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本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

鹵獲

2022-10-11 20:43:03 | 漢字

ニュースで知ったのですが

めずらしい字です

「鹵獲」ロカクと読みます

敵の軍用品などを奪い取る

という意味です

 

今のウクライナとロシアの

問題で出てきた言葉で

知ったのです

 

しかし、辞書を見ると

案外身近な言葉のようです

歯という字にも似ていますが

辞書には「鹵」部という部で

四つの文字があります

 

もとは塩分と関係のある文字

で、しおち、しお、やせた地

というような意味があります

その中に、掠めるカスメル

という意味もあります

そこから「鹵獲」という

言葉も生まれたのでしょう

 

一番身近な言葉は

「塩」という言葉です

古い文字では「鹽」と書き

略して塩と使います

古い字もよく見ると

やはり、「鹵」が入っています

 

それから「石鹸」という字です

今は「石けん」と漢字は

使わなくてひらがな表示です

この石鹸も古くは「鹼」

の字を使っていたようです

この字は「あく」という

水に灰を浸してとった

うわずみの「あく」です

 

ですから、

「鹵」は見かけないのですが

案外身近に使っている

字でもあります。

それが

獲という字がつくと

途端に敵の武器弾薬を

奪い取るという

意味になるのは

何とも不思議です。

 

新聞では、

奪い取った

ということではなく

ロシア兵が武器弾薬を置いて

逃げ出したということで

ウクライナにとっては

苦労することなく

武器弾薬が手に入った

ということです。

 

 

 

 

 

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よごれ(汚)とけがれ(穢)

2022-04-09 19:38:49 | 漢字

京都新聞社主催で

井沢元彦さんの

「鎌倉とは何か?

天皇と武士の対立関係」

という題で講演がありました

この方の話は面白く

何回も楽しみに聞いています

 

日本の歴史を1時間で話せ

といわれたら、

北条義時をあげると、

まず結論から始まります。

いつもそうなんですが

歴史を点で押さえるのではなく

大きな流れとして

とらえていかれます。

 

その中で気になった言葉が

「よごれとけがれ」

ということです

というのはどちらも

仏教の言葉として使います

染汚(ぜんま)という

煩悩の一つです

それから、穢土(えど)

浄土に対して私たちのいる

ところが穢土です。

 

講演では、

よごれは洗えば流されて

きれいになる

ところが、

けがれは洗っても消えない

宗教的意味を持つのが

けがれであると、

 

そういえば辞書では

汚、という字は

たまり水という意味が

語源のようで

穢、は

雑草が生え茂ってあれる

というのがもとの意味の

ようです

文字としてはどちらも

宗教的意味はありません

 

けがれ、というのは

日本独特というか神道的

考えかもしれません

 

と思ってっての帰り道

 

 

お寺の掲示板に

こういう言葉に出会いました

なるほど

すべては命の芽生えです

私たちに都合のいいものを

美しいとめでて

生え茂り手に負えなくなると

雑草としてけがれたもの

として刈ってしまいます

 

昭和天皇は

雑草という草はない

私たちが知らないだけ

と、おっしゃっておられました

 

辞書にあるように

雑草が生い茂ったもの

をけがれとするなら

本来的にはもっと現実的な

洗っても落ちないという

よごれ(けがれ)とは

違うようです

 

仏教でいう穢土とは

「厭離穢土(オンリエド)

欣求浄土(ゴングジョウド)」

という、

言葉がお経にもあります

短く、

厭穢欣浄(エンエゴンジョウ)

ともいいます

徳川家康も旗印としました

 

仏教では

ただけがれているという

ことではなく

煩悩によってけがれている

そういう場所だから

私たちの住む世界を穢土と

いうのです

それぞれが相手のことを

思いはかるのではなく

自分の都合だけで

自分勝手に作り出している

ということです

 

「心がきよまれば

住む世界もきよまる、

さとりを開けば

この娑婆世界が浄土となる」

という言葉が

維摩経という中に出ています

 

浄と穢

染汚ゼンマと清浄と

いうこともよく考えなければ

いけない言葉のようです。

 

講演の中で

あの義時を演じる俳優さん

あの清らかさで

今後どう演じるのか

楽しみだとも

おっしゃっておられました。

 

 

 

 

 

 

 

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楽(ラク・たのしい・ねがう)

2021-12-28 20:29:06 | 漢字

ある新聞社の調査でによると

来年への願いを込めての

漢字一文字は「楽」

ということのようです。

 

