本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

もののあわれは秋こそまされり

2020-11-30 17:48:17 | 住職の活動日記

「春はただ 

  花のひとえに咲くばかり

もののあわれは秋こそまされり」

 

という歌もありますが、

秋という季節

青々と茂っていた葉も

その役目を終えて赤く染まり

散っていく

そこに美しさというか

もののあわれを感じるのは

私たち日本人の心なのでしょう

 

 

本蔵院のアジサイも

そのままの姿で枯れています

そのアジサイの横からは

これからハタラク

彼岸花の葉が

勢いよく伸びています。

 

 

アジサイの枯れていく姿は

私はとても好きなのです

 

 

アジサイもそうですが

蓮の花の枯れ行く姿も

何かしらの風情を感じます。

 

紅葉していくということも

葉の働きを終えて

今まさに散っていくその寸前の

姿なのです

 

 

角館で撮ったもみじです

日に映えて赤の色が違います

 

 

この日は全国的に気温も高く

角館でも25度という暑さ

しかし、下をよく見ると

 

 

もう、

真っ赤な絨毯になっています。

 

枯れ行く姿に

物のあわれを感じるのは

やはり、諸行無常ということを

何かしら本能的に感じるのでしょう

元気にしていても

軈てヤガテは老病死という

現実が待っていることを

心のどこかで知っています。

 

春の勢いのある姿に

萌えいずる力を感じ

夏の暑さに一杯の葉を広げ

根に養分を蓄えていく

実りをもたらし

それぞれの木々の葉は

寒さを受けて真っ赤に染まり

散っていく

 

すべての生き物の姿なのです

散り行く一瞬に真っ赤に燃える

永遠であれば

そこに美はないと思います

死という終わりがあるから

美しい

木々たちは一つの季節で

そのハタラキとして

芽生えて生い茂り枯れていく

そしてまた、

春には命を吹き返し

成長していきます。

 

人という大きなサイクルでいえば

親から子、子から孫へと

いのちの連続性があるのです

断じながら連続する

「ごくろうさまでした」

と送るとき

その人の命は次に

引き継がれていくように

思います。

 

 

 

 

 

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一本の紅葉

2020-11-26 17:36:57 | 住職の活動日記

全山錦秋に染まるという

美しさもありますが

一本だけ紅葉している姿も

美しいものです。

 

 

ちょうど、コンクリートの建物に

調和するかのように美しい

グラデーションを見せています

 

 

上から見下ろせるように

生えている所は地下一階の部分

それで入っていくと

一階から見ることが出来ます

 

 

形もいいし

色とりどりに紅葉している葉が

何とも好い

 

 

下におりて見あげても

風情がある

良寛さんの辞世の句でしたか

「裏を見せ

  表を見せて散るもみち」

というのがありましたが

なかなか両方を一遍に見るのは

ないようです

 

 

こういう角度も面白い

近代的な建物のなかに

ただ一本だけ一人で染まっている

無機質な建物に

この紅葉一本でその場の雰囲気を

一変しているようです。

 

 

こちらも一人で咲き誇るというか

一人で黄葉しています

横に広がりその存在感の大きさ

 

 

燃え上がるような風情です

 

たまたま散歩の途中で見かけた

 

 

小山園のショウウインドウには

「紅葉満山川」

の言葉がありました。

(紅葉が山にも川にも

   満ち満ちている)

まさに、

今にぴったりの言葉です。

 

 

そばには山茶花それも八重でしょう

何とも品の良い姿で咲いていました。

 

 

 

 

 

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抜け初めて「彡」分かる「髪」は「長」い「友」だち

2020-11-25 18:20:49 | 住職の活動日記

というようなコマーシャルが

以前ありましたが、

最近、

他人ごとではなくなってきました

頭を俯瞰されて

「頭頂部が薄いよ!!」

と言われたのです。

 

コロナ禍ということがあって

散髪に行くのも控えていたのです

するとそこそこ伸びてきて

まあこれでもいいかと?

