でしょう

その力がまず第一です

その力によって初めて

次の

仏さまの加護の力(如来加持力)

そういうものが加わり

これは、よく分かりませんが

自分がケガもせず健康で試合に

臨めるということも

こういう仏さまの力でしょう

それから

回りからの応援の力(法界力)

一つ一つの力はさほどないかも

しれませんが

あらゆるところで応援してくれる

力が励みになり

それが自分の身に集まってくる

 

結果を残した選手は

指導してくれた方に抱きつき

まずお礼を述べておられます

そういうことも方向を示してくれた

如来加持力のような力でしょう

そして、

今回は無観客でしたが

自分を支えてくれた多くの人たち

そういう応援を一身に身に受けて

頑張られた

それが、法界力というものでしょう

 

物事が成就するには

この「三力」が揃わないと

出来ないような気がします

反対に

この三力を身に成就すると

物事は成り立つのでしょう

 

まあ、お経の意味はもっと

厳密で崇高なものかもしれません

が、身近に考えると

こういうことが言えるのでは

ないかと思います

 

どの競技を見ても

今まで積み重ねてこられた

努力の成果ではないかと

その涙を見ると

計り知れないご苦労を

感じずにはいられません

 

精一杯の力を出し切っておられる

姿は清々しいものです

頑張ってください

ささやかなが

しっかり応援しています。

 

 

 

 

 

 

 

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お浄土からの心地好い風

2021-07-25 20:53:23 | 住職の活動日記

連日の猛暑

ちょっと歩いただけで

汗が噴き出してくる

クーラーの効いている部屋は

汗が出た体には冷たすぎる

ということで

いつものお寺の喫茶店は止めて

本堂にでも上がって

まずお参りしてから、と

とても大きな本堂

何百畳あるのだろうか

一歩入ると

心地好い風が吹いている

クーラーもないのに

汗が引いていく

何と気持ちの良いところだろう

 

知ってか知らずか縁側には

若い人たちのグループが

この涼しさをたのしいでいる

様子です

本堂内には数人の参拝する人

観光できて足早に立ち去る人

 

本堂内を見ていると

マイクの準備をしておられる様子

これから何か始まるのだろうか

それにしては

あまりにも人が少ない

すると

講師の方の名前を書いた看板が

立てられた

聞いたことのある名前

そうだ、大学の先輩です

まあ、これも何かのご縁

聞いていこうと

本堂に陣取り座っていると

 

爺様らしい講師の方が

見えられた

マスクをしているので

顔を見ても思い出せない

しかし、

声は年を取らないようで

声を聞いていると

昔の面影が浮かんでくる

 

その当時は私は修行時代

その先輩はたぶんいいお寺の

後継ぎさんだったのでしょう

身なりも持ち物も気品があった

時たま講義で一緒になった

それくらいの知り合いなのですが

何かしらよく記憶に残っている

 

後で、名乗ろうかと

思っていたのですが

ふと思うとどちらもそれなりの

爺いさまになっている

いまさらお会いしても

名乗ることもないのでは

マスクごしに昔の顔を

思い浮かべて別れることに

したのです

 

今お寺参りをすると

まず、駐車料を取られ

それから拝観料をだして

数件のお寺参りをすると

それなりの金額になります

ところがこのお寺

広いし駐車料もいらないし

本堂参拝も自由です

そして

人がいようがいまいが

法話がはじまる

それにこのなんとも心地よい

風が吹く

 

こういうお寺のあり方も

いいのではないかと

また本来のお寺のあり方かも

考えてみると

拝観料も取らず駐車料もいらない

それだけの経済力をもったお寺

ということはある面

羨ましい気もする

 

三帰依文のプリントが配られ

一諸に唱えてください、と…

この文を読みながら

これが本当のお寺なのだろうか

考えてしまう

この中に仏教のあり方が

示されているように思います

 

本堂で一休みして

お浄土からの心地好い風を頂いて

思いがけなくも

法話まで聞いて

それも昔の先輩の方

とても落ち着いた時を

過ごせたようで

つくずくお寺とはこうあるべき

ではないかと思っていました。

 

 

 

 

 

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新しくなった大船鉾の金龍さま

2021-07-24 20:32:33 | 住職の活動日記

祇園祭もまだまだ続いています

後祭りが始まっています

歩いてみると片付けの最中の鉾

飾られている鉾と

見ることができます

今日のお目当ては新しくなった

金龍さまの大船鉾です

 

 

正面に据えられています

 

 

大船鉾というくらいですから

船の形をしています

さらに他の鉾と違うところは

木造船の技術を使い

組み立てられています

 

 

グッと睨みをきかし

なんとも勇壮なお姿です

 

 

天気も良かったせいか

神々しく光り輝いています

 

 

今回新たに白木の上に

金箔が施され

もとのお姿に戻った

ということです

 