来年こそは楽しみたい。

旅行が楽しめるように。

人生一度きり、楽しむ

ことが大事。

 

というような

希望が書いてあります。

まあ、読み方としては

圧倒的に「たのしむ」

ということが多いようです。

 

しかし、この字も

深い意味を持っているようで

仏教でも

楽という言葉は使います。

 

「人生楽ありゃ苦もあるさ」

という歌もありました

楽の反対は苦ですが

苦楽相半ばともいいます

楽は苦の種、苦は楽の種

という熟語もあります。

 

楽という字

真ん中の「白」は

親指の爪を表し

爪で楽器を弾けば

たのしくなるところから

「たのしむ」という

意味が出てきたようです。

 

慈悲という言葉があって

抜苦与楽という

衆生の苦しむを抜く(抜苦)

衆生を愛し楽を与えるのを

(与楽)といいます。

そういう、

苦に対する言葉が楽です。

 

今はできるだけ

「苦」の方は

見ないようにして、

「楽」という、たのしい

楽なことだけを

求める傾向にあるようです。

 

お釈迦さまもひどいことを

仰る

「人生は苦なり」と

楽はないんだと

しかし、

苦もあれば楽もある

ではないかと

思ってしまうのですが、

 

苦というものを見るのに

「三苦」

という見方があります。

それは、苦苦・壊苦・行苦

の三つです。

普通感じる苦は

苦苦と壊苦だけです

この場合は苦もあり楽もある

ということが出来ると

思います

ところが一番問題になるのは

「行苦」ということです。

 

お釈迦さまも

一国の王子であり生活面は

何一つ不自由はなかった

ところが

どうにもならない苦が

襲ってきます

それが「行苦」です

ここでいう「行」は

諸行無常の行で

すべての存在をあらわし

自分も含め、あらゆるものは

何一つ変わらないものは無く

すべてのものは

変わっていくという

そういうものに対して

感じる苦しみなのです。

 

この苦しみを観じたゆえに

「人生は苦なり」

という言葉が生まれたのです

うすうす感じる

のですが

まだまだ、

と思ってついつい

後回しにして

何やかやでごまかしながら

生きているのが

私たちのあり方です。

 

では、

仏教では楽ということは

どういうことなのか

楽が極まったところを

極楽といいますが、

どうも

私たちが考える楽とは

ちょっと違うようです。

 

いろいろあって

天楽テンラクといって

善を修めて天界に生まれる

という楽、

禅楽ゼンラクという、

禅定の境地に入って受ける楽

涅槃楽ネハンラク

涅槃というさとりの境地を

えたという楽

こういう「三楽」という

代表的な楽があります。

私たちが考える楽とは

ずいぶんと違っています。

 

読書が好きで

朝から焼酎片手に本を読む

これを何よりの楽しみに

していた叔父がいました。

それで、

戒名に「楽」の字を

使おうと「三楽」を入れたの

ですが、

「三楽」という名の

焼酎があって、

これは明らかに焼酎の

イメージが強すぎる

ということで、ボツになり。

 

変わって

「信楽」シンギョウという

言葉にしました

この時の「楽」は、ねがう

という意味があり

この時に限ってシンギョウと

読むのです

ということで

叔父の戒名には「信楽」

というじで落ち着きました。

 

楽という字も

なかなか深い意味を

持っているようです。

 

 

 

 

 

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「和」やわらぐ

2021-12-18 20:20:11 | 漢字

最近気になっている言葉で

十七条の憲法も

「以和貴為」で始まります

また、孫の名前にも

「和」の字が入っていて

見ていると面白いことが

分かってきます。

 

「和」という漢字

禾偏ではなく口の部に属する

言葉で、

人の声に応じて合わせること

を原義としていて、

ひいて、

心を合わせてやわらぐこと

の意味になりました。

 

そういえば、

声を合わせるということの

大事さを感じます

特に、お経を読む時など

色々のお寺さんが集まって

般若心経一つ読むのにも

それぞれの寺での癖というか

独特の節回しのような

この一番簡単なお経でも

合わせて読むということは

大変なことです。

 

しかし、

師匠が同じで共に習った人と

読むと呼吸も合い

気持ちのいいものです。

 

