熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
軒下にアシナガバチが巣を作り、
一端は駆除しようとしたのですが、
調べて見ると、
アシナガ蜂も害虫を食べる益虫
ということがわかり、
虫の世界に興味を持ったのです。
まあ、それ以前から昆虫には
興味があったのですが…
ということもあり、
京都大学総合博物館で、
「虫を知りつくす」という展示会へ
出かけました。
子どもさん方の夏の宿題には
もってこいの題材かも知れません。
京都の大学に入ったものの
京都大学へは行ったことがありません。
有名な時計台を眺めながら
総合博物館へ、
これは白アリの世界を見ることが
出来るケースです。
生きた白アリが中でごそごそ動いています。
ちょっと大きめの白アリが女王アリ
でしょうか?
蜂はアリの仲間、
白アリはゴキブリの仲間
ということのようです。
一匹で生きて行く昆虫もあれば
こうやって社会を築いて
共同して生きて行く虫もいます。
調べて行くと
昆虫の世界は奥深い
人間も見習う点も多々あるのでは?
昆虫も4億年の歴史があり
環境に応じて姿を変え順応しながら
生き続けているのです。
「食べられないために作られた毒を
食べられないために、食べる」
毒を消化して、自分が毒化して
その毒で自分を守る、
生きて行く術(すべ)はなんとも
たくましいかぎりです。
ふと…、見てて思うのですが
もし人類がほろんだとしても
生き残るのは昆虫のような気もします。
人類も本当の智慧を出さないと
自分の浅はかなチエによって
自分を滅ぼしてしまうのでは
ないでしょうか?
昆虫の世界を見ていると
共存するということを学びます。
とても面白い展示会です
ぜひ足を運ばれたら
新しい発見があるかもしれません。
帰りがけに気になる建物発見!!
周りの建物とは一線違う風格を
放っています。
「尊攘堂」(そんじょうどう)という
石碑が立っています。
もともとは吉田松陰が勤王の志士を
祀るために建てたものですが、
その後、品川弥平によって
京都の高倉錦小路に建てられ、
1903年(明治36年)
京都大学に移されたのが
この建物ということです。
京都大学も歩いて見たら
いろいろ面白いものが発見できる
かもしれません。
今日日曜というのに構内は
大学生であふれ
図書館も勉強している学生で
一杯でした。
夏休み返上で勉強されている姿は
頼もしいかぎりです。
29日は法事が2件
一つは親戚の法事を勤め
普通は
亡くなった人の供養をすることを
法事というのですが、
本当は、
法事とは「法の事」と書きますから
仏法について語る、
人生のことを考える
そういう勉強会を法事と、
でも、
亡くなった人を通して
死を思う
自分の命のことを思う
そういう意味ではどちらも
大切な務めです。
御前午後と二つの法事を勤め
ちょっと心豊かな気分で
帰り支度にかかったところ、
一点にわかに掻き曇り
急激な激しいにわか雨
この暑さで天候が不安定に
なっているのでしょう。
遠くの空はまだ明るい、
熊本駅に着くと、
「がんばるばい 熊本」の
タスキをかけた「くまモン」がお出迎え
よく見ると
防災ずきんを被っているのですね。
そのお向かいの「香梅」のお店へ
まだ全商品はそろっていない様子、
でも、
「陣太鼓」を待っている友のために
お土産をもとめ、
新幹線に乗り込む、
まだ雨は降っているものの
遠くにかすむ「金峰山」を眺めて、
熊本をあとにします。
熊本を出て一つトンネルを抜けると
もうそこには、
青空が広がっていました。
なつかしい友と逢い
語り、舌鼓も打ちながら
懐かしい人の法事も務め
お不動さまに感謝の護摩を焚き
語りきれない充実した日々を過ごし
その余韻に浸りながら
新幹線のシートに身を埋め
独り反省会をして3時間という時間
豊かに送ることができました。
お不動さまのお護摩の前に
教化用のDVD作成の撮影がある
ということで、
もう3時ころか目が覚めて
内心今や遅しと待ち構えていたのです。
朝日を撮るということで
撮影スタッフは4時過ぎから
待機していたようです。
ちょっとだけ、スターの気分??