大船鉾は1864年の禁門の変で

焼失し

2014年に復興したのですが

龍さまは白木のままで

今年やっと金箔が貼られ

本当のお姿を現された

ということなのです

 

 

後ろの姿は本物の船のように

舵まであります

 

 

この鉾に上がるには

二階の窓から差し伸べている

渡しのようなものを通て

入るのです

 

 

大船鉾の粽も頂きました

 

 

こういう袋に入っています

 

途中には解体が始まっている

 

 

南観音山もありました

 

 

丁寧に一つ一つ元の箱へ

収められていきます

 

 

こういう立派な飾りも

これから降ろされるようです

 

 

向こうにはこれから解体という

北山観音が見えます

 

 

まだ立派なお姿がみえます

 

 

柱の木には鉾の名前と年月日が

彫ってあります

こういうところにも歴史を感じます

 

 

あまり人もいなくて

ゆっくり見ることが出来ます

 

 

下では若い衆が集まって

段取りよく進んでいます

 

 

あの高いところにも上って

一番の芯を取り外しにかかって

おられるようです。

 

コロナ禍ということもあり

例年になく静かな祇園祭のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、教育の危機なのか?

2021-07-23 19:14:48 | 住職の活動日記

日本の学力も世界に比べると

段々と落ちている

ということを耳にします

世界の大学への進学の減ってきて

全体からみると取り残されている

ようにも見受けられます

 

聞くところによると

日本の教育は100年前と

ほぼ同じということです

以前は、均一化された人間を

作り出すということで

押しなべて平均化した人を

作り上げるには便利だったのかも

しれません

今日のように個性が重要視される

時にはこの平均化ということは

個が育たなくなり

色々な弊害も出てきます

 

ほんの百年前、江戸時代は

歩いてどこへでも行く

それがわずか100年で

車があり飛行機があり

地球上どこへでも行ける

という時代になってきました

石炭から石油になりこれからは

電気の時代です

そのように科学や社会は変化

しているのに教育だけは

旧態依然として

100年前の教育をしている

ということです

 

先生が教えることを暗記して

設問に答える

それが立派な人優等生という

ことになっています

自分で考え問いを発し

答えを見いだしていくという

教育は少ないようです

 

ある教え方を見ました

自然の中でいろいろの体験をさせ

その中でどのように感じたか

そして

どのような疑問が起こったのか

それを解決するのは

どのようにしたらいいのか

そういう問いかけです

そして

人とモノにしても

その関わり方には

表面的なものでなく

接しているのは氷山の一角で

その見えない水の下にある部分

まで考えさせる

ご飯一粒にしても

それが米となって口に入るには

どれだけたくさんの関係性が

あるのかということを

考えさせる

 

ですから、出てくる答えは

人それぞれ

一つとして同じ答えはないのです

それでいて間違いではなく

全部が正解という

それぞれが問いを学び

そして答えを導き出す

というものです.

 

これからはそういうような

教育方法が求められるような

気がします

 

何だか、仏道修行のようでもあり

それぞれがそれぞれの問いを発し

自分が頷くものを見出していく

といっても

勝手に思い思いが好きなことを

するというのではなく

そこには

氷山の根底にあるものを

教えていくということが

あるようです

 

教育方法はそれぞれあると

思いますが

今一度

古典に立ち返って

先人たちはどのような教育を

目指したのか

そこには

こういう人になって欲しいという

人間像があったはずです

 

弘法大師空海は

日本最初の私学を作られました

その時の願文に

「物の興廃は必ず人に由る

人の昇沈は定めて道にあり」

ということを述べられています

その道(仏道)ということで

(人が本当の人になっていく)

如何に教育が大切か

ということで最初の私学を

建立されたのです

 

同時代に比叡山の最澄は

山家学生式で

「国宝とは何物ぞ

 一隅を照らす

 これを国宝と名く」

ということを述べておられ

それを実践されたのです

 

平安の時代には

こういうはっきりとした

人間像があったのです

それであのような平安な時代が

続いたのでしょう

 

教育を考えるには

どのような人間を作るのかという

人間像が大切なように思います

が、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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頑張れ檸檬 クマモンも応援してます

2021-07-22 19:17:52 | 住職の活動日記

通販で買った檸檬の木

送られてくるくらいですから

小さな苗木でした

最初の一年は育つかどうか

不安でした

何とか一年過ぎて

新しい芽も出てきて

幹もだんだん太くなり

今年には小さな果実らしき

ものが付きました

 

まあどうなるか不安で

すぐ落ちてしまうのではないかと

半分あきらめていたのですが

それで写真を撮ることもせず

そのままほったらかしで

見ていたのですが

その実がだんだん

大きくなってきている

 

 

小さめのものが一つ

それから

 

 

ちょっと大きめのが一つ

二つの檸檬が大きく育っています

 