十七条の憲法も

「和ヤワらかなるをもって

 貴しとし、

 忤サカラうこと

 無きを宗とせよ。」

という第一条から始まります

そして、第二条に

「篤く三宝を敬え。

 三宝とは仏法僧なり。」

というように続きます。

 

この中の「僧」という言葉も

サンガの音写で僧伽ソウギャと

漢字に当て、それが略されて

「僧」という一字になり、

訳すと、和とか衆となります

それで、和合というようにも

言われるのです

そこからお坊さんのことを

和合衆、和合僧、海衆とも

いわれます。

 

海衆というのは

衆僧が和合することを

海水が一味であることに喩え

海といったのです。

 

よくお坊さんのことを

「僧侶」というのは

梵語と漢語を合わせて言う

言葉です。

僧はサンガからで

侶は伴侶という言葉もあり

なかま、つれ、とも

という意味です。

 

「和光同塵」

という言葉もあります

光を和らげて塵に同ずる

という、老子の言葉ですが、

仏教では、

仏さまが智慧の光をかくし

衆生を救うために

仮に煩悩の塵に同じて

世俗の間に生まれ、

衆生と縁を結び

次第に仏法へ引き入れる

ことをいいます。

 

なかなか難しいことで

塵に同じて、次第に塵の方が

よくなってきて

光を失くしてまうことの方が

多いようです。

 

また、こういうことから

本地垂迹説と結びついて

仏が人を救うために

神や権現様として

現れることを

和光同塵ともいうようです。

 

また、

大神神社に行った時

「やまと」という言葉が

目に入ってきました

「和」を大和ともいい

日本のことをも指します

漢和辞典とか英和辞典と

いうことも

そういうことです。

 

「和」ということも

わ、という一字で

また、最後に出てくる言葉

お坊さんの名前にも

よく使われます

その時は多くは

「な」というように

発音することが多いようです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今になって気がついた漢字の間違い

2021-09-10 20:41:01 | 漢字

よかったというべきか

今頃気がついて

今までに何遍も書いていた字

「漏」(ロウ)という字です

雨漏りとか使います

この「漏」はまた煩悩の異名です

自分ではなんともうまく表現した

字のように思っています

煩悩が漏れ出てくる

そういう感じを表しているようです

 

よく見ると

尸 カバネ の中に雨を書きます

ところがです

どういうわけか

戸 トカンムリ の中に雨を

書いていたのです

『十地経講義』を写していても

よく出てくる字で

何度も何度も書いていたのに

気がついたのは

どうも書きにくい字で

バランスもとれないので

書き順をネットで見たら

なんと、尸ということに

気がついたのです

 

そうやって書いてみると

形もとれてバランスよく

なりました

今更ながらですが

この書き順というのは

よくできているもので

書き順通りに書けば

形よく書けます

ということで最近は

今一度、書き順を

見直しながら書いている

といことです

 

ところで

「漏」というのは

アースラバの訳で

漏泄の意味です

排泄の泄で、なんとも

いけないものが漏れ出てくる

ような意味合いです

煩悩のために常に六瘡門から

不浄を流出する

というのが伝統的解釈です

瘡門ソウモンというのは

眼耳鼻口および大小便道の

六つを六瘡門といいます

 

よく言ったものですね

目ヤニは出るわ

鼻水は出てくる

口からよだれ

大小の方は緩くなり

大変です

 

一休さんの歌には

 

有漏路より無漏路へ帰る

  一休み 

雨降れば降れ 風吹けば吹け

 

という一休という名前の

由来になったものがあります

有漏路ですから煩悩のある身から

無漏路という煩悩のなくなった

世界へ帰っていく

その今という一瞬に

一休みしているのだという

そういう意味でしょうか

 

まあ、漏ということが

漢字自体が分かっただけでも

書き順を見てよかったと

思っています。

 

 

 

 

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ただ(徒・常・只・唯)

2021-09-03 20:34:44 | 漢字

ただ、という字も

徒に(イタヅラニ)という

無駄という意味の「ただ」

もあります

また、辞書を見ると

常、というただもあります

普通にという意味のただ

でしょう

そして引っかかったのは

このロハと書く只です

 

只管打座の只管です

これも分かりにくい言葉で

「ロハ」

「今日はロハでお願いします」

と、ただにして、という

場合にもこの只を使います

それが仏語になると

只管と、

只という字はただこれだけ

という意味ですが

管というのは管クダという

節が取れた竹のことで

楽器の笛のことも管と

書きます

面白いのはお寺の管長さん

もこの管を書きます

この管には、つかさどる

という意味もあって

そこからお寺を司る人

という意味で管長さんと

呼ぶのでしょう

 