やや、長髪になってきたという

次第なのです。

すると気になりだしたのが

抜け毛

どうも私のらしき長さの髪の毛が

いたるところで

目に付くようになりました。

 

この年になって突然長髪に

なったものですから

髪のセットの仕方が分からない

やはり短い髪は

何かと便利なのです。

 

お坊さんはなぜ「丸坊主」と

いうように短い髪なのでしょう

宗派によっては長髪のところも

ありますが、

お釈迦さまの頭は

螺髪ラホツといって縮れた毛が

渦巻いたようになっていて

そして肉髻という頭のてっぺんが

盛り上がっています。

この肉髻ニクケイをウシュニシャと

いいます。

仏・如来は螺髪という頭ですが

菩薩になると髻モトドリといって

髪の毛を結い上げているのです

その上に冠を被り

手には腕は胸には首飾りと

立派な飾りを付けています。

ただ、菩薩で髪を剃っているのが

地蔵菩薩です。

 

ということは

お坊さんのように頭を丸めている

仏さまはあまり見かけません。

頭を丸めるということは

落飾ラクショクということが

あるように、

天皇とかがその位を離れ

僧籍に付く時に飾りを落とす

落飾といいます。

 

頭の髪の形は

一つの象徴であり位を表す

ということがあります

相撲取りでも横綱と

下の位の力士の丁髷チョンマゲは

結い方が違います。

 

今でも、育毛剤のコマーシャルが

よくテレビで流れていますが

髪の形というものは

顔以上に大切なもののようです

女性にしても髪型は美の象徴の

ようでもあります。

その大切な髪を落とす

ということは

その人の社会的地位をなくすという

側面を持っているようです

 

今でこそありませんが

むかしは学生といえば丸坊主

というのが当たり前でした

よく聞かされたのは

「働かざるもの食うべからず

というのが原則ですが

学生という位において

今はその学業にいそしみます

それで働くということを

免除してください

その覚悟として頭を丸める

一切の飾りを落とし

学業に専念する」

そういう意味を持っている

ということでした。

 

髪が薄くなっていっても

何とか有る部分の毛でもって

形を作る、髪形をセットする

というのが人情ですし

その人の存在を表現する

ということでしょう。

 

今まで、短く刈っていた時は

気にもしなかった髪の毛

薄くなっていくというと

あるばっかりに気になるものです

薄くなれば元のように

短くすればいいのですが

有ればあったで短くするのが

寂しいような

何とも不思議なものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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高円の秋野のうへの朝霧に

2020-11-24 14:53:52 | 住職の活動日記

奈良の「奥山ドライブウェイ」

若草山(三笠山)に登り

そこから

世界遺産の「春日山原生林」を

抜けるという

おもしろい道があります。

あまり車も通らず

原生林の中を森林浴をしながら

フィトンチッドの匂いを浴び

身体じゅう殺菌してくれるような

気持ちになります。

 

 

若草山は342mほどの山

なだらかな丸みを帯びた山が

三つ重なるところから

三笠山とも呼ばれます。

奈良市内を望み遥か彼方には

生駒山が連なっています。

 

 

鹿たちものんびりと草を食み

時折、鹿煎餅ももらい

この付近にいる鹿たちは

幸せな生活を送っています。

悲しいことに

エリア外にいる鹿たちは

殺処分されたりと、

生きることは命懸けなのです。

 

三笠山を過ぎていくと

そこからは世界遺産のエリア

道も舗装されていません

自然のままの道を

そろりそろりと

クルマを進めます

窓を開けてると

途端に全く違う空気が

車内に流れ込んできます

何と気持ちのいい空気でしょう

 

その中間地点あたりに

高円山展望所があります

高円宮タカマドノミヤの

名前の由来になった山です

 

 

この道を上がっていくと

頂上なのでしょうが

展望所より市内を見渡します

そこには

 

 

高円宮殿下お手植えの柊があり

 

 

万葉集巻20の大友家持の歌

 

「高円の秋野のうえの朝霧に

 妻呼ぶ牡鹿出で立つらむか」

 

の石碑があり

この石碑は万葉学者「犬養孝」の

揮毫になるものです。

 

万葉仮名で書いてあるので

読みにくいものですが、

 

「多可麻刀能(高円の)

 秋野乃宇倍能(秋野のうへの)

 安佑疑里尓(朝霧に)

 都麻欲夫乎之可(妻呼ぶ牡鹿)

 伊泥多都良武可

      (出で立つらむか)

 

となります。

 

ちょうど、山茶花でしょう

 

 