 

そばでクマモンも応援しています

なんだか、果実が出来るのは

育てた中では初めてで

園芸のこともよくわからないので

ただ水を遣るくらいで

花が咲けば儲けもの

というくらいのええ加減な

育て方なのです

 

 

クマモンの応援よろしく

頂けるほどに大きくなればと

願っています

今頃、肥料をやっても

手遅れかもしれませんが

一回り鉢も大きくしたので

その時にやったのが

ただ一回だけの肥やしです

 

本来

檸檬は酸っぱいものですから

酸っぱくて当然と

ただ香りを楽しめたら

しめたものと思っております

もう少し大きくなったら

レモンサワーでも作ってみようと

楽しみにしています。

 

 

 

 

 

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無間(むけん)

2021-07-21 21:28:30 | 十地経

無間、この言葉も

良いも悪いも両方の意味で

出てきます

無間地獄、という地獄もあります

間が無い、休む間がない

一息する間もないくらい

次から次に苦しみが襲ってくる

ということで無間地獄と

いうのでしょう

 

また、修行の段階で

無間道(むけんどう)ということ

があります

これには四道(しどう)といって

加行道(けぎょうどう)

無間道(むけんどう)

解脱道(げだつどう)

勝進道(しょうしんどう)

という四つの修行の道です

 

加行ということは

私たちが最初に臨む修行が

四度加行シドケギョウ

ということがあります

加行ということは努力という

ことですけど

修行はすべてにおいて努力ですが

十地経の場合は

正しく七地を開く努力を加行と

いっています

 

無間ということで

講義のんかでは実に面白い

たとえで話されています

「小学校の意味は中学行へ行って

初めて分かる

小学校の意味は小学校では

わからん

中学校へ行って初めて小学校の

意味が分かる

そういうように

高等学校というものの意味が

分かるのは大学なんです

だから途中、

小学校でやめると

小学校という意味もなくなる

小学校だけで教育をやめれば

小学校という意味も

消えてしまう」

 

というような話ですが

思い当たります

高校へ行ってみると

中学校の時、数学をもっと

勉強しておけばよかった

ということがあります

卒業してみて初めて

今までのやって来たことが

悔やまれるのです

 

そういうように

勉強にしても連続している

間が無い、

幼稚園から大学まで繋がっている

ということです

 

講義はさらに続けて

「仏教なんかの話は一生だ

一生でもまだ足らん

一生でできなければ次の生

次の生でできなければ

その次の生といって

とにかく人間に最後まで絶望せん

あいつはあかん奴だ

と言わんです

あかん奴だと言った時は

言った方があかんのです

お前は駄目だといったら

言った仏道自身も駄目だ

人を救わんような仏道なら

意味なさん

 

もう先生は完成しとると

だから今度は生徒を教える

ということはないのであって

生徒を育てるということが

先生が先生になる過程なんです

生徒を育てんのに先生がある

というのはおかしいじゃないか」

 

というように続くのですが

立派だから育てる

というものではなく

育てるということは

同時のように思います

お互いが育っていく

お互いがいいものを引き出し合う

先生も生徒も同時ですね

 

そういうところに

無間ということが言えるのでは

ないかとおもいます

講義では

「無間に障を断じて真理を証する

障を転じて精神生活が発展してくる

その道程を加行、無間、解脱、勝進

という言葉で表しているのでしょう」

というように続いています。

 

 

 

 

 

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無上甚深微妙法

2021-07-20 20:00:24 | 住職の活動日記

お経を読む時に一番最初に唱える

句が「開経偈」といいます

その最初の一句が

「無上甚深微妙法」という

言葉になります

ところが今頃になって新たな発見

というか、文字の誤りに

気がついたのです

 

 

もうかれこれ何十年も

使っている経本です

補修しながら、火災の折には

消防の水にかかり

厚さも膨らみ今やもとには

戻りません

いっそのこと買い替えようかと

思ったのですが愛着もあり

使い慣れたものは

それなりに手に馴染む物です

 

その一句の言葉が、経本には

「無常」と書いてあるのです

この無常は常が無いということで

諸行無常の「無常」です

 

ところが

無上甚深微妙法のときは

上が無い、比べることが出来ない

という意味で「無上」と

なるのです

 

面白いことに今の今まで

何十年も目を通しているのに

その違いに気がつかなかった

もう、毎日経本を持たなくなって

こういうことに気がつくとは

見ているようで見えていなかった

分り切ったこととして

目が通り過ごしていたのでしょう

 

そうやって

あらためて

この一句を読んでみると

実に意味が深い内容を含んでいます

仏教といえばこの開経偈に

尽きるのではないかと

思えるほどです

 

「無上甚深微妙法

 百千萬劫難遭遇

 我今見聞得受持

 願解如来真実義」

無上甚深微妙の法は

百千万劫にも遭い遇うこと難し

我今見聞し受持することを得たり

願わくば如来の真実義を

解し奉らん

 