これが只管となると

ただそのことばかりに心を

用いる、という意味になり

ひたすらそのことに向かう

という、

また、打座というのは

打ち座るという

ただ座るのではない

打ち座る

座るということを強める

ことが打ちという語です

打ち進むということもあり

そこには

覚悟して座れよ、という

メッセージの様な

意味も込められているようです

 

それから、唯という言葉は

「唯識」という経典もあり

お経の中には

「識のみあって境なし」

という言葉があり

この場合の「唯」は

いろいろあるんじゃない

ただ「意識(識)」だけだ

という

他の考えを否定しています

 

ですから、

「唯」という字には

すぐさま返事をする声

という意味があり

ただ、といっても

「それだけ」という強い

意味合いがあります

お釈迦さまがお生れになって

七歩歩いて天と地を指さし

「天上天下唯我独尊」

と声を発せられたと

ありますが、

この時の「唯」も

ただ我一人という

一人の人間の尊厳性

ただ一般的な人間ではなく

人は誰でも唯一無二の存在

その尊さを宣言された

ということです

他を否定して自分だけが

という意味ではありません

 

「人間は自分の心に

   自分が迷う」

ということをいいます

その迷っている自分の心を

明かにしていくのが

『唯識』という経典です

ですから、

先生が仰るには

「直感の鋭さよりも

 厳密性が大事だと」

ということです

 

そこの人間の意識を

唯識という経典の立場が

あるようです。

ですから、このただ(唯)には

只と違って(ただひたすらに)

ということではなく

人間の意識の迷いを

明かにしていくという学問が

唯識という経典です

 

人間の煩悩の微妙な変化まで

見逃さないという

面倒なほどの厳密性が

あるように思います

 

ただ、といっても

いろいろな意味があるのは

非常におもしろい。

 

 

 

 

 

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禅譲と禅定と禅杖そして三昧

2021-05-28 18:59:38 | 漢字

どの漢字も読み方は

「ゼンジョウ」で同じです。

気になったのは、

禅という言葉は「座禅」という

言葉もあるようにもっぱら

仏教用語かと思いきや

 

歴史の中の解説で

「禅譲」ということが出てきて

この意味は

天子が皇位を譲るということです

ということで

調べてみると「禅」ということは

音は「ゼン」訓は「ゆずる」

本来は「位とかを譲る」という

ことが最初の意味です。

単・タンは

祭事を行うにあたって祭場を清め

平旦にするというところから

きています。

そこで山川の神を祭った。

その祭事は天子のみに許された

特権であったことから

「禅譲」という言葉も生まれて

きたということです。

 

ところが、

仏教で使う「禅」はインドの

Dhyanaドヒャーナを禅那と音写した

それを禅定ともたんに禅とも

言ったのです。

その禅という言葉が

たぶん鈴木大拙という方によって

英語化されZENとも漢字で禅

ということが国際的に認められ

一般化していったようです。

 

そして、座禅をするときに

眠気がさしてきた時、

肩を叩かれる棒が「禅杖」です。

 

禅というのは少し幅が狭く

もっと広くいえば「定」という

ことがあります

戒・定・慧の三学というように

智慧を生み出すには

まず心を一点に集中して

散心にならない「定」という

ものが必要です

では定を得るためには

規則正しい生活が必要で

それが戒律ということです

戒が成り立ち

心に定が生まれると

智慧が生まれてくるという

それが三学といわれるものです。

 

その「定」ということは

サマーディSamadhiという

インド語で三昧とも音写されます

この三昧も普通には

何々三昧ザンマイとか使います

この「定」の中の一つに

「禅」ということがあります。

 

「定」ということは

七つの意味があると言われ

1.サマーヒタ、等引と訳され

 人間のうきうきする心と

 落ち込む心を離れて平等である

 そこから「等」という字を使います

2.サマ-ディ、三昧

 これは等持と訳されます

 等持院というお寺もあります

3.サマパッティ、

 これは等至と訳され

 心身の平等に至るという意味

4.ドヒャーナ、禅那・禅です

 静慮と訳されます

5.チッターイカーグラター

 長い名前ですけど

 この言葉も十地経でよく

 使われる言葉です。

 心一境性と訳されます。

6.シャマタ、止と訳され

 止観という言葉で使われます

7.ドリシュタ・ダルマ・スカ・

 ビハーラ と何とも長い名前

 現法楽住と訳されます。

 