「よーい、スタート!」
「はい、カット!」
と監督さんの声が飛びます。
「カメラを設置し直すので、
待機してください。」
なかなか、ワンカット撮るのに
時間がかかります。
歩くだけの所作、
法螺貝の音撮り
お経の声をもとります。
一つの作品を作るには
本当に時間がかかり、それに
忍耐も大切
右側の監督さんと綿密な打ち合わせ
ふと見せて頂いたのですが、
時間の流れは「香盤」と書いてあります。
タイムテーブルではないのですね、
最近の若い方でも
昔ながらの「香盤表」というものを
使っておられます。
監督さん、
「もしや、これってお寺からですか?」
そうですね、
昔は時間を計る道具がなかったので
お線香がその役目をしたようです。
昔に遊郭とかでも
女郎さんの時間は線香で計った
とか?
お線香もいろいろの使われ方を
したようです。
朝日は生憎、曇り空で、残念!
しかし、すぐに雲も晴れ
強烈な日差しが…
今日も30度を超えるのでしょう。
サルスベリは暑さの陽を楽しむかのように
美しく色を輝かせています。
昼からは「ドローン」を飛ばし空撮
菩提樹苑の全景を撮るそうです。
映されるよりも、
ドローンの飛ぶ姿が見たかった!
いい画が撮れることを願っています。
といって帰ってきたら、
知り合いから、
「本蔵院がポケモンGOのストアに
なっているよ!」
とラインが入りました。
ポケモンGOを知らない私には
なんのことやら??
お寺の中までポケモンを探しに
大勢来られても困るし、
なにかの縁で知られるのもいいような?
なんとも…
複雑なことですね?!
「如」 お経の中にもよく出てきます。
仏教の中でも特に大切な言葉、
しかし、
どういうわけか?
大切な言葉には「オンナヘン」が
ついています。
「如」とか「妙」とか、
また、女の上に亡くなるがつくと
「妄」となって、いつわりとかうそ
という意味になります。
女に口と書いて「如」
女が少ないと書いて「妙」
女が亡くなって「妄」
なんだかミョウな気もしますが?
「如」はお経の中では
「如如真如の法雨は…」
「真如法性」とか
「如実知自身」というように
また、
仏さまのことを如来ともいいます。
そして、如去とも、
孫悟空が持っている棒は
「如意棒」と、
お地蔵さまとか手の上に
乗せている玉は「如意宝珠」と
辞書には「如」とは、
ごとく。おなじ。らしく。
などの意味が出てきます。
先日のテレビで、
柔道の松本薫選手、
なかなかいいものをもっておられる。
試合が始まる前には男モードに
動作、茶碗の持ち方ひとつとっても
男のようなしぐさに、
そんな中での一言、
「私の持っている本物の柔道、
偽物はどこまでいっても偽物」
偽物の練習をどこまでしても
本物にはなれない。
なかなかいい言葉です。
よく説明はできませんが、
この「本物の柔道」ということが
「如」ということを
いい表しているようです。
修行も到達点からの出発といいます
一面には
段々に修行してということも
いえるのですが、
その修行する心においては
すでに仏の心を自分自身に
頂いているのです。
その仏の心でなければ
どんなに修行しても
それは偽物の修行を
積み重ねるだけで
本物にはなれないのです。
女に少ないと書いて「妙」
もともとの意味はくわしいとか、
美しいということがあるようです。
かすか。たえなる。言い表せない。
という意味になるようです。
仏教では「妙法」とか「微妙」とか
お経では「妙法蓮華経」と
かすかでたえなる教え
ということでしょう。
昔の人は面白いことを言ったもので、
「法華経は寝乱れ髪にさもにたり、
結うに(言う)に結われず(言われず)
梳く(説く)に梳かれず(説かれず)」
と、かけていっています。
仏さまの悟りの境地は
「離言の法性」ともいわれるように、
筆舌に尽くしがたい、
言葉をもってしても表現できない
ということをいうのでしょう。
あの、「アナ雪」のうたのように
「Let it go」ということも
(私にはレリゴーと聞こえるのですが?)