という読み下しになります

 

この上無い(比べようもない)

甚だ深くて微かで妙なる法は

百千萬劫にも遭い遇うことが

出来ない

「劫」コウというのは

非常に長い時間

1劫が4里四方の石の上に

百年に一回天女が降りてきて

舞を舞う、そのはごろもで

磨れて、四里四方の石がなくなる

のを1劫というのです

 

そういう偶然の絶妙のチャンスに

私たちは生まれている

ということなのです

もし、お釈迦さまの前に生まれて

いたら、その教えを

聞くことが出来ない

また、牛や馬に生まれていても

教えを聞くことが出来ない

そういう意味が

難遭遇ということでしょう

 

「有り難う」という言葉も

有ること難し

百千萬劫難遭遇ということから

すると

教えに出遭うということは

有ること難しです

有りうべからざることに

出遭ったというのです

それで、有り難う、という

感動の言葉でしょう

 

そういう教えに

我今、わたしは今

よく見て聞くことが出来た

それを受持して

自分のものとして身につける

ことができる

 

願わくば、如来の真実の義

如来の本当の教えを

解し奉らん、

ここらやっとスタートできる

初めがあるということです

 

『十地経』の初歓喜地に

当たる言葉でしょう

私たちは生まれた時が

始まりのように思いますが

精神生活という面からみると

この開経偈が分かった

ということが始まりになります

 

なかなか、

始まりが見つからないのです

どうどう巡りで

一向にまず一歩が出ない

その内その内と思っている間に

気がつけば

そろそろ、棺おけに一歩が

入りそうな時になっています。

 

何気なく、

すらすらと読んでいますが

今一度意味を考えてみるのも

大事なことでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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私的、止観均等

2021-07-19 20:36:51 | 十地経

止観均等、止と観が均等する

ということです

なかなかどちらかに偏って

止と観とが均等するということ

なかなか等しくならない

 

講義の中で

西田幾多郎さんの日記を紹介

しておられる

「西田先生、若い頃よく日記を

書いて色々反省しておられる。

日記だから嘘は書いていない。

それに

今日は菓子を食い過ぎた

というのがよく出とる。

面白いね、これは。

僕らも身に覚えがある。

それから

本を読み過ぎたというのがある

つまり、止が勝つ。

本読むのは止だ。

そして思索しないのは

観がないんだ。

本を読み過ぎて、

一向自分で考えるという

努力がなかった

という反省をよくしとられる。

つまり多読の過失だ。」

 

ということを語っておられます

それとは別に

このことを読みながら

ふと思ったのは

自分のことで、

毛虫退治のことなんですが

止観ということとは

当てはまらないかもしれませんが

 

松の木に付いた虫

木の下を見ると緑色の糞が

回りに散らばっている

虫がいるに違いないと

松の木を見るのですが

虫を発見できない

じっと腰を据えて見ていると

いました、いました

今まで見えてなかった虫が

見えてきたのです

 

通り一遍見たぐらいでは

見つからなかった虫が

じっと見ていると

目が緑の葉の色に慣れてきた

のでしょうか

不思議なくらい

ここにも、あそこにも

松の葉っぱと同化した

緑色の細長い松葉の様な虫が

見えてくるのです

 

これも止観でしょうか

じっと止まって観ると

今まで見えていなかった虫が

見えてくる

じっと止まって集中する

ということでは

止観に似たものがあるかも

しれませんが

自分自身を見る

ということにおいては

止観と違うかもしれません

 

やはり止観ということは

他を見ることもさることながら

自分自身を見る

ということが本来の意味でしょう

 

講義ではさらに

「人間にとって

自己というものは

自己を考えるということは

できんならほっとく

ということのできないものだ。

明日に延ばすという、

外の幾何学の真理は

分からなければ

明日に延ばすより仕方がない。

だけど

明日に延ばせんというものが

自分ですわね。」

 

こういう問題が

アルティメイト・コンサーン

といわれることでしょう

または

第一義諦ともいわれる

ことだと思います

本来は一番先に考えなければ

いけない問題ですが

食うとか生活するとか

経済問題が第一義になって

しまっているようです。

 

遠いようですが

本来的には一番身近な問題

なのです

ですから、宗教問題ということは

若い時に植え付けなければ

いけないことですが

退職して何もすることがないから

そろそろお寺参りでもして

お参りする風を

してみたくなりますが

それでは遅きに失する

もうボケかかった頭には

宗教問題を考えることは

絶望的かもしれません

 

しかしながら

志を起こすに早い遅いはない

ともいいますから

菩提の方向を向くには

遅いということはないのかも

知れません

けど、できれば

若い魂に火をつける

ということは

とても大切なことです。

 

 

 

 

 

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