難しい名前が出てきますが

4番目に「禅」ということが

出てきます

それほど、定・三昧・禅という

言葉は幅の広い内容をもった

言葉です。

ということは

心を静め集中するといっても

色々な心の段階もあるし

それぞれの方法もある

ということでしょう。

 

やはり、インドの人は

厳密な頭の構造を持っている

ようですね。

 

 

 

 

 

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EXIL・EXIST・EXIT

2021-05-16 20:05:26 | 漢字

似たような言葉ですが

EXIL・エグザイル

EXIST・イグジスト

EXIT・イグジット

 

EXILE というのは

歌手のグループがあります

その意味は何と、

逃亡・亡命・放浪というような

なぜこのような名前を

付けたのだろう、と

調べてみると

皆それぞれに夢を持っている

一つで活動するが

夢が見つかればそれぞれの道を

歩めばいい

そして、いつでも待っているから

帰ってくればいい

その母艦のようなものが

EXILE なのだと

それまで放浪してもいいよ

ということらしいです。

何とも好いネーミングだと

感心します。

 

EXIT イグジットも

出口という意味ですが

今人気の漫才師です

色々なコメンテーターとしても

活躍中ですが

とてもいいコメントを発信

しているようです

そのネーミングの由来も

皆さんのはけ口になればいい

ということで、

出口という意味のイグジットに

したということです。

 

名は単に何あらずです。

それなりの理由付けがあり

その名前はその働きをする

ということです。

 

ところで調べていたのは

EXIST 存在する、

ということで、

名詞は、EXISTENCE 

存在、生存という意味です。

 

講義の中で、

「存在ということが問題になる

のは、やっぱり

人間というものが

自分というものを

根源的に問い直すという、

自分の存在を問うということが 

最高の問題ではないかと思う。

 

どんな問題でもね。

色々のものがあるが、

あるということを

考えている自分は何だと、

自己とは何ぞや、

といってですね。

 

こういうような問題が

出てくるところに

存在というような問題が

起こってくるのではないかと

思いますね。」

 

というように出てきて、

宗教問題とは信仰とかいろいろ

いうようですが

自分自身の存在が問題になる

ということに付きりと思います

 

存在ということを

仏教の言葉では「有」という

ようにいいます。

有・bhava(バヴァ)。

生存のあり方というよ

有情とかいう時の有です。

 

中有(中陰)というような

四十九日間を中陰(中有)といい

死んでから次の生を受けるまでの

間ということで、

こういうようにも使います

地獄餓鬼畜生も

地獄有・餓鬼有・畜生有・天有

人有というようにも言います

地獄とか餓鬼という世界ですが

地獄としての有り方、

餓鬼としての有り方、

人としての有り方、

という方が適切なようにも

思います。

 

人としての姿をしていますが

あれも欲しいこれも欲しいと

欲求不満になっている状態は

当に餓鬼としての有り方に

なっているということです。

 

「有」ということも

非常の幅広い言葉でとても重要な

意味内容を含んでいます

また、私たちが常に考えなければ

いけない問題を含んでいます。

 

このEXIST・EXILE・EXITという

EXで始まる言葉ですが

読みかもそれぞれで

何かしら似ている言葉のようで

意味内容は全く異にしている

という、

何かしらの言葉の面白味を

感じたのです。

 

 

 

 

 

 

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害と碍

2021-03-07 19:57:46 | 漢字

害も碍も、

どちらも「ガイ」と読みます

先日の新聞で

「障害」を「障碍」と表記

できるように当事者団体が

求めていたのですが

文化審議会国語分科会では

見送るという結論が出ました。

 

やはり、「害」という字は

害虫と害悪などの用例から

「障害者」は存在を否定する

価値観が助長するとして

要望してきたのが

その理由のようです。

それで、よく見かける表現は

「障がい者」と

ひらがな表示をよく見かけます

なるほどそのように

分かる気がします。

 

ちょっと気になったのは

「碍」という字は

お経にもよく出てきます。

これは略した文字で正確には

「礙」と書きます

お経では圧倒的にこの字です

例えば、『般若心経』の

「無罣礙無罣礙」と続けて

出てきます

ムケゲ・ムケゲと読みます

この、罣も礙もどちらも障り

という意味です。

 