「ありにまま」と訳されますが
一面には、
「本当の自分」ということで、
「如」ということにあたるのでは
と思うのですが?
よく師匠から、
「そのままでいいのですよ!」
といわれ、
「ああ、このままでいいのですね」
といったら、
「そうじゃない。
このままではない、
そのままでいいのです」
といわれ、
なんだかとんち問答のように
思えるのですが、
このまま、そのまま、にしても
本当に微妙(ビミョウ)な
ニュアンスです。
やっていることは同じでも
本当に言うに言われない
ものがあるようです。
お坊さんが修行する実践項目に
三十七道品、三十七菩提分法
ということがあります。
お釈迦さまが定められた
修行の方法です。
その中に、「五力」という項目が
出てきます。
五力とは
信力・勤力・念力・定力・慧力
の五つです。
この五つの力は自分の悪を破る
ということに力がある
ということです。
簡単には、
信力とは信仰の力、
勤力とは努力する力
念力とは憶念不忘というように
聞いたことを深く心におもって
忘れないということ、
定力とは禅定に入り
心が定まったことから出てくる
力です。
最後の慧力は智慧の力ということです。
この力ということは
他から持ってくるものではなく
本来自分自身に
備わっているものです。
しかし、備わっていても
そのままでは眠った状態です。
やはり、それを見出すには
努力するということが必要です。
努力して作ったということでもなく
あったものを再確認するという
本来与えられていた能力を
もう一度見直してくるということです。
しかし、おもしろいもので
力を得た人は賜ったということを
知るのではないでしょうか。
自分が得たのではない
得て見ればそれは賜ったものだと
そういうことが言えると思います。
自分の努力で勝ち取るんですが
得て見ればそれは賜ったものだと
謙虚に受け取れるのでは、
自分が努力で勝ち取ったと
自分の努力で作り上げたと
そういっている間は
本当の力は出てこないのでは
ないでしょうか。
だから、力というのは身に付いた
ということでしょう。
「薫習」(くんじゅう)という言葉が
唯識の方でいわれます。
香りが身にしみて行く、
バラの花にハンカチを被せると
その香りはハンカチに移っている
そのように、良いことにしろ
悪いことでも、そのような環境にいると
自然に身に染まって行くものです。
力を勝ち取るには
努力が必要ですが、
努力した、といっている間は
身に染まっていないのでしょう。
その努力したことも
自然に忘れるように身に付いてこそ
本当の力になってくるのです。
力ということが自由自在に
発揮できるのは、
お経の中では「習い性になる」と
出てきますが、
もうそれが自然と習慣というか
習性になるまで身に付いてこそ
本当の力というものでしょう。
風習ということが行儀になり、
されが作法という、
作法が倫理になって初めて
真の力になるのではないかと
思います。
力という概念も
暴力のようなパワーもあれば
その力がハラスメントにも
なったりもしますが、
本来自分の中に潜んでいて
それが自分を超えるような
そして自分を見直してくる
そういう力もあるのです。
しかし、あるのですけど
そのままではそれこそ力を出せない
そこには努力が肝心要になってくる
ということがあるようです。
力というと、
権力とか金の力とか
はたまた暴力とかありますが、
経典の中にもよく出てきます。
六波羅蜜という修行、
布施・持戒・忍辱・精進・禅定
そして智慧と言う徳目があり
それに四つ加えて十波羅蜜