満開を迎え

見事に咲き誇っています

 

 

この道はあまり人も通らず

自然のままが残っていて

奈良市内という近さなのに

なんとも素晴らしい空間です。

 

また、巻19には

初冬のしぐれが

紅葉を散らすという

家持の歌があります

 

「十月カミナヅキ

 しぐれの常か我が背子が

 やどのもみち葉

 散りぬべく見ゆ」

 

丁度行った時も

紅葉も散り始めていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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不滅の法灯・貧女の一灯

2020-11-21 16:00:13 | 住職の活動日記

意外なところで二つの法灯に

出会いました。

燈明ということは仏教においては

とても重要なもので、

千年の闇も

一本のマッチの光で破られる

ように、人間の煩悩の闇も

一筋の智慧の光で

破られるものです。

 

ですから、

法灯を護るということは

お釈迦さまの教えを

護っていくことと同じように

大切なことなのです。

 

 

何気ない囲炉裏の炭火

ここは仙台の秋保アキウ温泉

「佐勘」というお宿です。

この囲炉裏の火は約400年前

文禄2年(1192)大火に見舞われ

焼失してしまいました

そこで再度の火難を除けるために

紀州の高野山より

弘法大師以来伝わっている

「貧女の一灯」を分灯してもらい

今に伝えているのです。

 

夜こっそり見に行くと

 

 

囲炉裏の火は

赤々と燃えていました

この炭火で法灯を護る

という発想は

なかなかたいしたものです。

以前あるご縁で灯を護ったことが

あるのですが

燈明は難しく船舶用のランプで

灯し続けたのですが

やはり、

消えてしまったことがあります。

 

 

この母屋には立派な神棚もあり

 

 

こういうお飾や

 

 

代々伝わってきたであろう

達磨さんが鎮座しておられました

アップで見ると

 

 

こういうお顔立ちです。

 

それからもう一つの法灯は

比叡山に伝わる伝教大師以来

護り続けてこられた

「不滅の法灯」です

その分灯があったところは

「立石寺」リッシャクジというお寺

通称「山寺」と親しまれています

 

 

60段ほどの石段を上がり

 

 

本堂である「根本中堂」が

建っています

途中には今が見ごろの

 

 

紅葉や境内のイチョウの紅葉は

 

 

見事なものでした。

本堂である根本中堂に上がると

中には

 

 

「不滅の法灯」が掲げてあります

この内陣の奥です

 

 

御簾ごしに見える大きな燈籠に

あるようです

内陣へ参拝させていただき

間近に見ることが出来ました

やはり菜種油と灯心で

灯されています。

 

比叡山は信長の焼き討ちに遭い

全山焼失して

当然、「不滅の法灯」も

無くなってしまいました。

その時、この立石寺より

分灯して今に伝わっている

ということです。

内陣は撮影できませんでしたが

大きな燈明皿に5本ほどの灯心で

灯されていました。

比叡山では燈明を護るという

お役目はないそうで

誰か気がついた人が

油をさし、灯心を切ったりして

護っているということです

灯心を切って油をさす

この単純な作業を怠ると

火は消えたり、灯心の残りかすが

落ちて火災の原因となります。

 

こうやって

分灯があるということは

いざという時の

大きな役目をはたしている

ということです。

 

 

山寺はここからが奥の院に

到入り口で

約千段ほどの階段を上がると

着くことが出来るのです。

 

思いがけなくも

高野山の「貧女の一灯」と

比叡山の「不滅の法灯」という

二つの燈明に出会えたことは

何よりの有り難いことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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こんにちはバッタ君

2020-11-16 12:51:44 | 住職の活動日記

水遣りをしていると突然

草むらから飛び出して生きた

 

 

目と目が合ってしまいました

そういえば、

最近見かけなかったのです

確か子どもの頃に見たような?

というのは

 

 

右側の肝心な足、

飛び上がるためには一番大切な

ところが取れていたからです

大きくなるのかなと

心配していたのですが

こうやって見ると随分立派に

成長していました

 

 

肝心の右足がないと

ジャンプするのも片足だけでは

正確に飛べないでしょう

 

小さい時に会っていたせいか

見つめるとどうしても

目と目が合って

こちらをじっと見ているようです

 

水遣りも終わり

身体をそっと抱いて

草むらに放すと

あっという間に

草と同化してしまい

どこにいるのやら分からなく

なってしまいました。

 

今日は20度にもなるような

穏やかな天気ですが

これかは寒さが厳しくなるでしょう

その頃には

次の命を宿し

自分はそっと静かにその生涯を

終わることでしょう。

 

精一杯元気に自分の一生を

全うしてください。

 

 

 

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愛想を尽かす!!