お経の流れでは

般若波羅蜜(智慧)の故に

心にさわりがなく(心無罣礙)

さわりがないので(心無罣礙)

恐れる心や一切の顛倒や夢想を

遠離して究極の涅槃を得る

というようになります。

 

そういうように

さわり、ということが

仏教の中の大きな問題ですし

修行においても

さわりの対治ということが

中心問題です。

 

ですから、

言葉としては「礙」もあるし

「障」もあるし「害」も

あります。

「害」は不害という言葉と対句で

この場合は他を害する、

他に危害を加えようとする

心のはたらきです。 

「障」と「礙」は

「障礙」というように熟語として

用いることが多いようです。

これは

涅槃のさとりを得ることの

さまたげとなる煩悩のことです。

 

これには二つあって

煩悩障と所知障というさわりです

煩悩の障りは何となく分かる

のですが、

所知障という煩悩が分かりにくい

知恵がさわりというのです

しかし、対治しやすいのは

所知障で、

根深くて対治しにくいのが

煩悩障です。

 

私たちも修行という立場に

身を置いたら

いかに自分が障害、さわりを

もっているか、その自覚が

一番大事なところです

自分にさわりを見出せないなら

修行する必要はありません。

 

『十地経』でも

なぜ、十という

地(段階)があるかというと

それは自分の内にあったさわりの

発見です。

一つ対治すると

また次のさわりが見つかる

それで歩みがあるという

ことになってきます。

 

表面的には健康でも

内面の自分の障害を見つけ

その対治が修行の道程です

一つにはコンプレックスも

さわりといえるでしょう

この一つ取ってみても

この克服が大変です。

 

害ということも碍(礙)も

古来から問題になってきた

のではないでしょうか。

 

 

 

 

                                                                                                                      

 

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メンタルとフィジカル

2021-02-20 20:31:03 | 漢字

大坂なおみ選手

全豪オープンテニスで二度目の

優勝です。

本当におめでとうございます!!

解説の方が言われるのに

フィジカル面もメンタル面も

非常に強くなったと、

テニスというスポーツも

メンタル面が非常に左右し

ちょっとしたプレーで

形勢が逆転するものです。

そのメンタルを支えるのも

フィジカルの強さ

地道な練習の賜物ということです

 

話はそれるのですが

メンタルとフィジカル

普通には精神と肉体というように

言われています。

フィジカルもphysicalと書き

physics物理という名詞の形容詞が

physicalで物理的なということから

肉体的というようになったようです

それに関して

metaを付けるとmetaphysical

になります。

メタフィジカルというと

突然、形而上学的という

難しい言葉になります。

 

どうも解せないのは

ただ、metaを付けただけで

肉体的なという言葉が

形而上学的というような

言葉になるかです。

metaが付く言葉に

metamorphoseメタモルフォーゼ

変身という言葉になり

metabolismメタボリズム

代謝という言葉になります

今は代謝異常ということで

メタボということで使います。

 

メタは何々の後にとか

超越したとか高次のという

意味があります。

メタフィジカルということも

直訳的には自然に関するもの後に

という意味になります。

これを形而上学的と訳したのです

訳した方は

明治時代の哲学者、井上哲次郎

という人です。

何気なく使う言葉ながら

どうにも、私にはしっくりこない

ので納得する意味で書くのですが

形而上学ということもあれば

反対に

形而下という言葉もあります。

 

メタフィジカルも形而上学とか

訳さないで

フィジカルとメタフィジカル

肉体的と精神的と訳してくれたら

何かしら

分かりいいと思うのですが、

そこは哲学者

その意味する内容は

そう簡単なものでは

ないのかもしれません。

内容の深さから訳しきれなくて

メタフィジカルを形而上学と

訳されたのでしょう。

 

それから、明治のころに

西洋の哲学が入ってきて

その言葉を訳すのに苦労されて

その時生まれた言葉に

コンセプト・概念という

これも分かったようで分からない

それから

コンセプト・範疇という言葉も

頭の中に入ってこない言葉です。

 

しかし、

それはそうと

大坂なおみ選手、やはり

精神面も立派なものを

持っておられ、

肉体・精神相まって

強くなられたようです

そして、

今回の優勝は単に途中に過ぎない

もっと先のことを

見据えておられるようです。

ゆるぎない強さで

ナンバーワンになることを。

 

 

 

 

 

 

コメント
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