ということが言われます。
第七番目が方便波羅蜜
八番目が願波羅蜜
九番目が力波羅蜜
十番目が智波羅蜜というように
九番目に「力波羅蜜」と
力ということがでてきます。
また、大悲力とか方便智力とか
悲の力、智慧の力というように
これは、
強いというようなことではなしに
実践ということではないかと
思うのですが、
実践を通して出てくる力、
実践をくぐって力になってくる
そういう力だと、
力というものは
ただあるものではないでしょう。
寝転んでいて
あるというものではなく、
(普通でいう権威とか権力
というものはそうかもしれませんが)
実践して勝ち取っていくものでしょう。
行によって勝ち取られたもの
「修行方便智力」
というように、修行によって
身につけて行く力です。
ただ与えられ取るものではない、
行によって勝ち取るところに
力というものがあるのです。
今の住職も住職ということを
勝ち取ったのでしょう。
彼なりの修行があって
それは因位の修行という
目に見えない影での修行が
あったのです。
だからこそ、
私としてもいやいや渡すのではなく
満足して渡すことができる
前の住職を満足させて
今の住職という立場を
勝ち取ったのです。
今頑張っている当院の
「宗良君」
見ていると、ひとつひとつ
与えられたことを自分のものにして
自分の立場を勝ち取っている
そのように見えます。
誰でもそうです。
与えられたことをどう料理するかは
自分次第、
そして勝ち取らなければ
それは自分のものにはなりません。
それが修行といえるのでしょう。
修行は修業とも書きます。
修業は花嫁修業とかあるように
学問や芸事などを習うことです。
修行は、
教えを身にたもって修め習い
実践すること
仏教では悟りを求める心を発し
達成するために修行する。
と仏教辞典にはあります。
そしてその修行の長さが
一つの例として、
声聞は三生六十劫とあります。
三度生れ変り、六十劫も修行する。
一劫は四里四方の立方体の石に
百年に一度天女が舞い降り
踊りを踊って、その天女の衣で
石がすり減って、無くなった、のを
一劫というのです。
軽く修行といっても
そんな半端なものではなく、
自分一代の修行なんて
簡単なものではなく、
人類をかけての修行のようなものです。
そんな途方もない修行
自分がしなくても、ではなく、
それでは、
「いつやる、
今でしょう!
誰かがやる、
自分がやる!」
ということなのです。
与えられたことは
失くしてしまいます。
自分で勝ち取ったものは
身に付いて自分の力となる
ということです。
見るからに涼しそうな花が
はいりました。
面白い構図です。
作るのは、ちょっと工作のようで
結束バンドで結んだりと
難しさもあったようです。
意外なところに貝殻があったり、
一見するとばらばらのようでもあり、
その空いた空間が涼しさを醸し出したり
如何にも夏向きの花!
ここのところ連日、30度越え
この暑さには
ピッタリの花のようでもあります。
足もとの葉の上にはビー玉
その葉の下に隠れて
貝殻があったりと、
でんでん虫も青い枝の上を
歩いていたり、
まあ、楽しい花が活けられました。
上からの姿も Good
色合いもいいですね!
緑に青に黄色に白
まさに夏の色にピッタリのようです。
夏場は日持ちがしませんが
しばし、涼を頂いています。
小さなトンボがとまっている、
まだ子供のトンボか?
風が吹く中、花の揺れに乗じて
その動きを楽しんでいるよう。
何とかアップで撮りたいと
カメラを望遠にしてみても
どうもうまくいかない??
全部ピントが合わない!