2020-11-15 20:18:06 | 漢字

「愛想尽かした」

と、テレビのドラマで

この言葉を聞いてちょっとドキッと

したので気になったのです。

「愛想」という言葉も

字からすると愛の想オモイで

何かしら見放されたような

そんな気になる言葉です。

 

この言葉も面白く

「おあいそ」というと

今では会計の時にいいますが

本当は店の方が

何もお愛想出来なくて申し訳ない

それで勘定はこのようになります

と言ったのが本来の使いよう

ということです。

 

「愛想笑い」という言葉も

ありますが、

心から笑うのでなくまあ悪く

思われないように笑うという

ことなのでしょう。

 

それから似たような言葉に

「愛顧」アイコという言葉があります

「いつもご愛顧を賜り」

とかいいますが、

今ではあまり使わないかも

しれません。

 

「愛」という言葉も仏教にも

よく出てきます

普通には煩悩の一つとして

いい意味では使いません。

しかし、

「愛山護法」という

好きな言葉があります

「山を愛し法を護る」

本来は、法を護る

ということが先でしょう

そのためには法が盛んになる

お寺(山)を愛するのだと

いうことだと思います。

 

愛というと「LOVE」という

何かしら、神の愛、慈愛という

西洋では絶対的なことのように

思いますが、

愛という言葉は

そういう幅の広い言葉です。

 

仏教で使う場合は

「渇愛」というように

渇いた者が水を求めてやまない

ように欲望が止まらないことを

表現しています。

我が物として愛する

そういう執着心ということです

「我がものと思えば軽ろき傘の雪」

という句もありますが

人間とは妙なもので

何でも自分のものと思いたい

という生き物です。

 

ただ、

「法愛」という言葉もあります

「欲愛」という言葉に対して

いうのですが、

法を愛すると言っても

分かりにくいのですが

一切衆生を慈愛する慈悲心

といっても

私たち人間には慈悲心はないので

これも分かりにくい言葉です

なんとなく「お慈悲を」とか

いいますが

これも俗な言葉で本来の働き

からするとちょっと違うようです

 

「愛人」という言葉も

今では違う意味で使いますが

本来は「人を愛する」

ということです。

西郷隆盛が愛した言葉に

「敬天愛人」というのがあります

天を敬い人を愛する

ということですが

「天」という言葉も

私たちには分から無い言葉です

 

「天網恢恢疎にして漏らさず」

テンモウカイカイソニシテモラサズ

という言葉ですが

高校の漢文で習って以来

ずっと心の中に貫いていて

どこかで誰かが自分のしたことを

漏らさず見ているのだという

そういう軌範みたいなものが

あるのですが、

そういう「天」ということが

中国の古い思想にあったのです。

 

「愛」という言葉も

今でもよく使うし

古い時代もいろいろな意味合いで

使われてきたものです。

見てみると言葉ということも

人間の心情をあらわすのに

いろいろ変化しながらも

苦労しながら生み出されてきた

ように感じます。

 

 

 

 

 

 

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仏身(ぶっしん)、仏の身、ほとけのからだ

2020-11-14 20:54:08 | 住職の活動日記

ほとけさまのからだということも

お釈迦さまの御在世当時より

いろいろ議論されていたようです

ほとけさまはさとりをひらかれた

のだから普通の人とは違う

ということです。

ではどこがどう違うのか?

それは、

普通の人を超えた円満さ清浄さ

があるということで、

 

「三十二相、八十種好」

ということが考えられました

パッと見て私たちと違うところが

三十二あるということで

さらに詳しく見ると八十の

違った点があるということです。

それからすぐれた能力

「十力、四無所畏」という力を

もっておられるということです。

これを合わせて「相好」ソウゴウと

いいます。

普通に顔かたちのことを相好と

言うのはここから来たのでしょう。

 

三十二相の初めには

足下安平立相ソクゲアンピョウリュウソウ

足の底が地に安住し密着している

つまり、偏平足でしょうか?

が出てきて、

仏像をよく見ると古い仏像は

手の間に水かきがある

手足指縵網相マンモウソウといいます。

それから、

歯は白く揃っている。

舌は大きく

顔を覆う位髪の生え際まである。

瞳は群青色である。

眉間白毫ミケンビャクゴウといって

眉間に白毛があり右回りに巻いて

伸ばせば一丈五尺もある。

などと、

仏さまの姿を大きな特徴として

32も挙げています。

 

八十種好は

微細隠密で見難いもの

とありますが、

第一番には、爪の様子が

薄くて清らかで潤いがあり

光り輝いている

そして80番目は

手足と胸には卍がある

卍は吉祥の相といわれています

今ではお寺を表す表記ですが

絵画などでは仏さまの胸には

卍が書いてあります。

 

そういう体の相もありますが

身ということになると

仏様が説かれた教えは

法身ホッシンといって

姿形はないけれども

その仏さまの根底というか

仏をして仏たらしめている根拠

として考えられたのです。

 

御在世当時は

なまみの生身ショウジンと

説かれた教えの法身ホッシンの

二つが考えられました。

生身ということも

ほとけになられたのだから

一切の煩悩もなくなり

それを無漏ムロといいますが

漏というのは煩悩のことで

漏れ出てくるという表現は

何ともぴったりのような気がします

しかし、

生きている限りは

痛みもあれば苦しみもあり

そういう肉体的なものは

無くならないとして

ほとけになっても有漏ウロ

の身だという考えもあるのです。

 

そこから、

大乗仏教や上座部仏教では

さらに細かく仏身論ということが

論じられてくるのです。

 

 

 

 

 

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影が響くと書いて影響

2020-11-13 20:56:53 | 住職の活動日記

「影響」という言葉

何かしら好きな言葉です。

影が響くと書きます。

響くということも

今は、よく人とのふれあい

ということをいいますが

人と人との心が響く合う

という方がより積極的な

気がします。

何ごとをするにも、起こすにも

心が響き合わなければ

何も起こらないようです。

その人の心に感動し響き合って

起業ということも成り立ちます。

 

仏教に「感応道交」

(かんのうどうきょう)

という言葉があります。

辞書には、

「衆生が仏心を感じ、

仏力がこれに応ぜられるのを感応

道交とは行き交わること」

とあります。

感に応じて道に交わる、

聞法ということも

こういう、聞いた事に感じて

行動が起こってくる

ただ聞きっぱなしにする

のではなく、

聞いて頷いたら実践に移す

そういうことが大事です。

「いい話でした!」

というのは、他人後この話で

自分にっ響いてきてない

ということです。

 

影という字もおもしろく

各宗派のお祖師様をまつるお堂を

御影堂と書いて、

(みえどう)とか(ごえどう)

というように宗派によって

読み方は違うようです。

この時も、

影という字を使います。

影日向カゲヒナタということも

いいますが、

この場合は、すがた・おもかげ・

ほんもの、という意味でしょう。

 

また、背景の「景」という字も

ひかげという意味もあり

けしきという意味もあります。

 

なにかしら、かげということに

ほんものというような意味が

あるように思うのです

「おかげさま」というように

ほんとうのハタラキなんですが

それを影の力として感じる。

お祖師様には直接触れることは

できませんが

影の働きとして感じ取ることが

できる

そこに奥ゆかしいものを感じます

 

釈尊を釈尊として成立たせている

その背景を知る

お釈迦さまだけだったら

薄っぺらいような気がします

その背景が大きいのでしょう

それで、

前生譚といわれるジャータカ

のようなお釈迦さまの前生物語が

たくさん存在するのでしょう。

 

『十地経講義』のなかでも

「普通は、小乗仏教から大乗仏教

が出てきたというんです、一応。

その見方も大事です。

ところが、

後から出てきたものが一番初めに

あるものです。

後から出てきたものはだんだん

薄うなったんじゃない。

後から出てきたものは

実は根底だった。

そうすると釈尊の背景は

釈尊より大きかったんだ。

釈尊をして釈尊たらしめたんだ。」

 