おかしなこともあるものです。
トンボは、
昔からトンボに乗ってご先祖さまが
帰っていらっしゃるという
その生態はそうではないのかも
しれないが、
幼虫はヤゴといい、ボウフラとか
餌が少ないと共食いして
強いものが生き残る。
成虫になると六本の足を輪っかにして
蚊とか飛んでいる虫を捕食する、
という、結構、獰猛な虫なのです。
しかし、お盆の頃無数に飛んでいる
トンボを見ると
なんとも懐かしく、トンボに乗って
ご先祖さまがいらっしゃる
そのような気持ちになるものです。
住職の父が亡くなった時も
大きなトンボがやって来て
本堂から出て行こうとしない
常夜灯に止まったり、
本堂の内陣を行ったり来たり
玄関の扉を開けても
天井に止まりこちらを見ているよう
ほんとうに不思議な光景です。
昨日、母の好きだった
「スイフヨウ」を眺めていた
というわけでもないと思いますが
早速やって来た
このトンボ、
アップで撮りたいと
別のカメラを取に行った隙に
姿を消してしまった。
その付近にいるのかと捜したが
本当にいたのかと思うくらい
気配まで消してしまった。
まあ、なんとも不思議なトンボとの
出会いでした。
今日も暑い一日でした!!
日が沈みかけるころ
風も涼しくなり
今日の一日無事に過ぎたことを
しみじみ思っていると、
母の好きだった「スイフヨウ」の花が
とても身近に迫ってきます。
朝咲いて、夕方にはしぼんでしまう
この花も今日の暑さに耐え
これからこの花の後じまいでしょうか?
酔ったように赤くなるところから
この名前「酔芙蓉」ということを
母が教えてくれました。
スイフヨウも「水芙蓉」と書くと
ハスの花のことだそうです。
一日の命ながら
もうその下には次々と蕾が
準備をしているようです。
キキョウの苗も買い求め、
わが家でも植えてみました。
強い花で根はごぼうのようになり
お隣の韓国では食用もあるとか、
そして「トラジ」というのだそうです。
西京極幼稚園のお遊戯会の
「トラジの花」の歌が耳に出てくるようです。
蕾の多いキキョウを求めましたので
次々と花を楽しめそうです。
なんだか、…
思い出深い花に接し
ちょっといろいろなことを
思い出しておりました。
梅雨も開け、昨日今日と34度と
一気に真夏の太陽が照りつけます。
それでも風があるせいか
肌には気持のいいものです。
いま、あちこちで「キキョウ」の花が
見ごろを迎えています。
梅雨の頃であれば
しっとりとした紫色にまた格別な
思いも出てくるでしょう。
暑い日差しに照らされて
光り輝く紫色です。
ちょっと日陰になると、
微妙な紫色の変化が楽しめます。
京都の西に位置する「亀岡市」
ここは明智光秀に縁の地でもあります。
光秀の家紋は珍しい
「水色桔梗」と色のついた家紋です。
美しい盆地になっていて、
光秀が築いた亀山城もあります。
光秀は主君殺しという汚名を
残していますが、
今また、見直されてきています。
この地の人々にとっては名君で
いろいろな政策を行ったようです。
そして、「家中軍法」という
軍団の規律秩序を記した法度を
いち早く定めて、
それが他の武将にも取り入れたようです。
しかし、
なぜ「本能寺の変」を起したかは
いまだ謎のに包まれています。
明智光秀の首塚というものが
亀岡の「谷性寺」(こくしょうじ)にあり、
そのお寺の前には5万株にも及ぶ
「キキョウ」が見事に花開いているのです。
中には「白いキキョウ」もあり、
ふと足元を見ると、
小さなカエルたちが
あちこち飛び跳ねています。
また、
ユリの花も見事です
今が見ごろを迎えています。
仏さまにあげるには絶好の花では、
それなりの存在感もあり、
またアジサイもあり
歴史を感じつつも
花の美しさに目を奪われてしまいます。
やはり夏の花は「ヒマワリ」
今日も元気にお日様に向かって
顔を向けていました。
亀岡や福知山の人々にとっては
明智光秀はとても慕われた方で
その功績は目を見張るものがあります。
その徳を偲んで今でも「光秀まつり」が
開かれているということです。
NHKの大河ドラマでも
取り上げて頂いて
新しい明智光秀像を見てみたいものです。