ということが出ています。

影ということには

その人の背景というか

その人をしてその人たらしめる

そういう意味があると思います

ですから、

人と人との出会いにしても

その背景同士が感じ合う

「影響」という字も

大きく拡大解釈すれば

お互いの影が響き合う

そこに本当の人間同士の

つながりが

生まれるような気がします。

 

それから、

「影向」(ようごう)

という言葉もあります。

仏さまが衆生のために形を

現すこととあります

菩薩が仏の教化を助けるために

影の如く響の如く姿を自在に

あらわして衆生を救う、と

その時は影響と書いて(ようごう)

と読みます。

また、

「神文」ジンブンとかのくだりで

「降臨影向」という一文が

出てきます。

このときは、

仏菩薩が形を現さないで来臨する

という意味です。

 

何かしら、影響という言葉

好きな言葉ですが

それよりもっと奥深さを

感じます。

 

 

 

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変化の兆しは末端に宿る

2020-11-12 20:40:54 | 住職の活動日記

京都の南区に世界的に有名な

モーターの会社があります

「日本電産」という名前です。

今後、

電気自動車が主流になってきます

その車の心臓であるモーターを

製造している会社です。

今では世界シェア―トップを

占めようという勢いです。

 

この会社では

「1円稟議」ということが

あるようで、1円の支出から

会長自らが目を通すということ

のようです。

というのは、

「変化に兆しは末端に宿る」

ということで、

小さな変化も見逃さない

というのが会長である

「永守重信」さんの信条

ということです。

 

経営にも

マクロマネージメントと

マイクロマネージメントという

二つの方法があるようで、

全体を大きくつかんで

社員一人一人の主体性に任せ

自主性を発揮させるという経営、

それと、

たとえ1円と言えども稟議にかけ

会長自らが

末端に目で目を通していく

というものです。

それぞれに特徴があり

独自の発展をしているようです

どちらがいいとはいえません。

 

この会長なかなかの人物で

大学まで作ってしまった

「京都先端科学大学」といいます

子どもたちの学力の衰えを

身に沁みて感じ

もっと有能な人材を育てたい

ということです。

大学改革に当たり

先生方の講義を見て聞いて

もっと学生が興味を覚えるような

講義にしていこうと

そこからの改革だったそうです

 

私にとってはとても頷ける

ことだったのです

「微に入り細に入り」

ということがあります。

師匠の三浦先生も同じで

学校、幼稚園、お寺、会館と

すべての責任を背負っておられ

すべてのことを高所から見て

細事は気にされないかと、

思いきや、

突然、今日の大根は一本幾らした

と聞かれます

丁度、賄いをやっていたので

買い物も付けで買っていて

それぞれの値段なんか気にも

していなかったのです。

しかし、

あれだけ大きな事業をされていても

細かい大根1本の値段も

見逃さない、ということです。

 

よく、微に入り細に入り考えて

行動は大胆不敵に

と仰っていましたこと思い出します

修学旅行でも

生徒に渡すしおりと

先生が持たれる旅行の細案とでは

その分量が数十倍もあり

辞書のような大きさです

そこまで生徒の行動を把握し

細かいところまで決めて

旅行に臨まれておられました。

 

修行でも

やはり、何につけても

微に入り細に入り決められていて

何気ない行動一つ一つが

理に適うように決められています

歩く、座る、寝る、食べる、話す、

トイレに行く、

ここまで言うかというほど

何ごとにつけても細かく

決められています。

それほど私たちはええ頃加減な

生き方をしている

ということでしょう。

 

まあ、修行と経営とは違うと

思いますが、

人間を育てるということにおいては

変わらないと思います

経済といっても

ただ儲けることが主ではなく

そこで働く人がいかに

自分自身を見出していくか

それがなければあまりにも

寂しいものになってしまいます

車輪の両輪といわれるように

経営と人が育つ

この両方が成り立たなければ

本当の事業とは言えないと思います。

 

テレビの番組で

永守さんのお話を聞いただけですが

とても魅力的な方でした。

京都の会社から世界一を

目指しておられる、

その根底には

小さな変化も見逃さない

「一円稟議」という

その背景があってこそ

世界を席巻するモーターの会社

なのでしょう。

これからの時代を背負っていかれる

会社のように感じました。

 

 

 

 

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